古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須賀菅原神社

 利根川と谷田川に挟まれた当町は、標高20m前後の邑楽低地とよばれ、江戸時代には3年に1度の割合で水害にあっており、多い年には34回も見舞われた。農作物の収穫がなく他からの救援を仰ぎ、堤防普請をつづける耐乏生活であった。
 元文元年(1736年)、当時の僧侶であった慶讃上人は度重なる利根川の洪水を憂い、自ら堤防の修理に当たり、二度と堤防が決壊することのないよう人柱となった。なお、上人は、四国西国188ヶ所巡礼地域がいつまでも栄えるよう願い、菅原神社(須賀)の鳥居を献上している(町指定史跡)。その鳥居には「天満宮 一天泰平四海静謐風雨順時五穀成熟万民豊楽社頭不朽威光倍増二世願望如意成就祈請如件 元文元丙辰裁九月吉日奉造立鳥居一基者 四国・西国・板東・秩父百八十八箇処巡礼供養也 天満宥泉寺法印慶讃」と記してある。
 このように、当町の歴史は水との戦いの歴史でもあるといえる。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大字須賀631
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 明和町は群馬県の東南端、すなわちいろはがるたにいう「ツル舞う形の群馬県」の、ちょうど鶴の頭にあたる位置にある。利根川をへだてて対岸の埼玉県羽生市とは、長い交流の歴史がある。地形は東西約11㎞、南北約2㎞と東西に長く、総面積19.14㎢、標高20mで、高地と低地の差はわずか2mという平坦地である。総面積のうち56%を耕地で占め、土地が肥沃で、米どころとして知られている。
 町の名は、昭和三十年に旧千江田・梅島•佐貫の三か村が合併して、新しい村が誕生した時に、「明和」とつけられた。新しい村名は、当時「簡潔・明朗・新鮮•建設的」という基準を設けて、広く住民から募集し、応募総数215通の中から「明和」の二字が選ばれた。
 利根川と谷田川という一級河川にはさまれ、その上大小さまざまの用水路や排水路があって、低地に存在する明和町の歴史は、水との戦いの連続であった。江戸時代から3年に1度は水害に見舞われ、明治四十三年の利根川大洪水をはじめ、昭和20年代における3度にわたる水害に、村の人々は言語に絶する辛酸をなめてきた。現在は利根川の堤防が完成され、上流にダムができて水の調節ができるようになったので、水害についての心配はほとんどなくなったが、それは、長い間水との戦いに、幾多の水難を克服してきた先人の苦難と努力の結晶でもあろう。
 この須賀菅原神社にもその苦難の歴史を物語る痕跡が、至る所に残されている。
        
                                須賀菅原神社正面 
 大輪長良神社の西側脇にある道路を北行し、群馬県道368号上中森川俣停車場線を通り越した先にある丁字路を右折し、暫く道なりに進む。明和町の地形の特徴である高低差2m程しかない平坦地が周囲一面広がる中、正面にこんもりとした須賀菅原神社の社叢林が見えてくる。
 因みに当地名「須賀」は「すか」と読む。

『日本歴史地名大系』 「須賀(すか)村」の解説
 利根川左岸にあり、東は川俣村、北は大佐貫村、西は大輪村。天正一三年(一五八五)三月二七日の長尾顕長判物(青木氏蒐集文書)によれば、佐野宗綱との合戦に軍功のあった豊島彦七郎に「佐貫之庄須賀之郷之内ニ三千疋」を与えている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一七七石九斗余・畑方一九九石九斗余とある。元禄郷帳では高八八一石一斗余で、旗本島田領などの八給となる。近世後期の御改革組合村高帳では高三九四石余で、旗本筒井・島田領の二給、家数四六。

  
  社の歴史の古さを物語る鳥居の社号額     鳥居に関しての案内板も設置されている。

 明和町指定史跡 菅原神社鳥居
 昭和五十六年四月七日指定
 所在地 明和町須賀六三番地
 この鳥居は元文元年(736)須賀の慶讃上人が献納したもので上人の祈願が柱に深く刻まれている。
 慶讃上人は度重なる利根川の洪水を憂い、人夫と共に堤防修理にあたり、遂には自ら人柱となられた。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会

 
参道左側に祀られている九頭竜大権現・水神様  参道右側には道祖神・八坂神社が祀られている。
        
                   境内の様子
 社から南側、直線距離で360m程の利根川堤防の中段には、通称「奈良石」と呼ばれている高さ1m47㎝、幅1m3㎝の記念碑があるこの奈良石は文政年間の洪水のときに、被災民の救済と復興に尽くした、武州熊谷の下奈良村の富豪・吉田市右衛門の恩義に対し感謝の意を込め、その徳を永久に伝えるために須賀の人々が、天保13年(1842年)に建てたものであり、その由来が刻んである。
 奈良石の名称は、吉田市右衛門が名主を務めていた奈良村に由来している。碑文「いぬる文政六、七両度の洪水に利根川堤きれて当村の民家寺院も押流し田畑残らず砂入となりたれど場広なれば起し返すべき事自力に及がたく、地頭よりも手当施しに文政八年酉どし武州旛羅郡下奈良村の吉田市右衛門は志ある人にて多くの金銀を水難村々へ施しその事にかかれる老若男女へ麦など施して力を助られければ、としを追て起返りも多く成、百姓の本業をつとむる事も彼人の深き恩儀と後の世までも忘れざる為、石にゑりて立置くものなり」「天保十三壬寅年六月 須賀村宮亀年刻」。この碑文は、須賀村の統治者の一人であった、旗本・筒井紀伊守清憲(つついきいのかみきよのり)の撰文とされている。
        
                    拝 殿
 社の創建年代や由緒は不明。但し、天神様の祭礼は春三月二十五日、秋十月二十五日だったが、その後、神主の都合で四月十五日と十月十五日に祭るように変った。祭りの際には赤飯を親戚とやりとりした。当日は集会所に神主や世話人が集まり、獅子舞の装束を付けて、ショウ.笛•太鼓をたたいて行列を組んで、オネリして天神様へ行った。昭和初めごろまでしていたが、戦争中に中止したという。現在は神社で式典をして終るとの事だ。
 
    社殿左側に祀られている合祀社         社殿奥に祀られている石祠
  左から豊受稲荷神社・神明宮・愛宕神社    長良大明神・羽黒神社、弁財天、妙儀神社
        
                    御嶽山
 
      社殿奥に並んで祀られている
諏訪神社(写真左)と雷電神社(同右)
       
                            社殿から眺める一風景

 ところで、昭和573月に編集された『明和村の民俗』によると、須賀地域では毎月「十四日念仏」が行われている。実際には毎月の十四日前後に行っている。真言宗関係の念仏で、その仲間たちも現在二十人以上もおり、かなり盛んである。梅原の法印様(長柄英信氏)が昭和三、四年頃、この地域へ来て教えた結果、盛んになったといわれる。もちろん、その前にもすでに行われていたという。また現在、後継者をつくるためにも意をそそいでいるという。
 流派は「金剛流」という。地区の宥泉に集まって行われている。まず本尊様に線香とローソクをあげ、「おさんせん」をあげてから念仏ははじめられる。鉦と鈴(れい)を使用する。このときの服装は特別には定められていない。
 経文はこの地方の出来ごと等を和讃として詠み込んだ地域性のあるものは見あたらなかったが、かなりのお題目をこなしているのが特長であるという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」「境内案内板」等
 

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