古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上江田町勝神社

「江田郷」は新田庄内の郷の一で、現在の上江田・中江田・下江田一帯の南北に長い地域であった。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子の義季の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。
新田義季(にったよしすえ)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言い、父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる。
 世良田郷を支配する新田氏流世良田氏の一族に江田行義を輩出する。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされている。
 上江田地域には、鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)が住んでいた「江田館跡」があり、昭和22年に県史跡第1号として指定、さらに平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されていて、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡という。この江田館跡」の北側近くに旧村社である上江田町勝神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田上江田町1070
             
・ご祭神 (主)長佐男命 
                  (配)火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神 

                     
建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
                     ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
                          *追伸 参拝日 2023年7月26日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2988606,139.2872972,17z?entry=ttu

 中江田町矢抜神社の西側には群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通り、その県道を2.2㎞程北上する。「やすらぎ団地」交差点の一本手前の丁字路を左折して、350m程道なりに直進すると進行方向右手に上江田町勝神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「勝」と書いて「すぐる」と読む。変わった社名だ。
 社の西側隣には「すぐる公園」があり、駐車スペースもしっかりと完備されているので、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                 上江田町勝神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「上江田村」の解説
 [現在地名]新田町上江田
木崎台地の北端部とその周囲の沖積地にあり、西境を石田川が南流する。北は金井村、東は赤堀村、南は中江田村・高尾村、西は上田中村。銅山(あかがね)街道が南北に走り、当村中央で東南へ折れ木崎宿方向へ向かう。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真っすぐ南下しており、両経路の分岐点には、承応年間(一六五二―五五)頃とみられる安山岩製三面六臂の青面金剛像の庚申塔が立つ。
仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一として「えたかみしも」とみえ、庶子らいわう(義季)の母に譲られている。建治三年(一二七七)一二月二三日の尼浄院寄進状案(同文書)には「上江た」とみえる。新田義重の根本私領の一つで、世良田家流に伝領されていった(→江田郷)。世良田頼氏の一子満氏、世良田義有の子行義はともに江田氏を名乗った。
 *一九ヵ郷…「上江田・下江田・田中・小角(こすみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(高尾・たこう)」等。
        
                 南北に長い舗装されていない参道 
              参道の両側には桜の木々が数多く並ぶ。 
 上江田町勝神社の南側には「江田館跡」があり、「太田市HP・新田荘の成立と発展」には以下の記載がある。
 木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡で、昭和22年に県史跡第1号として指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。 堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二ヵ所では堀が切れ、虎口(こぐち)が造られています。堀の東辺と西辺には、「折れ」があります。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる曲輪があり、戦国時代に城郭化されたと推定されます。築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されています。鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)の館であったと伝えられ、その後戦国時代には金山城主横瀬(よこぜ)氏の家来・矢内四郎左衛門(やないしろうざえもん)が館を拡張して住んだと伝えられています。北側の土塁には、「義貞(ぎていさま)様」と呼ばれるお宮があります。この時代の平城は通常堀が埋められたり、中に建物が入ったりして形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。 
        
    参道途中右手の林に隠れて「村社勝神社合併」及び「新築落成記念碑」がある。
        
                                       拝 殿 
        
                  拝殿に掲げてある「勝神社の由来」と記してある案内板
 勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
 記
 伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
 当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
 今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。(以下略)。
                                      案内板より引用

 案内板に登場する「河野通信」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将で、伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち、その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)の奥州合戦に従軍、正治1(1199)の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)伊予への帰国に際し、守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。
 更に北条時政の婿となり、幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され、配所で没したという。
 
      境内社・柊稲荷神社             境内社・八坂神社
        
            柊稲荷神社の並びに祀られている石祠群等。中央の石塔は「大山祇神」 

「勝神社の由来」に新田家と直接関係のない河野通信の事を記しているのであろう。確かに新田義重と河野通信は同じ年代に生きた者同士ではあるが、四国・伊予国と関東・武蔵国とはかけ離れた場所に位置し、両者の関わったエピソード等も筆者が調べた限りにおいて皆無だった。
 だからといって新田家と伊予国には、特別な関係が存在することも確かであったようだ。
 元弘の乱において北条家が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が3年程で挫折し、足利尊氏を中心とする「武家方・北朝」と、天皇新政を維持しようとする「宮方・吉野朝」が60年間、熾烈を極める戦いを各地で行う南北朝時代初期、宮方の中心人物の一人であった新田義貞の元には伊予国・河野一族から土居通増・得能通綱が共に摂津等の各地で足利の大軍と戦っている。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 新田義貞戦死後、新田家は弟義助を中心として一時的に越前国を掌握したが、其の後室町幕府軍に敗れて越前から退いた。吉野の後村上天皇の行宮に参内した後、中国・四国方面の総大将に任命されて伊予国に赴く。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様で、義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、新田氏族である大館氏明を前衛として、伊予の土居氏・得能氏を指導する。一時は勢力をふるい、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとした直後、伊予国府で突如発病し、志半ばで病没した。
 義助か亡くなると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ1342(興国3)年9月、氏明は戦死をとげた。
        
                                  社殿からの風景
 新田義助の子義治は、里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようになるが、その後の詳しい消息は不明である。伝承では山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したともいい、義治を祀った「新田神社」もあるそうだ。

 南北朝時代、多くの新田氏族は北は青森、南は九州鹿児島と、日本各地に赴き、転戦を重ねていた。筆者の勝手な推測ではあるが、その一族のだれかが伊予国で河野氏との接点を持ち、故郷の新田庄に帰還した際にその話を持ち込み、武士としても縁起の良い「勝」を冠した社を建てたのではなかろうか。

 因みに新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。 


参考資料「日本歴史地名大系」愛媛県生涯学習センター 双海町誌」「Wikipedia」
    「太田市HP・新田荘の成立と発展」「境内案内板」等
   

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