古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下吉田貴布禰神社

 貴布禰神社は、埼玉県秩父市下吉田の井上耕地に鎮座する神社で、旧下吉田村鎮守社・旧村社である。主祭神は高龗神。別称「貴布祢神社」「貴船大明神」「貴船社」「貴布祢様」とも言われている。
 当社の創建に関して、社記によれば、弘仁9年(818年)の大干ばつが起こり、熊野社に請い高龗神を勧請して恵みの雨を得て社を作り祀ったのが始まりと言われている。 正暦2年(991年)の干ばつを救った時には遠近の諸人が家財を寄進したと伝えられ、その時に貴布祢大神を分祀して以来、貴布禰大明神と称したという。
 なお、神職は穂積君の子孫である宮川家が累代奉仕してきたが、大正時代頃に非常駐となり、椋神社の社家である引間家が管理していたが、現在は秩父神社の神官が宮司となっている。
 この社では、埼玉県指定無形民俗文化財の貴布祢神社神楽が春と秋の大祭で奉納される。一社相伝の神楽であり、現在は貴布禰神社の氏子が継承を続けている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市下吉田6739
             
・ご祭神 高龗神
             ・
社 格 旧村社
             
・例祭等 春大祭 43日 秋大祭 10月第一日曜日
 秩父市下吉田地域は、旧吉田町域の南東端を占め、東は太田地域(現秩父市)、西は上吉田地域、南は下小鹿野地域(現小鹿野町)と接している。地域の半ば山間の地で、上吉田村から東流する吉田川は村の中央部で南流してきた阿熊(あぐま)川を合せ、村の東部で北流する赤平川に注いでいる。多くの集落は、山地の山間を縫って流れる吉田川に沿って、散在しているように分布している。
 途中までの経路は椋神社を参照。この椋神社の北側には埼玉県道37号皆野両神荒川線が走っているが、椋神社の北側にある専用駐車場から西方向へ1.5㎞進んだ丁字路を左折すると、すぐ左側に下吉田貴布禰神社の境内が見えてくる。
        
                               
下吉田貴布禰神社正面
『日本歴史地名大系』 「下吉田村」の解説
現在の吉田町域の南東端を占め、東は太田村(現秩父市)、西は上吉田村、南は下小鹿野村(現小鹿野町)。半ば山間の地で、上吉田村から東流する吉田川は村の中央部で南流してきた阿熊(あぐま)川を合せ、村の東部で北流する赤平川に注ぐ。太田村からの往還と下小鹿野村からの往還が村の中央部で合流し、吉田川に沿い上吉田村に向かう。中世には上吉田村などとともに吉田郷として推移した。「風土記稿」によれば村の東寄りに高札場がある。また東部の小名町に八〇軒ほどが軒を並べる町並があり、吉田町とも称していた。同所では毎月三・八の日の六斎市が立ち、郡の名産である絹・煙草やその他諸品を交易していた(「風土記稿」など)。近世初めは幕府領、寛文六年(一六六六)三河中島藩領となり、同一二年幕府領に復する。その後、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同七年幕府領、天保七年(一八三六)上総貝淵藩領、同一二年幕府領と変遷し、元治元年(一八六四)幕臣平岡氏の領地となったと考えられる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」「郡村誌」など)。田園簿に村名がみえ、高一千一九〇石余・此永二三八貫五文とある。寛文四年の差出(斎藤家文書)によれば村高は永二九〇貫余で、反別は田三九町五反余、畑三六二町四反余・屋敷一二町六反余、ほかに寺領除地一町四反余、御蔵屋敷除地一反余、検地案内免除地四反余があり、浮役として綿役永一貫余・紙舟役永二貫余などが課せられていた。元禄一六年(一七〇三)の年貢割付状(同文書)では高一千四五九石余、田三九町五反余・畑三七六町三反余。宝暦元年(一七五一)の年貢割付状(同文書)では高一千四六〇石余、田四〇町五反余・畑三七六町二反余となり、四反六畝が溜池敷堤敷引とされている。
        
           一の鳥居に掲げてある「貴布禰神社」の社号額
 鎮座地である字井上区域は、水利の便が悪かったため、昔は自分の家の生活用水を賄えるだけの井戸を持つ家は数えるほどしかなく、ほとんどの家では吉田川等に水を汲みに行かなければならなかった。また、何軒かあった井戸も非常に深く、しかもしばしば枯渇したという。
 そのため、女衆の役目とされていたこの水汲みは、半日もかかる重労働であったため、一家の主婦の労苦は並々ならぬものだった。
 そのような環境ゆえか、当時の氏子の生業は、水をさほど必要としない養蚕や麦作が中心であった。
 当社は創建から、水の神として奉斎され、信仰を集めてきた。その信仰に応えてか、当社は旱魃の年に慈雨をもたらし、多くの民を救い、氏子や崇敬者はその神徳に報いるために力を合わせて社殿の再建や修復を行った。また、当社の北西ほど近い所には竜王を祀った竜王塚があり、当社の背後の山を竜王山と称するところから、水神である竜王の信仰と当社との関係が推察される。開村以来、水利の悪さに悩まされてきた井上の人々にとって、水の神の信仰は欠くことができなかったものと思われる。
 
     参道の左側にある手水舎        手水舎の先に祀られている境内社・八坂社
  この八坂神社では毎年7月に例祭が行われ、町内を傘鉾の山車が引き回されるという。
        
                 参道右側にある神楽殿
 
  神楽殿脇に設置されている神楽の案内板    一の鳥居近くにも神楽の標柱あり
 埼玉県指定無形民俗文化財
 貴布称神社神楽
 所在地   秩父市下吉田字井上
 保持団体  貴布祢神社神楽保存会
 指定年月日 昭和五十二年三月二十九日
 文化(一八〇四~一八一八)初年のころに神官の宮川和泉守が、土地の人々と江で手ほどきを受けたという口伝があり、文化十三年(一八一六)の神楽役裁許状も残されている。
 この神楽は、江系統に属する一神一座形式の三十六座の岩神楽で、祝詞や大蛇攻めの一部を除き、黙劇となっており、翁の舞・猿田彦命など芸能的に高い評価を受けている。現在、氏子により保存会が結成され、三十三座(十五演目)が伝承されている。
 奏楽の楽器は、大太鼓と小太鼓を一人で打つ付け拍子(または付け太鼓)、羯鼓で主旋律を打つ大拍子、笛とで構成されている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                       二の鳥居
        
                    拝 殿
『村編武蔵風土記稿 下吉田村』
 貴船社 祭神高靈神、三月廿八日太々神楽を奏す、例祭六月廿七日・廿八日、神職宮川上総、太神宮 諏訪社 稲荷社 熊野社 天王社

        
             一の鳥居付近に設置されている案内板
 貴布禰神社 御由緒  秩父市下吉田(字井上)六七三九
 ◇穂積君が水の神として祀り始めた社、祭神は高龗神
 当社の創建については、社記に次のように語られている。
 昔、櫛玉速日尊の御子、可美真智命の子孫である穂積丞稲負君は、知知夫国造と同じく当国へ来て勧業殖民に努めた。天照大神と熊野大神を奉斎し、神の心にかない、順調であった穂積君の開墾事業ではあったが、ついにその危機が訪れた。時に弘仁九年、大干ばつが起こり、水は涸れ、地は乾き、稲はことごとく萎えてしまった。これを見た穂積君は深く憂い、斎戒沐浴の後、二人の子供と共に熊野大神の社に請い、高龗神を勧請して、号泣して降雨を祈ったところ村民もこれに従って神の助けを請うた。その祈りが神に通じ、慈雨大いに降り、水陸共に元に復した。更に、雨が止んだかと思うと、数ヶ所から清泉が噴出し、田に水を満たしたので、その年の秋には豊かな収穫があった。歓喜した人々は、この泉を神井と称え、これにちなんで村の名も井上と改めたのであった。その後この近辺の諸村を総称して宜田郷と呼んだ。今の「吉田」という呼称はここから起こったものと言われている。
 この神恩に深く感謝した穂積君は新たに神殿を造り高龗神を祀ったのが当社の始まりである。
その後も当社は度々神威を顕し、水の神として篤く信仰されるに至った。殊に正暦二年の大干ばつを救った時は遠近の諸人が競って財貨を寄進したと伝え、この時京都の貴布禰大神を分祀して以来、貴布禰大明神 (貴船大明神とも記す)と称した。(以下略)
                                      案内板より引用
 案内板に記されている二人の子供とは、それぞれ、「深瀬君・斯麻君」といい、この二人もまた、共に農事を民に教え、開墾を進めた。また穂積君は、その居住地を稲負部村と号し天照大神と熊野大神を奉斎したが、神の心にかなってか、父子による開墾は大いに進んだ。そのため、当地には深瀬田(現在の福瀬。深瀬君が開いた地)、島平(斯麻君の居館の跡)、植沼(現在の上野。初めて苗を植えさせた所)、焼畑(現在の矢畑。焼畑を行った所)などこの父子のちなむ地名が数多く残っている。
        
             拝殿向拝部には龍の宮彫りがされている。
 淤加美神(オカミノカミ)、または龗神(神)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記している。
 日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(クラミツハノカミ)とともに闇龗神(クラオカミノカミ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(タカオカミノカミ)であるとしている。
『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神と日河比売との間に深淵之水夜礼花神が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の4世孫の甕主日子神は淤加美神の娘比那良志毘売を娶り、多比理岐志麻流美神をもうけている。
 この龗(オカミ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として古来から信仰されていた。下吉田貴布禰神社の拝殿に龍の彫刻が施されているのも、その古来からの信仰ゆえであったのであろう。
        
            社殿の向かって右側奥に祀られている境内社
           左から稲荷社・天神社・諏訪社・稲荷社・榛名社
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「下吉田貴布禰神社HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等 
        

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山田恒持神社

『新編武蔵風土記稿 山田村』
 恒持明神社 上鄕西新木にあり、本山修驗、大宮鄕今宮坊配下松本院持、本地十一面觀音、村の鎭守にて例祭正月廿日扉
に縱橫一尺許の石あり、石面に、敕定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、當村緣起曰、人皇五十代 桓武天皇の皇子一品式部卿葛原親王の御子高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の嫡子とし養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大藏卿上總介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、恒望王は從四品太宰權帥にて、任國大宰府に下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武藏國に左遷せ玉ふ、然るに延曆の頃までは、武藏國曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父兩郡に攝まれたる山里に、閑居の地をとし玉ひける、その殿上の所を、武藏の大とぞ稱しけるまゝ、今その遺名を大澤村と呼べり 平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望君罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の緣に因て武藏權守に補せられ、從上四品は故の如く復し玉ふ、此時大澤より山田の鄕に官舍を移し玉ふ、されば官位田の地を恒望庄とぞ稱しけるに、御諱字を憚りて恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、恒望王逝去し玉ひし時、延曆十二癸酉の年より大同丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬる、村長邑夫舉りて、其德功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大澤に便りたる淸地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂とぞ稱しけるが、數多の星霜を經るがうち、御堂も破壞して村名にのみ殘れり、御靈は卽ち官舍を神祠に設て、その地に齋き祀りて、降臨鎭座の神社と崇め奉れるなり、恒持庄は大澤・御堂・安・皆谷・白石・奧澤・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黑谷・皆野・田野・三澤等すべて十五カ村にて、惣鎭守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人も傳へきく聲も遙に響き、山ノ谷も幽に成行て神前の燈も漸にかゝげて只衰敗をと歎けりと云々、

        
             ・所在地 埼玉県秩父市山田1606
             ・ご祭神 日本武尊 ・恒望王・罔象女命・大山祗命
             ・社 格 旧恒望荘総社 旧山田村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 220日 例大祭 3月第2日曜日(山田の春祭り)
                                    水無月祓 6月30日 秋祭り 9月15日 新嘗祭 11月25日  
 秩父市・山田地域は同市街地の北東方向に位置し、東側の大部分は奥武蔵高原の小山の連なる山地で、西側には蛇行しながら北流する横瀬川があり、この河川流域の平地に集落が発達し、秩父巡礼道が村内札所三ヵ寺を通っている。地域には縄文時代の遺跡が点在しており、また、武蔵七党の一つである丹党の山田・関口両氏が居住する等、古くから開かれた場所であったようだ。
 途中までの経路は、山田八坂神社を参照。この社南側にある「八坂神社」Y字路交差点を南西方向に進路をとり、その後、埼玉県道11号熊谷小川秩父線を1㎞程進むと、進路右側の民家と「高篠鉱泉郷観光トイレ」との間に山田恒持神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
              県道沿いに建つ山田恒持神社の鳥居
『日本歴史地名大系』 「山田村」の解説
北流する横瀬川を挟んで大宮郷・大野原村の東に位置し、北は横瀬川支流の定峰川を境に栃谷村など、南は横瀬村(現横瀬町)など。横瀬川流域の平地に集落が発達し、秩父巡礼道が村内札所三ヵ寺を通る。東方は小山の連なる山地で、山間の渓流には朝日滝・夕日滝などの瀑布がかかる。丹党系図(諸家系図纂)によると丹党一族七郎丹二郎基政の子政広が山田七郎、政広の弟政成が山田八郎を名乗っている。「風土記稿」によると、八郎政成は当地に住し、子孫代々も居住してその旧跡が残っているという。地内には恒持明神社(現恒持神社)があり、元亨四年(一三二四)一一月の中村次郎左衛門尉申状案(秩父神社文書)にみえる「恒用」郷は当地か。現荒川村法雲寺蔵の天文二四年(一五五五)三月一八日銘の納札に「武州()
父山田村住関口大学助」とみえ、当地の大学助ほか同道三〇余名が同寺に札所巡礼の木札を納めている。元亀三年(一五七二)三月五日、北条氏邦は朝見伊賀守に横瀬の地を宛行っているが、伊賀守が宛行われた地の北は「横瀬山田村境」を限りとしていた(「北条氏邦印判状写」加藤文書)。
             
         入口付近は「村社 恒持神社」と刻まれている石標がある。

 嘗て、幕末から明治大正を通じ、生糸や絹製は外国貿易の主要品目となった。そのため、秩父地方の中でも特に水利に恵まれて染色に便利であったこの山田の地には機織関係の工場が建ち並び、多くの人々が集まった。更に戦後は「糸偏景気(いとへんけいき)」といわれるほど盛んであったという。しかし、昭和35年以降、業界は不況となり、その波は当地をも襲った。この結果、現在では機織関係企業の他に、光学電子関係の工場誘致が計られると共に、古い由緒を語る社寺や鉱泉宿を中心に観光地化が計られつつあるという。
        
 実は当所、県道沿いにある赤い鳥居が正面と思っていたのだが、一旦県道を通り過ぎた最初の路地を右折すると、右手に石製の鳥居が見えてくる。社殿の配置もこの鳥居に対して正面を向いているし、「山田の春祭り」の際に奉納される神輿の出入りにも、広い空間は必要となる。故にこちらが本当の正面となるのであろう。
        
               入口付近に設置されている看板
        
              参道右側に設置されている案内板
 恒持神社  所在地 秩父市大字山田
 現在の恒持神社は、明治四十一年に近在の丹生社、諏訪社、稲荷社を合祀したものである。
 そのうち、恒持明神社の由来は、平城天皇の御代大同元年(八〇六年)恒望王(平家の祖高望王の弟)が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置いた際、神沢(現横瀬村)にあった高斯野社を官舎近くに遷し、ここに勅定高斯神社の社号を賜り十五か村の総鎮守とした。
 祭神は水の神で、高篠山山頂清水のこんこんと湧き出るところ(現県立青少年野外活動センター内)に竜神社(雨を降らせる神)をまつり、旱魃で水が不足すると笛や太鼓で御幣を振りながら「雨賜べ竜王なあ」と哀調子で天に向かって叫びながら、竜神社まで登り、雨乞いを行ったものである。
 毎年三月十五日、恒持神社例大祭は、「山田の春祭り」として、秩父地方へ春を告げる最初の祭りである。江戸時代から伝えられた屋台、笠鉾が秩父屋台ばやしのリズムにのり曳き回され、山挟の歳時記として一段と風情をかもしだしている。(以下略)
                                      案内板より引用

「埼玉の神社」等によれば、「当社の東方に位置する丸山の一支峰である高斯野(高篠)山の山中に神沢と呼ばれる池があり、古くから水源の一つとなっている。日本武尊は東征の折、この山に登って泉で禊して神祇を祀られた。尊の没した後、里人はその徳を慕って神沢の地に御霊を祀り、高斯野社と号したという。これが当社の始まりである」といい、この地域で元々祀っていた神は山の神である「大山祗命」、水の神である「罔象女神」がご祭神ではなかったかと思われる。
 ご祭神の一柱であるミヅハノメは、日本神話に登場する神であり、『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
        
   社の案内板に並列している
「秩父市指定有形民俗文化財 恒持祭屋台・笠鉾三基」の案内板
 秩父市指定有形民俗文化財 
 恒持祭屋台・笠鉾三基  
 指定年月日 昭和四十年一月二十五日
 恒持祭は、恒持神社の例大祭で、「山田の春祭り」とも呼ばれる。
「新編武蔵風土記稿」によると、恒持祭は江時代、中山田の丹生社と西新木にあった丹生明神社の祭礼であった。
 両社は明治四十一年、恒持神社に合祀され現在に至っており、この祭礼に曳行・巡行されるのが、荒木屋台・中山田屋台・大棚笠鉾(秩父市指定有形民俗文化財)である。
 屋台の寸法は、いずれも正面約1.8m、奥行約3.0m、高さ約4.8mである。屋根には向大唐破風を設け、軒は二重垂木、総体黒漆塗り打金具で、彫刻は極彩色である。笠鉾の寸法は、正面約1.5m、奥行約2.2m、高さ約6.4mであり、三階の空や勾欄を設け、腰支輪の彫刻は極彩色である。
 荒木屋台は荒木和泉(建造年代は不詳)、中山田屋台は番匠屋荒船飛騨(江末期)によって建造され、大棚笠鉾は製作者不詳(明治初年)であるが、いずれも本地方独特の屋台・笠鉾 である。(以下略)
                                      案内板より引用
「山田の春祭り」と呼ばれる例大祭が32日曜日に行われていて、「秩父の春を告げる祭り」として近隣に知られている。この祭りが山田地域全域の祭りとなったのは明治四十一年の近隣の社を合祀した後のことであり、それ以前は上山田地区を中心とした恒持神社・上山田新木を中心とした新木丹生神社・中山田地区の仲山丹生神社の三社で別々に祭典が行われていた。因みに、合祀前の恒持神社の例祭は上山田地区が中心となり、境内に戯れ絵や川柳などを書いた地口行灯を掛けていたという。
        
                 広々として静かな境内
 
      境内左手にある神楽殿             参道右手にある手水舎

神楽殿の左側には「恒持神楽由来」を記した碑がある。
 恒持神楽由来
 神楽は我国発生の神話を題材にして面と衣装と動作による無言劇で笛鼓大鼓の軽快な音色は快よい祭気分に浸うて和やかな郷愁を誘い祭には不可欠の芸能である
 恒持神楽は大正八年秩父神社神楽師橋塚登之助氏乾房吉氏により山田地区二十数名の有志に伝えられ数十年間継続したが時の経過と共に物故者相継ぎ衰減の悲運に見舞われて今になったが現在の後継者が現れ師弟と共共研鑽を重ね今日に至った
 すべての芸能は一朝一夕に習得出来るものではない
 願はくは今後後継者が続々と現れ永久にこの恒持神楽が継続することをひたすたら念願してこの碑を建立する所以である(以下略)
                                     由来碑文より引用

        
                    拝 殿
 恒持神社御由緒 秩父市山田一六〇六
 ◇関東平氏の始祖高望王の弟恒望王を祀る
 当社の東方に位置する丸山の一支峰である高斯野(高篠)山の山中に神沢と呼ばれる池があり、古くから水源の一つとなっている。日本武尊は東征の折、この山に登って泉で禊して神祇を祀られた。尊の没した後、里人はその徳を慕って神沢の地に御霊を祀り、高斯野社と号したという。これが当社の始まりである。
 社記によると、関東平氏の祖とされる高望王の弟である恒望王は大同元年(八〇六)武蔵権守に任ぜられ、大沢・御堂・安・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢の十五ヵ村を恒望荘とし、高斯野社を恒望荘の総社に定めると共に社を新木の里に移した。その後、恒望王が没すると里人は遺体を大沢の地に葬り、御霊を高斯野社へ祀ったと伝えられ、この時、社号を王の名を冠して恒持明神と改めたという。
 明治五年(一八七二)に村社となり、同四十一年(一九〇八)には西新木の丹生神社、中山田の丹生神社と境社稲荷社、五反田・谷津・古堂の諏訪社、山ノ神の山神社が合祀された。
 社殿は三社あり、中央が本殿で、日本武尊・恒望王・罔象女命・大山祗命を祀っており、向かって右側の社は旧西新木の丹生神社の社殿で現在は織姫神社並びに天神社となっている。左側の社は旧中山田の丹生神社の社殿で、現在は稲荷神社となっている。また、境別棟は合祀された諏訪神社である。
 例大祭(三月第二日曜日)には三台の山車(屋台二台・笠鉾一台)が山田地域を巡行し、秩父地方に春を告げる山田の春祭りとして毎年多くの参詣者で賑わっている。
◇御祭神 ・日本武尊 ・罔象女命 ・恒望王・大山祗命
◇御祭日 ・例大祭(三月第二日曜日)
                                      案内板より引用

        
             拝殿に掲げてある「恒持大明神」の扁額
        
 拝殿の奥には社殿が三社あり、中央が本殿で、日本武尊 ・恒望王・罔象女命・大山祗命を祀り、内陣には「勅定・日本武尊高斯野社・恒望王」と刻した石があるとの事。
  また向かって左側に稲荷神社が祀られていて、以前は旧中山田の丹生神社であったという。
        
           向かって右側には、旧西新木の丹生神社の社殿で、
            現在は織姫神社・天満天神社となっている。

 織姫神社の祭日は4月第一または第二日曜日で、盛んな頃は高篠機業同盟会主催でお日待が行われ、芸者を呼んだり、福引を催すなど派手な騒ぎであったようだが、時代の推移と共に不況の影響もあり、衰弱してしまったとの事である。
        
        織姫神社・天満天神社の右側に祀られている境内社・諏訪神社
           諏訪神社の右側奥に辨才天の石祠が祭られている。

 諏訪神社社殿は、小振りな社殿だが、緻密な彫刻が四面すべてに施されているのが大きな特徴であり、脇障子の付け方が廻り縁に対して斜めに建てられている珍しい造りの社殿である。
 令和6530日 秩父市指定有形文化財(建造物)。
        
                社殿の左側にある社務所とその奥には神興庫がある。

 山田恒持神社の社地から西北方向の一隅にある「七人塚」は社人のお墓と伝えられ、『新編武蔵風土記稿 山田村』には「往古に恒持明神の御朱印消失せし時、あづかりし修験七人を杭にせし塚なりとぞ、今に至り幽魂のこりて、雨の夜などには、奇怪のことありと、土人も語りせり、」とある。但し、この時、修験松本院(峯本姓)だけは罪を許され、本山派修験今宮坊の配下として神仏分離まで当社の別当を務めていたという。

 ところで社殿東側には赤い両部鳥居が建つ。両部鳥居とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居であるのだが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残という。この密教ときっても切れない間柄なのが「修験」である。つまり、両部鳥居がある神社は、その大部分は修験が関わる社であるともいえる。
 加えて、案内板にも記されている「中山田の丹生社と西新木にあった丹生明神社」の「丹生」とは、鉱石を産出する意味であるのだが、当地は鉱泉もが湧出するため、鉱泉が丹生の地名の由来である可能性もある。どちらにしても地形上「山の民」とも関係がありそうである。

 山田恒持神社は上記本山派修験今宮坊の配下として神仏分離まで当社の別当を務めていたというのだが、恒望王が大同元年(八〇六)武蔵権守に任ぜられ、大沢・御堂・安・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢の十五ヵ村をを「恒望荘」とし領有した各村の社の多くは、「本山派修験」ないしは「修験道の開祖に関わる寺院」として『新編武蔵風土記稿』にも記載されている。
 偶然といえばそれまでの事だが、「恒望王」と「修験道」、更には「山の民」は何か深い所で繋がりがあるのではと最近考えるところではある。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内掲示板・石碑」等
            

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荒川日野弟富士浅間神社

 荒川日野弟富士浅間神社が鎮座する「日野」という地域名は、『秩父誌』によれば、郡中で最も先に朝日が昇ることに由来するという。開村の年代はハッキリと分かっていないが、当社創建の伝説や、既に鎌倉時代の文書にはその名が見えることから、かなり古いと思われる。
 なお、日野は、古くから雨や霧の多い地域として知られていたらしく、『新編武蔵風土記稿 日野村』にも「土地南に浦山及蟬笹(せみざさ)など云る嶮き山々聳へたれば、霧も深く又雨も多し、土人會て上野田野の私雨(わたくしあめ)と称せり、晴天にも俄に雨降り、他村の降らぬにも此村のみ降りしこと多し」と記されている。
        
            
・所在地 埼玉県秩父市荒川日野9723
            
・ご祭神 木花佐久夜姫命
            
・社 格 旧日野村産土神・旧村社
            
・例祭等 春季大祭 413日 秋季大祭 1123
 荒川上田野若御子神社から一旦北上して国道140号線に戻り、三峰方面に西行すること1.7㎞程、安谷川に架かる安谷橋を渡ったすぐ先にある「荒川中学校入口」交差点を左折する。道幅の狭い道路を南方向に進み、秩父鉄道の踏切を越えたすぐ先の路地を右折すると、正面に荒川日野弟富士浅間神社の鳥居が見えてくる。
        
                荒川日野弟浅間神社正面
『日本歴史地形大系』「日野村」の解説
荒川の上流右岸に位置し、西は谷津(やつ)川を境に白久(しろく)村、東は安谷(あんや)川を境に上田野村。南に熊倉山・天目山が連なる。秩父甲州往還が荒川沿いに横断する。地名の初出は元亨四年(一三二四)一〇月日の秩父社造営料木注文案(秩父神社文書)に「日野村国光名分」とみえ、天井裏板一〇枚(各長さ一丈二尺・幅一尺一寸・厚さ一寸二分)・決込板一五枚(各長さ六尺・幅一尺二寸・厚さ二寸)などが秩父社(現秩父市)の造営料木として当村国光名に課せられていた。近世初めは幕府領、田園簿では高二四七石余・此永四九貫四〇五文とある。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同年の年貢割付状(新井家文書)によると高二一三石余、反別は田一町九反余・畑七二町三反余・屋敷三町余。
        
             入口付近に設置されている社の由来書
 浅間神社
 浅間神社は、筑紫の国造の末えい石井大乗睦則という人が、富士山へ三十三度お参りをし、昌泰三年(九〇〇)六月十四日、その御分身をいただき、氏神として私有地の日野村座成山という山にまつったのが最初といわれています。
 その後、石井道次という人の代になり天徳四年(九六〇)六月のある夜、神様よりおつげがありました。「この山は、私の住むべき山ではないから他の山へ移すように」しかし、どこへ移してよいのかわからないので、その山を教えていただきたいとたずねると、「しかるべき山に雪を降らせる」といわれたそうです。
 十四日の朝、付近の人が騒いでいるので、何だろうかとあたりを見まわすと、頂上が雪で白くなった山がありました。これは神のおつげのあった山にちがいないとさっそく富士山に事の次第を報告しました。そして、富士山の神さまより弟の冠称をいただき、雪の降った山を弟富士山とよび、その頂上へ神社を移し、日野邑の神様としてまつるようになりました。
 浅間神社の祭神は、木花佐久夜姫命、他で、ここに平将門、藤原秀郷、畠山重忠らが参拝したといわれ、熊倉城にこもった長尾意玄入道の祈願所であったともいわれます。
 又、この山の北側に虚空蔵岩と呼ばれる大きな岩がありますが、神様がこの岩に縄をかけて頂上より現在の地まで引きおろしたという伝説が残っています。
                                      由来書より引用

 この由来書では、「筑紫の国造」の末裔である「石井」氏が浅間神社の創始に関わっているという。「筑紫の国造」「石井」、この二つのキーワードに合致する人物といえば、浅学な筆者には「筑紫君磐井」以外うかばない。
 記紀によると古墳時代後期に相当する6世紀前半に北部九州に「筑紫 磐井」という豪族が登場する。この「磐井」は「いわい」と読み、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏(ウジ、ウヂ、氏族)に与えられた称号であるカバネは「君」という。
『日本書紀』では「磐井」、『古事記』では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と表記され、『日本書紀』では磐井の官職を「筑紫国造」とも記している。
「日本書紀」では継体天皇21年(527)に、新羅からの賄賂を受けた磐井は、大和王権が朝鮮半島での失地奪回に差し向けた派兵を遮った。両者の戦闘は1年余りに及んだが、大和側の勝利に終わり、磐井は斬られたという。世にいう「磐井の乱」である。
 この「磐井」は、古事記では「石井」とも記されていて、どちらも同じ音であり、意味であろう。考えてみたら「磐」は「石の大きいもの」をいうが、「石」との間には明瞭な大きさの基準はない。加えて筑紫君磐井の墳墓とされる北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の「岩戸山古墳」には有名な「石人・石馬」を含む多くの石製品が出土していて、謂わば「磐(石)」を象徴する『君』なのであったのだろう。
 荒川日野弟浅間神社に関しては、『秩父志』には、「日野村浅間社、祭主は石井氏祭り」と見え、「イワイ」と註しているが、現存は「イシイ」氏を称している。
         
                                   参道の様子。   
 嘗ての北九州の王者の末裔が、この縁もなさそうな遠い武蔵国にいること自体、筆者の妄想の類なのかもしれない。但し、考えてみると、この武蔵国には「宗像神社」や「壱岐天手長男神社」等数多くの九州本家の社が鎮座していることも事実である。
 ともかく筆者としては、この由来書を読んでいるうちに湧き上がってきた妄想に似た考察を、ふと記したくなった次第で、何の根拠も一次資料による証拠もない。
        
                    拝 殿
 
 拝殿手前の参道左側には移築紀記念がある。      拝殿上部の色鮮やかな彫刻

 浅間神社移築紀記念
 當社は傳聞の処筑後國造の末裔石井大乗睦則冨士に登拜すること三十三度御分霊の允許を受け石井家氏神として私有山林座成の岩上に奉斎時維昌泰三庚申年六月十四日創祀という其后石井道次天徳四年六月十四日霊夢の顕示を受く即ち富士山の嶺に時ならぬ降雪あり人々其奇観に驚き冨士本山に事の次第を報告す弟の冠稱を與えられ爾来弟冨士山と稱す邑人相議り降雪を境に社地に奉納日野邑産土神として社宇建立御遷座祭日を六月十四日と定め聖域女人登山を禁じたり明德三年四月弟富士山麓より風穴下原を経て村男迠縦百八十間杉並木を以って奥宮に通ずる参道を定む寛文年中下原に社殿建立女人参籠所となり祭日を七月二十一日に改め下浅間と稱す明治二年下日野二十四人持雑種地を奉納神楽殿を建立同五年入間県の許可により日野村々社となり大正四年御大典記念事業として本殿拜殿社務所新築境内取擴め大六天社諏訪社合祀同五年二月神饌幣帛供進神社の指定を受く大正十二年奥宮再建昭和九年本拜殿屋根改膳並に社務所新築同二十二年弟富士山嶺全域社有に復元同二十四年植樹祭同四十一年二月体育館建設用地として村當局の要請に依り神域の尊厳保持と時代の変遷に想を練り氏子総意に基く現地を選定移築御遷座同四十三年神域整備祭器庫建設行て明治百年を記念し神社由緒来歴の梗概を刻し後代に傳う(以下略)
                                  移築紀記念碑文より引用

        
        境内社 左から十二社神社・稲荷大神・春日大神・天満天神宮
              右側に見えるのも境内社・八坂社
 
              社務所               社務所の東側にある神楽殿
        
                 鳥居の右側に設置されている浅間神社神楽の案内板

 秩父市指定無形民俗文化財
 浅間神社神楽
 公開日   二月節分・四月第二日曜日・十一月二十三日
 指定年月日 昭和四十五年十一月三日
 浅間神社の昔は、日野の産土神として弟富士山頂に祀られたのが始まりだといわれる。
 寛文年間(十七世紀半ば)には荒川中学校体育館付近に社殿を建立、昭和四十一年には弟富士山麓の現在地に遷座された。
 浅間神社神楽が始められた時期は定かではないが、神社の神主を代々務めた石井氏によって、神子神楽が奏されてきたといわれる。
 その後、安政年間(十九世紀半ば)、上州新町(群馬県高崎市新町)の車大工徳丸により、それまでと異なる神楽が伝授されたと伝わる。こうして始まったのが現在の神楽で、白久神明社神楽、大滝滝ノ沢神楽、三峯神社神楽と同系統の神楽である。
 神楽は全部で十八座、座外として「狐狩り」、「蚕神」の二座がある。
 同系統の神楽と異なる特徴は、最初と最後に素面の神官が舞う「奉幣」と、二月三日節分祭の時だけ行なう拝殿での「神前神楽」である。(以下略)

                                      案内板より引用
 祭事に関して、節分祭(310日)・例大祭(413日)・収穫感謝祭(1123日)には、氏子の間に伝承されている神楽が付け祭りとした奉奏される。もともと当社の神楽は旧社家の石井家によって行われる神子神楽であったが、安政年間に上州新町の神楽師徳丸によって徳丸神楽が伝えられたことから、氏子の娯楽を兼ねた芸能として、盛んになったという。曲目は全部で一八座あり、歌舞伎の技法を採り入れた大きい動作を特徴とし、かつての神子神楽の名残で、神職による奉幣が行われる。
 因みに、例大祭の祭日は、当所は弟富士山に降雪のあった614日であったが、その後、寛文年間以降721日、更に時代が下って413日となり、現在に至っている。
        
           社のすぐ北側には秩父鉄道の線路が近くに見える。
            周辺は至って長閑な里山風景が広がっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内掲示板・案内板」等

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久那葛城神社

 秩父市・久那地域は、荒川を挟んだ中心市街地の南西に位置し、埼玉県道72号秩父荒川線沿道を中心に集落や農地が広がり、荒川と丘陵部の森林に囲まれている地域である。地域の南西から北東にかけて伸びる長尾根丘陵等約5割が森林で占めていて、農地などを含めると約7割が自然的な土地利用で占められていて、この地域の全域が県立武甲自然公園に属し、長尾根丘陵には都市公園として秩父ミューズパークが整備されている。
 地域内には、秩父札所24番法泉寺と25番久昌寺をはじめ、各地区には神社や寺が分布し、久那諏訪神社のジャランポン祭りなどユニークな祭りや久那葛城神社の獅子舞などの先人が残してくれた貴重な文化遺産が引き継がれている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市久那2274
              
・ご祭神 一言主命
              
・社 格 旧中久那鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 418日(久那の獅子舞)
 国道140号線を南西方向に進み、秩父市街地を通り過ぎ、上・下影森地域が微妙に入り組んでいる「秩父県土整備事務所前」交差点を右折する。北西方向に進む埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を2㎞程進行し、「ミューズパーク入口」交差点を直進、埼玉県道72号秩父荒川線に合流し、暫く道なりに進む。進行方向左手には秩父のシンボルと言える武甲山が、いつも秩父に向かう際に見る姿とは違う山容を仰ぎ見るにつれ、不思議な感動に浸りながら1.6㎞程進むと、進行方向右手には長尾根丘陵の切り立つ崖面となる。そして、右カーブにかかる手前にある路地を右斜め方向に進むと、その正面に久那葛城神社の鳥居が見えてくる。
        
                              
久那葛城神社の両部鳥居
 社の案内板によると、葛城の社名については口碑に「当社の祭神である一言主命が大和国の葛城山に現人の姿で現れ、雄略天皇と対話したという故事に因んで付けられたものである」という。この話に出てくる葛城山麓には古社の一言主神社があり、修験の本山である吉野の金峰山寺を開いた役小角が修業した場所であり、秩父郡においても役小角に関する伝説が多く伝えられていることから、当社の創建には修験が関わっていたものと思われる。
        
                    拝 殿
        
                           境内に設置されている案内板
 葛城神社御由緒 秩父市久那二二七四
 ◇秩父修験が祀った一言主命
 秩父盆地の南西端に位置する当地は、古くから秩父大宮郷(市街地)と三峰・小鹿野方面とを結ぶ交通の要所であった。当社の社殿は天狗山を背に、荒川の清流を挟んで武甲山と向かい合うように建てられており、境内の近くには鬼が淵や乳繰山などの奇勝がある。
 当社は江戸中期・明和五年(一七六八)現在地に奉斎され、明治五年(一八七二)に地の八幡神社と諏訪神社を合祀して村社となりました。
 関東地方において葛城神社が祀られることは極めて珍しい為、その勧請について興味深いが、残念ながら当社の創祀を伝える記録や伝承は失われている。但し、葛城の社名については口碑に「当社の祭神である一言主命が大和国の葛城山に現人の姿で現れ、雄略天皇と対話したという故事に因んで付けられたものである」という。この話に出てくる葛城山麓には古社の一言主神社があり、修験の本山である吉野の金峰山寺を開いた役小角が修業した場所であり、秩父郡においても役小角に関する伝説が多く伝えられていることから、当社の創建には修験が関わっていたものと思われる。
 当社の大祭には古くから獅子舞が氏子により奉納され、現在は保存会により隔年に行われている。舞は静かで優雅なことから『座敷獅子』または『御殿ザサラ』と呼ばれ「鶯が梅の小枝に昼寝して笛や太鼓に目をさましくる」「野辺に咲く花に迷うて飛ぶ蝶も社の庭にやすむる」など風情ある歌が歌われる。
 ◇御祭神 ・一言主命
 ◇御祭日 ・大祭(四月十八日)
                                      案内板より引用
 
    拝殿の右側に祀られている石碑                合祀社二基  稲荷社・八坂社
『日本歴史地名大系』による「久那(くな)」の地域名由来として、「くな土」(薄地の意)に由来するとか(増補秩父風土記)、地内に小名が九つあったので九名といったから(秩父志)などと伝えていて、「埼玉の神社」によると、村の堺や分かれ道に祀られ、悪疫を防ぐ「岐神(くなど)神」と関連しているのではないかと記されている。
 また、『郡内誌』では、当社を「山神社」と記しているが、これは現在も社殿奥に聳える天狗山上にある奥宮が氏子から「山の神様」と呼ばれているところより、山上に奉斎されていた当時の通称を記したものであるという。
        
                 社殿から参道を望む。
    秩父の信仰の中心にある武甲山と向かい合うように建てられているのが分かる。

 久那地域では、4月の例大祭に「久那の獅子舞」が葛城神社に奉納されている。この獅子舞は、市の指定無形民俗文化財の指定を受けている。
・久那の獅子舞  市指定無形民俗文化財 昭和3228日指定
・所在地  秩父市久那2276番地2(葛城神社)
・保持団体 久那獅子舞保存会
「七ッ子が今年初めてささらする、よくはなけれどほめてくだされ。」これは、久那の葛城神社で行われる獅子舞の歌詞である。
 この獅子舞は、往時駿府(静岡市)から伝えられたという。岡崎という演目や「岡崎ひーひゃら」「駿府の城で殿様は」と唄われることからも想像される。
※公開日:4月第3
日曜日。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
    「境内案内板」等

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山田八坂神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市山田1591
              
・ご祭神 素戔嗚尊 (社格 不明)
              
・例祭等 例大祭 7月第3日曜日
 栃谷八坂神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南西方向に600m程進むと、「八坂神社」Y字路の交差点があり、交差点の北側に山田八坂神社は鎮座している。因みにこのY字路を右折すると聖神社が鎮座する黒谷方面に達する。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。また、地形を確認すると、秩父大宮から来ると社の前で「わかされ(分岐点)」となっており、左が黒谷方面、右が皆野町三沢方面となり、社は交通の要衝地に鎮座しているもいえる。
        
                                   山田八坂神社正面
 嘗てこの地域に武蔵七党・丹党が入植し、在名である「山田」を称し、その後も子孫世々ここに居住したという。
『武蔵七党系図(冑山本)』
白鳥七郎基政―山田八郎政成(岩田、井戸)―五郎直家―丹五郎直時・弟六郎直綱―時員」
『新編武蔵風土記稿 山田村』
往古丹黨山田八郎政成この地に住し、在名を稱し、子孫世々こゝに居れり、今もその舊跡のこれり、村名の名義これによるなるべし(中略)
 屋敷跡五ヶ所 一は小名向殿にあり、山田志摩守居住せし所なり、東西二町許、南北一町餘、東は山、南西は道を隔て畑なり、北は木戸原澤を構へり、東よりに山神社あり、一は小名向木戸にあり、遠山山城守居住せし所なり、其の地は三四十間四方許にて、字を内手と云ふ、神明の小社あり、此邊を向城門と云へるは、山田志摩守が門に對せし所なれば、かくは名づけり、
『秩父風土記』
「山田村小名山田下郷、山田志摩守・丹ノ党」
        
                                       拝 殿
        
                              境内に設置されている案内板
 八坂神社 御由緒  秩父市山田一五九-一
 ◇疫病祓いの天王樣
 鎮座地は山田地区の中でも北に当たり、栃谷と境を接する桑原沢にあり、当社の近くには、横瀬川と定峰川が流れている。また、この地は当社の前で道がわかされ(分岐点)となっており、西側が皆野方面、東側が小川方面である。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。なお、社地には、疫病を外へ追いやることから村のはずれのわかされが選ばれ、以来、毎年賑やかに例大祭 (夏祭り)が執り行われている。また、例大祭に高らかに打ち上げられる花火は「木原の花火」と呼ばれ、昭和初年までは、氏子が手作りの花火を奉納し、互いに腕を競ったという。
 祭神は、素盞鳴尊で、社記によると、当社の神は勇猛で情けが厚く、疫病の地域への侵入を防ぐと共に地域外へ追い払う御利益があるという。
 社殿は、平入りの入母屋造りで、その中に白木の本殿と神輿が納められている。神輿は大正期の製作で、一時期、飾り置きの時代もあったが、再び大祭での巡行が行われている。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に載せられている「原の花火」は、当社の例祭として7月21日に行われるお祇園の進上花火で、近在でも特に有名であったという。「東西、東西、ここに砲発火述の玉名は、『黄煙遊竜十段四方引き』この玉製造人は山田の八兵衛、これを八坂神社に奉納す」などと口上があり、高らかに花火が打ち上げられたとの事だ。
 
 拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。   拝殿手前道路側には境内社が祀られている。
                            但し、詳細は不明。

 当地では、村鎮守のほかに各地域持ちの社が多数あり、恒持神社宮司の坂本氏が出社して祭典を行っている。
「山田の春祭り」と呼ばれ、秩父地方で最初に山車の出る、恒持神社の例大祭は、秩父路に春を告げるお祭りともいわれている。午前11時前に恒持神社に3台の山車(笠鉾1台・屋台2台)が集合し、その後祭典が行われる。午後になると各山車が御旅所へ出発し、午後3時ごろ御旅所である八坂神社で祭典が行わるという。
 この神社はグーグルマップでは「八坂神社(恒持神社 御旅所)」と記載されているが、この「山田の春祭り」に関係していることもあるであろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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