古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

沓掛熊野大神社

 神社の社殿へと導く道筋を「参道」と言い、これは「参詣するための道」という意味である。神社の参道で参拝する際のルールは、鳥居まで来たらくぐる前に一礼し、参道の真ん中を避けて左端を歩くとされている。参道の真ん中を正中と呼び、神様が通る道とされているためだ。鳥居をくぐって本殿へ続く正面の道を「表参道」と呼び、脇道のことを「裏参道」と呼ぶ。
 参道の役割として、まず石畳や鳥居、並木などの目印によって参拝者を誘導する役割がある。一般の方々が移動しやすいように通路を整えることによって参道は生まれ、大きな社の参道であれば商店街が形成されていることも多い。
 また参道は我々が一般的な生活を営む「俗界」と「神聖な場」とを繋ぐ一種の移行空間であり、参道には道程の中で参拝者の信仰心を上がらせる役割もある。2つの世界との境界は鳥居が存在する。一歩ずつ進む毎に「聖なる世界」へ入ったという心持ちに誘うところに参道の参道たる意義があるのではなかろうか。
 沓掛熊野大神社の長い参道を進みながら、ふと参道の意義について考えさせられた次第だ。
         
              ・所在地 埼玉県深谷市沓掛303-1
              ・ご祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命
              ・社 格 旧村命
              ・例 祭 不明
 深谷市沓掛地区は、榛沢新田地区の丁度北側に位置し、東西1㎞程、南北も長くて700m程で横長の長方形で形成されたコンパクトに纏まった地区である。地形を見ると、沓掛地区は東側・針ヶ谷排水路の西側で56m程の標高で、西側に行くにしたがって50mを切るところもあり、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。民家等は地区の南北を走る通称「西田通り」南部周辺に集中し、北に向かうほど緑豊かな農村地区が広がる地域である。
 沓掛地区中央部に鎮座する熊野大神社の標高は丁度
50mのライン上にあり、そこから北、西部はなだらかに低くなる。
 沓掛熊野大神社はその地区中央部に堂々と鎮座している。
         
                                沓掛熊野大神社正面
「沓掛」という地名は太田道灌書状に「文明十二年正月十三日、沓懸に相進む」と見え、『新編武蔵風土記稿』でも「郡中小前田新田の民、兵五郎が蔵する北條氏邦より出せし○荷の文書中に、深谷御領分榛澤沓掛云々と見えたれば…」と記載されていることからも、かなり古い時代からあった地名のようだ。
 
       鳥居の左側にある庚申塔群       鳥居を過ぎて左側にある「土地改良之碑」    
 地域の方々の信仰の深さを感じる歴史の遺物だ。 この地の利便の悪さをこの碑は語っている。
              100m程の南北に長い参道(写真左・右)
          
 鳥居を過ぎて、参道を進むと左側に石祠が見える(写真左)。立派なコンクリート製の基礎台上に石祠が鎮座しているが、残念ながら何も説明書等ないため、詳細不明。また石祠の右側には「沓掛道路建設記念之碑」の石碑(同右)が立っている。この石碑は昭和39年5月15日に建立され、道路総延長1,070m、巾5m、及び橋梁1カ所行ったことが刻まれている。
                         
 参道の周囲は杉林に覆われる場所もあり、日が当たらない為なのか、苔生す所もあり、それが却って神妙な気持ちにさせてくれる。参道を含む広い境内は、清掃も行き届いていて地域の方々の日頃の信仰心,及び地域福祉における共助の精神には頭が下がる。
        
                「沓掛熊野大神社再建記念碑」
 沓掛熊野大神社再建記念碑 碑文
 幾星霜を地域住民の心の支柱として此処に崇められて来たる熊野大神社は、伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命の四柱を祭神として祀られてある由、新編武蔵風土記稿に記述されてある。
 遥か上代には現妙権寺の寺領として維持管理されていたが、その後、明治五年(一八七二)の神仏分離令に依り、同寺領を離れ、沓掛の鎮守氏神として崇拝され、往時の先人達が四季折々の祭事を司って来た。其の祭りを通し集落社会の連帯感を深め、一つの精神文化を築いて来たのである。
 時は明治八年(一八七五)二月、志戸川のほとりの車屋より発生した火災の類焼を被り、神殿、拝殿悉く消失し、更に妙権寺の本堂、庫裡をも延焼し、他に民家二戸を焼き尽くした。当時、沓掛の大火と言われた痛ましき歴史を此処に残したのである。
其の後、明治中期に先代氏子中の努力により再建復興された社殿も、悠久百有余年の歳月と風雪に耐えて来たりしが、其の老朽化著しく、今や倒壊寸前の様相であった。斯かる姿を前にして敬神崇祖の念に燃え、沓掛氏子中此処に神殿建設の積立基金を成して来た。
 此れと共に当熊野神社保有せる基本財産等を併せ、総工費金阡参百有余万円を投じ、此処に社殿再建建設委員会を設立発足させた次第である。
 建設に当りては其の技術卓越した名工と言われる、深谷市吉田建設有限会社と、全ての建築契約を取り交わし、当年三月に着工した。
 工事進行と共に、氏子の皆様には神域の環境整備その他に御協力頂き、建設委員より厚く御礼申し上げます。其れと相俟って、当社宮崎神官に依る本殿遷座式の儀式も恭しく執り行なわれ、沓掛氏子中永年の夢であった熊野大神社社殿の落成竣工が此処に成りたる事を区民挙げてお慶び申し上げる次第です。此れからも氏子中の前途に穏やかな至福あらん事を願うと共に、郷土沓掛の永久の繁栄を祈念し、此処にこの碑を建立する次第である。
 平成十五年十月吉日  熊野大神社  氏子一同撰文
                                     記念碑文より引用

 ほとんどの社には石碑として碑文が残されている。碑文にはその地域の歴史や、風土・環境状況等が古来の文法で書き締めされている場合が多いが、石碑という限られた字数の中で端的且つ正確に書かれていて、内容も素晴らしい。この碑文は古典文法と現代文法が入り混じっているが、現在の我々にも分かりやすいように記載されている。筆者にはこのような文章作成能力は持ち合わせていないが、日々自己研鑽を積み重ね、このような文書を作成でき得る能力を持ち合わせたいものだ。
       
                               境内に聳え立つ御神木
        
                     拝 殿
 社殿は新しくコンパクトに纏まっている。思った以上に広い境内に比べればアンバランスな感覚にもなるが、正面から見た時、拝殿の屋根の奥に本殿の千木が姿を覗かせて,威厳があり洒落た雰囲気を醸し出している。
         
               拝殿手前で左側に鎮座する石祠群
 石祠のコンクリート製台座には、祀っている社名が彫られているが、解析不明な物も多く、じっと集中して確認したが、左から「南閣神社?」「稲○○○」「○○神社」「(不明)」「(不明)」「天○○○」「蚕影神社」しか解析できなかった。
 一番左側の「南閣神社」とは何神社なのか不明。その隣は「稲」しか判明できなかったが、恐らくこれは「稲荷神社」であろう。右奥にある「蚕影神社」以外の4基の石祠は詳細不明。
 
    社殿左奥に転座する権現在弁天の石祠      社殿右奥に鎮座する石祠3基。詳細不明。

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