平方橘神社
この平方河岸は、入間川と荒川の合流点の約600m下流にあった荒川の河岸場で、江戸浅草への川路23里余に位置する。川越上尾道筋にあたり、荒川対岸老袋(おいぶくろ)村(現川越市)とを結ぶ渡船場も併設されていた。寛政10年(1798)の寺尾川岸場由来書(河野家文書)に、寛永15年(1638)川越仙波東照宮再建用材の輸送のため「老袋・平方川岸」の利用が川越藩から命じられたが、渇水時であったため命を請けなかったとあり、川越藩は最寄りの村々の江戸廻米をすでに平方河岸にゆだねていたことをうかがわせる。
河岸の成立にあたっては、寛永期から平方筋三六ヵ村を領した岩槻藩のほか柴田氏など有力旗本の要請もあったとみられる。岩槻藩主阿部重次は寛永15年から慶安4年(1651)まで老中を勤めており、この間有事の川船徴発年貢米回漕の基地を平方に整備したのであろう。寛文9年(1669)には「川船運漕ノ定」を記した高札が、おそらく幕府によって立てられたという。
・所在地 埼玉県上尾市平方2124
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧平方村鎮守・旧村社
・例祭等 歳旦祭 正月 祈年祭 2月 例大祭 10月15日
新嘗祭 11月
畔吉諏訪神社から南側に位置する「上尾丸山公園」は南北に長い公園で、荒川河川敷すぐ近くに横たわる大きな池を配した上尾市の自然公園である。テーマは「水と緑の調和」。2.4haの長い池を始め、児童遊園地やバーベキュー場、広い運動公園、小動物コーナー、更には天文台もあり、桜やアヤメなど、季節毎に様々な花を楽しむこともでき、次々と展開する園内の風景は多彩で、厭きることがない。
この公園南部にある南口第一駐車場脇の南北に走る道を1㎞程進むと「上尾橘高入口」交差点となり、その交差点手前右側に平方橘神社は鎮座している。
平方橘神社正面
『新編武蔵風土記稿 平方村』の項によると、「氷川社 村の鎮守なり」と記されており、江戸期には氷川社と称して平方村の鎮守社として祀られ、橘神社は大字平方のみの鎮守であったが、1907年(明治40年)に平方内の稲荷社・神明社、西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、新たに社号を「橘神社」に改称した。
この「橘」という名称に関して、もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡平方領に属する平方村であった。古くは中世末期より見出せる橘里三輪荘(みわのしょう)に属したと云い、平方村・領家村(上尾市)は「橘ノ里」と称した時期があり、その故事を参考にして名付けられたようだ。
『新編武蔵風土記稿 上寶來村』
「上寶來村は江戸よりの行程九里、橘庄と唱ふ、此村古は寶來野と稱して荒川の岸に傍ひ水災ある地なり、故に差扇領の村々より秣などかりとり野錢を貢たりと云う」
道路沿いに設置された「平方河岸」に関する案内板
鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎 参道右側には、戦前の機雷が奉納されている
案内板では日露戦争時頃のようだが…
境内の様子
拝 殿
橘神社 上尾市平方二一二四(平方字箕輪)
当社の本殿の背後には、樹齢約八〇〇年と推定され、幹周り五・七五メートル、高さ二〇メートルにも及ぶ欅の巨木(市指定天然記念物)がそびえている。遠望するとこの欅が当社の神籬のように見え、境内の三分の一を覆い尽くすその威容は、神木と呼ぶにふさわしい。
元禄七年(一六九四)の「枚方村寺社地御改之覚」(福田家文書)によれば、当社には文明三年(一四七一)銘の額(現存しない)がある旨が記されていることから、それ以前の創立であることがわかる。また、口碑に創建当初は現在の平方小学校の東の「氷川山」と呼ばれる所にあったとも、平方新田の字在家にあったとも伝えられる。しかし、当社が当地に移った時期については伝えがなく、また、境内の大欅の樹齢から考えても、遷座があったとしても相当昔のことであろう。
『風土記稿』平方村の項に、「氷川社 村の鎮守なり」と記されているように、当社は元来は平方だけの鎮守であったが、明治四十年に平方地内の稲荷・神明の二社(共に無格社)及び西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、社号を橘神社と改めた。その社名はかつてこの辺りを橘里と称していたことにちなむものである。本殿及び拝殿はこの合祀を機に建立されたもので、古い本殿は同じ大字内の八枝神社に移され、今も同社の本殿として使われている。
氏子区域は大字平方(上宿・下宿・南・新田)の四地区と、上野・平方領領家・上野本郷・西貝塚の合計八地区で、年間の祭典は正月の歳旦祭(さいたんさい)、二月の祈年祭(きねんさい)、十月の例大祭(お日待ち)、十一月の新嘗祭(にいなめさい)の四回である。
境内社に「稲荷社」「三峯社」「天王社」「水神社」「神明社」「疱瘡社」「天神社」「雷電社」「琴平社」「愛宕社」を祀る。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
本殿奥には、ご神木であるケヤキの大木が孤高の如く聳え立っている。このケヤキは、境内の地表面から50cmほど高く積み上げられた3m四方の土塁の上に立木し、周囲は透塀で囲まれている。中央の主たる幹は落雷のため上部を欠いているものの高さ20m余といい、嘗ては旧氷川神社のご神木として長い間住民の信仰の対象として敬慕されていたという。
幹周り5.75m、樹高24m、樹齢(推定)1000年といわれる立派な巨木・老木だ。
ご神木のケヤキ(写真左・右)
上尾市指定年月日 昭和42年5月1日
境内に設置されている大けやきの案内板
上尾市市指定天然記念物 大けやき
橘神社(大字平方2124)
大けやきは、ニレ科の単木で、古くから地域の人々に「御神木」として親しまれている。昭和五四(1979)年の強風により、地面から7mほどのところの、二股に分かれたところで胴切りにされている。主幹の直径は1.8mあり、樹齢は800年と衰退されている。
ケヤキは日本の代表的な広葉樹のひとつで、寿命が長い。山野に自生するほか、庭木・公園樹・街路樹として植えられている。特に関東地方に多く、「埼玉県の木」として指定されている。
木目が美しく、かつ保存性が高いことから、社寺建築・臼・盆・漆器など用途が広い。樹皮は灰褐色で、老木になると麟片(りんぺん)状に剥がれる。葉は互生し、長さ2㎝〜7㎝の卵形または卵状鉢形で、薄い肉質である。花は四月〜五月に咲く。
果実は長さ4mm~5㎜の平たく歪んだ球形で陵があって固く、一〇月頃に暗褐色に熟す。
上尾市教育委員会
案内板より引用
社殿の左側後方に祀られている境内社、及び平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
平方村河岸出入商人衆奉納の石祠 石碑の案内板
上尾市指定有形文化財 平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
橘神社(大字平方2124)
平方河岸は、荒川にあった河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる、脇往還筋にある渡船場としても機能する交通の要衝だった。河岸場の歴史は古く、寛永一五(1638)年以前には既に成立していたと考えられている。
江戸へ送る年貢米の集荷先として、平方周辺の村々の他、南村、久保村、原市村などの幕府直轄地や、弁財村、戸崎村、上瓦葺村などの旗本知行地といった地域からも広く利用され、大正時代末まで大変栄えていた。
3基並んだ石祠のうち、中央の神明社が指定の石祠で、明治四〇年代に河岸場から橘神社に移された。左側面の銘文によると、平方村及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保二(1717)年に造立・奉納されたものであることが分かる。また右側面には、宝永六(1709)年に祈願して以来、平方河岸が大神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
江戸時代中期からの江戸との経済関係、いわゆる江戸地廻り経済による商品流通によって発展した平方河岸の隆盛を伝える、数少ない貴重な歴史資料である。
上尾市教育委員会
案内板より引用
社殿右側に祀られている境内社。祖霊社か。
綺麗に手入れされている境内
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト」
「Wikipedia」「境内案内板」等