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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。
所在地    埼玉県児玉郡美里町猪俣2144
御祭神    伊邪那岐命・伊邪那美命
社  挌    旧村社 旧猪俣村の鎮守
例  祭    例祭日4月15日、10月15日

       
 二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 二柱神社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
          
   高台院からの道を道なりに進むと二柱神社の一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
          
                          二柱神社 二の鳥居
 
         
                             拝    殿
 二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。

    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額             社殿の左側に並ぶ境内社

    社殿の右奥、山の斜面上にある境内社
 境内社は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等。
            
                             本    殿
           
                      拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                      美里町史より引用



猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                           案内板より引用
             
                        
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山

 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

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