古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

細間八坂神社


        
              ・所在地 埼玉県加須市細間111
              ・ご祭神 素戔嗚命
              ・社 格 旧細間村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 778日(子供神輿) 15日(本祭り)
 加須市細間地域は道目地域の北側に位置し、両地域の西側には嘗て古利根川が流れていて、社も共に古利根川旧堤防の東側に鎮座している。また、お互い近距離に鎮座している。
 途中までの経路は道目天神社を参照。道目天神社から同じ北方向に走る道を1㎞程進んだ先の十字路を左折すると、すぐ右手に細間集会所、隣接して細間八坂神社が見えてくる。 
        
                  細間八坂神社正面
『日本歴史地名大系』「細間村」の解説
 砂原村の南に位置し、村の西を古利根川が流れる。村名は寛永(一六二四〜四四)頃麦倉村(現北川辺町)の小名細間の村民が開墾したことにちなむという(風土記稿)。鶏足寺世代血脈(栃木県鶏足寺蔵)には貞治年中(一三六二〜六八)に武州太田庄細間普門寺において伝法灌頂が行われたことが伝えられているが、この細間が当村か麦倉村のものかは不明。
 
  石製の一の鳥居(写真左)、すぐ先に木製で朱を基調とした二の鳥居(同右)が建つ。
           二の鳥居の右側にある建物は細間集会所である。
        
                  静まり返った境内
 社の創建年代は不明。ただ本殿の基台に「享保弐年(1717年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。口伝によれば、嘗て疫病がはやったことから、その退散のため牛頭天王を祀る神社を創建したという。隣の薬王寺が別当寺であった。この薬王寺も名称から当社と同様に疫病退散のために創建されたものと思われる。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1914年(大正3年)に周辺の4社が合祀されたが、まもなく復祀されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 細間村』
 當村は寛永の頃麦倉村の内、小名細間に住せし村民開きてより、其小名を村名に唱へしと云。東西二十町餘、南北三町餘、家数七十、
 古利根川 村の西を流る、川幅三間許、川より一町餘を隔てゝ堤あり、砂原村によりし處は水もなく、今は其跡陸田となれり、
 天神社 村の鎭守なり、享保十年勸請と云、藥王寺の持、末社 辨天 愛宕 藥師堂
 藥王寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、天王山除病院と號す、本尊不動開山隆銅鍐享保九年寂す、

 八坂神社(てんのうさま)  大利根町細間一一一(細間字悪戸)
 細間は寛永のころ、北川辺にある麦倉村の小名細間に住んでいた者がこの地を開き、その小名を村名にしたとものという。当地は古利根川に沿った荒地で、開墾の苦労がしのばれる。口碑によると、ある時、はやり病が起こり多くの者が倒れた。そのため村人が病を鎮めるため神の加護を頂こうと天王社を勧請し、村鎮守としたものであるという。
 祭神は素戔嗚命で、神体は目の眩むばかりの畏きものといわれ恐れられ、これを見たものはいまだいない。
 別当は幕末までは真言宗天王山除病院薬王寺で、この名もやはり疫病から村人を救済せんがため付けられたものと思われる。現在この寺は神社境内西側に隣接している。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで、この基台墨書に「武州埼玉郡 小□細間村 金子佐次衛 道□治兵衛 享保弐年酉ノ六月吉日 敬礼 敬白 薬王院 花押」とある。また文久二年八月には大風のため社殿が大破し再建すると社記にある。
 明治になり当社は薬王寺の管理から離れ、明治五年に村社となり、その後、長く内山家で祀職を務めることとなった。
 大正三年七月には耕地整理のためか悪戸の皇大神社・厳島神社・野新田の愛宕社・道祖神社が合祀されたが、すぐに元地へ戻されている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
  
      拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 八坂神社は氏子に「天王様」といわれ、疫病除けの神として信じられている。天王様の神紋が、あたかもキュウリを輪切りにしたものと同じ形であるということから氏子はキュウリを作らない。そのため、家々は漬物に困り、道目や砂原にいる親類から分けてもらうという。
 
      本殿奥に祀られている石祠と石碑             石祠・石碑の右側並びに祀られている
石祠は天満宮。石碑は辨才天、稲荷大神、八幡大神        三徳稲荷社

 三徳稲荷は、嘗て本田耕地に鎮座し、商売繁盛の御利益があり、白狐の眷属像が数多く奉納されている。

 当社には子供神輿と大人神輿の二基の神輿がある。夏祭りは77日と8日の2日間、子供神輿が氏子を回り、次に14日の宵祭りにて大人神輿が担がれる。
 子供神輿は、まず初めに子供たちは塗料や蝋燭を購入し神輿を装飾し、屋根には稲穂を取り付ける。その後神社を出発し、本田北・金塚・野新田・根附・本田南の順に氏子を回る。1日では神輿を全戸回り切らないため、必ず一晩野新田に停めることになっている。
 大人神輿は、昭和初めに樋遣川村の宮ノ下耕地からもらい受けたもので、青年団主催で担いでいたが、戦争のため中断していたものを昭和50年頃から渡御会を結成して行事を復活させているという。この行事には悪疫祓いの意味がこめられ、大人神輿には囃子連がついて氏子を回る。また辻回りと称して悪疫を外に追いやるため神輿を村境まで担ぐという。
        
                社の西側隣にある薬王寺
           真言宗豊山派 利根川中流十三仏霊場 四番札所  
 
本堂手前には庚申塔等多くの石碑が祀られている。        薬師堂
              
                  社の入口右側に孤高の如き聳え立つ欅の大木
 細間八坂神社参道入口には何百年経過したか分からない欅の大木がある。また、今は少なくなったが何年か前までは境内の西側には桜の並木があり、見事に咲くので氏子は春になるのを楽しみにしていたという。
 また、欅の大木の根本付近には文久三年に建てられた「子の権現」がある。足の神として信仰され、足が丈夫になるようにと下駄や草履を上げて願を掛けたとの事だ。 
  
       
          

拍手[0回]