古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

簗瀬神社

 秩父郡野上郷矢那瀬地区は大きく蛇行して流れる荒川沿いの河岸段丘に位置する集落で、地名は荒川の流れの速さを「矢の瀬」と表現したことに因むともいわれている。かつて荒川に沿って秩父往還道が走り、矢那瀬集落には宿駅が置かれていた。
 同時に
このあたりは県内屈指の養蚕地帯でもあったという。
【新選武蔵風土記稿】秩父郡之六 矢那瀬村
 
産物は烟草(今でいうタバコ)・絹を第一とし、農隙には男は薪を採、女は絹太織を製して資用に給せり、御打以来御料所にて、明暦元年伊奈半十郎検地し、貢税を定む。
 
秩父一帯では江戸期から養蚕が盛んだったが、後年単に生糸を産するだけでなく、絹織物の生産までを行うようになり、秩父銘仙の産地となったという。 
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬1380
             ・ご祭神 日本武尊 天之狭霧神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 315日 秋祭り 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1329869,139.1415987,18z?hl=ja&entry=ttu  
 簗瀬神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進むと右側に緑色の屋根のあるディサービスセンターがあり、そこのT字路を右折するとほぼ正面に
簗瀬神社の鳥居と社が見える。左隣に矢那瀬集落農業センターがあり、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
        
                              簗瀬神社正面
       
                            鳥居の左側に設置されている案内板             
         
                     拝  殿
            拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもの 

 簗瀬神社御由来   長瀞町矢那瀬
1380
 ◇
割拝殿が関東では珍しい
 矢那瀬の地は
上郷・下郷に分かれ、当社は上郷の鎮守として祀られる。
 御祭神は日本武尊で尊の徳を称える里の人が弘安年中(12781288)に祀ると伝える。矢那瀬の地は北の大月山と南の金尾山が荒川岸まで迫り、また複雑な地形が濃霧を発生させる交通の難所であるため、正安年中(12991302)に天之狭霧神を併せ祀り「霧明神」とも「霧の宮」とも称した。
 元禄3年(1690)の棟札には「毘沙門天宮」と記され、社蔵されている。一間社流れ造の本殿は室町期の風を残すともいわれ、とりわけ拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもので、群馬県片品鎮座の武尊神社に同形式の拝殿がある。武尊神社の拝殿は同族や集落によって東西に分かれ祭祀を行う宮座によって生じた形式であることから、当社も古くは同様の祭祀組織のあったことが想像される。
 なお字北久保の地蔵堂には、室町時代の特徴を示す埼玉県指定有形文化財考古資料の「石幢」がある。                                   案内板より引用
 
   一間社流れ造の本殿(写真左・右)。その造りは室町期の風を残すともいわれている。
    
板張りの覆屋内には本殿を中心に左側に稲荷社、右側に三社神社が鎮座している。
         
 本殿の礎石・束石の周りのみならず、社殿の参道や階段等には緑泥石片岩が綺麗に敷き詰められている。この緑泥石片岩は三波川結晶片岩の薄く剥がれやすい特徴(片理:へんり)を利用してつくられており、樋口駅から北西約1500mのところに石材を採掘した「板石塔婆石材採掘遺跡」がある。ここの石材は「秩父青石」と呼ばれ、関東一帯で石皿や石斧、板碑として古くから使われてきたという。
       
                書家、
菅谷幽峯書きの             拝殿右側に鎮座する境内社
                  天手長男神の石碑

 
簗瀬神社の御祭神は日本武尊と共に正安年中(12991302天之狭霧神(あまのさぎりのかき)が祀られている。日本武尊は宝登山神社の御祭神でもあり、秩父地域にも白鳥伝説等ゆかりのある神であるが、天之狭霧神はあまりメジャーな神ではないので、改めて調べてみた。
天之狭霧神
古事記にのみ登場する神で、古事記ではイザナギとイザナミの孫にあたり、サギリとは霧のことで、霧に宿る神とされる。
【古事記 原文】
 此大山津見神、野椎神二神、因山野持別而、生神名、天之狹土神、(訓土云豆知。下效此)次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神、次天之闇戸神、次國之闇戸神、次大戸惑子神、(訓惑云麻刀比。下效此)次大戸惑女神。自天之狹土神至大戸惑女神、八神。
【現代語訳】
 
この大山津見(おおやまつみ)神と野椎(のづち)神の二柱の神が、山と野を分け持って、生んだ神の名は、天之狭土(あめのさづち)神、次に国之狭土(くにのさづち)神、次に天之狭霧(あめのさぎり)神、次に国之狭霧(くにのさぎり)神、次に天之闇戸(あめのくらど)神、次に国之闇戸(くにのくらど)神、次に大戸惑子(おおとまとひこ)神、次に大戸惑女(おおとまとひめ)神。天之狭土神より大戸惑女神まで合わせて八柱の神である。
                  
・古事記ではイザナギとイザナミの子とされる山の神「大山津見神」と野の神「鹿屋野比売神」との間に以下の四対八柱の神を生んでいて、その中の一柱である。
 父神である大山津見神縫い関して神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、は「大いなる山の神」という意味となる。その山と野の神である大山津見神と野椎神の二神が、山野に関係する8柱で対をなす4組の神々を生む。
・天之狭霧神、国之狭霧神は、それぞれ、あめのさぎりの神、くにのさぎりの神と読む。本居宣長は「さぎり」の「さ」を「坂」、「ぎり」を「限り」とし、これを「境界の神」としているが、ここでも「さ」を一般的な接頭辞として「霧の神」と取るのが妥当だと思われる。
*「狭霧」は現代でもそのまま使われる言葉(接頭辞「さ」+「霧」)
*話がややこしくなるが、
出雲の大国主の子孫の系譜に天狭霧神(アマノサギリ神)がいて、遠津待根神(女神)の親神として名前が挙がっている。これがイザナギとイザナミの孫として生まれた天之狭霧神かどうかは解明されていない。

 古来から矢那瀬地区周辺は山と川が複雑な地形をなしているため、濃霧がしばしば生じ、見通しが悪く、交通の難所の一つに数えられる程であったことから、災難除けとして正安年間に天之狭霧神を当社に併せ祀り、霧明神社と称したと伝えられる。
 

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野上下郷瀧野神社

 瀧野神社 御由緒 長瀞町野上下郷一二一八
 ◇荒川の滝にかかわる伝説の社
 『新編武蔵風土記稿』に「往古この所荒川の流れに、両岸岩にて狭まりし所、川瀬の中に巨岩ありて瀧となりしが、何頃にや洪水の時、此の岩破れ今は瀧なけれども、今に小名に唱ふ、瀧野社例祭九月二十九日、小名瀧上の鎮守なり、此社往古荒川の北岸にありしを、今の地に移せしと云、神職柳若狭吉田家の配下なり」と記載する。
 御祭神は日本武尊で秩父に足を踏み入れた尊の徳を称え奉斎したと伝えている。
 境には熊野神社も祀られ「おくまんさま」と呼びならわし、安産の御神徳が高いとして多くの参拝を得ている。安産を願うものは「安産帯」を受け、社頭から「底抜けのひしゃく」を借り受け、願いが成就したあかつきには「お礼」として新たな「底抜けひしゃく」と借り受けたものと合わせ納めお礼参りをしている。
 なお寛保二年(一七四二)関東各地に大洪水をもたらした水位を示した埼玉県指定史跡「寛保洪水位磨崖標」が長瀞第二小学校裏の岩肌にある。当時七月二十七日から四日間降り続いた雨の水位は十八メートルにもおよびこの付近一帯は水没したという。           
                                    境内案内板より引用

       
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷1218
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧小字瀧上鎮守
             ・例祭等 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341891,139.1217504,16z?hl=ja&entry=ttu       
 野上下郷瀧野神社は国道140号を長瀞町報告に進み、秩父鉄道「樋口駅」過ぎの集会所に車を停めて参拝を行う。社まで適当な駐車スペースがない事。またコミュニティ集会所から西へ道路沿いお歩道を歩いて進めば、一本目のT字路右側に野上下郷瀧野神社が見えるからだ。
               
               正面社号標から撮影。急勾配の階段なのがここからでも分かる。
           
 この階段は段数こそあまりないが、振り返るのが怖いほど急勾配で、見ただけでも参拝する気持ちが落ち込む程。このような階段は初めてであるし、日頃から運動不足気味な自分にとって、この社の階段は神から与えてくれた「運動と疲労」という贈り物であろうと感謝している次第だ。中央に設置されている手すりを使用して、勢いのまま休まずに踏破できたのは良かったが、帰路も同じルートかと思うと、明日以降の筋肉痛が心配だ。
*後で知ったことが、熊野神社へのコースは緩やかな道があり、そこならば道程が少し長いだけで、それほど心配する必要もなかった。
               
 階段を登り、鳥居を過ぎると真近かに社殿が目視できる。山の斜面に社を鎮座させている関係上、構造的には、社殿や境内社等並列している配置となっている。
        
                     拝 殿   
 武蔵七党は
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、その中の丹党安保氏の系列(一派)に岩田氏、白鳥氏が主に秩父郡白鳥庄を領有していた。長瀞町野上下郷に鎮座する瀧野神社は『新編武蔵風土記稿』によると、この地は秩父郡白鳥庄に属していた。
・「秩父志」「白鳥庄、属村十一.下田野、井戸、岩田、野上郷、藤谷淵、金崎、金沢、日野沢、野巻、大淵」
 この武蔵七党の活動開始時期はあくまで平安時代後期であり、それ以前に記述されている文書等にこの武士集団は関与していないことから、律令制度時期に活動した集団はどのような一派だったろうか。
 
     
       参道左側にある神楽殿          拝殿手前に設置されている案内板
 
   三笠山・御嶽皇・八海山各大神の石碑           境内社 
                      左から琴平神社・白山神社・天神社・諏訪神社
        
  
社殿東側で勾配の緩やかな参道を下がるように進と、左側に「熊野三社大神」が鎮座する。
   
        熊野三社大神              
熊野三社大神の扁額
        
                         熊野三社大神の並びには社務所がある。
 秩父郡岩田村は承平三年太政官符に「秩父郡石田牧」と見えるところから、岩田は嘗て「イシダ」と称していたという。近郊の大里郡には小園壹岐天手長男神社が鎮座しているが、この社も嘗ては「石田神社」と称していた。
大里郡神社誌 「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」
 この壹岐天手長男神社は壱岐島内に同名の社が総本社として鎮座している。
壹岐国石田郡石田郷(和名抄に伊之太と註す)
 この「石田」という地名は古代から日本海を中心とした集団として文書等に記載がある。
日本書紀垂仁天皇三十四年条 「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」
古代氏族系譜集成 「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)
 このように武蔵七党活動以前から、ある集団が九州から畿内、その後東国に移動して、移住した地に岩田、石田と命名したと考える。武蔵国北部には壱岐島由来であろう天手長男神社が多く鎮座している例もあり、岩田(石田)の地名の淵源は古く、そして集団としての活動範囲も広範囲であるといえるのではなかろうか。
                       
                                階段から眼下の風景を撮影
            
                      何故このような急勾配な斜面上に鎮座したのか

 秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を登った山腹に「寛保洪水位磨崖標」がある。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだもので、この「寛保二年水害」とは1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害で、江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害である。 
 当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事ことを地元の四方田弥兵衛・滝上市右衛門が刻んだものである。(県指定史跡)
 因みにこの石碑に刻まれた水位は現在の河床から約24mにもなり、現在の人家の一階は完全に水没する水位であり、ここから2km程度下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約198mにもなったという。
 野上下郷付近は秩父盆地に降った雨が集まる、盆地唯一の水の出口で、両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいる。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなり、寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれている。
 こうした洪水の記録を後世に絶やさずにつないでいくことが大切であり、樋口駅近郊に鎮座する瀧野神社にも水に関する地名や由緒が案内板等に残されている。

岩田神楽とは
 岩田神楽は秩父地方の主流をなす秩父神社の流れを受ける。大正3(1914)の冬、耕地総出の薪山仕事の時に「岩田でもダイダイをやってみようではないか。」との話がまとまり、神楽主任浅見幸三郎、中村楠五郎両氏を師匠として約1ヶ月間、蚕室を借りて伝授を受け、2月の天神祭に初舞を奉奏、めでたく岩田神楽が発足したと言われる。神楽の道具衣装もよく保存されている。2月と11月の大祭、315日頃の滝野神社の春祭等に奉奏する。


    

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野上下郷石上神社

 石上神社は奈良県天理市に鎮座する石上神宮を総本社にする神社で、御祭神は布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)で、社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による豊葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において当天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、武甕槌神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻遅命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 日本最古の神社の一つで物部氏の総氏神でありながら、この石上神宮は物部氏系統の神を祭神とせず、神剣・布都御魂を祀っていることは筆者にとって不思議なことである。またこの石上神宮は百済国王から送られた七支刀を収蔵していること、また古来天皇家は刀剣などを奉納したとされ、この社は膨大な武器を保管する武器庫の役目をはたしていたという。
 物部氏は当初は単に祭祀を任されただけにすぎなかった一族のようであったが、時代が進むにつれ古代ヤマト政権の中にあって武門の棟梁と呼ばれるほど強力な軍事氏族に変身していった。
 長瀞町野上下郷地域にも石上神社は存在する。この社の由緒は不明だが、嘗て日本全国にその名を轟かせた古代物部氏と長瀞地区に何か関連性があるのだろうか。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷3282
御祭神    布都御魂神
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日、10月15日
       
野上下郷石上神社は国道140号線を長瀞町方向に進み、中野上交差点を右折し、群馬・埼玉県道13号前橋長瀞線に入り、1.2km程で諏訪沢と呼ばれる荒川支流を渡ってすぐV時の逆Y字路を折り返すように右折すると、約400mほどで左側に鎮座している。社殿が3社並んで鎮座していて、中央に石上神社、左右に境内社光玉稲荷神社、同じく八坂神社が鎮座している。社殿の東側には広い空間があり、その正面に向かって右側には社務所がある。その広い空間の一角に車を停めて参拝を行った。
           
                         野上下郷石上神社正面
 野上下郷石上神社が鎮座する野上地区は秩父鉄道野上駅を中心にして集落が広がっている。この地域は荒川の河岸段丘の平坦の面が比較的広範囲に広がっている。同じ野上下郷地域でも前回紹介した諏訪神社が鎮座する地域は野上駅の北側にあり、同鉄道でひとつ前の駅である樋口駅周辺にはその平坦な空間が少なく、自然に社も狭い段丘面に石垣を組み、土台を補強し造らざるをえない地形であったこととあまりに対照的で、山を四方に囲まれた秩父盆地特有の地形であると改めて知った。
           

             拝   殿                           本   殿
 ところで野上地区の字「犬塚」には寄居鉢形城の軍用犬伝説が伝わっている。

 犬塚と犬の念仏;秩父・長瀞地区
 長瀞町野上下郷では400年以上にもわたり「犬の念仏供養」が行われていて、これには次のような軍用犬にまつわる伝説がある。
 戦国時代末期、秀吉の小田原攻めの際、北条氏康四男の氏邦は今の寄居市の荒川懸崖にあった居城の鉢形城に籠城して秀吉軍勢と最後の抗戦していた。出城との連絡に八匹の軍用犬を使っていたが、鉢形城が落城したため彼らに餌をくれる者がいなくなっても八匹の軍用犬は主人を探して走り続けた。しかし四匹は体力が衰えてしまい、渇きを潤すために沢の水を飲もうとして淵に落ち、力が尽きて溺死した。これを哀れんで地元の人が彼らを懇ろに埋葬し、彼らを弔う念仏講を作ったと謂われている。

 
    石上神社社殿左側にある光玉稲荷神社                 本殿内部

     石上神社社殿右側にある八坂神社                  八坂神社拝殿

       社殿の前方左側にある神楽殿         石上神社と八坂神社の間で奥にある境内社

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野上下郷諏訪神社

 板碑は、五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに中世に盛んに作られた供養塔であり、石板卒塔婆ともいう。本来、塔とは五重塔・三重塔などの仏塔のことだが、その後、エジプト新王朝時に、ピラミッドの代わりに盛んに造られたオベリスクのような形の先端のとがった細長い建築物のことも塔と呼ばれるようになった。この板碑は鎌倉時代は地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝・室町時代には庶民層による造立も盛んになったという。
 この板碑は北海道から九州まで日本全国に分布しているが、特に中世の関東地方で多く作られた。関東地方には4万基を数えるとされているが、その中にあって埼玉県には現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。分類上「武蔵型板碑」とも言われ、原料の石材は荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる青色を帯びている石を加工して造っているため青石塔婆とも呼ばれていている。
 寄居から国道140号線沿いにある樋口駅手前200mに国指定史跡「野上下郷板石塔婆」がある。台上高約5,37m・幅約1m・厚さ13㎝のこの塔婆は現存する青石板塔婆としては日本一の大きさであり、1928年(昭和3年)国指定史跡に指定された。
 この野上下郷板石塔婆のある道を北上すると、山の斜面上に野上下郷諏訪神社は静かに鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467
御祭神    建御名方神
社  挌    旧村社
例  祭    例大祭 3月17日

        
 野上下郷諏訪神社は国道140号を長瀞町方向に進み、「国指定史跡 野上下郷板石塔婆」と表示された看板の先のT字路を右折する。するとすぐ右側に野上下郷板石塔婆が見える。この板碑は高さ約5mの日本最大の板碑であり、地下の板の長さを加えると約7m余りの長さではないかと言われている。この野上下郷石塔婆の前の道を北に向かい、直進して長瀞小坂団地を過ぎたら右に曲がると左側にこの社の参道が見えてくる。
           
           
 傾斜地に鎮座している為であろうが、長瀞地方の豊富な石材をふんだんに使用して土台として石垣状にしているのが良く解る。また谷積みと言われる石材を斜めに使った石積み方法で積み上げているようだ。
            
 古くは諏訪大明神、仲山城のふもとにある。南北朝時代、仲山城を築いた阿仁和基保が、自ら帰依する信州の諏訪大明神を勧請したのが起源といわれる。後の鉢形城主北条氏邦も崇敬した。

    社殿前にある石段の左側にある手水舎             手水舎の奥にある案内板

 諏訪神社   所在地 秩父郡長瀞町大字野上下郷

 諏訪神社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で、正和元年(1312年)、阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられる。
 基保が没してから後、鉢形城主北条氏邦は当社を厚く崇敬し、
拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微した。
 その後、弘化元年(1844年)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っている。
 昭和五十八年三月  埼玉県
                                                                案内板より引用
            
                                拝    殿
 野上下郷諏訪神社の
拝殿の彫刻は見事なもので、時間を忘れて見入ってしまった。この拝殿の彫刻に関しての詳細な記録は現在調べても解らない。残念。
            
              拝殿向背部の見事な彫刻。社殿の再建時は色彩も見事であったろう。

 若干色彩が残っている場所もあるが、その全体像までは解らない。この彫刻は拝殿側面部にまで施されている。野上下郷地区という正直閑散とした地にこの素晴らしい社が存在すること自体、驚きという以外ない。


                 拝殿の脇障子にも細かく多彩な彫刻が施されている。

 境内社が社殿の周りに鎮座している。ほとんど詳細不明。

   社殿の右側奥にある石祠、詳細不明。         社殿の左側にある境内社、こちらも不明。

    社殿左側に境内社と共にある恵比寿様             恵比寿様と並んである社日  


 長瀞町野上地区は、荒川左岸の狭い河岸段丘上に集落が点在している。ところでこの荒川の対岸である右岸地区は岩田、金尾地区であり、金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。野上地区はその金属製造地帯に内包した地域といえる。
 またこの地域周辺には、金ケ嶽(かながだけ)、金石(かねいし)、金崎(かなさき)、金尾(かなお)など鉱石に関する地名が存在する。

 長瀞町に鎮座する宝登山神社の「ホト」は火床(ホド)、つまり溶鉱炉であり、タタラ師や鍛冶師の一大集団がその周辺に存在していた一つの証拠であろう。そしてその集団は朝鮮半島から渡来した技術者集団である可能性が高いと思われるが如何なものだろうか。

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岩田白鳥神社

 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神    菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社  挌    旧村社
例  祭    2月25日 例大祭

        
 岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
 その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。
 県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
           

    道路沿いで鳥居の右側にある案内板             白鳥神社と書かれている扁額

白鳥神社    所在地 秩父郡長瀞町大字岩田
 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。
 神社の起源は、元慶年中(八七七~八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。
 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。
 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。
 昭和五十七年三月     長瀞町
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿
 白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
 後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(
1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。

 藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
           
                              拝殿内部
           
                               神楽殿

 
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神       社殿と神楽殿の間にある2柱の石神

 社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。


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