古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山崎天神社


          
                                             ・所在地 埼玉県深谷市山崎134            
                  
・ご祭神 菅原道真(推定)
                  
・社 格 旧村社
                  
・例 祭 不明 
 山崎天神社が鎮座する「山崎」という地名。地域名より発祥した在名であり、この地域に土着した山崎氏が存在した。この一族は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団で武蔵七党の一つ、小野篁の末裔を称す横山党と同族である猪俣党の一派で、榛沢郡山崎村から出た一族であると云い、『新編武蔵風土記稿』にも以下の記述がある。
・新編武蔵風土記稿山崎村条
「按に当国七党(武蔵七党)内猪俣党に、山崎国氏・同三郎光氏といえるものあり。殊に隣村桜澤に三郎光氏を祭りしと云う八幡社もあれば、是等当所に住し、在名をもて名とせしなるべし」
・同桜沢村条
「山崎八幡あり。或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀れり、由って此の神号ありと云ふ、近郷山崎村は此光氏の旧蹟にや、福泉寺の持」

 その他にも小野氏系図には「藤田好兼―山崎五郎左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏」。上尾市の山崎達郎家系図に「山崎五左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏―宗左衛門貞氏―五左衛門氏兼―四郎太夫氏長―五太夫氏清―刑部丞氏弘―掃部勝氏―三郎太夫氏忠―内蔵允頼忠(相州に赴き北条氏綱に仕へ戦功多し)―氏頼―氏行―氏光(北条氏に仕へ、天正十八年小田原落城の後、松平上総介忠輝に仕へ采地五百石を賜る)―友氏(上州前橋の酒井忠清に仕ふ)―友重(酒井氏に仕ふ)、弟友之(植村土佐守忠朝に仕ふ)―友寛(松平元重に仕へ、長州萩に移る)」と見える。
          
                                 山崎天神社正面
 山崎天神社は榛沢新田二柱神社北側に接する東西に伸びた道路を西行する。その後突き当たりを左折し、畑の中の道を暫く南下する。藤冶川を渡り、上越新幹線の高架の下を通り山崎の交差点の信号を右折すると手前左側方向に社は鎮座している。

「新編武蔵風土記稿」山崎村の項には「天神社 村の鎮守なり、熊野稲荷を合祀す、地蔵院の持 下六社 持同じ 熊野社 大神宮 雷電社 山神社 諏訪社 辨天社」と記述されていて、その後明治40年代に村内の神社を天神社に合祀したという。
         
             参道途中、左側には梅の木々が実をつけていた。
             さすが天神社の面目躍如ということであろうか。
 
  社の参道東側に隣接する真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院(写真左)。そして地蔵院の脇には「天神山薬王寺地蔵院緣起」という境内碑(同右)がある。

 天神山薬王寺地蔵院緣起
 当天神山薬王寺地蔵院は真言宗智山派に属す 本庄栗崎の宥勝寺を本寺とし 本尊は薬師瑠璃光如来なり 当山は基を遠く慶安年間に権大僧都盛傳和尚の開山とされ 永きに渡り当地を見守り 無量の利益を施し給う 当山旧本堂は大正十四年第十四世秀慧和尚により建立せられしより以来た風雨に耐え今日に至ると雖も如何せん 腐朽甚しく荘厳消磨し 遂に手を加うるの術無きに至る また本尊薬師瑠璃光如来 地蔵観音両菩薩 並びに両祖大師の尊像も 幾多の星霜を経て破損に及ぶ 小衲本より浅学菲才の身なれば師跡を継承すれども朽ちた堂宇を再建する才あらず 日々の檀務に明け暮れ想い起こししは 今は亡き先々代英覚和上の堂宇再建の悲願なれども 住職拝命よりこのかた空しく時を過ごせり(中略)地元の善男善女の信援 更には有縁無縁法界万霊の冥助の賜なり ここに縁起を誌し この法縁に深甚なる感謝の念を捧げ 本尊聖者の威光倍増を願い 両祖大師並びに当山祖師先徳の恩顧に報いむ 願わくは当山を篤き信仰の場として子々孫々護持されんことを 重ねて乞う 国家安穩 萬民豊楽 興隆佛法 寺門隆昌 伽藍安穏 檀信健勝 二世安楽 乃至法界 平等利益(以下略)
                                      境内碑より引用
             
 参道の途中に聳え立つ巨木(写真左・右)。紙垂等はないし、ご神木ではないようだが、参道両側にある樹木の中でも幹は太く、雄々しいその姿に感動し、思わず写真を撮ってしまった。
        
       山崎天神社の参道は右方向・Ⅼ字に曲がり、すぐ先に社号標柱や鳥居がある。
              時々社に見かける配置構造だ。
 ところで参道が北方向で途中右に90度曲がるという箏は、この社は西向きの社という箏になる。         一説では西方向の延長線上には太宰府天満宮が鎮座する場ともいう。
           
                        拝 殿
  創建時期等を記した案内板はなく、帰宅後の編集でも参考資料がほぼ見当たらなかった。
                      
                              拝殿手前、左側にある社日神
 社日神の基礎部分はコンクリート製であるが、この基礎部分はかなり高さがあり、また入り口にあった灯篭2基の基礎部分もかなりの高さであった。思うに山崎天神社の鎮座場所は、志戸川とその支流である藤治川の合流地点から南側で、それ程遠くない場所であるため、河川氾濫対策として、このように基礎部分を補強し、ある程度の高さに積み上げているのではないだろうか。あくまで筆者の勝手な推測ではあるが。
                  
                  社殿左側にある富士塚
 塚の頂には仙元大日神があり、左側には青面金剛の石碑、右側には詳細不明な2基の石祠が両脇を固める。
        
                             社殿奥、左側に鎮座する境内社群
 
 境内社は天神社の拝殿の左後ろにあり、合殿で左から、天照皇大神、稲荷神社、諏訪神社、三社権現神社が祀られている。
        
                                 社殿から鳥居方向を撮影

 嘗て山崎天神社の隣の旧名主の新井家は、代々寺小屋の塾を開き、村内また隣村の児童を教育したという。
榛沢郡の新井氏は「和名抄」に「榛沢郡新居郷」と記載があり、新井は新居、荒井とも書く。嘗て此の氏は埼玉県第一位の大姓であり、関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている苗字で、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。
出自も多くあり、
・武蔵七党、丹党榛沢氏、横山党・猪俣氏、児玉党からの系統
清和源氏・新田氏流、武田氏流、足利支族・一色氏流からの系統
その他(桓武平氏畠山氏流、藤原秀郷流、高麗氏族等)
に大きく分かれている。

 その中の清和源氏新田氏流新井氏は、同郡人見村に移住して深谷上杉氏の支族に仕え、後に深谷領東方藩松平康長に仕えたという。
新井氏系図
「新井兵庫義豊は、永享十年将軍義教公より御教書を贈る、上杉憲実に持氏追討すべきの由なり。三浦介時高・今川上総介・小笠原政康ら、鎌倉に発向す、この時の旗頭にて、進んで先鋒討死す。翌十一年、上杉家に小次郎を召され、思し食に感じて、黄金十枚を贈る、法名寛恭了得大禅定門。のち小田原北条家滅亡の後、小笠原家に所縁ある故に扶助を賜ひ、年老の後、榛沢郡藤田郷萱刈庄山崎村に蟄居す」
大里郡神社誌
「山崎村天神社に隣接せる旧名主新井茂重郎の家は、正保以前より地頭加藤牛之助の地行所にして、其の子孫亀之助及び音三郎等、代々寺小屋を開く」
        
                   山崎地域の田園風景

 余談となるが、江戸中期の学者、詩人、政治家である新井白石は、榛沢郡の新井氏と同じ清和源氏・新田氏流の末裔であったようだ。
・新田族譜
「新田義房―覚義(上野国新田郡新井村に住し、新井禅師と称す)―朝兼―義真(応永二十三年討死)―義基(二郎、仕小山下野守)―武義(次郎兵衛尉、住武州、仕人見屋形上杉六郎憲武)―勝広(刑部丞、仕上杉左衛門太夫憲晴)―広恒(刑部、去山善休)―広成(刑部、天文十年生、万治三年十二月死、百二歳)―半無生(住上州厩橋)、弟広道(新井勘解由、赴常陸多賀谷家)、其の弟広方(刑部、十左衛門、仕真田家)、其の弟某(次郎兵衛、仕松平丹波守康長)―某金兵衛―某金兵衛、兄某次郎兵衛」
同家譜には新井勘解由広道―余四正済―君美(白石)との記載あり。

 不思議な縁で、山崎天神社の考察から、江戸時代
中期の学者、詩人、政治家である新井白石との関わりまで話が発展してしまった。まあ筆者としては、これ位の脱線は許容範囲だし、これだからこそ神社参拝やその土地の歴史考察は面白いわけなのだが。
 

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