古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大輪長良神社

 大輪地域とその東側に接している須賀地域の間を流れる新堀川の一帯は、大輪沼と称し沼沢のある大湿地帯であった。ここが、新田、山田,西邑楽の悪水(農業排水)の溜まり場だったからである。雨の多い年には作物はほとんどとれない土地であった。この沼は谷田川による自然排水であったが、沼の口から赤生田橋(上江黒十二社橋)までの間は川幅が狭く、思うように水が流れなかったためであった。徳川綱吉公が寛文3年(1663年)館林城主となったときの大事業として、館林城の改築、矢場川のつけかえ工事、谷田川の拡張工事が行われた。しかし、延宝8年(1680年)の水害で大輪沼廻り7千石の田畑が冠水し、飢えに及んだので、農民達が大輪沼から利根川への悪水堀を願い出た。そこで、天和元年(1681年)、代官諸星伝左衛門は普請功者の三科甚五兵衛に大輪沼より利根川へ排出する方法を調査させた。須賀から排出する方法、梅原から排出する方法を検討したが、何れも勾配不足につき、他を考えることとなった。ところが、翌年になると館林領一帯が旗本に分割されたこともあり、悪水堀の願い出は中断した。
 その後も水害は年々増加したので、野辺、上三林、下三林、矢島・入ヶ谷、木崎、上中森、下中森、萱野、赤堀の村々(現大字)が協力して利根川への悪水堀を願い出たが、水盛の結果、利根川へ排出することは無理として却下となり、さらに嘆願を続けたが水下村々からの故障の申出もあり、また代官比企長左衛門になっても見通しが立たなかった。
 このように利根川への排出を種々検討したが、結果が思わしくないので、他の方法を考えるよう申し渡した。これにつき沼廻村々で相談したところ、谷田川は大輪沼口より赤生田橋までが川幅36間と狭く、これを12間に拡張すれば沼に水が溜まらないとの結論に達し、この案を上申した。長左衛門はこの案を手代集に精査させ、沼廻村々の申すとおりとの報告を受けた。この頃、元禄11年(1698年)に再び大洪水が起こり、大輪沼廻り、田方400町歩、畑方150町歩の収穫は皆無であった。長左衛門もこれでは捨ててはおけぬと決心して、谷田川筋を詳しく調べ、大輪沼から赤生田橋までの3,300間を川幅12間に広げ、土置場を3間とし、それより水下江黒、斗合田は出張計り切り広げるよう計画し、翌年に工事が開始された。
 谷田川拡張工事はわずか30日、矢島~板倉までの樋3ヶ所、橋6ヶ所の工事まで入れて、50日で完成したのである。工事に携わった人足は6万人、内12千人は64ヶ村の厚意による助人足であった。工事の様子は「沼廻り人足共は、多年之願故、身命にかけ出情いたし、助人足は沼廻り人足に遅れまじと面々村印にのぼりを立て、競り合い励み候事前代未聞の御普請」と「谷田川広伝記」に記されている。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大輪2072-1
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧大輪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道122号線にて利根川を越え、「川俣」交差点を左折し、群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流、1㎞程西行した「大輪」交差点の手前の十字路を左折、南に下った利根川の堤防からすぐの場所に大輪長良神社は鎮座している。
        
                  大輪長良神社正面
『日本歴史地名大系』 「大輪村」の解説
 利根川左岸に立地する。東は須賀村、西は下中森村(現千代田町)。永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、大輪又太郎時秀が「佐貫庄上中森郷内」の田畠を太田彦三郎貞康に売却している。天正二年(一五七四)四月一三日の上杉謙信書状(志賀槙太郎氏所蔵文書)によると、北条氏政の軍勢に囲まれた羽生城(現埼玉県羽生市)の救援のため大輪に陣を張ったが、利根川が増水し、謙信は苦慮している。近世初めは館林藩領で、寛文郷帳に田方五八六石七斗余・畑方四三八石二斗余とあり、田方に「旱損」と注記される。

明和村の民俗』によると、大輪地域には「又太郎屋敷」伝説があり、それには「永仁年間に堀之内に大輪又太郎という殿様が住んでいたといい、城のような屋敷跡になっていた。後にできた家に崇りがあるというので、先達が来て泊り込んで拝んだ時、そこらを掘り返したが、何も出なかった。」と載せている。また、この大輪又太郎という人物は、鎌倉幕府の御家人佐貫氏の配下だともいう
        
                 鳥居を過ぎてすぐ左側に祀られている「五社大権現」の石碑
        
         参道を進むと、拝殿手前で向かって左側に合祀社として祀られている。
 左から、琴平・菅原神社、稲荷神社、厳島神社、神明社、羽黒様、熊野神社、諏訪神社、三島神社、菅原神社。嘗ては耕地ごとに神様を祀っていて、下新田は熊野神社、東新田は羽黒山、堀之内は誠訪社、馬御屋は三島社を祀ったとの事。
 明治四十二年に神社合併で合祠する前は、地域内に分かれていて、「一家(イッケ)」毎に祀っていた社と言う。旧暦915日に長良神社の秋祭りがあり、その祭りの後にイッケ毎に「小宮祭り」という祭りを行うという。
 小宮祭りはイッケの宮を祀る行事で、村祭りの後にするようにして、赤飯を炊いて祝い、近在の親戚と重箱で赤飯のやりとりをする。西浦組は五、六十軒あるが、大神宮(外宮・内宮)を旧暦915日に祀る。水道タンクの下に立派な社があったが、明治42年に長良神社へ合併した。
 下の衆は神社合併の時、三島・.天神とも残した。松本一家(イッケ)ではゴリョウ様とヒジリ(聖)様を祀る。いい伝えでは、兄弟三人で大阪を見限って、此処へ流れて来た時に、兄が大神宮、弟二人がゴリョウ様を祀ったという。個人持ちだが、イッケ四軒で祀るとの事だ。
 
 合祀社の先には数多くの庚申塔や石碑がある。  境内に聳え立つイチョウの古木
        
                                        拝 殿
 村社長良神社の春祭りは四月十五日、秋祭りは十月十五日で、神主が立ち合って、春は五穀豊穣を祈り、秋はお礼をいう。春秋の祭礼には長良神社の社務所から「御練り」の一行が出て、神社まで約百mを行く。御練りは神主二人、助手三人(村の人)、大太鼓1、小太鼓2、笛1、その他村の人が付いて行列をつくる。神楽や獅子舞はなかったが、秋祭りには万作踊りをした。大正初めごろまでやった。幟は長さ十m以上もある大きいのが二本あり、コウチで順番が決まっていて、柱を立てた。最近幟番は女性たちが出るので、柱が立てられない。その上、旗枠も道路拡張で片付けたものもあるの、幟を立てなくなった。幟竿の先には杉の枝に青い葉が付いたままさした。
 長良神社の棟に竜の姿を漆喰(しっくい)で作り付けてある。九末社を祀りこんである。
 長良神社氏子改帳明治六年四月二十日に作製した帳面がある。第七大区八小区上野邑楽郡大輪村一番〜六七七番まで記録してある。
 村社長良神社の春祭り(四月十五日)には、行列が出てオネリをする。長良神社は大輪の鎮守で、鳥居の内側に立てる大幟は館林藩儒山下雪窓(明治三十五年没)の揮毫による。
                                  『明和村の民俗』より引用
        
                社殿から参道方向を撮影
             雄大な利根川の土手が真近に見える。

  
祭礼は旧暦六月十日だったが、新暦七月十日・十一日になり、最近は七月の日曜日になった。子供のころは二階造りの山車だったが、その後、脇から買ったのが屋台で、一階造りで踊り場があり、屋根が付く。引綱二本付け村の子が全部たかって天王様から長良神社の間の道を、引き回した。祭世話人が世話をやき、消防部頭が親玉になった。舞子連がお囃子をしたり、ひょっとこ踊りをした。 戦前までしていた種目は三番叟、踊り、弥次喜多道中、ひょっとこ、狐踊り、おかめなど上手に演じた。
 笠鉢は八坂神社の祭礼には、上と下から一本ずつ笠鉢を作って立てた。祭りの前日に笠鋅作りに出て、色紙を使ってきれいに傘形に飾り付け、回りに竹ひごにさくら紙を巻いた花飾りを出した。上の行灯には「八坂神社天下泰平.五穀豊穣.村内安全」と四面に書いた。八坂神社の参道には灯籠を二十本も立てたが、灯籠には絵や川柳が書かれた。各家々でも家のカドに灯籠を立てたという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」
 

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