古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

千本木神社

 
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市南千木町22801
             
・ご祭神 五十猛命
             
・社 格 旧茂呂村下茂呂鎮守 旧村社
             
・例祭等 秋祭り(千本木龍頭神舞) 10月第2土日曜日
 伊勢崎市南千木町地域は境伊与久地域の西側にあり、広瀬川とその支流である粕川の合流地の逆デルタ上にある起伏の少ないなだらかな平坦な地である。それでも上流側である北から南への傾斜はあるようで、千本木神社が鎮座する地域北側端部は平均標高55m程であるが、南下するほどその標高は徐々に低くなり、南側境の保泉地域付近では47m程となる。
        
                  
千本木神社正面
 途中までの経路は美茂呂町飯福神社を参照。群馬県道295号境島村今泉線を南下し、伊勢崎市立茂呂小学校を過ぎた丁字路を左折、住宅が建ち並ぶ生活道路を500m程進むと右手に千本木神社が見えてくる。
 駐車場は無く、境内への乗り入れは禁止という看板があるので、正面にある鳥居のすぐ右手にある「南北千木町屋台囃子」の屋台庫の近くに駐車してから参拝を開始した。
        
                  広々とした境内
『日本歴史地名大系』 「茂呂村」の解説
 広瀬川左岸洪積台地と同右岸沖積低地に位置。北は今泉村、東は伊与久村・保泉村(現佐波郡境町)、南から西は佐位・那波郡界で、那波郡馬見塚(まみづか)村・山王道村。中世には淵名庄に属し、師・毛呂とも記された。享徳の乱当初の享徳四年(一四五五)三月二四日、岩松持国は師に陣を移し、足利成氏と連絡している(同年三月二六日「足利成氏書状写」正木文書)。同年閏四月八日、持国は北一揆の秋間氏が知行していた師郷を給付するよう成氏に申請し、承認されている(「岩松持国闕所注文写」正木文書)。また同一七年一〇月八日には広瀬川を挟んで毛呂島(もろじま)・綱取原(つなとりはら)の合戦が行われている(同年一〇月一五日「足利成氏感状写」秋田県立図書館蔵)。毛呂島は小字で残る。「松陰私語」によると、岩松家純が長楽寺(現新田郡尾島町)の松陰軒に預けようとした「新地之寺社」のなかに「淵名庄内師郷之上之目」とある。
        
                                        拝 殿
           
             正面鳥居付近に設置されている標柱(写真左・同右)
 正面鳥居付近に設置されている標柱によれば、
社のご祭神は五十猛命で、永禄三年(1560)に上杉謙信(この当時はまだ長尾景虎)が厩橋城(前橋城)攻めの折に、こちらに立ち寄り戦勝祈願をしたと伝えられているようだ。
        
           社殿の左側に祀られている境内社。詳細は不明。
 ご祭神である五十猛神(イタケルノミコト)は、日本神話に登場する神で、神祇は国津神。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。
 父である素戔嗚尊が追放された後、共に新羅に渡る。新羅には樹木の種を植えず、日本に持ち帰り、筑紫から大八洲(日本列島)の各地に播き、国土を豊かな森に変えたと伝えられていて、この功績から「有功の神(いさおしのかみ)」とも称されている。「五十猛」という名称から猛々しいイメージが強い神ではあるが、その神格は至って環境に優しい「林業」の神である。
また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある。
 五十猛命は、父である素戔嗚尊が体毛から作った杉や檜などの樹木の種を、妹神の大屋津姫命、抓津姫命と共に日本全国に植え広めたとされている。この神話は、日本列島の文明的・文化的な発展を象徴し、自然と共生する日本文化の根幹を体現していると考えられている。
        
           本殿左側に溶岩塚と共に祀られている石祠と灯籠
            その塚上に建つ「明治丗七八年戰役紀念碑」 
        
              本殿右側に祀られている石祠三基
 
  正面鳥居の右隣にある「南北千木町屋台囃子」の屋台庫(写真左)と案内板(同右)
 伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
 南北千木町屋台囃子
 平成二十五年三月二十六日指定
 南北千木町の屋台囃子は、伊勢崎市域をはじめ、群馬県から埼玉県北部地域に広く分布する参手鼓(さんてこ)と呼ばれる演目を基本とする祭り囃子である。この屋台囃子は、旧茂呂村の下茂呂と呼ばれる地域の有志が伝承してきたもので、現在は南北千木町屋台囃子保存会を組織している。
 演奏道具は、附太鼓3、大胴1、鉦2、笛1で構成される。演目は、参手鼓、武州囃子、大間昇殿、昇殿、神田丸、籠丸、鎌倉の7曲を伝承している。
 参手鼓の演目では、古くから振付で撥(ばち)を回し、特に両手の撥を回すのは、茂呂地区では、南北千木町だけである。
 七月の茂呂地区納涼祭、八月のいせさきまつり、九月の飯福神社秋祭り、十月の千本木神社秋祭りで演じており、世良田八坂神社の祇園祭(太田市)にも参加し演奏している。
 屋台は嘉永四年(一八五一)に制作されたものを所有している。
 平成二十六年十月 伊勢崎市教育委員会                    案内板より引用
        
                                   境内の様子
 茂呂の各地区に伝わる屋台囃子は、旧茂呂村の各組ごとに伝承されてきたもので、正式に指定を受けているのは、「茂呂町一丁目屋台囃子」「茂呂町二丁目屋台囃子」「南北千木町屋台囃子」「美茂呂町屋台囃子」「茂呂南町屋台囃子」を総称して市指定重要無形民俗文化財となっている。
 参手鼓は古くから伝承されてきた曲で、武州囃子は一時伝承が途絶えたが、録音や長老からの聞き取りで再現し、現在に至っている。大間昇殿と昇殿は伝承が途絶えたため、山王町から伝授され、神田丸は山王町から伝授された美茂呂町から伝授を受けている。このほか鎌倉は平成6年に馬見塚中町から、籠丸は平成12年に前橋市駒形上町から伝授を受けたように、伝承も一旦途絶えると、再興するのにも時間と労力がかかるのだと痛切に感じた次第だ。



参考資料「
日本歴史地名大系」「伊勢崎市HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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金山町御嶽神社

 
        
            
・所在地 群馬県太田市金山町4044
            
・ご祭神 国之常立神 大巳貴神 少彦名神
            
・社 格 旧無格社
            
・例祭等 歳旦祭 春祭り 49日 秋祭り 109
                 
冬至星祭り 1222
 
金山城跡本丸に鎮座している社は新田神社だけではなく、御嶽神社・梅若稲荷神社も並列して三座祀られている。御嶽神社は、明治六年(1873)創建であるが、それ以前から石祠として鎮座していた様である。現在の社殿も規模が大きく立派で、旧県社の格式を持つ新田神社より風格を感じる社だ。
 金山は奈良時代には新田(にひた)山、または小新田(をにひた)山と呼ばれ、万葉集にも二首詠まれていて、平安時代から信仰の対象となっていたようだ。
 この「金山」という名称は、古くからこの山に金属や鉱物に関わる信仰があったことを示唆され、山岳信仰や金属神の信仰が根底にあったと考えられる。現に、金山の北東部、菅ノ沢遺跡で須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっている。山岳信仰である御嶽信仰はかなり前からあった可能性はあろう。
        
           新田神社と並列して祀られている
金山町御嶽神社
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額            重厚な趣のある本殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 御嶽神社の由緒
 創立
 新田神社二代社掌青木庫次郎正績が、金山山頂の草むらにあった御嶽神社の銘がある石の祠(ほこら)と、太田市下田島の岩松新田家(県立太田フレックス高校)に祭られていた御嶽大神の社殿を請い受けて、太田市毛里田・東今泉・東金井・韮川・旧太田の信徒数百名と相計り、旧尾州(今の愛知県の西)の城主徳川従一位源慶勝公の援助に依り、明治六年九月本殿を建て同八年十一月 拝殿竣工、同十二年九月 無格社に列せられた。
 祭神
 国乃常立神(くにのとこたちのかみ)
 国の神格化である神・万物の生命活動の源の神
 神徳 国土安穩・出世成功・開運招福
 大己貴神(おおなむちのかみ)
 大国主命で大黒様、またの名を大穴年遅神・蓋原色許男神
 八千矛神・大物主命などともいう。それだけ多様な性格を持ち、霊的な力も強力。大変ハンサムで、野生的で、力強い神。六人もの有名な女神と結婚し、百八十一柱の神をつくった。
 神徳 縁結び・子授け・夫婦和合・五穀豊稷・商売繁盛
 少彦名神(すくなひこなのかみ)
 海の彼方の常世の国から光り輝いて来られた小人神
 一寸法師のルーツ、大国主命と組んで国造りの大事業を成し遂げ性格は明るくユーモラスで、豊かな技術と知線を兼ね備えた神。
 如何なる困難も克服した精神的に強い神
 神徳 医薬・酒・温泉・農業の神・病難を救って安産・育児の守護神
 祭日
 一月一日 歳旦祭
 四月九日 春祭り
 十月九日 秋祭り
 十二月二十二日 冬至星祭り(以下略)                    案内板より引用
 
           本殿左右に祀られている末社・石祠(写真左・右)
       金山町御嶽神社の左側に祀られている
梅若稲荷神社(写真左・右)
 梅若稲荷神社 由緒
 祭神 宇迦之御魂命(須佐之男神と神大市比売の子)
 本宮 京都 伏見稲荷大社
 創立 金山城と同時、本丸の東北隅に八幡宮と共に石の祠に祀られ、明治初年ここに創建された。
 その頃食用の菜と薬用に供された梅が散在し、その咲き方馥郁とした薫りにちなんで梅若稲荷と名付けられた。
 神徳 代表的な食物神で、五穀豊穣 産業興隆 商売繁盛 家内安全 芸能上達など願事は何でも可能。
                                       案内板より引用


参考資料「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
       

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金山町新田神社


        
            
・所在地 群馬県太田市金山町4044
            ・ご祭神 新田義貞公
            
・社 格 旧県社
            ・例祭等 元旦祭 建国記念祭 211日 春季例大祭 48
                 秋季例大祭 112
 群馬県太田市金山町にある新田神社は、国指定史跡「金山城跡」を大手虎口から日ノ池を進んだ先の金山の山頂にある新田金山城の実城(本丸)跡に鎮座する社である。新田神社建立の最初の動きはそう古くはなく、明治時代初期の明治6年(1873年)5月、金山山頂の金山城本丸跡に、地元有志の出願により創建の許可が下り、明治8年(1875年)に社殿が創建されたという。
 ご祭神は『太平記』の時代に清和源氏の頭領として、足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した立役者の一人である武将である新田義貞公である。金山城を築城した岩松氏が新田氏の後裔一族であること、また新田義貞がこの地出身であることから、郷土の英雄として祀られた経緯がある。
 金山町新田神社自体が、金山城跡の一角に鎮座していることから、境内には社関連の石碑・案内板等は勿論であるが、金山城に関するものも多く設置されている。
 
  参道の手前に聳え立つ大ケヤキの御神木       金山の大ケヤキの案内板
 太田市指定天然記念物
 金山の大ケヤキ
 ・指定年月日 平成21520
 ・所 在 地 太田市金山町40132
 ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地(だんち)では丘陵部〜山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ2025mの大木となります。
 本樹木は金山山頂にある、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを超えます。
 金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどと伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。
 また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。
 昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。
 平成2431
日  太田市教育委員会                     案内板より引用
 
  金山の大ケヤキのすぐ先に石段があり、登り終えた正面に神明系の鳥居が建つ(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
                    本 殿
 
     金山町新田神社・謹記               社の趣意書
 謹記
 一 ご祭神 贈正一位左近衛中将源朝臣新田義貞公
 二 ご由緒
 明治六年八月三日 栃木県知事鍋島幹神社創建を許可す
 同十三年四月八日 造営竣功

 昭和九年十二月九日 金城跡全域を文科省より名勝天然記念物として指定された。
 同五十四年五月八日 神社創建百周年記念式典が挙行され高松宮宣仁親王・喜久子妃殿下が参拝された。
 これまでに大正天皇・昭和天皇・秩父宮殿下・高松宮殿下・三笠宮殿下のご参拝を戴いて居ります。

 三 例祭
 一 月 一日 元旦祭 
 二 月十一日 建国記念祭 
 四 月 八日 春季例大祭
 十二月 二日 秋季例大祭
 初志貫徹を祈願して参拝する方が多い(以下略)                案内板より引用 
 
  境内に設置されている金山城主系図     系図の右側にある「史跡 金山城址」の標柱
 
 ご皇室の方々が腰掛けた石が展示されている。   腰掛石の右側にある社の由緒碑等
        
                金山城 天主曲輪の案内板
 天主曲輪
 本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。
 西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は、「神水」と呼ばれていた。
 廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。
 構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
 昭和五十五年三月(以下略)                         案内板より引用
        
                   境内の様子
        
           参道を戻るように進むと見えてくる一の鳥居



参考資料「太田市HP「太田観光物産協会HP「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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新田金山城跡を散策しました。

  新田金山城跡がある「金山(かなやま)」は、群馬県太田市金山町にあり八王子丘陵の東南にある標高235.8mの独立峰であります。別名「太田金山」。現在、「ぐんま百名山」に選定されています。
 金山の名は室町期から見える地名であり、1404年(応永11年)9月の『村田郷地検目録(正木文書)』に「一所、金山御神田」の記述があり、当地が信仰の対象になったことがわかります。
 この地一帯には、金山丘陵北東部から八王子丘陵南端にかけて須恵器及び瓦の窯跡群があり、亀山窯跡・辻小屋窯跡・八幡窯跡をはじめ6世紀後半から7世紀後半の窯跡支群が確認されています。推定された数は12ヵ所で、関東地方の古墳時代窯跡群の中では最大のもので、9世紀後半までの存続が認められています。
 また、万葉集には「新田山」として次の二歌が詠まれています。
 「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」(巻14-3408
 ・「白遠(しらとほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の 守(も)る山の 末(うら)枯(が)れ為(せ)なな 常葉(とこは)にもがも」(巻14-3436
 そもそも「金山」という名称自体、古代鍛冶集団との関連性もあるようで、金山の北東部、菅ノ沢遺跡で須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっています。製鉄炉は、半地下式であり、タタラによる鉄製鉄が行われていたのは、平安時代中期の10世紀頃と推定されています。金山山麓は古墳時代から平安時代にかけて全国的にも有数の窯業地帯であり、須恵器や埴輪の一大生産拠点であったようです。
        
             ・所在地   群馬県太田市金山町4098
             ・築城年   1469年(文明元年)
                         ・指定区分  国指定史跡[城館跡等]
             ・指定年月日 昭和91228日 追加指定 平成14920
 新田金山城は、金山城は文明元(一四六九)年、新田一族であった岩松家純によって築城されました。 一般的な城郭とは違い、標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城であります。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が、金山城跡の発掘調査で覆されています。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されていて、数々の城主を守り抜いてきた難攻不落の名城といわれています。
 山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けています。
 太田市と太田市教育委員会では、平成4年度(1992)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした、遺構の保存整備事業を実施しています。戦国期、「関東七名城」の一つとされていた城であり、平成18年(2006)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。
 
   駐車場付近に設置されている掲示板         金山城入口の石碑
 史跡金山城跡
 太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元年(1469)から天正18年(1590)まで「難攻不落」を誇った名城です。昭和9年(1934)に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。
 平成6年(1994)からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、発掘調査結果に基づいて、敵を“惑わす”複雑な「通路形態」の復元を目指した整備を行っています。復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に想いをかせてみてください。また、通路周辺で発見された、中世における関東の山城ではきわめて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。
 平成13年(2001)には、物見台から日ノ池までの1.4㏊の範囲における第1
期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ『石垣の城』金山城跡を、どうぞゆっくりご覧ください。
        
              入口から金山城実城方向に進みます。 
 入り口付近のみならず、至る所で岩盤が露出しています。金山の岩盤は「金山流紋岩類」と呼ばれ、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていて、金山城の石垣に利用されています。

 太田市の地形は市域の中央の東に位置する金山丘陵(最高点は金山239m)、市域の北部からみどり市・桐生市に延びる八王子丘陵(最高点は桐生市の茶臼山293.9m)とその周辺の台地・低地からなる平野から構成されています。
 金山丘陵は八王子丘陵などとともに、足尾山地から渡良瀬川の断層によって切り離された分離丘陵群のひとつであります。南北約3.8km、東西約3.1km、最高点は金山山頂の239m、平野との比高差は170190mで、複雑な山麓線を有しています。
 金山の地質は山頂を中心とした部分が新生代第三系の金山流紋岩類で、これを北から取り囲むような形で馬蹄形に中生代の足尾層群が取り巻いていまして、相対的に見ると前者が高く、後者が低くなっていて、また金山丘陵北西端には中新世の強戸礫岩層・新第三系の薮塚累層湯ノ入凝灰岩部層が分布しています。

 金山流紋岩類は流紋岩質火砕岩類で、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていまして、火砕流堆積物とは高温のマグマの砕屑物(主に火山灰や軽石)が火口から流出したもので、高温状態の砕屑粒子が熔結したものを熔結凝灰岩と呼びます。
 金山の主体部は金山流紋岩類3と呼ばれる流紋岩質熔結凝灰岩で、金山各所の石切場跡などで見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)を見ることができます。この中で、特に観音山(坂中)北東斜面の「長石(ながいし)」は有名です。かつては建物の基礎石や土木工事用の砕石として利用され、地元では「金山石(かなやまいし)」と呼ばれていたようです。
        
                                 大手虎口の見事な石垣
 金山各所の石切場跡に取れる熔結凝灰岩を利用した石垣や石敷きの通路、さらには石積みされた土塁等、あらゆる所に石を用いた総石造が特徴的な山城跡。現在、通路が石で埋め尽くされた大手虎口や南曲輪などが復元整備されています。
 
        大手虎口の脇にある月ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 
             土塁石垣(写真左)とその案内板(同右)
 
           金山山頂にある日ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 15m×16.5mの円形の池。生活用水の確保のほか、戦勝や雨ごいを行った儀式の場と考えられています。
        
 金山城は平安時代末期の新田氏が防御施設として構築したとも伝えられていますが、その歴史は文明元年(1469)に新田氏の後裔、岩松家純(いわまついえずみ)の命により築造されたことに始まったと考えられています。最初に金山城主となった岩松氏は下剋上によって横瀬氏(後に「由良」と改姓)と交代し、その後北条氏の支配となりましたが、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めによる北条氏の敗北によって、金山城も天正18年(1590)に廃城となりました。
 現在の整備は、戦国時代の後半に造られた城内を再現したものといわれていますが、山中の至るところに約120年ものあいだ落城することのなかった金山城の痕跡が、石垣や堀切、土塁として今でも残されています。



参考資料「太田市HP 金山の地形と地質」「ウィキペディア(Wikipedia)」「城跡内案内板」等                            
        

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沖野増殿神社


        
             
・所在地 群馬県太田市沖野町4751
             
・ご祭神 (主)大穴牟遅命
                  
(配)新田義重・宇迦之魂命・菅原道真・誉田別命
                                         大日霊命・大物主命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 秋季祭 1029
 反町館跡(反町薬師堂)沿いに南北に縦断する群馬県道332号桐生新田木崎線を1㎞程南下した丁字路を左折、その後周囲を田園に囲まれた静かな道を東行し、利根川水系の石田川支流である高寺川に架かる「八重橋」の手前の十字路を右折する。進行方向右手には綺麗に整備されている「沖野公園」が河川に沿って南北に広がり、更に進むと公園に隣接するように沖野増殿神社が見えてくる。ありがたいことに、社の正面入り口付近には数台分駐車できる専用スペースも完備されている。
 
           田園に囲まれた静かな沖野公園(写真左・右)
 因みにこの沖野公園には、コンビネーション遊具等の遊具のほか、健康遊具などもあり、広い芝生広場、丸太で作られた休憩場なども設置されている。また、ゲートボール場やサッカーコート、バスケットポストなど充実した施設もあり、何より明るく開放的な雰囲気が大変良い。 
        
                               沖野増殿神社正面
『日本歴史地名大系』 「沖野村」の解説
 太田市沖野地域は、大間々扇状地扇端の沖積地に位置している。北は別所、東は由良、南は西野谷(にしのや)町、西北は小金井(こがねい)各地域(現新田郡新田町)と接していて、地域の中央は「田島堀」が南北に流れている。
 応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)にみえる「奥村由良郷内」は当地に比定され、同一五年九月一五日の由良郷奥村地検目録(同文書)によれば御料所分として、田数七町九反半(うち不作一町六反)・畠数八町三反半(うち不作九反)、年貢三〇貫三四三文で在家一〇宇があり、「四郎二郎かき内」などとみえ、ほかに佃五反(年貢一貫五〇〇文)。
        
                    拝 殿
       創建や由緒等は案内版もなくインターネット等を調べても全く不明。
        但し、現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、
                                    1029日に「秋季祭典」なる祭事が行われいる。
        
                     本 殿
 
       本殿の奥に祀られている末社石祠(写真左・右) 詳細は不明。

「〇殿」という地名は、埼玉県に比較的多く点在する難解地名の一つである。熊谷市江南地方には「通殿」・「重殿」という地名があり、「通殿」は、ズードンと呼び慣らわせられ、「重殿」はジュードンといわれている。『熊谷Web博物館』では、この二つの地域名に関して、以下の解説を紹介している。
「通殿」・「重殿」
 書き表わされる文字により発音が異りますが、「通殿」と「重殿」は同様の意味を持つと考えられています。「通殿」は、塩地区の東端に当り、小江川、板井と境を接する場所で、県道熊谷・小川線が和田川を越える付近です。地形的にみると、ここは三方から流水の集中する場所です。北、西では、板井の耕地を通り抜けて来た和田川が、西・南から塩・小江川の丘陵より染み出る小川が流れ、雨水の一時に集中することもあるようです。川辺には、夜泣の激しい赤子を直す「夜泣地蔵」が建っています。「重殿」は須賀広にあり、大沼より下る用水と和田川の合流する付近に当っています。近くに「重殿」の名を持つ「重殿稲荷社」が重殿沼に面して祀られています。重殿地名の場所じたいは、江戸時代の代官田村氏の陣屋跡とされています。また、現在の小字地名に残っていない、いわば失われた地名の中に「通殿」があります。江戸時代の樋春(旧樋ノロ村)にあったことが町史調査による古文書調査から判っています。塩と須賀広に樋春を加え、旧江南町内に三ケ所の 「ズードン」地名があったことになります。
「通殿」、「重殿」は、地名辞典などによると水に関係した地名として説明されています。県内にもズードン地名が多くあり、ほとんどが江南地区のような場所を呼んでいます。表記される文字では、「通殿」・「重殿」の他に、上殿・尉殿・十殿・浄土野・頭殿と多く、これは地名の起源が古いことから様々の当て字が用られることになったと思われます。神名や信仰の正体もまちまちであることが多いようですが、古代に渡来した信仰に基づくと考えられ、溝や川、淵に関連した神やその居場所をよんだようです。
 
他の有力な説には「錠殿(鍵殿)」があります。これは奈良、平安時代に置かれた国府、郡郷の蔵を開閉する封印と鍵(印鎗:いんやく)の重要性から、印と鍵を神に祀ったのだろうといいます。河川、水路に面した場所に蔵を置くことは当時より一般的なことであり、岡部町で発掘された古代榛沢郡の正倉と推定される中宿遺跡の倉庫群の例があります。旧江南町の属していた男衾郡の蔵が周辺にあったとも考えられるかもしれません。蔵は収穫物、特に穀物を収蔵した蔵であり、穀物の神である稲荷神が結びつくことは容易なようです。新たな調査毎に、おぼろげに地名の由来が見えてきました。
        
                社殿からの鳥居方向を撮影
 今回紹介する「沖野増殿神社」に関していうと、この「増殿」は決して地域名ではなく、社の名称である。ただ、この地域周辺の地形を俯瞰するに、水上山系を源流とする利根川が、勾配の少ない沖積平野部で肥沃の大地を形成しながら、幾多の利根川支流の河川と合流する地域でもあり、一方赤城山南方の大間々扇状地扇端部にあり、扇状地特有の湧水が出現している地域でもある。




参考資料「
日本歴史地名大系」「熊谷Web博物館」「冠稲荷神社HP」等
  

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