古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

石田藤宮神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市石田783
             ・ご祭神 天児屋根命 藤原鎌足公
             ・社 格 旧石田、石田本郷、菅間、谷中各村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 筒粥神事 115日 春祭り 489
                  夏祭り 71415日 秋祭り 101415
 山田八幡神社から東西に通じる道路を500m程東行すると、埼玉県道12号川越栗橋線に交わる信号のある十字路に達するので、そこを右折する。その後150m程で左折すると、すぐ左手に「石田防災倉庫」が見え、その奥に石田藤宮神社の鳥居が見えてくる。
 交通量の比較的多い県道から一本外れた静かな場所に鎮座しているからか、境内一帯物寂しさも漂う雰囲気を醸し出しているが、当社に奉納される「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されていて、また、旧石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の総鎮守社でもある事からも、豊かな社叢林に囲まれた古い歴史と格式を持ち合わせている社なのであろう。
        
                  石田藤宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「石田村」の解説
 府川村の南東、入間川右岸の低地に立地。北方石田本郷村と谷中村の間に一一町余の飛地があった(郡村誌)。小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富嶋某の所領のうちとして「河越筋石田」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施されたという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三五六石余・畑高一一一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四六九石余、反別田三四町七反余・畑一三町九反余、ほかに開発分高二七石余(反別田二町余・畑八反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高四四六石余・外高二三石余、名主二名。
『日本歴史地名大系』 「菅間村」の解説
 石田村の北、入間川右岸低地に立地。同川を隔てて対岸は比企郡釘無(くぎなし)村(現川島町)。戦国期府川郷の代官を勤めた竹谷氏が当地に居住、古くは下府川と称したという(芳野村郷土誌稿)。慶長一二年(一六〇七)の河越領菅間郷地詰帳(同書)では反別田四一町余・畑二二町三反余・屋敷一町六反余。このほか慶安元年(一六四八)にも検地が実施された(風土記稿)。
『日本歴史地名大系』 「谷中村」の解説
 石田村の東、入間川古川の右岸の低地に立地。小田原衆所領役帳に江戸衆の富永弥四郎の所領として「廿五貫文 川越谷中」とみえる。戦国期府川郷代官に任じられていた大野氏が村内に居住したという(芳野村郷土誌稿)。慶安元年(一六四八)の検地帳では名請人三三名、うち屋敷持二七。二町―一町所持八 名、一町―五反所持六名、五反以下一五名(川越市史)。
               
                石田藤宮神社 社号標柱           
 不思議と石田藤宮神社は石田地域の最北端に鎮座している。当初はその位置関係が理解できなかったが、嘗て石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の鎮守社であることを考慮すれば、その地域内を総括できるこの地は絶好な位置関係といえよう。
        
                                            長い参道の先に社殿が鎮座している
 当社の創建年代は不明である。口伝によれば、かつて当地には藤の大木があり、神がその藤を愛でて下界に降臨したことから、神社を創建したという。「大正寺」が別当寺であった。大正寺は天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により周辺の14社が合祀された。しかし、これらの合祀された14社のうち2社は、1952年(昭和27年)に復祀されている。
        
        参道右側に倉庫のような建物が見えるが、これは山車庫である。
        
                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 石田村』
 藤宮社 祭神詳ならず、神體は秘して人の見ることを許さず、本地佛彌陀・藥師の二軀を安ず、當村及び石田本郷・菅間・谷中の村々、古へは府川村の八幡社を鎭守とせしが、何の頃にや當社を勸請して、今は此四村の鎭守となせり、村内大正寺の持なり、末社 辨天社 天王社
 神明社 前と同じ持、
 大正寺 天台宗、仙波中院の門徒なり、光明山遍照院と號す、本尊阿彌陀を安ぜり、
 藥師堂
 大日堂
 地藏堂 以上二宇大正寺の持、

 藤宮神社  川越市石田七八三(石田字清蔵町)
 当地は口碑によると、往古、藤の大木があり毎年一丈もの花房を付けていた。ある時、この藤の花を神が愛でてそろりそろりとこの木を伝わり降りてきた。以来、村人は社を建て藤宮と名付け祀ったという。また、村人は豊かに下がる藤の花を稲の実りに見立て古くから作神として信仰したとも伝えている。
『風土記稿』によると、この藤宮は藤宮社と記され「祭神詳ならず神体は秘して人の見ることを許さず、本地仏は阿弥陀、薬師の二体を安ず」とあるが、現在の祭神は、天児屋根命・藤原鎌足公である。
 別当は、天台宗大正寺で神仏分離まで当社を管理していたが、その後、廃寺となった。大正寺跡は現在、社殿向かって右側のゲートボール場である。
 神仏分離直後の祀職については、明治三年の社蔵銅鈴に「奉納藤宮社ムサシノクニ入間郡 石田 菅間 谷中 石田本郷 右産土中 神主府川胤代」と刻まれている。
 明治五年に当社は、石田・谷中・菅間・石田本郷の四カ村の鎮守であることから村社となり、同四一年には四カ村に祀る一四社が合祀される。その内、石田本郷の稲荷社、同境内社の天満神社は、昭和二七年に旧氏子の要望により旧地に戻され、氏子より離れた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   境内社・稲荷神社
              稲荷神社の奥には広い空間があり、今は児童公園となっているが、
                           嘗ては別当大正寺があったという

        
        境内に設置されている「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」の案内板
 筒がゆの神事(川越市指定無形民俗文化財)
 毎年一月十五日の早朝に行われる。一年の作柄と天候を占う正月の行事である。大釜に小豆一合・米一升・水一斗の割合で入れて煮、その中に十八本のヨシヅツを束ねたものを入れる。先端に団子をはさんだカユカキボウでかき回してヨシヅツを取り出し、それぞれのヨシヅツに入った米粒の数を数える。それらは大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・早稲・中手・晩稲・あわ・ひえ・木綿・芋・菜・大根・そば・雨・風・日の出来不出来を表わしている。
 ヨシヅツを取り出した後の小豆粥は、食べると虫歯ができないと言われ、参加者にふるまわれる。
 昭和四十七年二月八日指定
 石田の獅子舞(川越市指定無形民俗文化財)
 四月第二日曜日(昔は四月八日)、七月十四日、十月十四日に行われる。獅子は大獅子・小獅子・女獅子の三頭で、山の神(ハイオイ)一人、ササラッコ四人で、提灯持ちとホラ貝吹きが付く。それに笛方と歌方数名が加わる。曲目は入端・岡崎・女獅子隠し・出端などで、農作物を干すような動作で舞うことから「干し物獅子」とも呼ばれている。舞の途中で「誉め言葉」「返し言葉」のやり取りが行われるのも特徴である。
 平成十六年三月二十四日指定

 また、当社所蔵の算額は、市の指定文化財で明治四年一二月に奉納されている。これは氏子の谷中住人大野旭山によるものである。大野旭山は名を大野佐吉といい、最上流算術指南として川越城主松平斉典に仕えた。また、川越藩の宮沢熊五郎一利からも学び、川島領新川堀の河川工事などに大きな功績を残したという。
 川越市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書  石田藤宮神社の算額
 昭和四十七年二月八日指定
        
                   静かに佇む社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 
 

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山田八幡神社

 氏子の口碑によれば『八幡様は、日本武尊が東国平定の時に剣を祀ったのが始まりと伝え、昔、境内より出土した73㎝程の鉄剣を社宝としている。このころは八幡様とは呼ばずに、単に神様といっていたが、後醍醐天皇の時に宗良親王が都から逃げ延びて来られ、京都の岩清水八幡宮を合祀してから八幡様になったと伝えている。
 また、かつてこの地は武蔵野の真中であり、辺り一面広い原っぱで、当社社家は「原摂津」と称し、摂津より隠棲、志を垂れるとして、地名を「志垂」としたという。そしてこの八幡様を守る神主さんは、この地の様子から「原」と名乗ったといわれ、天長年間(824834)摂津に大洪水ありし時使者を遣ったとの口碑あり、原家はその頃の移住と考えられている』という。
 当社は今でもこの地域で一番古い神社といわれ、厚い信仰を集めている。
        
            ・所在地 埼玉県川越市山田340
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧志垂、府川村鎮守・旧村社
            ・例祭等 元朝祭 春祭り 420日 例大祭 914日 
                 新穀感謝祭 
125
        
        北山田八幡神社から東方向に400m程に鎮座する山田八幡神社
                道路沿いにある社の立看板
        
                  山田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「府川村」の解説
 高畑村の南、入間川右岸の低地に立地。府河とも書く。永禄八年(一五六五)一二月一八日の梶原政景書状(三戸文書)に「河こへのしやうふかわのかう」とみえ、「としやう」(三戸駿河守妻)は父より譲られた府川郷などを甥の政景(太田道誉の子)から安堵されている。天正五年(一五七七)に竹谷源七郎と大野縫殿助からの隠田摘発の訴により府川郷の検地が実施された。田一四町五反余(分銭七二貫余)・畠二四町二反余(分銭四〇貫余)で、給免分を引いた定納分を永楽銭で換算すると永四六貫三五三文となる。このうち検地による増分二九貫余のうちから訴えた二名に賞として五貫文を与え、かつ両名を代官職に任じ、以後年貢として四一貫余を毎年岩付いわつき城(現岩槻市)へ納入するよう命じている(同年五月二六日「北条家印判状」大野文書、同日「北条家検地書出」竹谷文書)。
『日本歴史地名大系 』「志垂(しだれ)村」の解説
 向小久保村の北、入間川と赤間川に挟まれた低平地に立地。田園簿に村名がみえ、田高一四三石余・畑高六四石余、川越藩領(幕末に至る)。検地は慶安元年(一六四八)に実施され、検地帳写(川越市史)によれば名請人二五名、うち屋敷持二〇。五町―三町所持が二名、三町―二町所持二名、二町―一町所持五名、三反以下の者一二名がいた。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二一六石余、反別田一四町六反余・畑六町九反余、ほかに開発分高一二石余(反別田八反余・畑四反余)がある。
 
  社の入口付近に設置されている案内板     参道左側に祀られている境内社・御嶽社
 山田八幡神社本殿 付元禄十年棟札一枚
 市指定・建造物
 山田八幡神社は、かつては志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・府川の十ヶ村の鎮守でしたが、江戸時代中期には、府川村と志垂村の鎮守となったといいます。
 本殿は中規模の一間社流造で、屋根はこけら葺です。全体にわたり造りは堅実で、地方色を感じさせません。装飾は蟇股・虹梁・木鼻の絵様程度で格調の高さを感じます。造営年代は棟札により元禄十年(一六九七)と判明します。また、宝暦十三年(一七六三)に板書きされた造営記録が残されています。これによれば、元禄八年正月に普請初があり、宝暦十三年にかけて屋根葺替、御宮塗替、境内の整備などの修理を行っています。修理は地元府川村や高沢町の人などが願主、川越町中店持衆二十三軒からも寄進を集めており、かなり広い信仰圏をもっていた様子がうかがえます。保守的、伝統的な造りと意匠をもった本格的な建築であり、棟札によって造営年代も判明し、川越の江戸中期を代表する神社本殿といえます(以下略)。                          
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられている参道・境内
『新編武蔵風土記稿 府川村』
 八幡社 祭神は譽田別命なり、神體は束帶銅像長一寸、鎭座の年代詳ならず、社傳に康永三年再興ありし由を云、又土人のに昔はいと全盛なる社にして、近鄕志垂・宿粒・網代・谷中・同本鄕・菅真・向小久保・比企郡角泉・當村總て十村の鎭守なりしが、中古各村に鎭守を勸請せしより、今は唯當村と志垂村の二村鎭守とせりと云、又前に出せる天正五年の文書に、神田二貫文と載たり、其頃社領もありしこと知るべし、
 末社 天神社 稻荷社
 神職原攝津 吉田家の配下なり、
 第六天社 神明社 以上二社、村内の修驗吉祥院持、
 白山社 神職原攝津持、

 
 御嶽社の先に祀られている境内社・白山社    白山社の先に鎮座する境内社・稲荷社
虫歯に悩む子供がウヅキの箸を奉納したという。
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
 八幡神社  川越市山田一四八(府川字向田町・志垂字宮下)
 当社の創建は、社記に「往古源三位頼政卿ノ奉祀セシ由俗ノ口碑ニ伝ヘリ本社ニ古器円形ノ鉄燈龍一個現存ス表面源三位頼政奉之、承安元年辛夘トアリ、其他白木椀八個アリ、文明三辛夘年三月中神主原市太夫宅舎火災ニ罹リシ時記録等灰燼ニ属セシト云フ、其後慶安元年子八月十七日松平伊豆守領主タリシ時社地二畝十七歩八幡免地先縄ヨリ除ヶ中田壱反四畝弐拾歩右同断先縄ヨリ除ヶ、屋敷壱反七畝二十六歩八幡社神主藤兵衛先ヨリ除ケトアリ三口合三反五畝三歩右ハ河越領ノ内志垂村御検地帳ニ記載アリ、往昔志垂・府川・宿粒・向小久保・石田・菅間・谷中・石田本郷・高畑・角泉ノ十ヶ村ノ鎮守タリ」とある。
 承安元年銘の鉄灯籠(高さ二五センチメートル)は現存し、また白木供椀は七個保存されている。
『風土記稿』府川村の項に「八幡社 祭神は誉田別命なり、神体は束帯銅像長一寸、鎮座の年代詳ならず、社伝に康永三年再興ありし由を云、又土人の説に昔はいと全盛なる社にして、近郷志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・当村総て十村の鎮守なりしが、中古各村に鎮守を勧請せしより、今は唯当村と志垂村の二村鎮守とせりと云(後略)」と載せる。
 現在、元禄一〇年二月の棟札と宝暦一三年に板書きされた造営記録が社蔵されている。板書には「御宮立替元禄八亥正月普請初メ願主綾部甚左衛門、御宮ぬ里替絵具細色土台石宝暦十三年未二月十三日普請初メ、御宮廻はめ板寄進川越町中西村店持衆廿三軒ニ勧化寄進、御宮前かうし戸寄進、御宮やねかや大門石橋寄進願主苻川村小沢権左衛門、御宮内ぬ里替細色願主高沢町小沢傅八願主苻川村山下清左衛門、宝暦十三年未四月十八日」とあり、今日の本殿である。
 内陣内壁は、極彩色で鳳凰に竹(笹)が描かれ、騎乗八幡神像(一〇センチメートル)及び阿弥陀三尊(三センチメートルから五センチメートル)が安置されている。
 拝殿に掲げる算額(市指定文化財)は当地の戸田新三郎高常の門人の上げたもので、三つの問題と解答を示し、六三名の門人名がある。
 明治五年に村社となり、同二八年社殿を修築し、同三四年府川の第六天社・同白山神社を合祀した。次いで明治四一年には府川の神明神社を合祀した。
 合祀した神社について、『風土記稿』に「第六天社神明社、以上二社、村内の修験吉祥院持」とあり、また白山社については「白山社 神職摂津守持」と載せている。
 祀職である原家はシマビラキとも呼ばれ、当地の草分けであり、伝えに摂津より先祖が当地に来て隠棲し、地名を志を垂れるとして志垂としたという。天長年間河内摂津に大洪水があった時に、お見舞の使者を送った口碑が残り、このころの移住であろうか。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿の奥に祀られている末社・金鶏神社

 氏子区域は、古くは志垂・宿粒・網代・谷中・石田・石田本郷・菅間・向小久保・府川・比企郡角泉の十ヶ村であった。その後、江戸時代中期に各村に鎮守が出来たために、府川と志垂の二村が氏子となる。因みに、比企郡角泉が離れて氏子であったのは、秩父の石黒某なる者が戦に敗れて落ちて来た時、祀職原家の先祖がこの地に匿ったことによるという。
 氏子の中心となる志垂と府川両村の草分け的な存在として、志垂が当社の祀職である「原家」で、府川には「府川五名(ごみょう)」と呼ばれる綾部家・長坂家・島崎家・小林家・深谷家であるという。府川村は現在川越市府川となり、志垂村は川越市北山田・南山田と変遷し現氏子区域である。この地域の氏子は古くから居住している人々であり、今日でも古い行事を残している。
・17日は七草で、各家庭では主人が早朝に畑の菜を採り「唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先にととんとん」と刻み、粥に入れて炊く。これを神棚に上げた後、皆で頂く。
・114日は「団子刺し」といい、柳・欅・梅の枝に米の粉で作った団子を刺し氏神様に上げ、家の神棚や主な場所に飾る。同時に粥掻き棒を作り、翌15日の小豆粥を掻き回し、後に苗床の水口に祀る。15日は小正月で、古くは小豆粥でこの年の豊凶や天候を占った家もあったというが、現在は詳しく知り得ない。
・111日は蔵開き。紙垂をつけたもちの木、または榊の枝を持って庭先の畑や植木場・苗間に行き、高まった土に枝を挿して米を撒いた。この日に蔵のある家では仕事始めとして蔵の戸を開く。
・3月初午は屋敷神に色紙で作った幟を立て、赤飯に豆腐・油揚げ・魚・スミツカリを供える。
・33日は女子の節句で草餅を作り、どの家庭でもお祝いする。但し5月の節句はなく、氏神様の祭りに参拝することで替えられた。今日の児童安全祈願祭に変わったものである。
・87日は七夕で蒸し饅頭を作って食べる。十五夜はす饅頭をつくるが、十三夜は行わない。
・1210日は「十日夜(とうかんや)」で、子供は藁鉄砲を作ってもらい、近所の家の周りでこれをたたき、小遣いをもらったものである。
       
               境内に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「山田八幡神社
HP」「境内案内板」等
 

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北山田八幡神社(赤城神社)


        
             
・所在地 埼玉県川越市山田2251
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧網代村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春季例祭 414日 秋季例祭 1014日 新嘗祭 125
 石原町愛宕八坂神社近くの「石原町」交差点を川越市神明町方向に進み、埼玉県道12号川越栗橋線に合流後、国道254号線との交点である「宮元町」交差点を左折する。その後、「北部ふれあいセンター」交差点を右折し、450m程北行した後、十字路を左折し、暫く進むと進行方向右手に北山田八幡神社の鳥居が見えてくる。社の東側に隣接して「北山田自治会館」があり、そこから社の境内の一隅に車両を駐車してから参拝を開始する。
        
                 
北山田八幡神社正面
 創建年代は不明、ただ当社が所蔵している厨子には「文禄二癸巳年(1593年)」と記されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。そして「山王社」から「日吉神社」に改称した。1900年(明治33年)、これまで当社は旧別当寺だった「教学院」跡地に住んだ岩田家の邸宅内に位置していたが、村社が個人宅にあるのは不適当ということから、現在地に移転した。
 1909年(明治42年)の神社合祀により周辺の6社が合祀され、その中の福田にあった村社「赤城神社」の社殿を移築し、社名も「赤城神社」に改称した。
        
                    拝 殿
 赤城神社  川越市山田二二五-一(山田字蔦木町)
 口碑によると、当社の創建は「昔、村の太郎左衛門という者が、近江国滋賀郡坂本村から日吉山王権現を勧請したことによる」という。
 当社の旧本殿の内陣に納める山王権現の厨子銘には「奉請日吉山王権現 文禄二癸巳年三月十五日 願主 武蔵国入東郡網代村中右村山王山教学院栄村」とある。
 往時、別当を務めていた教学院は、現在当社の西側にある「ホウエン」あるいは「山王様の家」と呼ばれる岩田家である。
 古くから当社は教学院の邸内に祀られていたが、明治五年に日吉山王社の社号を日吉神社と改めて村社となり、同三三年に村社が個人の屋敷内に祀られていることは問題であるとの意見があり、現在地に移転した。
 明治四二年大字福田の村社赤城神社、字落合の八坂社・頭殿社、字金山の金山社、大字向小久保 の村社八幡神社、大字宿粒の村社八幡神社を合祀した。
 合祀に伴い福田の村社赤城神社社殿を移築し、同時に社号日吉神社を赤城神社と改称の上、従来の日吉神社を当社末社とした。
 昭和三三年福田住民の要請により、赤城神社を返還し社号を八幡神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
                  境内社・日吉神社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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上寺山八咫神社

 
        
             
・所在地 埼玉県川越市上寺山4983
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧上中下寺山村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 422日 まんぐり 714
                  
秋祭り(お日待)・獅子舞 1015
 鯨井春日神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、入間川を渡り、同県道160号川越北環状線と交わる「上寺山」交差点を左折、その後450m程進んだ路地を左折した後暫し西行すると、その突き当たりで、入間川堤防が目の前の静かな場所に、上寺山八咫神社は鎮座している
        
                 上寺山八咫神社正面
 川越市上寺山地域は市北部で、平均標高16m程の入間川右岸低地に位置している。『新編武蔵風土記稿 上寺山村』項において「陸田少く水田多し、用水は小ヶ谷村より入間川を引て灌ぐ」と載せているように、地域内の大部分は田畑となっているのだが、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線周辺、及び以北には宅地化もされている地域でもある。
『寺山』という地名由来として、上記『風土記稿」によれば、天文年間(153255)頃に寺山佐渡守宗友が住していたと伝え、村名の起源ともいうが、同書は続けて「然れども其邸跡今何れの所なりや傳らず」とも載せていて、風土記稿編者にもその真偽の程は定かではないような記述となっている。
        
       鳥居の手前で、参道左側に建つ「村社八咫神社神籬聖趾」の石碑
 八咫神社の創建年代等は不詳であるが、当初は現社殿より入間川寄りの西北に鎮座していて、大正59月堤塘改修の為現社地に遷座した。小名八ツ口に鎮座していた関係で「八口神社」と称していて、このことから、出雲神話にでてくる八岐大蛇を素戔嗚尊が退治したように、八岐大蛇を入間川に見立てて、毎年氾濫する入間川を和める為、神を祀ったものであろう。信仰は氏子のみ成らず当地を治める松平伊豆守や松平大和守等の領主らの篤い保護を受け、また上中下寺山三ヶ村の鎮守として崇敬されていた。当社に奉納される「まんぐり」「上寺山の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されているという。
        
        境内は堤防が目の前にあるためか、境内は静まり返っている。
        
     参道途中にある市指定文化財である「まんぐり」「上寺山の獅子舞」の案内板
 まんぐり 
 市指定・無形民俗文化財
 七月第二日曜日(昔は七月十四日)に行われる。青竹に麦わらを束ねて巻き、これに大天狗・小天狗と呼ばれる幣束と五色の小さな幣串を飾ったボンテンを作る。
 そして、フセギの青竹二本・法螺貝・ボンテンの順で行列を組み村回りした後、入間川に飛び込んで水をかけ祈禱する。ボンテンは八咫神社境内にある石尊さまに納められる。大山信仰を基にした夏祈禱の行事である。
 昭和四十七年二月八日指定
 上寺山の獅子舞 
 市指定・無形民俗文化財
 十月第三土曜日(昔は十月二十二日)に行われる。大獅子・女獅子・中獅子の三頭の獅子を山の神(仲立ち)が先導する。これらは男子が、ささらっこは女子が演じる。曲目は、竿掛りを含み、「仲立ちの舞」「十二切の舞」などがある。途中誉め言葉がかかるのも特徴である。
 起源は不明であるが、秋元侯が藩主であった頃、竹姫の眼病平癒のために、二十一日間獅子舞を奉納して祈願したところ、たちどころに直ったため、葵の御紋の入った麻幕を下賜されたとの伝承が残されている。
 平成四年八月七日指定

 当地に伝承されている「マングリ」と「獅子舞」の運営には、年行事が当たる。年行事は親年行事(40歳位)・中年行事(25歳位)・少年行事(15歳位)に分かれ、それぞれ二名ほどが務める。村ではこの年齢層を若い衆と呼び、任期は1年で、交替はマングリの日に行う。また、年行事の仲間入りについても、この日に行うとの事だ。
 マングリは、疫病除けの行事である。これは梵天と呼ばれる数本の幣束を差した藁束に長い竹竿を通し、村を祓うものである。梵天の本体は長さ二尺六寸、直径は一尺ほどの藁束で、これに大天狗・小天狗という大きな幣束を二本立て、更に五色の小さな御幣を氏子数本分差し込んである。マングリの行事では、この梵天を担いで若い衆が八咫神社を出発し、県道沿いに村を下り、道々練ってから村境の川の中にこれを立てて祈祷する。さらにこれを八咫神社に持ち帰って境内の石尊様に納める。なお、梵天に差してある五色の御幣は疫病除けとして各家庭に配られる。
 獅子舞については、特別に歴史的な伝承ではなく氏子はササラ獅子と呼んでいる。獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三頭で、獅子舞は1014日のお日待の日に行われる。古くは、1022日の八咫神社の例祭に併せて行っていたが、農作業と川越祭りの影響で変更されたという。
       
            参道途中には日露戦〇記念碑等の石碑が建つ
     写真では一番左側にみえる石灯篭が「まんぐり」行事で登場する石尊大権現
       
                    拝 殿
 八咫神社(やつくちさま)  川越市上寺山四九八-三(上寺山字寺山)
 当社は現在入間川東岸に鎮座しているが、大正二年堤防拡幅工事前までは当地から三〇〇メートル西北の堤外に鎮座していた。古くは、社名も現在の八咫神社ではなく、八口社と称していた。 また、小字名に八ツロがあり、おそらくここが元の鎮座地かと思われる。この八ツ口というのは出雲神話の中にある素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきており、出雲の簸川を大蛇に見立てたのと同様にこの八ツロは毎年氾濫する入間川であった。社の創立も、この洪水と八ツ口の地名にかかわるもので、入間川を和めるために神を祀ったものである。
 祭神は、素盞鳴命で、神仏習合時代に本地であった准胝観音を安置している。
 現存する棟札写しのうちの一枚は永禄一二年のもので「奉修造八口大明神祈念所」とあり、別当財泉院と書かれているが、現社殿の棟札である天保三年のものには、別当が「八口山林蔵院長久寺」と記されており、祀職に変遷があったことをうかがわせる。
『風土記稿』によると林蔵院は、本山派修験で、神仏分離により廃寺となっている。次いで同四年現社名に改称しており、これは神仏分離の影響と思われるが、口碑には、神社の杜に、もと鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたという。 

                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿                本殿内部
        
             本殿奥に祀られている境内社四社合殿
             神明社・八坂神社・稲荷神社・姥神社
        
                                   社殿からの眺め

 ところで当地は江戸期、入間郡に属していて、『入間郡史 山田村上寺山 八咫神社』には次の一文が載っている。
八咫神社 村の北部にありて入間川の堤に接す。 境内広く、雑木大に繁茂せり。 素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命を祭る。 天平勝宝年中に社祠を建てたりと伝ふ。 思ふに此較的古社ならん。 八坂社、稲荷姥神祠等の末社あり。 今は指定村社也。 或は八咫神社を以て延喜式神名帳に所謂国謂地祇社に当てんとするものあり。 可なる所以を知らず」
 この項では、ご祭神が「素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命」の三柱となっている。素盞鳴尊、日本武尊」の二柱は有名な神様であるが、当初「鵬建角見命」はどのような神なのか皆目見当がつかなかった。そこで、調べてみると「賀茂建角身命」であることが判明した。
「鵬建角見命」は「賀茂建角身命」(カモタケツヌミノミコト/カモタケツノミノミコト)で別名「鴨建角身命」ともいい、この神は賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られている。
『新撰姓氏録』によると、鵬建角見命(賀茂建角身命)は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされていて、別名「八咫烏」「八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)」という。まさにこの社の名称にピッタリ符合する神様だと合点がいった次第である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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石原町愛宕八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市石原町2646
            
・ご祭神 軻遇突智命 素戔嗚尊
            
・例祭等 元朝祭 稲荷講 43日 例祭 72223
 川越市石原町地域は旧川越城下町の西側にあり、入間川と新河岸川との間の低地帯に立地している。現在新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあったという。
 途中までの経路は入間川左岸に鎮座する鯨井春日神社を参照。埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、途中入間川に架かる「雁見橋」を渡り、そのまま川越市内方向に進む。1㎞程進行した先にある「石原町(北)」交差点を右折、その後、川越児玉往還道を南東方向に450m程進んだ十字路を更に右折したそのほぼ東側に「石原町公民館」があり、その公民館南側に隣接した高台上部に石原町愛宕八坂神社は鎮座している。
        
              塚上に鎮座する
石原町愛宕八坂神社
 石原町愛宕八坂神社の祭神は、往時愛宕大権現と牛頭天王であったが、明治初年の神仏分離により祭神名を軻遇突智命・素戔嗚尊と改めた。
 当社の氏子区域は、現在の石原町一丁目・二丁目であるが、本来の氏子区域は旧小久保町と川越高沢町からなっていた。
また、当社は愛宕八坂神社となっているが、八坂神社が旧地に現存しているため、氏子としては現在も愛宕神社だけと意識し、旧来の火防の神として信仰しているという。
        
                    拝 殿
 愛宕八坂神社  川越市石原町二-六四-六(小久保字石原町)
 石原町は、川越市街北西部の町はずれに位置し、新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあった。
 新河岸川に架かる高沢橋は、城下入口の固めでもあり、これを囲むように寺社が集まっている。当社はその中の一つ天台宗高沢山妙智院観音寺内に鎮座し愛宕大権現と称していたが、安永九年の大火を機に町内中央部南側中程にある星野家に移して町の火防の神として祀り、翌一〇年袋町(現一丁目)の牛頭天王を当社の合殿とし、社号を愛宕大権現牛頭天王合殿とした。その後、当社は渡辺家を経て柊稲荷の境内へと移った。往時の祭りは、本殿を本通りに引き出し、お仮屋を設けて祭りを行い、町内中央の田んぼに舞台を掛け、老袋の太夫が石原へ婿に来ていたのを幸いに老袋の万作芝居が演じられたという。
 明治二年、神仏分離により社号を愛宕八坂神社と改称する。昭和六年、当時の総代岸仲次郎により土地が寄進され、現在地に移転した。
 なお、八坂神社は現在も旧地に残り近隣者によって祀られており、近年、同神社からは延享三年、大沢太郎左衛門の奉納による牛頭天王縁起絵巻一巻が発見され、市の有形文化財に指定されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 当社の旧鎮座地である観音寺には、県指定無形文化財となっている「ササラ獅子舞」が現在隔年である41718日の両日で行われている。この獅子舞の歴史は、慶長12年(1607)に災魔降伏・国利民福を祈って舞われたのが始まりと伝えている。記録によると、この年の閏四月から大干となり、暑気烈しく病気で倒れる者が多かったことから、この獅子舞に込める当時の人々の祈りは、切実なものがあったと思われる。
 藩主酒井忠勝は、寛永43月の例祭に城内でこの舞の最中、幕府から十万石加増の沙汰があり、代々観音を深く信仰していたとことも相まって、この獅子舞を好み、寛永11年(1634)若狭国小浜に国替えになった際に、雌雄2頭とその舞手を関東組として引き連れ、彼地に現在も続く雲浜獅子舞を残している。
             
       社に隣接している石原公民館との境に聳え立つイチョウのご神木

 
一方、一頭となった石原は、自然中絶の憂き目にあったが、宝永6年(1709)高沢町の井上家から同家の番頭が彫った雌雄二頭の獅子頭の奉納があり、舞は太田ヶ谷(現鶴ヶ島市太田ヶ谷)に習い再興された。これにちなんで今でも井上家で一庭舞われ、町内回りには鶴ヶ島市の方を向いて舞われているという。
 この獅子舞は、一人獅子舞の系統で成人男性が演じる。曲目は12切という12の部分からなり、先獅子(雄)中獅子(雌)後獅子(雄)の3頭が軍配を持った天童に誘導され、笛太鼓に合わせたササラッコ(花笠を付けた少女4人)のささらの伴奏で舞う。なかでも、2頭の雄がかみあいを繰り返しながら雌を争う場面は、最も特色ある場面である。


参考資料「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等
     

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