古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古尾谷八幡神社

 古尾谷八幡神社は入間川と荒川の合流地点の南西岸の平坦地に鎮座する。当社のご祭神は品陀和気命・息長帯姫命・比売神の三柱で、旧県社の格式。江戸時代末まで別当は天台宗の灌頂院であった。元暦元年(1184)源頼朝が山城石清水八幡宮を勧請、弘安元年(1278)に当地を領していた藤原時景が社殿を再興したという(正保四年「梵鐘銘」灌頂院蔵)。古尾谷灌頂院縁由(同院蔵)によれば、貞観年中(859877)の創建で、頼朝により復興されたという。山城石清水八幡宮領の古尾谷庄の鎮守として勧請されたものとみられる。永禄四年(1561)長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を攻略する際、古尾谷氏は岩付城(現岩槻市)城主太田資正とともに上杉方の先鋒を務めたため、当社および別当灌頂院は小田原北条氏に焼打ちされ焼失した。平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた
 川越市には、平安時代初期に編集された『延喜式神名帳』に記載された神社はないが、調べてみると、古社が多数鎮座している。
 特に、江戸期には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持ち繁栄する。江戸幕府にとって北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。
 そのためか、明治維新後には一地域としては異例の三社(川越氷川神社・三芳野神社・古尾谷八幡神社)が県社に列格していた
        
            
・所在地 埼玉県川越市古谷本郷1408
            
・ご祭神 品陀和気命 息長帯姫命 比売神
            
・社 格 旧古尾谷荘総鎮守・旧県社
            
・例祭等 元旦祭 節分祭 2月節分 祈年祭 43 
                 
例祭 9月敬老の日前日 新嘗祭 1116
 初雁公園東側に面している国道254号線を南下し、「小仙波」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流し、荒川方面に3.5㎞程東行した先の「古谷上」交差点を右斜め前方方向に進路変更する。その後、通称「古谷八幡通り」を荒川沿いに進行、2㎞程過ぎた埼京線と接するトンネルを潜った先に古尾谷八幡神社は静かに鎮座している。
       
                 古尾谷八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「古谷本郷」の解説
 古谷上村の南東、荒川右岸低地に立地。北東境で入間川が荒川に合流。東は荒川を隔てて足立郡下宝来(しもほうらい)村・遊馬(あすま)村。古くは古尾谷(ふるおや)と称し、中世古尾谷庄が成立。小田原衆所領役帳に他国衆の太田美濃守資正の所領として「七百七拾六貫四百文 入東古尾谷」とみえる。中世の古尾谷庄が近世初頭の村切により当村・古谷上・久下戸(くげど)・今泉・古市場・渋井・木野目・牛子・並木・大中居・小中居・高島・八ッ島の一三ヵ村に分村したとみられる。
 嘗て川越市古谷本郷の古尾谷八幡神社周辺を「古尾谷庄」、或は「古谷庄」と唱えていた。この「古尾谷庄」は、入間川右岸の現古谷本郷・古谷上辺りを中心とする地域に比定される山城石清水八幡宮領庄園。承元四年(一二一〇)一一月二七日の武蔵国古尾谷庄年貢運上注文案(山城醍醐寺蔵「諸尊道場観集」裏文書)に「□(武)蔵国入東郡 八幡宮御領古尾谷御庄」とみえ、見布三〇〇段・上品藍摺一〇段(代准布八一段)・上品紺布五段(代准布三九段)・巻布一段・□(卒カ)駄六疋(一疋別准布二五段)・夫三人(一人別准布一〇段)の計六四一段(史料ママ)を石清水八幡宮に送進している。当時の地頭は大内惟義で、彼は預所も兼務していたのではないかとされている。
 
    正面一の鳥居の先には二の鳥居(写真左)、そして朱を基調とした三の鳥居(同右)が建つ。
『新編武藏風土記稿 入間郡古谷本郷』
 八幡社 天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に藏せり、古尾谷庄に屬せる本鄕上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎭守なり、拜殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に藏せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記錄に、五十六代淸和天皇貞觀四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勸請武州古尾谷寬永十九壬午迄七百九十一年永祿六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡竝水判土の堂を燒右八幡社頭勸請及燒失之略者依廣海記錄中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武藏國入間郡古尾谷五十石如先規令寄附訖云云とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎭座なることはしるべし、
 神寳 太刀一腰 中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にこヽへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、眞鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり、(以下略)

        
             旧県社としての風格も漂う広々とした境内
 当地には、鎌倉時代に御家人として【太平記】等に古尾谷氏が在地領主として登場する。この古尾谷氏は内藤氏流といわれ、内藤系図に「関白道長―頼高―僧覚祐―祐寛―盛遠―盛定―盛家―肥後守盛時(建長六年卒)―左衛門尉時景(弘安八年卒)―景家―景幸―義景」と載っている。また、太平記巻三十一に「観応三年閏二月、新田義宗ら西上野に兵を上げる。鎌倉足利方に古尾谷民部大輔・古尾谷兵部大輔は従う」として活躍している。この後も、古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあったという。

  三の鳥居のすぐ先で、参道に対して左側に    同じく参道に対して右側にある手水舎
        祀られている境内社・天神社
        
                    拝 殿
 古尾谷八幡神社  川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)
 当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
 社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
 元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
 正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
        
                     本 殿
 下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
 次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
 天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
 明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
 大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿に対して左側にある祭器庫等         祭器庫の右側並びに設置されている   
  写真右側には力石らしき大石が二基ある。   「古尾谷八幡神社社殿、旧本殿」の案内板
        
                 古尾谷八幡神社旧本殿
 県指定有形文化財 建造物
 古尾谷八幡神社社殿  付享保7年棟札1
 古尾谷八幡神社旧本殿 付天正5年棟札1
 古尾谷八幡神社は、貞観年間 859~877 に慈覚大師が石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられており、平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた。社殿は享保7年(1722)、旧本殿は天正5年(1577)の造営であることが棟札により判明している。
 社殿は、本殿・拝殿を幣殿でつなぐ朱塗りの権現造で、周囲には透塀がめぐらされている。本殿の内陣内に安置された内殿は黒漆塗りで、牡丹や昇竜・降竜の彫刻などが極彩色で彩られている。本殿の各所に施された極彩色の彫刻や、幣殿の大虹梁の若葉文様、細部の手法等が、棟札に記された享保期の形式を示している。地方における普通神社として典型的な建造物であり、建築年代が明らかな基準例と言える。
 旧本殿は、享保7年に社殿が建築された際に西側に移築され、末社として境内の神社が合祀された。二間社流造、見世棚造で全体を朱塗りとしている。見世棚造は正面の階段を省略した小型簡易な建築であるが、このような大型なものは大変珍しい。地垂木の反りが極めて大きいこと、頭貫の鼻を木鼻とせず肘木とすることなどは、中世の建築に見られる古い手法である。室町時代の古式を遺しており、棟札に記された造営期と一致する安土桃山期の貴重な遺構である。
 平成7317日指定 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  旧社殿の右側奥に鎮座する春日神社      春日神社の奥に祀られている護国神社
 
 本殿奥には境内社である御嶽・三島神社が鎮座       境内社・若宮神社
 
      三の鳥居の左側奥に祀られている境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
 当地の伝承されている代表的な祭りに、「母衣掛け祭り」がある。この祭りは古尾谷八幡神社915日の例祭をいうが、中心は衣母を背負った母衣背負子(ホロショイッコ)と称する子供が八幡様のお旅巡行のお供をすることにある。
 古谷本郷の上組・下組の双方から2人ずつ選ばれた小学生の男子(かつては長男)が、母衣背負子として神輿を先導する行事である。母衣は小さな背負い籠に紙花の付いた竹ひご36本を挿したものだが、籠の中には重しの石が入っているため、年少者にとっては辛いものとなる。
 母衣背負子は顔に化粧を施し、鉢巻に陣羽織という出陣衣装を着飾る。これを出す家では、かつては自宅に親類縁者を招いて祝宴を開き、衣装もすべて自前だったが、現在は公民館を「宿やど」とし、諸々の費用も地元が負担している。神社での祭典を済ませたのち、御旅所に向けて行列が出発する。天狗を先頭に4人の母衣背負子が縦一列に並び、そのあとに神輿が続く。母衣背負子は六尺棒を手にした青年2人に守られ、母衣を反転させながら「六方を踏む」動作で一歩一歩進む。一足ごとに周りから「よいしょーっ」という掛け声がかかる。200mほどの短い距離ではあるが、子どもにとっては苦行であり、元服式の意味合いをもつ全国的にも珍しい祭りといえる。
        
           境内に設置されている「
古尾谷八幡神社 略記」
        
                   境内の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
川越市HP
    「埼玉苗字辞典」「
Wikipedia」「境内案内板」等

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川越市・本丸御殿を見学いたしました。

 
        
 今回、川越氷川神社・三芳野神社の散策を行った際に、この川越城・本丸御殿を見学いたしました。
 川越城(河越城)は、武蔵野台地の北東端に位置する平山城で、長禄元年(1457年)に、上杉持朝(もちとも)の命により、太田道真・道灌親子が築城したものです。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれていました。
        
                   川越城跡正面
 
 入口正面左側には案内板が展示されている。   右側には「川越城跡」と刻まれている石碑

 現在の建物は1848年(嘉永元年)に時の藩主である松平斉典に造営したもので、武家風の落ち着いた造りが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城の中でも唯一の遺構が本丸御殿であります。埼玉県指定有形文化財に登録されています。
 かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであったといいます。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっていますが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っているとのことです。
 本丸御殿大広間が現存しているのは、東日本でも唯一で、川越城の他には高知城のみであり、城郭御殿全体でも他に二条城と掛川城だけという極めて貴重な遺構であるといいます。
        
 江戸期・藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であったといいます。
 この城の別名は、初雁城・霧隠城といい、関東七名城の1つであり、日本100名城に選ばれています。



参考資料「
小江戸川越ウエブ」「Wikipedia」等

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三芳野神社

『通りゃんせ(とおりゃんせ)』は、江戸時代に成立したと見られる日本の童謡(わらべうた)で、遊び歌として知られ、その遊戯もいう。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられている。神奈川県小田原市南町の山角天神社、および同市国府津の菅原神社と共に埼玉県川越市の三芳野神社が舞台であるという説があり、共に発祥の碑もある。
 童歌「通りゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台といわれている。元来この社は、川越城築城以前の平安時代初期の大同年間(八〇六~八一〇)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社であり、地元の方々からの崇敬も高かったのだが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれるようになった。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められていた
 しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門(現在の川越市立第一小学校の正門付近)より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。
 反対に、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。 そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まっていったという。
 筆者の子供時代にはおなじみの童謡「通りゃんせ」であり、当時は何も考えず(当たり前であるが)に童謡として、または子供の遊びとして使用していた歌であったのだが、大人になり改めて歌詞を調べてみると、様々な解釈や説がなされていて、本当の意味が分からないのは筆者だけではないと思う。そのようなモヤモヤとしてすっきりと頭に入らない歌詞を頭に思い描きながらの今回の参拝であった。
        
             
・所在地 埼玉県川越市郭町22511
             ・ご祭神 素戔鳴尊 奇稲田姫命
             ・社 格 旧三芳野十八郷惣社・旧県社
             ・例祭等 例祭 42425日 天王様 5月中旬の日曜日 
                  大祓 
630日 新嘗祭 1123
 川越氷川神社から南東方向に数百m程しか離れていない「川越城・本丸御殿」から道を隔ててほぼ東側に隣接している三芳野神社。川越氷川神社の南西側で、歩いてもそれ程遠くない場所には有名な「菓子屋横丁」があるのだが、そこに行きたい気持ちをグッと堪えながら三芳野神社に参拝に行く。川越氷川神社の参拝客の多さに比べて、三芳野神社や川越城・本丸御殿は観光客や小学校の学習教室の児童はいたのだが、全体的に落ち着いた雰囲気の中、参拝に赴けた。
        
                  三芳野神社正面
 社名である『三芳野』という名称は、平安時代中期に在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡、みよし野のさと」、また鎌倉時代の中後期に後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学である『とはずがたり』に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」という地名が川越の旧地名であったことによるという。
        
              手入れの行き届いた長い参道が続く。
 また、当社社務所に貼り着けてある「⑧そもそも、三芳野天神って」という掲示板があるが、個々には三芳野という地名の解説がされてある。
《三芳野の三は御であって神聖な意を含み、芳は吉であって〇しい状態を示し、野とは広い平地のことです。この地に、天上界から降臨した「天つ神」である、素戔鳴尊とその后神・奇稲田姫尊を祭ったことが、三芳野の天つ神の社即ち三芳野天神社です。のち菅原道真公の神霊を配祀しました。》。*〇は解読不可能な所。
 我々は「天神(雷神)」と聞くと、すぐに平安時代での菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のこと思い返してしまうが、本来の天神とは国津神に対する天津神のことであり、この「天神信仰」の原型はご皇室の祖先神が天下る時期に相当する弥生時代頃(もしかしたら縄文時代に遡る可能性もあり)の古い時代から存在していたであろうと筆者は考えている。
 
  参道中ほどに設置されている社の案内板     暫く歩くと石製の鳥居が見えてくる。
        
               参道途中の右側にある社務所
 
社務所の正面窓面に貼られている社の解説書面    初雁公園基本計画図まで張られている。
 
拝殿前で参道左側に鎮座する末社・大国主神社    参道右側に鎮座する末社・蛭子神社

 末社・蛭子(えびす)神社は、寛永二年(1625)徳川家光命により、川越城主・酒井忠勝建立。神号額「蛭子社」(川越博物館保存)裏面に享保十九年(1734)の年紀が記され末社は同形・同寸法の為、大黒社と共に、天保十三年(1842)、再建されたと考えられているという。
 一間社流造・見世棚造 
 埼玉県 指定文化財 平成四年三月三十一日 指定

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河越城并城下町』
 天神社 本丸の東の方巴堀の外にあり、三芳野天神と號す、社領二十石の御朱印を賜はる、緣起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、國中の鎭守なれば爰に勸請すと、又云中古神託ありて法華の法味に滿足するゆへ、淨土に往來して極樂自在なりとありけるゆへに、本地堂に觀音を本尊として地藏を脇立とす、後に示現の告ありて十一面觀音を本體とす、不動毘沙門を脇立とす、又深秘の神體なりとて古き銅の扇あり、其圖は左に出せり、又いつの頃か北野天滿天神を勸請して、此社内に祝ひこめり、これは北野の本地と同體なれば、かくの如く相殿として祀りしならん、大猷院殿の御時しばしば此社へわたらせ賜ひ、其次をもて御放鷹又は騎射など御覧ありしとなり、又その頃の事にや、江戸西丸御普請ありしとき、六月の初より八月の末まで御座を當城へうつされけり、其頃當社は初雁を聞の名所にて、年ごとに雁の來ることその時をたがへずと聞し召され、人を三所にわかちをかれて、終夜きかしめられけるに、例のごとく初雁北の方より飛來り、三聲おとづれて南の方へゆきしと言上しければ、奇特の事なりと仰せられけるとぞ、抑爰を雁の名所と云事は、【伊勢物語】業平中將東國へ下りけるとき武藏國入間郡三芳野の里に來りて、ある女にあはんと云ける、女の母なん藤原なりけるによりて、中將にゆるさんとて歌を讀てやる、三芳野のたのむの雁もひたふるに、君が方にぞよると鳴なる、中將のかへしに、わが方によると鳴なる三芳野の、たのむの雁をいつかわすれん、といへるによりて、當所を雁の名所といへるなり、當社の宮居はもとわづかなるつくりなりしが、大猷院殿御遊歴ののち、酒井讃岐守忠勝に仰せて、造營の事をはからせ給ふ、よりて寛永元年二月の中頃より事始ありて、同き十一月下旬に至て功を竣れり、こゝに於て同二年二月廿四日遷宮の式行はる、導師は大僧正天海なりと云、以上の
は民部卿法印道春が撰ぶ所の緣起にみえたり、別當はすなはち高松院なり、

 三芳野神社(おしろのてんじんさま)  川越市郭町二-二五-一一(川越字郭町)
 川越は武蔵野台地の東北端に位置し、荒川低地に突き出した高台のため、古くから要害の地とされ城郭が築かれてきた。特に江戸幕府は江戸城に最も近い出城として重要視し、松平伊豆守信綱は寛永一五年から慶安年間にかけて城郭の拡張整備並びに城下町の町割りを進めた。
 城は古くから初雁城ともよばれ、当社は三芳野天神と号して域内本丸近く天神曲輪に鎮座していた。当社の由緒を伝えるものに慶安二年松平信綱の奉納による『三芳野天神縁起』があり、九つの物語を絵に表している。これを要約すると次のようになる。
(一)川越の地名は、昔鷲宮明神が太刀と琴を持った男女二神を伴って、川を渡られたことに由来する。(二)「伊勢物語に載る三芳野の歌は、当所の初雁の杉を詠んだものである。(三)・(四)時代が下るにつれて、祭神も種々に変化し、奇瑞を表し、一般の信仰も高まって来る。(五)年代は不詳であるが北野の天神も合祀する。(六)・(七)・(八)当地は放鷹や騎射に適していたため、たびたび将軍が訪れ、当社への参詣もあり、初雁の物語を聞き、大変奇特だとして、寛永元年には酒井讃岐守に命じて当社を再興させる。寛永二年には、天海僧正が導師となって遷宮式を行う。(九)松平伊豆守が城主の時、神田を寄進する。
 明治中ごろの祀官熊谷直就は、この慶安縁起を基に、中世の記録類『北条五代記』『永享記』、近くは社記・神宝などの史料を駆使し“熊谷縁起” ともいえるものを、編年体で著している。
この文書によると大同年中の建立後、長徳元年武蔵国司菅原修成が北野天神を勧請(一説には長禄元年太田道灌勧請とある)、正平二四年新田左衛門尉泰氏が三芳野出陣のおり戦勝を祈願し銅製五本骨の扇を奉納する。この銅扇は『永享記』に「御神体は、銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇を絵に書たり」とある。

 長禄元年太田道真・道灌親子は古河公方方への防衛線の一環として川越城の縄張りを行い、同時に当社を城内の守護とし、別当広福寺を建て社の管理を任せ、天神を相殿に祀ったという。なお文明三年江戸城築城にあたり、道灌は喜多院鎮守日吉山王社と当社を江戸に分霊し、山王社は赤坂に、天神は平河にそれぞれ鎮祭したと伝えている。
 川越城主は時の流れに従い更迭されるが、当社は代々崇敬されて連歌・和歌の奉納もあり、また社領等の奉納により社頭の隆盛をみる。天正一八年北条氏の後を関東に入国した徳川家康は川越城を重視し重臣酒井重忠を城主とし当社へ二十石の朱印状を与えている。
 元和九年徳川家光は神鏡を奉納すると共に城主酒井讃岐守忠勝に社殿再営を命じ、二年後の寛永二年二月二四日喜多院天海僧正が導師となり遷宮祭を行う。以後幕府直轄の神社として庇護され、寛永二〇年広福寺は三芳野山高松院広福寺と改称、喜多院の末となり、明治二年廃寺になるまで別当職にあった。
 明暦二年川越城拡張に伴い、江戸城二の丸東照宮空宮を当社から南の田郭門外に移築、天神外宮を造営し一般の参拝を許した。
 明暦以後も寛文一一年から弘化四年の大修復に至るまで一四回の修理が行われる。当社が今日の姿となったのは明暦二年の修営によると伝え、社殿は権現造りの形を取り、現在、県指定文化財となっている。
 寛永二年以来幕府の庇護を受けてきた当社は大政奉還、廃藩置県等の煽りを受けて後ろ盾を失い、城内建造物も明治四年ごろから順次取り壊しが始まり、別当高松院も廃され、当社と共に城内に鎮座していた八幡宮も当社へ合祀し、社名も「三芳野神社」と改称し、明治四年郷社となり二年後には県社となる。この段階で主祭神は素戔鳴尊・奇稲田姫命、配祀神に菅原道真公、合祀神を誉田別命と定められる。
 また、川越市西方的場にも三芳野天神が祀られている。この社は的場山法城寺の域内にあり、寺縁起によると、寺は三芳野天神・若宮八幡の別当を務め正観音を安置し、三芳野塚の麓にある的場は本来三芳野と呼ばれて三芳野塚、三芳野池と呼ぶ名が残り『伊勢物語』にいう三芳野はこの地であると記す。『風土記稿』には「境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、此神体を中頃今の川越城中へ移す」とある。『川越歴史小話』は「的場の地が三芳野の里をさし、平安末期三芳野塚上に天神を勧請三芳野天神と称した。中世、太田道灌は川越城築城に当り域内天神社を移す一方、的場には渡唐天神の神体が祀られた」としている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
 拝殿脇に設置されている「三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社付明暦二年の棟札」の案内板
        
                    本 殿
        
                落ち着いた雰囲気のある社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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川越氷川神社

 川越市は、埼玉県の中央部よりやや南部、武蔵野台地の東北端に位置し、109.13平方キロメートルの面積と35万人を超える人口を有する都市である。遠く古代より交通の要衝、入間地域の政治の中心として発展し、平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となり、江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
 江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市でもある。
 埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったため、明治期の廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。埼玉県成立後で、大正111922)年には埼玉県内で初めて市制を施行し、昭和301955)年には隣接する9村を合併し現在の市域となる。
 因みに「川越」という地名は、古来より諸説ある。川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
        
             ・所在地 埼玉県川越市宮下町2113 
             ・ご祭神 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命 脚摩乳神 手摩乳神
             
・社 格 旧川越総鎮守・旧県社
             ・例祭等 例大祭 10月第3土・日曜日 他 
 川越市を左右に分断するように南北に走る国道254号線の「氷川町」交差点を右折し、埼玉県道51号川越上尾線を西南方向に進行、新河岸川に架かる「宮下橋」を越えると、そのすぐ先に川越氷川神社の朱色の大鳥居が見えてくる。地形を確認すると、武蔵野台地の東北端、入間川及び荒川低地に半島状に突き出た川越支台上に鎮座しているという。
        
             まずは南側の正面鳥居から参拝を開始する。
       参拝日は「川越祭り」前の14日で、街中に紅白の垂幕が飾ってあり、
           祭りのムードが徐々に高まっている時期といえよう。
        
                   南側正面鳥居
新編武蔵風土記稿』では「河越城并城下町」の一字である「宮ノ下」にて社を載せている。
『新編武蔵風土記稿 河越城并城下町 宮ノ下』
 宮ノ下は城北の屋敷町の東の端を云、こゝに氷川社ある故にこの地名あり、これも十町の外なり、
 氷川社 祭神は五座素盞嗚尊・寄稻田姫命・大國主天神・脚摩乳神・手摩乳神今は手摩乳神を除きて四座なり、人皇三十代欽明天皇卽位八年辛酉の秋、當社氷川を勧請すと云と、いかゞはあるべき、例祭正月十五日・九月十五日行はる、中にも九月は十日より氏子のもの、よりつどひて頗るにぎはへり、昔は田樂・角力などを興行せしが、慶安元年より神輿をわたし同四年より萬度をいたし、又屋臺など云ものを大路をわたすとなり、元祿の後は彌さかりにして、上五町、下五町とわかち、きそひて種々の造物を出し、祭禮終りて十六日に至れば、各町々にて踊り舞ふことあり、これを俗に笠脱と云、これらの故事今に至るまでかはらず、當社古より始終おとろへずして、神徳さかりなりしにや、昔太田道灌沙彌當社に在城せし頃、社頭にまふでてよめる歌の詞書に、氷川の社に奉納の和歌をすゝめられて、老らくの身をつみてこそ武藏野々、草にいつまで殘るしら雪、
 神輿藏、神樂殿、供所 末社 天王社 三峰社 子權現社 天神社 八幡社 春日社 疱瘡神社 稻荷社 山王社 雷神社 人丸社 神職山田伊織 吉田家の支配なり、
  鳥居を過ぎたすぐ右側に設置されている      案内板のすぐ先にある手水舎
  「川越氷川祭の山車行事」の案内板
        
                    拝 殿
 境内には、平日にも関わらず、通常の参拝客の他に、七五三の宮参りの御家族も多数見られた。当社のご祭神は、「素盞嗚尊」「奇稲田姫命」と夫婦の神様を祀っていることから、昔から縁結びに御利益があるといわれている。最近では縁結びのパワースポット、恋愛パワースポットとして有名なのだそうだ。なお、カップルでお参りするとより幸せになるといわれている。

 氷川神社  川越市宮下町二-一一-三(川越字宮下町)
 創建については、氾濫を繰り返し幾度も流れを変えて来た入間川を畏怖するとともに神聖視し、出雲の簸川にこれを見立て大宮の氷川神社より勧請したものと伝える。正徳年間の『氷川大明神縁起』には「人皇三十代天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)即位八年辛酉之秋」に「入間之河中与利異晃夜々照ル」とあり、これは「当国足立郡之氷川大明神之為霊光」と人々は恐れ畏み、一社を設けて年ごとの祭事を行い、ここを里宮と定めたと伝えている。
 祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫尊・大己貴尊・手摩乳尊・脚摩乳尊の五柱である。神像は正徳年間町年寄榎木家より奉納された。
 中世に入ると長禄元年当地の要害を利用して太田道真、道灌父子の手により川越城が築城された。(中略)
 天文六年、川越城をめぐって一北条氏と上杉氏の間で、川越合戦が行われたことが『河越軍記』に記されている。この軍記に、当時の氷川神社の信仰を知ることができる記事があり「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり、則人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」とある。これにより、当時すでに川越の総社であったことが知られる。
 天正一八年、徳川家康関東移封以来川越城は江戸城の備えとして重要な位置を占め、歴代の城主も幕府の重職が当たり、また、これらの城主は川越の総社として当社を崇敬し、代替りごとに社参して太刀や白銀などを奉納した。なお、毎年、元旦は奉幣の儀が行われ、神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としている。
 社領については、文禄四年川越城主酒井与七郎忠利、慶長六年本多形部左衛門、寛永一八年老中松平伊豆守信綱、元禄元年松平信輝と次々に寄進状が発給され、社禄一五石二斗六升、社地四反三畝十歩は、歴代の城主に安堵されている。このほか、家中並びに町方氏子より寄進された水田一町五反八畝四歩を所有していた。(中略)

 明治六年には郷社となり、同四一年神饌幣帛料供進社に指定され、大正一二年には県社に昇格した。
*「埼玉の神社」による川越氷川神社の由緒は、あまりにも長すぎるので、ブログの字数制限の関係で、省略する所あり。
        
    南側鳥居の左側にある神札授受所の北側に隣接して祀られている柿本人麿神社
 この社は「埼玉の神社」によると、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家の遠祖柿本人麻呂を祀っている。社殿は、寛永年間に堀田正盛の手により修覆されたと伝え、更に宝暦二年には、川越在住の文人たちにより再建される。神像は吉野朝の歌人であり、彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。また、宮形厨子は明治初期の工芸家柴田是真の作である。頓阿上人は、人麻呂像百体を刻んで住吉神社に奉納したといわれ、当社の神像はこの内の一体と伝える。文久二年、神像は盗難にあったが盗人は急に眼がくらんで動けず田の中にひれ伏したといい、危うく難を逃れた。祭典は、四月一八日が人丸忌に当たるとして、綾部一族が集まって氏神祭りを行うという。
        
            柿本人麿神社の北側並びにある神楽殿(舞殿)
        
                  拝殿の左側に鎮座している境内社・八坂神社
        
                 八坂神社社殿の案内板
 県指定・建造物 八坂神社社殿
 八坂神社社殿は寛永十四年(一六三七)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となったので明暦二年(一六五六)川越城内三芳野神社の外宮として移築された。
さらに明治五年(一八七二)現氷川神社の境内に移され八坂神社社殿となった。この社殿平面は凸字型であって、屋根は銅版本葺入母屋造、建坪六坪八合(二二・四八㎡)、拝殿の部分は桁行二間、梁間三間と細長く突出た平面である。建立の当初は相当の規模であったものを明暦の移築の際縮小したものとおもわれる。内陣格天井の天井板にある草花の絵は江戸初期のものであり、各斗栱などよく当初の木割を示している。江戸城内の宗教的建造物の遺構としては、全国唯一のものとして、その歴史的価値が高く評価されている。(以下略)

          本 殿               「氷川神社本殿」の案内板
 本殿は、川越城主松平斉典を筆頭として、同社氏子の寄進によって天保十三年(一八四二年)に起工され五ヶ年の歳月を要して、建立されたもので、間口十三尺五寸(四・〇八m)・奥行八尺二寸(二・四八m)の三間社・入母屋造で前面に千鳥破風及び軒唐破風の向拝を付した銅瓦ぶきの小建築であるが、彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。構造材の見え掛りは五〇種におよぶ地彫が施され、その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、十ヶ町の山車から取材した彫刻や、浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。県指定・建造物

 社殿左側奥には、「絵馬参道」と呼ばれる沢山の絵馬が飾られている。(残念ながら写真に納めていない)その絵馬の更に奥には数多くの末社が祀られている。南側から北側へと並んで祀られている社をざっくりと紹介する。
 
 左から稲荷神社・日吉神社・加太栗嶋神社       松尾神社・馬頭観音石碑・〇・八幡神社・〇
          菅原神社                 小御嶽神社石碑   
       稲荷神社・春日神社         子ノ権現社・疱瘡神社・厳島神社・〇・〇
        
                    水神社・嶋姫神社・雷電神社・江戸町三峰神社 
        
                          社殿の右側奥に祀られている護国神社
       
        本殿右側奥に聳え立つ樹齢約600年の欅の御神木(写真左・右)
 ご神木の傍にある案内板によると、平成23年9月に関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、ご神木の幹先10m程の部分が倒壊した。がこの倒壊した部分は、奇跡的に傍らの本殿等や参拝者を傷つけることなく、神社裏の細い参道に横たえたとの事だ。
       
         大鳥居のある境内南側にもご神木が屹立している(写真左・右)
       
          境内東側境内入口にある木製15mの巨大な明神型の鳥居



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「川越市HP」「川越氷川神社公式サイト」
    「Wikipedia」 「境内案内板」等
           

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道地稲荷神社

 加須市旧騎西町は、県東部水田地帯の一画に在り、埼玉古墳群の地に近く、早くから開発されていた事が推測される。中世には武蔵七党の一派で「私市党」(キサイ又はシノ)の根拠地となった町であるが、戦乱に因り「野与党」の支配となり、「私市党」は衰えて、忍・熊谷方面にその勢力を留め、騎西町には、「私市城」と書く城名を残す城跡を留めている。
 ところで「野与党」も武蔵七党の一つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団である。この党が播拠した地域は、武蔵国騎西郡と云われた、埼玉県東部地域で、北は埼玉郡の内、旧騎西町より南埼玉郡全域を含む八潮市迄の細長い挟狭な地域である。西側の境は、元荒川の上流、騎西町より・菖蒲町下栢間より分岐下流は、綾瀬川を境として東京都迄足立郡に接する。
 野与党系図には、騎西町の内・道智・道後・多賀谷・多名(種足)・高柳等の地名を苗字に冠した人々の名が出て来る。
 道智氏は、桓武平氏の始祖である「平高望」より6代目後裔である「野与基永」の次男頼意が道智氏を名乗ったといい、この道智頼意は、『東鑑』に「道智法花坊」という名称で登場している。
この氏の拠点は、騎西町大字道智中屋敷・稲荷宮と成就院付近と推測され、利根川の自然堤防上に位置し、後背地は耕地や住居に適した地形を供えている。道智氏の居住した痕跡は、「稲荷神社」や「成就院」があり、現在でも「中屋敬」「表屋敬」「裏屋敷」「鍛冶屋敷」と称する字があり、成就院には、鎌倉前期の寛元二(1244)年二月・鎌倉中期の弘長三(1263)年六月日期銘の板碑を見る事が出来る。
 因みに、道智法花坊(法華房)頼意と其の系の名に、道後(不明)・多賀谷(内多賀谷)・笠原(鴻巣市笠原)・道後氏(鴻巣市郷地)の名が見える。
        
            
・所在地 埼玉県加須市道地14753
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧道地村鎮守
            
・例祭等 春お日待 415日 天王様 77日・13日 
                 秋お日待 1015
 加須市道地地域は、騎西領用水左岸の自然堤防および流路跡に立地していて、騎西町場地域の北西、外田ヶ谷の東側にある。嘗ては「道智」とも書き、武蔵七党・野与党の道智氏の本拠地といわれている。
 途中までの経路は、内田ヶ谷多賀谷神社を参照。この社の西側で騎西領用水を越えた先にある「田ヶ谷小学校前」交差点を右折、旧国道122号線を北上し、130m程先にある十字路を右折すると、進行方向右手に道地稲荷神社が見えてくる。
        
                           道地稲荷神社正面 
          綺麗に整備された境内、及び参道の一の鳥居のすぐ先に見える二の鳥居
『新編武蔵風土記稿 道地村』
【東鑑】に道智次郎・同三郎太郎承久三年六月十四日宇治川合戰に打死と載せたるは、當村に住せし人にや、又遠藤氏の系圖にも、武藏國道智二郎と云名見ゆ、當國七黨系圖に道智法花坊とあり、此法花坊は當所に住せしものなるべし、
 道智氏の名は「吾妻鏡」建久元年(1190)一一月七日条に道智次郎、承久三年(1221)六月一八日条に三郎太郎、野与党系図(諸家系図纂)に頼意(道智法華房)とみえ、入洛した源頼朝に付き随っており、幕府御家人であった。承久の乱に際して、道智三郎太郎は六月一四日の宇治橋合戦で討死している(「吾妻鏡」同月一八日条)。
        
                          二の鳥居の先の境内の様子
 道地稲荷神社は、氏子の方々から「稲荷様」と称され、農家の守護神として信仰されている。特に養蚕が盛んなころは養蚕家から厚く信仰され、年三回の養蚕(春蚕・夏蚕・晩秋蚕)の掃き立てが始まる前に、お稲荷(とうか)様(陶製眷属像)を蚕が当たるようにと借り出し、蚕棚・神棚などで祀り、出荷のころに神社に神札とともに返納した。この行事は行田市利田(かがた)の稲荷神社に倣ったものであるが、養蚕が廃れるに従い消えていったという。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  騎西町道地一五〇三(道地字稲荷(とうか)宮)
 当地は内田ヶ谷と境をなす騎西領用水の北に広がるこんもりとした台地で、道智とも書き武蔵七党野与党の流れをくむ道智氏の拠る所であった。道地は台地上に開けているため、灌漑用水は地内にあった溜め池を利用していることから、旱ばつ時には騎西領用水を水車でくみ上げねばならないという所もある。
 当社は社記によると、往古干損の憂いがあったため、村民たちで謀り、京都の伏見稲荷社より神霊を勧請し五穀豊穣を祈り祠を建立したことに始まるが、勧請の年月を今に伝えていない。『風土記稿』には、村の鎮守で、真言宗稲荷山成就院万福寺を別当としていたことが載る。
 明和五年九月覆屋を新たに造営し、明治二年正月別当成就院最後の奉仕として拝殿を再建している。
 大正四年、宮面の古伊奈利社が本殿へ、上内出の愛宕神社・鷲宮社・八坂社・天神社、天沼の大六天社が境内社として合祀された。このうち現在確認できるものは古伊奈利社・愛宕神社・大六天社、及び大六天社内に納められている八坂社(神輿)である。これ以外のものは社殿裏側にある一一社の石祠群に含まれている模様である。
 主祭神は倉稲魂命で、一間社流造りの本殿内には正一位稲荷大明神神璽二柱のほか、彩色された狐にまたがる茶枳尼天像を安置しており、このうち一つは合祀された宮面の古伊奈利社のものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿左側手前に祀られている稲荷大明神の石祠等  拝殿手前右側に設置されている案内板
        
                    本 殿
 氏子区域を細かく説明すると、上内出が一、二組。稲荷宮前、裏・中屋敷前、裏・下道地の計7組に分けられる。大正4年の神社合祀前は、愛宕社は上内出、大六天社は下道地のそれぞれの鎮守社であった。
 また、
この地は水の便に恵まれないため、旱ばつに遭うと必ず「雨乞い」が行われた。愛宕神社旧社地に弁才天が祀られている池があり、旧別当成就院にある「雨乞い石」と呼ばれる直径20㎝の丸石を借りて来て、この池の脇に置き、皆で池の水を掛けた。この行事も用水が整備されるにつれ行われなくなったという。

 この地は旱ばつで悩まされている地でありながら、同時に洪水多発地帯でもあったようだ。『加須インターネット博物館HP』には、この地域に残されている洪水に纏わる伝承を載せている。
 「明神様のお使い」
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したということです。
*この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。「暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」。
 
  社殿の右側に並んで祀られている境内社    
愛宕社・大六天社の並びに祀られている
     左から愛宕社・大六天社             弁天社の石祠
 天王様は末社八坂社(現在は神輿として境内社・大六天社内に納められている)の祭りであるが、氏子たちは本社の祭りとして認識しており、にぎやかに行われる。7日は、子供天王と称して子供が神輿を担ぎ地畿内を回る。13日には、この地に住む中年層によって結成される交友会によって担がれ、地域内を回る。この祭りは地域全体を挙げての祭りで、古くは芝居等も行われたが、現在はカラオケ大会に変わっている。 
       
                 静まり返っている境内
 この社の運営費用は昭和59年から各家一律の金額を納める方法となっているが、それ以前は、家の格などで金額を決めた時代の名残で、家ごとに違っていた。古くはこのほか神社持ちの田があり、これを貸し付けて小作料を神社の経費に充てていたが、戦後の農地解放で全て失った。また、戦後間もない時、国家神道的雰囲気に対する反発から社の運営に窮し、境内地の一部と林を伐採し、これを売却して急場をしのいだが、それ以来、鎮守の社(もり)の景観は一変してしまったという。
 嘗て豊かな鎮守の森に囲まれていたこの社の風景は如何ばかりであったろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「加須インターネット博物館HP 

 

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