古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

佐波鷲神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市佐波153
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧佐波村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王様) 715
                  
秋祭り(お日待 豊作感謝祭) 1015
 当地名「佐波」は「ざわ」と読む。この地域はすぐ北を利根川が流れているのだが、嘗て西側には古利根川が大きく蛇行し、洪水や増水時は砂が押し寄せたように、河川の氾濫地域でもあった。地名も古くから砂の堆積により生じた土地を意味しているという。
 現在では、利根川北側にある加須市の旧北川辺町と旧大利根町ほか埼玉県内他市町村とを直接繋ぐ唯一の道路である「埼玉県道46号加須北川辺線」が地域中央部を南北に走り、また「道の駅 童謡のふる里おおとね」等の出店により、広大な田畑風景が広がる穀物生産地域にありながらも、交通面の利便性や経済活動も活発に流れるように感じる地域でもある。
        
       「道の駅 童謡の里おおとね」の350m程北西方向に鎮座する佐波鷲神社
               鳥居の社号額には「鷲宮・天満」神社と並列して表記している。

『日本歴史地名大系』 「佐波村(ざわむら)」の解説
 弥兵衛村の西に位置し、村の北を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。嘉慶二年(一三八八)正月二三日の建長寺正統庵末寺住持定書写(相州文書)に「勝栄寺領佐波郷庄主事」は正統庵の評議により選ぶべきこととみえる。
 寛永八年(一六三一)の利根川通渡場定書(竹橋余筆)の所付に佐波渡が記載される。田園簿によると田高六五石余・畑高一五五石余、幕府領。寛文四年(一六六四)には下総古河藩領で(寛文朱印留)、貞享二年(一六八五)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。
       
    規模は決して大きくはないが、手入れも整っている落ち着いた雰囲気のある社

 創建年代は不明である。ただ当地は大坂の陣で敗れた落武者が開拓したといわれており、当社は落武者一族の氏神として祀られたといわれている。「光勝寺」が別当寺であった。光勝寺は真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。旧光勝寺にあった「愛染明王堂」と地蔵尊は大正期に移転され、愛染明王堂は当社の境内に、地蔵尊は旧渡船場に移された。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 佐波村』
 小名 北澤 前澤
 利根川 新利根川なり、村の北より東へ流る、幅三百?三十間許堤あり、
 鷲明神社 村の鎭守なり、光勝寺の持、 〇天神社 村持
 光勝寺 新義眞言宗、堤村延命寺門徒、北野山と號す、本尊不動、


 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町佐波一五三(佐波字北耕地)
 口碑によれば大阪城落城の折、落ち延びてきた武士が住み着き、村を開いたといわれ、初めは七戸ほどであり、当社もその氏神であったが、その後、戸数が増して村鎮守となったという。
 祭神は天穂日命で、享保三年一〇月二日、神祇管領吉田兼敬は当社へ「正一位鷲明神幣帛」を上げて、正一位に叙した。
 別当は幕末まで真言宗北野山光勝寺が務めていた。内陣の幣束基台を見ると「佐柄町三丁目 新井新八 麻布日ヶ久保丁 同平次・奉寄進宝暦四年甲戌三月 佐波村別當光勝坊住榮淳」とある。往時村内には天神社もあったが、いつのころか当社に合祀された。現存する天神像の掛け軸には「天神像 奉寄進表具 天和三癸亥暦 佛子宥仁」とある。
 明治に入り、神仏分離によって光勝寺は廃され、明治五年当社は村社となった。なお、光勝寺境内にあったと思われる愛染明王堂と地蔵尊は大正六、七年ころ管理困難という理由で移転され、現在、愛染明王堂は当社境内に、地蔵尊は北川辺に通じる旧渡船場の所にある。現在、旧墓地を含む寺跡地は町所有地になっている。
 本殿は一間社流造りで、覆屋内に天神社社殿と並祀されている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 拝殿に掲げてある扁額も「正一位鷲宮大明神」      境内に祀られている石碑
  「正一位天満宮」と表記されている。     三笠山神社・御嶽山座三神社・八海山神社

 当社は明神様と呼ばれ、五穀豊穣の神として信仰されている。佐波地域は、大水の切所となるため、氏子は日頃より「矮鶏(チャボ)」を飼い、水が出た時は流れを鎮めるためにこれを生贄として川の中に投げ込んだという。因みに現在、チャボは日本の天然記念物に指定されている。
またチャボは魔除けの鳥だともいわれ、大病を患うとその病魔を追いやるため、男性は雌のチャボを、女性は雄のチャボを食べたともいう。
 また、当地は砂地の為、以前は陸稲・大豆・粟などの畑作物を中心に耕作していたが、天水場であることから日照りに弱く、度々雨乞いが行われた。雨乞いには耕地ごとに群馬県板倉の雷電神社に行き、水をもらい受け、明神様に供えて降雨を祈り、更に神社の池の水を加えてこれを持ち、太鼓をたたきながら村を回った。道中、作物が枯れた畑に来ると、紙垂を付けた笹を水に浸し、祓いながら水を撒いたとの事だ。
        
           拝殿の左隣にある「神興庫」の類ではなかろうか
             中には神輿が保管されているのであろうか
      因みに左側のイチョウの大木には、保護樹林指定の看板が設置されている。

 当社の夏祭りは「天王様」と呼ばれ、村の疫病除けの行事である。当地の子供神輿は古くからあり、口碑によると、昔、利根川に子供神輿が流れてきて、氏子の大阿久(おおあぐ)某がこれを拾い上げ、家に祀ったといい、以来、子供たちは夏祭りの際、これを借りて村の悪魔祓いを行っている子供神輿は、77日と8日の2日間かけて剣祓いを先頭に各氏子を回り、氏子の家に着くと剣祓いで家を祓い、土足のまま上がり込んで激しく揉んだ。剣祓いの先には麻の緒が付いており、肩の痛いものがあればこれを一本抜いて肩を巻き、治れば二本にして返す。
大人神楽を担ぐのは14日の宵祭りと15日の本祭りで、神社を出発し北沢耕地・前沢耕地の順に回る。また、当地に悪性感染がはやった時などは、冬でも氏子全員が集まり、神輿を担いで村を回り、村境では辻固めを行うという。
        
        社殿の右側には佐波集会所を挟んで「愛染明王堂」が建っている。
        
        愛染明王堂の脇には「十九夜念佛塔」「百萬遍供養塔」がある。

 明神様の境内にある愛染様の縁日は、毎月二三日である。戦前までは北沢と前沢耕地の年寄りが集まり、交代で百万遍を行っていたという。因みに渡船場に祀られている地蔵尊は縁日が毎月二四日で、団子を作って供えるとの事。
 また、十九夜講は、春秋に行う嫁の祭りで、宿を決めて米を集め、五目飯と豆腐汁で会食する。宿の床の間には十九夜様の軸を掛け、お膳を供えて灯明をともす。この折、お産の近いものがあれば、軽く済むようにと、ろうそくの燃え差しを受けていくという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
  

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