古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下野田鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県白岡市下野田943
            
・ご祭神 天穂日命(推定)
            
・社 格 旧下野田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 410日 夏祭り 728日 二百十日 91
                 
お日待 1019
 上野田鷲宮神社から東行し、姫宮落川右岸で埼玉県道65号さいたま幸手線に合流する丁字路を右折する。その後、久喜警察署・下野田駐在所が見える「下野田」交差点の先の押しボタン信号のある丁字路を右折、400m程進んだ先を右折すると下野田鷲宮神社が見えてくる。地図を確認すると、「白岡市立菁莪中学校」の道路を挟んだ北側に位置しているようだ。
 境内は広く、敷地内にある下野田集会所(社の社務所も兼任しているようだ)周辺に駐車してから参拝を開始した。
        
                 下野田鷲宮神社正面
 白岡市下野田(しものだ)地域は、隼人堀川と姫宮落川の間にあり、北は上野田地域と複雑に交錯している。地域内には黒沼用水・笠原沼用水が流れ、南北に日光御成道が走り、県指定文化財である一里塚がある。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、古くからあるこうした交通路に沿って村落が発達してきた地であった。日勝地区に属し、『白岡町史』によれば、下野田は上野田とともに「野田村」と呼ばれていた。昔は騎西領に属し、上、下に分村したのは享保年間と考えられる。野田の意味の詳細は不詳であるが、「高燥(こうそう)の原野(土地が高く、低温の地)」の意味と考えられる。
 明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となった。
      
             社の正面近くには、案内板が設置され(写真右)、その案内板の中に
                     「女孝心」の石塔(銅左)の話も載せている。
下野田鷲宮神社
 鷲宮神社は大字下野田字宿赤砂利に位置し、祭神は天穂日命を祀ります。また、明治一〇年の創建とされる稲荷神社(祭神は倉稲魂命)を境内社として祀っています。
 当社の由緒について詳細は不詳ですが、江時代に編さんされた 『新編武蔵国風土記稿』には、「鷲明神社大光院の持、下野田村の鎮守なり」と記されています。なお、大光院は、明治年間に廃寺になっています。
 鷲明神社とは鷲宮町鷲宮神社を分社したもので、町内には上野田、岡泉、寺塚地区でも祀られています。
 境内には多くの記念碑や石塔が奉納されています。なかでも鳥居の側に建立されている天保二年(一八三一)九月銘の不二道 (富士講)の人々によって奉納された「女孝心」の石塔は、当時の民間信仰を知るうえで貴重な資料です。
石塔の右側面には、
「あしき事見る事いらす
  聞事もいわぬこえか
   すくに孝心  三志」
 と記されています。
 なお、三志とは不二道(富士講)の創始者で現鳩ヶ谷市生まれの小谷三志のことです。
 平成十五年三月 白岡町教育委員会。                   境内案内板より引用
        
                  神明系の一の鳥居
        
下野田のほぼ中央にある鎮守で、祭神は天穂日命(あめほひのみこと)。
        
                                    二の鳥居
 当社の境内には、昭和42年に地元の公民館兼社務所として「日勝農民センター」が建設されているが、この「日勝」とは白岡市の前身となった村の一つであった日勝村の村名を採ったものである。日勝村は、明治28年に岡泉・実ヶ谷・千駄野・小久喜・上野田・下野田・爪田ヶ谷・太田新井・彦兵衛の九か村が合併して成立した村で、『日勝』という名は、日清戦争における日本軍の連勝を記念し、これを永遠に銘記しようとの主旨で付けたものであるという。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社  白岡町下野田九四三((下野田字赤砂利)
 当社が鎮座する下野田は、元は隣接する上野田と共に一村であったが、江戸時代の初期から中期にかけて分村したものと思われる。地内には鎌倉街道中道が通り、また、戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写」に「武蔵州太田庄野田市」とあることから、室町時代には既に村が相応の形を整えていたものと推測できる。
 上野田・下野田は各々で鷲宮神社を鎮守として祀ってきた。下野田の鎮守として祀られてきた社が当社であるが、『風土記稿』では、下野田村の項ではなく、上野田村の項に「鷲明神社 持前に同じ(注・大光院持ち)、下野田村の鎮守なり」と記載されている。このように、当社が上野田村の項に記されているのは、上野田と下野田ではその境界が複雑に交錯し、しばしば変更もあったためで、両村の境界付近に位置する当社の境内は、『風土記稿』が編集されたころは上野田の内に含まれていたものと思われる。なお、上野田の鷲宮神社は、古くは高祖明神社と称しており、『風土記稿』にも「高祖明神社」と記されている。
 当社の創建を伝える文書などはないが、口碑によれば、鷲宮町(現久喜市鷲宮)に鎮座し、かつての太田庄の総鎮守であった鷲宮神社の分霊を祀ったものであるという。明治六年二村社となり、以後、伊勢参宮や皇紀二六〇〇年などの機会に氏子が石造物を奉納し、境内の整備を進めてきた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
   社殿の左側に祀られている境内社             社殿の右側手前には石碑二基あり
     稲荷神社・竈三柱大御神
 竈三柱大御神は、「かまど神」とも称し、竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神である。火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。竈神、久那土神とも呼ばれることがある。
 日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られ、一方、神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もあるという。
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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上野田鷲宮神社

 
        
             
・所在地 埼玉県白岡市上野田535
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧上野田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 919
 白岡市役所から埼玉県道78号春日部菖蒲線を南下し、白岡市総合運動公園が正面に見える「南中学校入口」交差点を左折する。その後、隼人堀川に架かる「赤砂利橋」を越えて160m程先にある丁字路を左折し、そのまま道なりに北上すると上野田鷲宮神社の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居のすぐ脇に駐車場らしき場所があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                 上野田鷲宮神社正面
     一の鳥居から先に朱を基調とした二の鳥居があり、その後、比較的長い参道が続く。
『日本歴史地名大系』「上野田村」の解説
 隼人堀川の左岸にあり、西は寺塚村・千駄野村、北は高岩村、東は下野田村など。飛地が彦兵衛村にある。日光御成道が南北に貫通、笠原沼用水・高岩落・姫宮落川・隼人堀川が流れる。大宮台地慈恩寺支台に位置し、地内東部の茅場は茅葺屋根の材料供給地として利用されてきた(明治一六年迅速測図)。戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄野田市」がみえる。百間(もんま)領のうち。享保(一七一六―三六)の初め頃まで下野田村と一村であった(風土記稿)。
        
                    二の鳥居
 白岡市上野田地域は、市中東部に位置する。『風土記稿』において当初は上野田村と一村であり、野田村は江戸期の元禄~享保以前は埼玉郡百間領に属していたが、享保(171636)の初め頃に分村したという。昔から下野田地域との境界が入り乱れているために、例えば、下野田の鎮守社である鷲宮神社は上野田の地域内になってしまっている。
『新編武藏風土記稿 上野田村』
 元禄改定の国図郷帳には、上下を分たず、たゞ野田村と記したれば、分村せしは近き年のことゝ見えたり、昔は岩槻城附の地なりしを、前村と同く延享四年(一七四七)一橋殿の領地に進られしといへば、もしくは此頃より上下の二村になりしにや(中略)東西凡十七町、南北十六町許、されども上下一村なりし地なれば、詳に辨別し難し、
 おおむね東・南で下野田、東で爪田ケ谷、西で寺塚、南で岡泉、北で高岩・新白岡三丁目および南埼玉郡宮代町西粂原に接している。
        
             二の鳥居を過ぎた地点での参道の様子
 社の北側一帯には「宮山団地」が都市計画的に整然と立ち並んでいる。写真でも、参道の右側は、昔からの竹林が続いているが、左側は一戸建て住宅が建っている。
上野田の地域内は、第一自治会と第二自治会に分かれ、第一自治会は、古くからの集落である宮山・西ヶ崎・上原・下原等と、戦後開発された桜丘・緑丘からなっていて、総代は旧家の五軒が世襲で努めている。それに対して第二自治会は、戦後開発された宮山団地だけであり、総代は自治会長が兼任しているという。
        
                参道をすぎた境内の様子
   
  参道の両側にある灯籠と境内社・三峰神社         三峰神社の先にあった力石
        
               境内に設置されている案内板
 上野田  鷲宮神社
 鷲宮神社は大字上野田字宮山に位置し、祭神は天穂日命、別雷命、倉稲魂命を祀ります。大正二年には字西ヶ崎の雷電神社を合祀し、同三年には十二ヶ所稲荷を合祀しています。現在の社殿は昭和五十四年に再建されたものです。
 また、境には文化二年(一八〇五)創建とされる三峯神社、同十二年の創建とされる琴平神社を境内社として祀っています。
 当社の由緒について詳細は不詳ですが、江時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、「高祖明神社」と記され、次 のような記載があります。
 高祖明神社 村の鎮守にて大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文二十三年(一五五四)の鰐口をかく、
 記載にある大光院は、明治時代に廃寺になっています。
 平成十五年三月 白岡町教育委員会                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 鷲宮神社  白岡町上野田五三五(上野田字宮山)
『風土記稿』上野田村の項に「高祖明神社 村の鎮守にて、大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文廿三年(一五五四))の鰐口をかく」と記されているように、古くは高祖明神社と称していた。この社号は、右の「天文廿三年の鰐口」(戦後、台風の際に梁(はり)から落ち現在行方不明)の銘文にも「奉掛鰐口一口 高祖明神宝前」と記されているように古くから用いられているものである。別当の大光院は本山派修験の寺院で、神仏分離により明治初年に廃寺になったが、その開山は神教といい、天文二年(一五三三)に寂している。これらのことから、社名の「高祖」は別当から察するに、修験道の開祖、役小角を指すものと思われ、当社は、大光院が役小角を讃えて創建し、後に村の鎮守として鷲宮神社を勧請したものであるか、既に祀られていた鷲宮神社に役小角の御霊を祀り込んで「高祖明神」と称するようになったもののいずれかと思われるが、推測の域を出ない。
 神仏分離の後、当社は明治六年に村社となり、銅二十七年に本殿を改築し、大正二年に字西ヶ崎の雷電社、翌三年に字十二所の十二所稲荷神社を合祀した。その後、昭和五十三年二月、火災のため本殿と神楽殿は全焼したが、翌五十四年十月に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿 
 当社の祭神は天穂日命で、氏子の間では「鷲宮町(現久喜市鷲宮)の鷲宮神社の分社である」と伝えられており、かつては「高祖明神社」と称していたことはほとんど知られていない。また、神仏分離まで別当を務めていた大光院の跡には、今もその後裔の家の住居があるが、特に当社の祭祀には関与していないという。
        
                境内から見た参道の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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野牛久伊豆神社

 野与党(のよとう)は武蔵七党の1つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡の野与庄を中心に勢力のあった武士団で「のいよ」とも呼ばれる。この党は武蔵国埼玉郡(埼玉県東部)に勢力を持つ血縁によって結ばれた武士団である。野与党は忠常の乱の首魁であった平忠常の曾孫基永が野与庄の庄司となり、野与氏を名乗ったのに始まる。
 白岡市にも野与党諸氏が蟠拠しており、前期野与党である野与氏は篠津・野牛両地域に、鬼窪氏は白岡八幡宮付近に、また後期野与党に属する南鬼窪氏は小久喜地域に、佐那賀谷氏は実ヶ谷地域にそれぞれ居館を構えていたと思われる。
 白岡市に蟠拠した野与氏が何処に居を構えたかは、ハッキリとは分からないが、篠津から野牛に向かう道を今も「野与道(のよのみち)」といい、また、「のよの家」と云われる家も残るというので、野与氏の拠点は現在の野牛地域ではないかという説もある。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市野牛652
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧野牛村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 祈年祭 120日 追花 31日 
                  お日待 
1019
 白岡市・野牛地域は市北東部に位置し、現在の市の行政区画上では篠津地区に属している。かつて江戸時代には「柳生」とも書いていたようで、柳の生えていた土地の名と考えられる。野牛は珍しい地名であるが、いつごろから使用されたかはわからないとの事だ。
 六代将軍家宣の時、当地の野牛地域は、宝永2年(1705)より新井白石の所領となり、白石は領主として「白石堀」の開削など農業基盤の整備などに多大な業績を残した。野牛の観福寺には市指定文化財である白石の肖像画が伝えられている。
        
                 野牛久伊豆神社正面
 篠津須賀神社から一旦北上し、「新白岡柴山沼線」に合流後右折、途中東北自動車道の高架橋を潜り抜けながらも道なりに2㎞程進行すると左手にコンビニエンスが見え、そこから北方向に200m程北側に野牛久伊豆神社は鎮座している。

『日本歴史地名大系』 「野牛村」の解説
 東は高岩(たかいわ)村、南は爪田ヶ谷堀川・庄兵衛(しようべえ)堀川を限る。旧日川の流路にあたり、中央部に横たわる微高地はかつての自然堤防。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九一石余・畑高一〇九石余、同藩領。ほかに野銭永二五〇文があった。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高五六五石余、反別は田方四四町余・畑方二八町九反余、ほかに新開高二二六石余、田方一七町七反余・畑方一一町五反余。
        
      鳥居の右側に設置されている「野牛久伊豆神社と新井白石」の案内板
       案内板の左側には、「朝鮮通信使奉納扁額及び下書き」の標柱もある。
 野牛久伊豆神社と新井白石
 白岡町大字野牛字舞台
 野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、 その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請(神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
 本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(一六五七~一七二五)が奉納したもので、朝鮮通信使の李礥(号は東郭)が、六代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(一七一一)に来日した際、白石のために書したものと伝えられる。
 野牛村は宝永六年(一七〇九)に、新井白石の領地となった。白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」などとよばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。またこの付近に、飢饉に備えて(貯蔵庫)を建てさせたという。そのほか当地には、白石の堅実で誠意ある領民支配を伝える話が残っている。
 平成十二年二月 白岡町教育委員会                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 野牛村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、觀福寺の持、下同じ、末社 天神 〇稻荷社 〇駒形社
 觀福寺 新義眞言宗、ヶ崎吉祥院の末 大悲山興樂院と號す、第五世良榮寬永十八年八月七日示寂とのみ傳へ、これより前のことを傳へず、本尊十一面觀音、坐像一尺餘、行基の作、又不動を安ず、弘法大師の作にて、立像、丈〇に一寸餘、鐘樓 鐘は元祿十四年の銘あり、 不動堂 阿彌陀堂 前寺の持


 久伊豆神社 白岡町野牛六五二(野牛字内舞台)
 野牛は、古くは「柳生」とも書いたといわれ、慶長六年(一六〇一)の奥州仙台(宮城県仙台市)伊達氏の鷹場に指定された。その後、川越藩領、幕府領を経て、宝永六年(一七〇九)に儒学者として著名な新井白石の領するところとなり、地内では白石の蔵屋敷の跡を示した碑が残っている。
 この、野牛の鎮守として祀られてきた神社が当社である。祭神は大己貴命である。久伊豆神社を鎮守として勧請した理由は定かでないが、一般に騎西町(現加須市騎西地区)に鎮座する玉敷神社の分霊を祀ったものと考えられている。玉敷神社は、古くは久伊豆大明神と称し、騎西領四八か村の総鎮守として信仰されていたため、騎西領内の村の一つであった野牛では、その分霊を勧請して鎮守として祀った可能性は高い。ただし、当社に関する明治以前の記録はほとんどなく、『風土記稿』野牛村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、観福寺の持、下同じ、末社天神」とあるのが最も古い記録である。
 神仏分離の後は、明治六年に村社となり、同四十二年七月に字中之宮から庚供巻神社、大正五年に字内谷から稲荷神社を合祀した。この両社は、いずれも規模の小さい無格社で、合祀後は境内社として当社に従来からあった末社と共に祀られている。また、当社の拝殿と幣殿は、老朽化が目立ってきたため、昭和五十一年四月に改築された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 この扁額には「久伊豆社 辛卯(しんう) 仲冬(ちゅうとう) 東郭(とうかく)」の文字が刻まれている。「辛卯 仲冬」とは正徳元年(1711)のことで、野牛村領主であった新井白石が朝鮮通信使応接役の功績を認められて知行を加増された年でもある。東郭とはこの時の朝鮮通信使で新井白石と親交のあった製述官の李礥(イヒョン)のことである。この扁額は欅材の1枚板に刻字されている。この書の下書きも軸装に仕立てられ代々の氏子総代宅で保管されている。
 白岡市指定文化財第51
 指定年月日 平成14126
 種   別  市有形文化財(歴史資料)
        
                    本 殿
 氏子は野牛地域全域が区域となっていて、その地内は、十二の耕地に分かれており、各耕地一名ずつ、計十二名の総代が出て神社運営を行うという。当社の祭りである31日に行われる「追花」は、豊作を祈願する祭りであるが、昔から「野牛の鎮守様は派手が嫌い」といい、総代が参列して祭典と簡単な直会をする程度で済ませている。それでも、かつては総代が甘酒を作り、参詣者に振る舞っていたが、太平洋戦争後は甘酒をやめてしまった。豊作を祈願する追花に対して、豊作を感謝する祭りである1019日に行われる「お日待」も、同様に総代が参列して祭典と簡単な直会を行う程度の行事である。ただし、お日待には前日の18日に灯籠番が境内に灯籠を飾り、夕方にはこれに灯明を入れ、当番らが簡単な祝宴をする。この時、昔は他所から素人芝居を呼んだり演芸会を開いたりしていたが、戦後はそれも行わなくなったという。
 
    本殿の奥で、南側にも鳥居が建つ。     南側鳥居の先に祀られている御嶽塚
                       三芝山・御嶽神社・八海山と刻まれている。
       
              社殿の右側に祀られている合祀社 
        左から庚供巻大明神・大黒天・稲荷神社・天満宮・五社大権現
        
                合祀社の奥に聳え立つ巨木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    「越谷市デジタルアーカイブ」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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篠津須賀神社

 須賀神社と篠津の天王様
 白岡市大字篠津字横宿
 須賀神社の起源は定かではないが、遅くとも江戸時代の十九世紀初めには祭祀されていたようである。祭神には素盞嗚尊祀られている。
「篠津の天王様」は、当社の祭礼として行われるものである。天王様とは、夏季に流行する疫病の退散を祈願したのが始まりといい、現在では五穀豊穣などの願いも込められている。 祭礼は七月十五日に近い日曜日に行われ、当社で祝詞をあげた神輿の一行が、先導—高張り提灯—神輿の順で列を組み、横宿・上宿・馬立・神山・下宿・宿の篠津各耕地内を渡御する。また、馬立を余く各耕地からは壮麗な彫刻で飾られた山車が出され、耕地内を巡行する。それぞれの山車の上では囃子が演奏される。
 山車は江戸時代末期から明治時代にかけて造られたたもので。特に横宿・宿の山車には元治元年(一八六四)の銘がある。いずれも華麗な彫刻が施され、神輿とともに町の指定文化財となっている。
 平成十年二月 白岡町教育委員会                       案内板より引用

        
              
・所在地 埼玉県白岡市篠津1834
              
・ご祭神 素戔烏尊
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 例祭・天王様 715日に近い日曜日
 篠津久伊豆神社の北方200m程の地に篠津須賀神社は鎮座している。篠津地域は白岡市の中央部に位置し、『日本歴史地名大系』による篠津村の解説によれば、「
東は爪田ヶ谷堀・庄兵衛堀で野牛・高岩・寺塚の諸村と境を画し、南は白岡村。西側を元荒川・星川、中央部を隼人堀川が流れる。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定される(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏が検地を実施(風土記稿)、田園簿によると田高四一六石余・畑高六一三石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一千八二石余、反別は田方五五町九反余・畑方八五町四反余、ほかに新開高二九〇石余、田方一四町九反余・畑方二二町八反余。国立史料館本元禄郷帳、「風土記稿」成立時にも旗本徳永領で、幕末まで同家領であったと考えられる(改革組合取調書など)」と載せている。
        
                  篠津須賀神社正面
               街中に鎮座するこじんまりとした社
 当社の氏子区域は元来大字篠津全域であったが、近年では戦後の区画整理でできた西九丁目・西十丁目の二町内も氏子区域に加わり、現在では氏子数は一千戸を越えたいるようだ。大字篠津の地域内には、上宿・横宿・宿・中妻・下宿・神山・馬立の七耕地があり、社が鎮座する横宿からは三名、他の耕地からは一名(宿と中妻は合同で一名)ずつ、計八名の総代が出て社の運営に当たるほか、各耕地から六名ずつの計四二名の当番が出て、祭事の世話に当たるという。
 篠津須賀神社の例祭である「天王様」は、神輿の渡御と全山車五台の巡行が行われる大規模な祭りゆえに、このような大人数の総代・当番が必要なのであろう。
       
        境内にある天王様の案内板(写真左・右 案内板拡大写真)
       
                    拝 殿
 須賀神社(しのづのてんのうさま)  白岡町篠津一八三四(篠津字横宿)
 当社は「篠津の天王様」の通称で親しまれている。その創建は享保十一年(一七二六)のことで、合わせて神輿が作られたと伝えられている。この神輿は、後に元治元年(一八六四)-明治二十七年(一八九四)-昭和五年(一九三〇)の三度修理が行われ、普段は本殿に奉安されている。神輿内には、享保十一年の「津嶋天王宮鎮座略記」が納められており、その伝承を裏付けると共に、尾張国(愛知県)の津島牛頭天王社から勧請されたことを物語る。
『風土記稿』によれば、当社は真言宗西光院の境内社であった。しかし、神仏分離で明治四年に西光院は廃寺となり、その後は地元の横宿耕地で管理するところとなった。ところが当社は無格社であったため、明治末期に村社の久伊豆神社に合祀しようとの動きが起こった。しかし、間もなく地内に赤痢が流行し、住民の間に「これは天王様の祟りだ」との声が高まったため、合祀は中止になり、当社はそのまま残されることに決まった。その後、昭和五十年ごろに至って、再度、久伊豆神社への合祀の計画が持ち上がったが、この時も反対の声が強く、実現には至らなかった。しかも、この計画は、逆に当社の存在を篠津の人々に再認させることにつながり、それまでは横宿だけで行ってきた当社の管理も篠津全体で行うようになった。こうして、当社は「篠津全体の神様」となり、昭和六十二年には社殿も再建された。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              拝殿上部に掲げられている扁額等
 当社の神輿は平成5年に文化財に指定されたため、これを機に氏子有志で「篠津須賀神社神輿保存会」を結成し、神輿の管理・保存に万全を期するようになった。更に、各耕地には山車があり、神輿の渡御の際には宿(中妻と合同)・横宿・下宿・神山・上宿の順(馬立は山車を廃止している)で、神輿に従って久伊豆神社の境内に入り、そこで囃子の競演を行う。大字全体で当社を祀ろうとの気運の高まりにより、昭和六十年ごろからは現在のように、毎年山車の巡行を行うようになった。
 このほか、例祭(本祭り)に合わせて、「お獅子様」の村回りもあり、午前830分ごろから、社頭でお祓いを受けた獅子頭が、上宿・宿・下宿・神山・馬立・横宿の順に巡回し、悪疫を祓う。この「お獅子様」は、現在は各耕地の集会所に各々40分ほど安置され、参拝を受けるだけであるが、昔は氏子の家々を一軒ずつ回ったものであったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
        

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下大崎住吉神社

 白岡市は、埼玉県の東部に位置し、東西 9.8km、南北 6.0km、総面積は 24.92km2ほどの東西に長い市である。1889年(明治22年)41 - 町村制施行により、上大崎村、下大崎村、柴山村、荒井新田が合併し南埼玉郡大山村が成立。その後大字下大崎・柴山・荒井新田は篠津村・日勝村と合併し、白岡町となる。大字上大崎は菖蒲町・三箇村・小林村・栢間村と合併し、菖蒲町となった。現在、この旧大山村は白岡市の中において、市東部に位置し、行政区画上「大山地区」と称されている。
 大山地区は、柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地し、下流を埋没ロームで閉ざされているため排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。柴山沼を囲む柴山、荒井新田の家々では「水塚」が築かれ、水害に備える風土が形成されてきた。この地域の水塚は、元荒川や星川側より柴山沼側に発達し、沼側の塚の方が高い傾向が見られることから、河川氾濫以上に柴山沼の内水氾濫に備えたものと思われる。
 柴山沼や皿沼周辺には「掘上田」が発達し、掘り潰れの水路は集落内まで引かれ、田畑との往復や作物の運搬などに使われていたようで、水害時にはこの舟が物資の輸送や避難に使われたという。 また、沼周辺の入会権に関する争論裁許絵図などが残されていることから、古くから、周辺各村が 利用することのできる範囲などが決められていたことがうかがえる。 特産の梨栽培が盛んな理由も、地下水位が高くみずみずしい梨がとれることによる。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市下大崎1340
             ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命) 神功皇后
             ・社 格 旧下大崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 灯籠祭り 722日 他 
 久喜IC付近で交差する国道122号線を南下し、「下大崎」交差点を左折、その後500m程先にある旧国道122号線との十字路を右折すると、すぐ左手に下大崎住吉神社の社叢林が見えてくる。
        
                 下大崎住吉神社正面
『日本歴史地名大系』 「下大崎村」の解説
 東は星川を隔てて篠津村と樋ノ口村(現久喜市)、南は元荒川を画す。中央の微高地は埋没ロームの台地、台地西側の低地は皿沼の沼沢地である。菖蒲領に属し、西の荒井新田村、北西の上大崎村(現菖蒲町)と一村であったが、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に分村した(風土記稿)。田園簿では大崎村として高付されている。元禄一〇年上野前橋藩酒井氏の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳に下大崎村とみえ高三三九石余。幕府領、旗本五家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書ともに旗本伊藤・川副・加藤の相給。化政期の家数は七五(風土記稿)。
 上記解説に載せている「皿沼(さらぬま)」は、埼玉県白岡市の下大崎地域に嘗て所在していた沼である。大山地区のほぼ中央に位置している柴山沼の東方、下大崎と荒井新田の境界付近に所在していた。
 名称は沼の底が浅く、皿状であったことに由来する。皿沼は江戸期に新田開発が開始された。井沢弥惣兵衛により1728年(享保13年)、皿沼の排水路を整備し、それまで元荒川に排水されていた流路を栢間堀(今日の隼人堀川)に排水されるよう新規に沼落堀を開削した。この農業排水路は今日では柴山沼からの沼落へと流下している。こうして皿沼新田は拓かれたが、皿沼の中央は水深があったために約30町の水面が残された。この江戸期の時点で拓かれた農地が掘り上げ田であったかは確認されていない。その後明治期になると小久喜の山崎礼助と東京府日本橋の岩波長蔵が中心となり、1881年(明治14年)に江戸期の開発時に残された沼の中央部を掘り上げ田形式による開墾・整備を開始した。しかし1890年(明治23年)の水害により土が流されてしまい、整備前の沼地の様になってしまった。
 整備事業はその後再開され、1897年(明治30年)頃に竣工した。時代は下り、1977年(昭和52年)になると埼玉県営圃場整備事業で柴山沼と同時期に圃場整備がなされ、現在掘り上げ田は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。皿沼の掘り上げ田は沼田(ヌマタ)あるいはヌマと称され、掘り潰れも同様にヌマと称されていた。掘り上げ田の用水には雨水または上田用水および柴山沼からの悪水を、沼落堀の堰(逆門)によって掘り潰れの水位を調整し、水田面に合わせ利用していた。掘り潰れの水位は逆門の堰板を調整することにより約1.5m増減した。
 周辺には縄文時代の皿沼遺跡が確認されており、1977年(昭和52年)の秋から1978年(昭和53年)の春にかけて、上記の圃場整備事業に先んじて発掘調査が実施された。この発掘調査では縄文時代中期より後期にかけての住居跡が9軒、並びに古墳時代前期の住居跡2軒など発掘された。
特に縄文時代後期の住居跡からは東北地方の土器の模様につけられた注口土器(ちゅうこうどき)が出土しており、当時の人々の交流を知る材料となっているという。
 
     鳥居に掲げてある「住吉社」の社号額      鳥居の左側に設置されている案内板
        
       鳥居を過ぎて参道すぐ左手の大杉の根元に置かれている力石二基 
       
                静まり返っている境内
『新編武藏風土記稿 下大崎村』
 皿沼 村の南にて荒井新田村と入會の地にて、廣狹錢等の事は荒井新田村にいへり、
 住吉社〇雷電社 此二社を鎭守とす、村持、
 全龍寺 禪宗曹洞派、三ヶ村長龍寺末、大崎山と號す、彌陀を本尊とせり、鐘樓 寬永五年の鐘を掛く、
『新編武藏風土記稿 上大崎村』
 上大崎村は菖蒲庄と唱ふ、古へは騎西領に屬せしと云、當村もとは上下及荒井新田を合て一村なりしを、慶長年中荒井新田を分ち、又元祿以前に上下二村に分れたり、
       
                     拝 殿
 下大崎住吉神社    白岡町大字下大崎字屋敷廻
 下大崎住吉神社は慶長元年(一五九六)に創立され、享保五年(一七二〇)に再興されたという。祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で、明治四十年(一九〇七)に天神社、琴平神社、雷電神社を合祀している。
 拝殿内には「六歌仙」、「源平の合戦」をはじめ、「神功皇后三韓征伐」、「釣舟」や「大井川渡川」、「桜花」などを描いた九点の大絵馬が奉納されている。いずれも江時代から明治時代にかけてのもので、町の指定文化財となっている。
 拝殿正面の「住吉大明神新田源道記」と刻まれた石額は、以前は鳥居に掲げられていたものである。ところが、 不思議なことに馬に乗った人が鳥居の前を通ると落馬してけがをするといったことが何度も起きるため、石額を拝殿に移し替えたと伝えられている。
 
平成十一年一月 白岡町教育委員会                                           案内板より引用
              
       拝殿前に掲示されている「下大崎住吉神社の奉納絵馬」の標柱
 下大崎の住吉神社は慶長元年(1596)の創建と伝えられる。絵馬の初見は元文4年(1739)の「釣舟」、このほか「六歌仙」「桜花」「直実と敦盛」「那須の与一」「安徳天皇入水」「神宮皇后の三韓征討」「大井川渡河」がある。拝殿内に掲げられているので、風雨の影響も少なく、絵師の手になると思われる美しい絵馬も残されていて、比較的色彩等良好な状態なものが多いという。
 種   別           市有形民俗文化財
 指定年月日           昭和55111
 
  社殿の左手隅に祀られている石祠二基        社殿右手に祀られている
   左から
稲荷大明神、庚申・稲荷神社          境内社・秋葉神社
                                                   本 殿
 ところで、地域名「大崎」の「崎」は「浦」の意味でもあり、海洋民が定住した地と考えられる。住吉神社の創建は慶長年間ではあるが、それ以前に住吉系の住民の居住地であった可能性があると筆者は推測している。
 坂戸市塚越に鎮座する大宮住吉神社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っている。この社は、かつて北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめていたという。武蔵国北部の住吉神社の総纏め的な存在であったのであろう。
       
     秋葉神社のすぐ右手にご神木の如き聳え立つヒマラヤ杉の巨木(写真左・右)

 蓮田市役所が所在する黒浜地域は、かつて奥東京湾が深く入り込み台地と谷とが複雑に入り組んだ地域で、大昔の入江のなごりで、海水がひいた時(海退)に内陸に閉じ込められてできた海跡湖である黒浜沼や、縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡である黒浜貝塚がある。この地域の南側に鎮座する黒浜久伊豆神社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられている。
『新編武藏風土記稿 黒浜村』
寶蔵院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總国に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見へたり、
一方『埼玉苗字辞典』において、篠津地域にも「勝(スグレ)」に関しての記述がある。
勝(スグレ) 同郡篠津村(白岡町)真里谷城主真里谷和泉守武定の子・勝左近将監真勝に附会す。真勝は里見義堯に召出され五千石を賜る。観音堂に「勝真元・文化九年卒・二十六歳、其先勝将監真□乱を避け篠津村住」
文化九年に亡くなった勝真元の先祖勝将監真□は乱を避けて篠津村に移住したという。
        
                  社殿からの眺め
 そもそも「篠津」の「篠」の地名由来も、本来は地形由来と思われるものの、後代に「私ノ党」、つまり秩父七党「私市党」が移住したために在地名を党名としたとも考えられる。また、源平盛衰記に「武蔵国住人篠党に河原太郎高直、同二郎盛直、生田庄を給ふ」と載せていて、この河原氏は住吉系社と非常に関連性の高い一族とみている。
 蓮田市黒浜地域と白岡市篠津地域は元荒川を通じて近距離に位置していて、共に「勝(スグレ)」の歴史の痕跡が今でも存在する。また、下大崎は星川と元荒川の間にあり、篠津地域のすぐ西側に接していて、勝一族の一派が篠津より移住した地であると筆者は愚考する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市文化財保存活用地域計画」「白岡市観光協会HP」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
   

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