古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

後榛沢八幡大神社

 榛沢六郎成清は鎌倉時代初期の武蔵武士。畠山重忠の郎党である
 榛沢氏は、武蔵七党のひとつ丹党の新里成房が榛沢に住み「榛沢」を名乗ったのが始まりで、『源平盛衰記』に成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。
 鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつながりが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。はじめ重忠は、平氏に味方し、頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後、重忠は頼朝の先陣をつとめたが、成清は、いつも重忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥の役でおおいに活躍した。頼朝の信頼も厚く、成清に対し"汝をもって亜父となす"といったという。畠山重忠も深く信頼し、たびたび榛沢の館を訪れた。帰途、荒川の洪水のため、川が渡れない時、うぐいすの鳴き声で渡ったと伝えられており、荒川の岸辺には、うぐいすの瀬の碑が建っている。また成清は神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺を開いたと伝えられている。元久二(1205)年、重忠は、北条氏の策略により、二俣川において三万騎の大軍にとりかこまれた。その時、重忠の手勢は、わずか一三〇騎で、その中に成清も加わっており、おおいに奮戦したが、力つき重忠と共に討死した。成清は重忠に菅谷館にもどって陣をたて直すことを進言したという話が残っている。供養塔は後榛沢地区にある旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保八年(1723)に建立されたという。
               「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」「Wikipedia」より引用

        
                ・所在地 埼玉県深谷市後榛沢851
                ・ご祭神 品陀和氣命(推定)
                ・社 格 旧村社
                ・例 祭 不明
 後榛沢八幡大神社は旧岡部町・コスモス街道と埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点から西方向に1.5㎞程進むとこんもりとした社叢が見え、緑豊かな農村地域が広がる後榛沢地区の、民家が立ち並ぶ中央部からやや北東部に外れた一角に鎮座している。
 すぐ東には志戸川が南西から北東方向に緩やかな蛇行を適度に繰り返しながら流れていて、南側には上越新幹線の高架橋が見える。社の周辺は、北・西側が標高
54m程に対して、東・南部が52m程で若干低いので、低い側に対して盛り土をして平坦としているような形となっていて、丁度その側からは高台のように見える。因みに「後榛沢」は「うしろはんざわ」と読む。
              
             社の北側で、道路沿いにある社号標柱 
 社号標柱は北側の道路沿いにあるが、そこから社殿方向に参道を進むには一旦南方向に進み、突き当たりを左に折れ、そこからまた直進し、鳥居がある所まで進み、北側に鎮座する社殿を目指す、丁度「コの字」のような形となっている。
 後日地図確認すると、社境内が参道を含め
50m程の正方形で形成されているので、このような配置となってしまったのではないかと考える。後榛沢八幡大神社に限らず、このような参道が直角に折れる配置構造の社は意外と多く存在するので、何も珍しいものではない。
 
  社号標柱から参道は一旦南方向に進む。   境内に入るとすぐ右手側に八坂神社が鎮座
       
            参道突き当たり地点に聳え立つご神木らしい巨木
         
       左に曲がった参道を進むと、               鳥居右側には六基の石祠が鎮座。
   正面左手に鳥居や社殿等が見える。            詳細は不明。

 最近まで、神楽殿やその近くにあった鳥居が存在していたが、今回参拝時にはそれらは撤去された後の事であった。少し残念な気持ちである。
        
                          南側にある鳥居。
          この鳥居の南側は堀のような低い断面が東西に広がる。
        
                                         拝 殿
 榛沢(半沢)は律令時代に令制国の一つである武蔵国内22郡の一つ「榛沢郡」と記録のある由緒ある地名で、榛沢郡の拠所となったのがこの榛沢郷である。その郷名は榛の木の繁茂する里から由来していると云い、また半沢という名前の由来は、平中興 桓武平氏高棟流、右大弁・平季長の長男の子孫であるという説、平将門の娘の春姫の子孫が平将門の死後、将門を祖とする平氏平家の再興を願って、平将門の平を苗字に残そうとしたため半沢の半という漢字が使われたという説もある。『新編武蔵風土記稿』によると、元々榛沢村は、後榛沢村や榛沢新田を包括した広い地域で一村を成し、村単位より大きい地域を表す「榛沢郷」として記載されていたが、何時の頃か3村に分割され、榛沢村は、「大寄郷藤田庄」に属するようになったという。
 
 社殿の右側にある石で囲まれた空池の中に鎮座する石祠(写真左)。石の切り口等からそれ程昔からあるものではない雰囲気を感じる。石祠も恐らく弁財天あたりと推測。空池も時期的に水がないのかも不明。また社殿左側には六基の石祠があるが(同右)、こちらもどの神様が祀られているのかが、どの文献・HPみても判明しなかった。

 残念なことに、これほどの規模の社に関しての説明書・案内板・石碑等が全くなく、文献資料・HP等もないため、境内の石祠等の由緒を書きこむことができなかった。
 
 六基の石祠の奥には様々な石碑・石祠がある。おそらく一カ所に纏めたものであろう。仙元大日神、その周辺に小御嶽石尊大権現と食行身禄霊神等の石碑(写真左)があり、「登山記念碑」「八幡大神社拝殿改修記念碑」を挟んで、右側に倉稲魂命の石碑(同右)がある。


 旧岡部町・榛沢という地名は、和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、「波牟佐波」と註しているが、元を辿れば武蔵七党・丹党出身の榛沢氏より起こっているといわれている。丹武経の曾孫秩父基房の三男、成房が榛沢の土地(武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市榛沢))を受け渡され、領有したため、分流し、榛沢(半沢)氏と名乗った。
 武蔵七党系図には「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図には「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)には「榛沢。丹治、本国武蔵」と見える。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」との記載がある。
        
                               拝殿方向から境内を望む。
   
 榛沢六郎成清は弓馬の技術に優れ知略に富んだ武将であったが、同時に神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、郡内の大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺造営を行う等、土木技術にも優れた才能を発揮したようだ。

 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とある。この戦場での活動は、平時においての土木技術に通じる所でもあり、成清のみならず、畠山一党がこのような戦時における「工兵部隊」を奥州の戦いだけでなく、常時温存し、適時活用していたことがわかる記述ではなかろうか。丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていたともいえよう。
 その榛沢氏の潜在的な実力を源頼朝は知っていたのであろうし、
成清に対し"汝をもって亜父となす"と言った賛美の言葉の中に見え隠れする『深い策謀』を感じざるを得ない。

 

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