古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠原熊野神社

熊野神社が鎮座する小川町笠原地区の「笠原」という地名は、とにかく歴史が古い。埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり、「加差披余」が「笠原」という名前に比定されているという説が多い。
 また日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見えるが、この「笠原直使主」と「加差披余」が同じ一族との説もある。 
 小川町にも昔から「笠原」苗字の方も多いようで、正倉院天平六年宝物に「武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里」と見えることから、この地と笠原氏はかなり昔から居住していたことが伺える。
 所在地 埼玉県比企郡小川町笠原333
 ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命 
 社 格 不明
 例 祭 不明
        
 笠原熊野神社は小川町から埼玉県道30号飯能寄居線を寄居方向に進み、途中県道274号赤浜小川線の陸橋を越えて最初の信号(手押しだが)のある交差点を左折する。東武東上線や八高線に沿って県道は流れているため、踏切を越える為に設置された信号のようだ。その後5差路に分かれる交差点を左方向に進む。途中大きく右方向にカーブするがそのまま道なりに直進し、3差路以降道は細くなるが、暫く進むと、笠原熊野神社を越えて「笠原地区憩いの場公衆トイレ」のある休憩所兼駐車スペースに到着する。
 笠原熊野神社参道は駐車スペースから東側にあり、専用駐車場もないため、休憩所に車を停めて参拝を行った。
        
                     鳥居正面
 一般道から民家や畑を抜けながら鳥居方向に向かうため、細長い参道を含めた撮影は極力控え、民家等ない位置から撮影した。
        
                                 笠原熊野神社正面鳥居
  
    左側の石祠は天神社。右側は板碑か       創建時に関わりにあった行者社との事
        
                     拝  殿
        正面
鳥居をくぐり、60段余の石段を登ったところに鎮座している

『笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(159296)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祀った社であるという。
 江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(1842)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
 なお、かつては熊野神社では女人禁止とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという』
                            「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
  
       拝殿左側に鎮座する石柱、境内社        社殿の奥には
境内社:御嶽社
         
                 社殿手前右側に聳え立つ御神木

 冒頭に述べた「笠原」に関して,その後特段記載する内容もなく、中途半端で終わってしまう事をお詫びしたい。但し古代「笠原」姓の方々が、この地にいたことは事実である。また慶長年間にこの地に土着したとされる「
柑名桜井氏」も調べたが同様に何も分からなかった。

 低山とはいえ数十段の階段を上るのはややきつい。しかし斜面上をうまく利用して社殿等を送検する先人たちの努力には敬意を表したい。また参拝中もどこか厳かな雰囲気もあり、風格のある社とも感じた。


 

拍手[0回]