古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下小見野氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町下小見野755
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧下小見野村・梅ノ木・虫塚三村鎮守 旧村社
             ・例祭等

 川島町東北部に位置する下小見野地域。氷川神社としても、川島町では一番北に位置する。
 経路としては、上小見野氷川社から一旦東行し、コンビニエンスストアが見える十字路を左折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流し、暫く北上すること1.7km程、市野川に架かる「徒歩橋」の手前の十字路を左折し200m程進むと、進行方向右側に下小見野氷川神社の鳥居と境内が見えてくる。因みに「徒歩橋」と書いて「かちばし」と読むようだ
 社に隣接している社務所の駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 下小見野氷川神社正面
 下小見野(しもおみの)地域は埼玉県比企郡川島町の北部に位置していて、市野川がその境となし、その対岸は吉見町大串地域となっている。この地域は田畑が大部分を占めており、その中に住宅が点在していて、のどかな田園風景をいまだに残している。
 参拝当日はあいにくの雨交じりの天気だったが、それが却って神聖さを醸し出しているような雰囲気。
        
                  鳥居の前にある神橋
 
     下小見野氷川神社正面鳥居       鳥居の左側にある社号標柱
『日本日本歴史地名大系』では 「下小見野村」は以下の解説がある。
 [現在地名]川島町下小見野
 上小見野村の北東、市野川の右岸に位置する。集落は旧荒川筋の自然堤防上に細長く発達するが、村域は上小見野村や東方の加胡(かご)村・松永(まつなが)村と入組んでいる。
 近世は小見野一〇ヵ村の一。古くは上小見野村と一村で、小美濃本(おみのほん)村と称していたが、寛文年間(一六六一―七三)頃に分村した。元禄郷帳に村名がみえ、高六七二石余。分村以前から川越藩領であり、明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となる。秋元家時代郷帳では元禄郷帳とほぼ同高で、ほかに野高並前々検地出高として高二三七石余がある。反別は四方六〇町四反余・畑方六三町八反余・野一一町余

 市野川が最終的に荒川と合流するこの地域、具体的には吉見町大串、川島町上小見野・下小見野・松永各地域は、『日本歴史地名大系』の解説にもあるように、行政区域が文字通り入り組んでいて、飛び地が多く存在する。
        
                 参道の先に拝殿が見える。
            緑豊かな社叢林の中にひっそりと鎮座する社。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町下小見野七五五
 小見野は、中世末期から用いられたと思われる小美濃郷の遺名である。慶長十四年(一六〇四)の検地帳には「武州比企郡小美濃郷」と記されている。正保年中(一六四四-四八)の国絵図に見える「小美濃本村」が、寛文二年(一六六二)に上・下小美濃村に分村し、後に表記を小見野と改めたという。
 当社は、小美濃郷と記していたころには、既に武蔵国一の宮氷川神社の遥拝所として建立されていたが、後に改めて一社として勧請されたと伝えられる。宝暦二年(一七五二)の棟札によれば、下小見野・加胡・松永の三か村の総鎮守として本殿を再建した際、上小見野・梅之木・虫塚・一本木・谷中・戸羽井・戸羽井新田・大塚の八か村からも籾の寄附がなされており、これらの村々がかつて小美濃郷に属していたことをうかがわせる。ちなみに、大塚村を除いた十か村は、江戸期に「小見野十か村」と唱えられていたという。
 また、この棟札には「遷宮導師当村明光山法鈴寺法印教慧和尚」「別当当村普門山光西寺法印譽山」の名があり、往時の祭祀状況をうかがわせる。法鈴寺と光西寺は本末の関係である。
 明治四年に村社となり、同四十年には大字下小見野字上小見野家付の天神社と大字松永字矢代町の八幡社の村社二社を合祀した。天神社は「天神前」の屋号を持つ石川能男家の近くに鎮座していたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                    本 殿



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系 」「埼玉県HP」
    
Wikipedia」等

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