古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武蔵野十二社神社

 天神七代とは、神世(かみよ)七代とも云い、日本神話において、天地開闢のとき生成した七柱の神。また、その時代をいう。「古事記」並びに「日本書紀」で神々の名称が若干違う。古事記では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としていて、最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代としている。『日本書紀』の本書では、天地開闢の最初に現れた十一柱七代の神を神世七代としている。
 地神五代(ちじんごだい)とは、日本神話において、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の5柱の神々およびそれらの神々の時代(『日本書紀』神代下に相当)のこと。天神七代と初代天皇である神武との間に位置する神々と言える。
 因みに
「地神」とは地の神のことで、天の神を意味する「天神」と対称をなす語である。
        
            ・所在地 埼玉県深谷市武蔵野277‐3
            
・ご祭神 国常立尊・豊雲野尊・宇比地邇尊・須比智邇尊・角杙神
                 活杙神・意富斗能地神・大斗乃弁神・淤母陀琉神
                 阿夜訶志古泥神・伊邪那岐神・伊邪那美神
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 不明
 旧花園町・武蔵野地区に鎮座する武蔵野十二社神社は途中までの進行ルートは桜沢八幡大神社を参照。八幡大神社から国道254号線を美里町方向に1.3㎞程北上し、「鐘撞堂山 ふるさとの森」の看板がある信号のある交差点の手前のT字路を左折する。道幅の狭い道路になる為、対向車量には注意しながら進むと、正面に小高い森が広がり、武蔵野十二社神社の社号標柱も見えてくる。
 この武蔵野地区は東西に5㎞程、南北は1.5㎞程の横に細長く伸びている地区で構成され、またその西側は、丁度槍の先端部分のような形をしていて、西端には鐘撞堂山が尾根伝いに聳え立っている。結果的に武蔵野地区が寄居町・用土地区を飛び地のように分断した張本人ともいえなくもない。行政手続きの上の手違い等によるもので、決してこの武蔵野地区が悪いわけではないが、地理上、このような説明が出来てしまうような形になってしまったことは、少し可哀想な気もする。
        
                        なだらかな斜面上に鎮座する武蔵野十二社神社
 
 国道254号線沿いは民家等立ち並んでいるが、社に通じる道は道路幅も細く、あまり住宅等も多くない。また社自体も国道から離れている斜面上にある為、あまり目立たない。ひっそりと慎ましく佇んでいる印象。
        
                            武蔵野十二社神社 正面鳥居
 武蔵野十二社神社は近隣の足高大神社、武蔵野八幡神社と共に「武蔵野三社」とも呼ばれている。
        
                                       拝 殿
 十二社神社 深谷市武蔵野二七七-三(武蔵野字宮地)
 御祭神について 天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。天神七代とは、国常立尊(くにとこたちのみこと)・豊雲野尊(とよくむぬのみこと)・宇比地邇尊(ういじにのみこと)・須比智邇尊(すいじにのみこと)・角杙神(つぬくいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)・意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃辨神(おおとのべのかみ)・淤母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこぬのかみ)・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)です。ただし、宇比地邇尊(ういじにのみこと)以下は男女二柱を一代として数えます。いずれも、天地開闢神話に現れる始原の神々で、地神五代の前に日本を治めたという天津神です。 また地神五代とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)・正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)で神武天皇以前の皇統の祖神とされています。
 起源と再興について 伝説によれば、東征の折にこの地を通りかかった日本武尊がちょうど新年を迎えることとなり、しばらく滞在し兵馬や食糧の無事を祈願する為に天地十二神を祀り、士気を鼓舞したことが始まりとされています。当初は、西部の山地権現平に社がありましたが、江戸中期天明三年の暴風雨による洪水で崩壊し、御神体だけが宮地に漂着したことにより、そこに新たな社を設けて祀ることとなりました。 明治後期に政府の合祀政策により一度、中郷の八幡神社に合祀され「武蔵野神社」と改称しました。戦後、村に鎮守を取り戻そうという氏子の願い出により、昭和二十八年四月に、新たに境内を設けて武蔵野神社から神霊を分祀し、十二社神社は再興されたという経緯があります。 節分祭追儺式 節分とは、「季節を分ける」ことを意味しています。本来は、春夏秋冬の各季節の境目を指していましたが、今日では、立春の前日、冬と春を分ける時期に行われる行事として定着しました。 日本では、一月を「睦月(むつき)」とも呼んでいます。今では太陽暦(新暦)の一月のことを言っていますが、元々は旧暦の一月(現在の一月下旬~三月上旬頃)の名前です。 この時期は、冬から春へと季節が変る時期にあたり、陰と陽が「交わる(睦みあう)」ことで邪気が発生すると考えられてきました。その邪気をはらうために始まったのが、追儺式(ついなしき)、いわゆる鬼やらいの行事です。 十二社神社では、桃もしくは梅の木を使って弓矢を作り、恵方に矢を射った後に豆まきを行なっています。
                                   「埼玉の神社」を引用

 
      拝殿に掲げてある扁額            神社遷宮碑
 神社遷宮碑は昭和28年に武蔵野神社(現、八幡神社)から分祀してこの地に遷ったとの事。
 
 社殿右奥には合祀社が鎮座(写真左)し、左から諏訪大神・稲荷大神・大荒神・八坂大神・天手長男命・八幡大神が祀られている。また合祀社の手前には、石碑(同右)があり、宇賀神・大国主神が祀られている。
        

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