古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野田八雲神社


                 
              
・所在地 埼玉県東松山市野田1201
              
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
              
・社 格 不明
              
・例 祭 元旦祭 1月1日

 東松山市、野田地区南部で、滑川と市野川に挟まれた丘上の小高い場所に野田八雲神社は鎮座している。途中までの経路は野田赤城神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を曲がらずに滑川に架かる「野田橋」を越えて真っ直ぐ南下すること300m程で、三叉路にぶつかる。左斜め方向に進路をとるとすぐ左側の小高い丘上に社は静かに佇んでいる。
 残念ながら周辺には専用駐車場はない。通行車両の邪魔にならない場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
野田八雲神社正面

 社は県道に接する三叉路という狭い空間に社は形成されているため、境内は狭いが、石段上に鎮座しているためか、威厳な趣はやはり感じてしまうのだから、人間という生き物は不思議な思考回路を持ち合わせているなと、つくづく感じた。
        
                          神明系の鳥居の先に拝殿が鎮座する。

 野田八雲神社の創建等に関する資料は調べても全くなく、境内にも由緒を記した案内板や石碑もないので詳細は不明である。

「東松山市指定文化財―無形民俗」の指定を昭和55年(1980年)110日に受けている「野田の獅子舞」には「夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています(中略)夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41(1908)に赤城神社に合祀されています。(以下略)」と書かれている。
 この字西野に鎮座していた「八雲神社」と同名の野田八雲神社とは、そもそも同じ系列の社なのか、同じ系列の社であると仮定して、どのような関連性があったのだろうか。
        
                     拝 殿

「新編武蔵風土記稿・野田村条」には「赤城社・村の鎮守なり、富山派修験、教善院持。 天神社・村持。 神明社・是も村持」とあり、当時長谷部家は赤城社、高橋家は稲荷社、上野家は神明社と、一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた経緯があった。この社に関して直接記されていない。また唯一残っている「高橋家の稲荷社」は風土記稿に記されている「天神社」とは別系統の社と考えているが、では一体どこに鎮座しているのか(野田赤城神社の境内社とも考えられるが)、詳細は不明である。
 
   「八雲神社」と書かれている扁額       道路脇にある「念仏供養塔」と石仏


「八雲神社」と同名の社は野田地域周辺に少なからず存在している。東松山市本町地区には同名である八雲神社が鎮座する。ご祭神は倉稲魂命。本町八雲神社の創建年代等は不詳ながら、宿場町として発展した松山町に天王社として祀られ、明治維新後は八雲神社と称して無格社に列格、大正3年松山神社に合併され、現在松山神社境内飛び地となっている。
 この社は「新編武蔵風土記稿」に「天王社 眞福寺持」と記されていて、当初は天王社という名前であったのを、明治年間に八雲神社と改称した経緯がある。
 この社社殿の彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助(熊谷市河原明戸地域出身)が三人の弟子に技を競わせたものといわれていて、東松山市市指定文化財に指定されている。

 同じ時期にそれ程遠くない地域に同じ社号の社が複数存在する。但し「それ程遠くない」とは書いたが、野田から本町まで距離にして2㎞。2㎞という距離差は「社を中心とする共同体でも違う文化圏となりえる最低距離」と筆者は常日頃から考えているので、同名の社であろうと、違う神を信奉する地域があってもおかしくない

 筆者の勝手な推測を敢て続けるが、ではそれぞれの社にはどのような経緯があって同名「八雲」という名称をつけたのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市観光情報HP」等


拍手[1回]