古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平方八枝神社

 上尾市平方(ひらかた)地域は、市南部の主に大宮台地上に位置し、畑や田んぼが広がり、広大な河川敷もある等、近年開発が著しい同市に在って、農業的土地利用の比重が高い地域である。
 東側を平方領領家や上野、南側を西貝塚やさいたま市西区宝来、西側を荒川およびその旧流路を挟み川越市東本宿・上老袋・中老袋や比企郡川島町出丸中郷、北側を畔吉や小敷谷と隣接する。因みに地域の面積は3.2521 km2で上尾市の町・字では最も広い。
「平方」の地名由来として、地域一帯荒川流域の平坦な地が地名の起源であると言われている。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市平方488
             ・ご祭神 素戔嗚尊、狛狗大神
             ・社 格 旧無格社
             ・例祭等 ふせぎ 334 例大祭 420日前後の日曜日
                  夏季大祭(祇園祭) 7月中旬日曜日 お日待ち 1015
 平方橘神社が鎮座する「上尾橘高入口」交差点を荒川方向に西行すること200m程、進行方向左側に平方八枝神社は見えてくる。この両社は距離が非常に近い。
        
                  平方八枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「八枝神社」の解説
 八枝神社は荒川東岸、嘗ての平方河岸近くの川越上尾道沿いにある。祭神は素盞嗚尊。創建の時期は元禄年中(一六八八―一七〇四)と伝える(神社明細帳)。江戸期には「牛頭天王社」と称し、別当は天台宗正覚寺が勤めた。明治初年現社名に改称.
 天保13年(1842
)正覚寺が社殿造営のため護摩を勧募した時の千座護摩募縁誌(八枝神社文書)には、除病祈願・悪疫退散のために当社が村々に貸出す、お獅子様とよばれる獅子頭の霊験が語られている。往昔正覚寺中興の真鏡は御正体の霊験の発揚を祈り、当社で法華経を読誦したという。
 なお、明治維新後に京都八坂神社の枝社という意味を込めて、八枝神社と改めたという。
        
           鳥居の左側で、道路沿いに設置されている案内板
 八枝神社  上尾市平方四八八
 祭神・・・素戔嗚尊、狛狗大神
 上尾市の平方は、荒川の舟運における主要な河岸の一つである平方河岸があった所として知られている。当社は、この河岸の近くに鎮座している。
 当社の創建について、『明細帳』は、「元禄年中(一六八八~一七〇四) の創立にして正徳元卯年(一七一一)六月十五日再建其他不詳」と記している。しかし、明治時代に廃寺となった正覚寺に所蔵されていた元禄七年(一六九四)の「平方村寺社地御改之覚」(福田家文書)に、当社の社地が古くから除地とされていた旨が記されているため、ささやかな祠や仮宮などの形で、それ以前から何らかの祭祀が行われていた可能性が考えられる。
 江時代までは「牛頭天王社」として祀られ、江時代後期には御獅子を奉斎し、悪疫退散の守護神・疫病除けの神として地元の上尾地区を始め、足立郡内、比企、入間、南埼玉の県内各郡、現東京都の西北部、旧多摩地方に信仰が広まり、村々では「平心講」という信徒組織が結成され、一時は講員数三万余人に達したと言われている。
 明治初年、京都の「八坂神社」の御祭神と同じ牛頭天王をお祀りしていることから、八坂神社の枝社として「八枝神社」と改称している。
 祭神は、「素戔嗚尊」並びに「狛狗大神」で、一般には「平方のおししさま」として親しまれ、各地への渡御(御獅子の巡回) は年間を通して行われてきた。この獅子頭は一説には左甚五郎の作とも伝えられるが、その確証はない。
 境内にある大樹は、創建当時からあるものと伝えられ、樹齢五〇〇年から六〇〇年以上と推定さ れる古木で、上尾市指定天然記念物として大切にされている。
 また、毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭、「どろいんきょ祭り」が、各地より沢山の見物客を集めて盛大に執り行われ、埼玉県指定無形民俗文化財に指定されている。 境内社に「疫神社」「八幡社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                                     拝 殿
 例祭日は、「ふせぎ 334日」 「例祭 420日前後の日曜日」 「夏季大祭 7月中旬日曜日」等である。「ふせぎ」は氏子区域の悪魔祓いの行事であり、当社に伝わる「お獅子様」を若衆が担いで平方の四町村を一軒一軒回っていく。「お獅子様」の回る順路は、上宿⇒南⇒下宿⇒新田と決まっていて、3日の午前8時頃から回り始めるが、昔は各戸に上り込んで「お獅子様」で家内を祓い清めたという。
 例祭は「太々」とも呼ばれ、この日は各地から集まって来る「平心講」の人々が太々神楽を奉納するのが例となっていることからその名がある。神楽は、元来大宮市の杉山家に頼んでいたが、同が神楽をやめたため、現在は大宮市清河寺の島村家に頼んでいる。
 夏季大祭は、平方の四町内挙げての祭りである。この行事は、牛頭天王の霊威によって悪疫退散 を祈願するもので、古くから大切な行事として続けられたが、近年では勤める人々が多くなった関係で、714日に近い日曜日に実施している。
        
                                拝殿の手前にある神楽殿
        
                  拝殿の右側に祀られている境内社「疫神社」「八幡社」
 
         拝殿右側に聳え立つケヤキ、エノキの巨木(写真左、右)
         左側に注連縄が巻かれているのはケヤキのご神木である。
 
          拝殿と神楽殿との間にあるケヤキの巨木2本(写真左・右)
        
               境内に設置されている案内板
 上尾市指定天然記念物  八枝神社の境内ケヤキ・エノキ群
   八枝神社(大字平方488)
「ケヤキ・エノキ群」は合わせて6本の単木から成り、八枝神社の鳥居をくぐって左手の神楽殿から右手の拝殿・本殿の一帯にかけて生育している。ケヤキ(3) が拝殿東側の2本と、拝殿すぐ北側の「御神木」1本で、幹周りは約5.6m~6.9mであり、エノキ(3)が拝殿・本殿の南側の1本と、同北側の2本で幹周りは約2.4m~3.9mである。樹高は約30mで、樹齢は400~500年と推定され、市内の神社や寺院でこれだけの大木が群生しているのは珍しい。指定の「エノキ」の名称は学術的にはムクノキであるが、地元では古くからエノキと呼称していることに倣ったものである。
 明治期、神社合祀を進める政府に対し、明治三九(1906)11月に埼玉県知事大久保利武に提出した文書には「境内樹木ハ槻榎杉等ニシテ(中略)風致近郷二稀有ノ境内ナリ」とあり、地元では古くから榎と呼称していたことをうかがわせる。

 上尾市指定無形民俗文化財   武州平方箕輪囃子
  (保持団体)武州平方箕輪囃子連
 上尾市とその周辺地域には、江戸ばやしの系統を引く祭りばやしが伝承されている。江戸ばやしは、葛飾ばやしと神田ばやしの二つの系統に分かれるが、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 武州平方箕輪囃子は、神田ばやし系の古っぱやしで、元は上宿・下宿・南の3地区で三好連といい、川越市の鹿飼から伝承された。
 祭りばやしの編成は、大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組である。曲目には「屋台」「昇殿」「鎌倉」「神田丸」「仁羽(ひょっとこ囃子)」「子守歌」「数え歌」がある。「仁羽」は踊りをまじえながら演奏することもある。
 上演の機会としては、七月七日の御仮屋、七月中旬の八枝神社祇園祭りであるどろいんきょ祭り、一〇月中旬の橘神社お日待ちがある。
 タカウマに乗せての移動しながらの演奏や、櫓の上での演奏など多様な演奏形態を維持していること、戦争により一時の中断をしているが、その後に復活し、古くから継続的に伝承されていることは市内でも貴重である。また、県指定無形民俗文化財である「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の付属芸能としても欠かせない要素となっている。
                                       案内板より引用

 ところで、
平方八枝神社のご祭神は素戔嗚尊と狛狗大神(はっくだいじん)。この「狛狗大神」とは大きな獅子頭の事で「平方の御獅子様」として知られており、悪疫退散のご利益があるとされ、年間を通じて貸出されている。
 またこの社は、『平心講』(八枝神社の崇敬者団体)の本社として、埼玉県内各地並びに東京都内に数多くの講社を持ち、「平方のお獅子さま」として親しまれている。毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭「どろいんきょ」として有名である。
        
          境内に掲示されている「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の案内板
 埼玉県指定無形民俗文化財  平方祇園祭のどろいんきょ行事
   八枝神社(大字平方488)
「平方祇園祭のどろいんきょ行事」は「天王様」や「夏祭」とも呼ばれ、悪疫退散などを祈願した祭りである。本来は七月一四日、一五日を祭日としたが、現在は七月下旬の日曜日に行われている。古くは旧平方村全体の行事で、上宿・下宿・南・新田の4地区を順番に神輿が渡御する形で行われてきた。大正一二(1923)年の渡御を最後に、4地区合同でのどろいんきょを含む神輿渡御は行われなくなった。その後、天王様は、4地区それぞれで神輿渡御が行われ、どろいんきょも各地区で小規模に行われる程度であった。こうした中、上宿地区は、昭和四八(1973)年にどろいんきょを本格的に復活させた。
 天王様の行事では、主として八枝神社から出る普通の神輿1基と、装飾のない白木作りの隠居神輿1基の合計2基が神酒所を巡りながら渡御する。神酒所とは、渡御の途中に立ち寄り、休憩する場であり、この中で実施可能な場所を選び、どろいんきょが行われている。休憩の後、あらかじめ水を撒いてある庭などで、神輿の担ぎ手である若衆たちが、さらに水を掛けられながら隠居神輿を地面に転がし倒し、どろいんきょが始まる。隠居神輿の由来は定かではないが、この隠居神輿も担ぎ手も泥だらけになることから「どろいんきょ」と呼ばれている。
 祭り当日、昼過ぎに神輿が八枝神社を出発する「お山出し」で、神輿の渡御が始まる。神輿・隠居神輿・囃子連の順に進み、神酒所のうち5か所程度で、どろいんきょを行う。
 渡御の途中、隠居神輿を垂直に立て、この上に役者に扮した若者が乗り、これを曳き歩く「山車の曳廻し」や、垂直に立てた隠居神輿の上での「ひょっとこ踊り」なども行われる。
 午後9時ごろ、最後の神酒所を出た一行は「お山納め」となり、八枝神社に帰り神輿を返して、祭りは終了となる。
 平方祇園祭のどろいんきょ行事は、いんきょ神輿を泥だらけにして転がす等、他に類例を見ない内容で伝承されており、地域的な特色を持った行事として、夏祭りの民俗的要素やその変遷を考える上で貴重な民俗行事である。
                                      案内板より引用

        
                   境内の一風景


 

       

 

 

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