古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

榛沢新田二柱大神社

         
                     ・所在地 埼玉県深谷市榛沢新田975
               ・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 蚕影山神社祭 4月11日
 榛沢新田地区は岡部駅から西側に位置し、東西約1.4㎞、南北約1.5㎞のやや歪な四角形で形成されている。正確にいうと、東側・南側には若干の飛び地も存在するが、ここではあえて論じない。地区の西、南側はそれぞれ志戸川や藤治川が隣接地区との境をなしていて、東側は針ヶ谷排水路付近周辺が、北側は埼玉県道86号花園本庄線と高崎線の中間地点までの場所に、東西に延びる県道に沿って北にある沓掛地区と接している。地形的にみると、地区全体御稜威ケ原台地面で、標高は約50mから59m程、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。緑豊かな農村地区という印象だ。
 榛沢新田二柱大神社は地区の中央付近を東西に進む「コスモス街道」と、埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点を右折し、350m程北上した十字路を左折する。やや道幅が狭い道路で、民家もそれなりに存在するので、出会いがしらの事故等には注意しながら、道なりにやはり350m程真っ直ぐ直進すると、正面に榛沢新田二柱大神社の社叢が見えてくる。
 因みに東側に鎮座する後榛沢地区の後榛沢八幡大神とは1㎞程しか離れていない場所に榛沢新田二柱大神社は鎮座している。
           
                  榛沢新田二柱大神社正面
                       「二柱」と書いて「ふたはしら」と読む。
         
                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 二柱大神社由緒
 新編武蔵風土記稿に「聖天社・村の鎮守なり、慶長十年勧請す云々…」とある。今から(平成元年)三百六十八年前のことである。旧神社名は「聖天宮」と云った。明治元年の「神仏分離復飾の令」により社名を「二柱大神社」と改称す。
 祭神は「伊邪那岐命」男「伊邪那美命」女の二柱の神を祀る。
 この神は誘い合われる男女の祖神を意味する。この二柱の神は結合と協力及び和の大道を教えている。そして万物を生成化育する神である。よって昔古より五穀豊穣・家内安全の守護神として氏子の崇敬が篤かった。
 明治二十九年一月四日の火災により、本殿・拝殿・幣殿等の建物を全部焼失した。現在の拝殿は明治二十九年三月十七日再建す。本殿は明治四十年三月三十一日再建す。
 右拝殿及び幣殿の屋根朽敗甚だしく、氏子相謀り一致協力して浄財を募り、平成元年十月十七日営繕修復を成し、御神威、御神徳を宣揚して氏子の弥栄を祈念する。
 平成元年十月十七日   二柱大神社 社務所
                                      案内板より引用

         
                  参道正面に拝殿が見える。
      境内は広いが、きれいに整備されていて、静寂の中参拝も気持ちよく行えた。
     慶長11年(1606年)創建。現在は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱を祀っている。
 
         
            拝殿・幣殿・本殿の権現様式で、朱塗りの本殿は美しい。
                       また本殿を囲む朱塗りの塀も奇麗である。

「新編武蔵風土記稿」榛沢新田村の項には
「聖天社 村の鎮守なり、 慶長十一年の勧請にして本地十一面観音を安す 永楽寺の持、神明社 熊野社 稲荷社 村民の持」と記述されている。
 明治七年、聖天社を二柱大神社と社名変更し、また明治四十年に村内の神社を合祀したという。
                 
                   境内社 大神宮
          拝殿左側奥にひっそりと鎮座している。境内社にしてはなかなか重厚な造り。
 
 拝殿の右側後ろにある境内社、合祀社。合祀社(写真左)には名札が付いていて、左から八王子神社、熊野神社、稲荷神社、明見山・琴平神社、天満宮が祀られている。また合祀社の右側には、天手長男神社、蚕影山神社が祀られている。

 「埼玉の神社」では、年間の祭典で、蚕影山神社祭(411日)がある。蚕影山神社は養蚕の神として信仰が厚く、その蚕影山神社祭では、近隣の村からも多くの人が参詣に訪れ、祭典に供えられた繭玉を撤下品としていただいて帰るのが例であったという。
          

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