古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

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