古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

青山氷川神社

 青山氷川神社の創建は、社記によると、永享元年(1429)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰神社の本社が秩父にあり修験寺院が別当と勤めていた点や、秩父・当地周辺から鉱山が採掘されていた点などから、当社が三峰大明神として創建したのに修験者が関与していなのではないかとも推測されている。長期にわたり三峰大明神と称してきたが、享保10年(1725)に氷川社と改称し、現在に至っている。
 かつて社の境内には、子供六人が抱えるほどの杉の大木があり、神社の目印として村人に親しまれていたが、落雷により枯死してしまった。それでも境内は山の斜面のために樹木も多く、青山全域の総鎮守にふさわしい社の景観を呈していて、また、氏子の方々もこの青山全域の総鎮守としての意識は強く、地内の人々の心の拠り所として崇敬の念は厚い。
 ご祭神は健速素戔嗚尊・奇稲田姫尊・大己貴命で、氏子の間では農耕の神として信仰が厚く、「有難い神様」と崇敬している。そのためか、毎年三月十五日に行われる祈年祭は通称を「田起こし」といい、農業が主体であったころは、氏子の各戸ではこの日に変わり物を作って祝ったものであり、豊作を祈る予祝の祭りでもある。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡小川町青山1312
            
・ご祭神 健速素戔嗚尊 奇稲田姫尊 大己貴命
            
・社 格 旧青山村総鎮守
            
・例祭等 元旦祭 祈年祭 315日 例大祭1015
                          
新穀感謝祭(新嘗祭) 1123
 青山愛宕太神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「青山陸橋(西)」交差点を左折する。その後、小川郵便局の先にある信号を斜め左方向に進路変更し、更に500m程進むと、進行方向左手に青山氷川神社の鳥居が見えてくる。
        
                  
青山氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「青山村」の解説
 槻川を挟んで小川村の南に位置し、南は日影村(現玉川村)。玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二五五石余・畑高二二〇石余、ほかに紙舟役永一貫三〇〇文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高七二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本四氏の相給、ほかに円城寺領があった。「風土記稿」成立時にも同じく旗本四氏の相給。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(同書)。文化一四年(一八一七)には高七二〇石余、反別は一〇四町九反余、家数二二〇・人数一千一四、うち一〇八軒で紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭一〇二文を納めていた(「村書之控」横川家文書)。
        
             鳥居を過ぎたすぐ左側にある「芭蕉碑」
        
            参道右側に設置されている緑泥石片岩のベンチ
 この境内に置かれている石板は「
緑泥石片岩」であり、元々は、神社入口の用水路に架かる橋として使われていたものである。昭和58年頃の道路拡張工事に伴い、今ある場所に移して、ベンチとして利用されているという。
        
             境内に設置されている社の森の案内板
 小川町指定天然記念物  青山氷川神社の森
 昭和六三年二月一四日指定
 氷川神社內   氷川神社内
 氷川神社
 氷川神社の森は、北向きの斜面の山裾から山腹にかけて広がる、照葉樹林「ふるさとの森」です。この神社林の中にはヤブツバキ・シラカシ・クスノキ・ケヤキの大木や、シロダモ・アラカシ・アオキ等も多く生育しています。参道の入り口にあるヤブツバキは、照葉樹林を象徴する木ですが、樹高八・四メートル、幹の周囲一・七一メートルの大樹で、県内でも珍しいものです。このような大木を保ってきた森は、学術的にも大変価値の高いものです。
 森の中のひときわ大きなクスノキは、樹高ニ六メートル、胸高直径一・二九メートル、最大周囲三・四八メートル、枝張り南北一九・ニメートル、東西二四・九メートルを測ります。
 平成四年二月一日 
 小川町教育委員会
                                      案内板より引用
 
        趣のある手水舎           手水舎の先に祀られている天神社
        
             社への石段がかなり急勾配で、所々苔むしているので気をつけて登る。

石段を登り終えたすぐ左手にある稲荷社の石祠    稲荷社の反対側に祀られている氏神
       
                    拝 殿   
 氷川神社(みょうじんさま)  小川町青山一三一二(青山字根木)
 青山は、外秩父山地一角、小川盆地のほぼ中央に位置する。地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 当社の創建は、社記によると、永享元年(一四二九)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰大明神を祀る本社、すなわち現在の三峰神社は、秩父山塊にある標高一一〇〇メートルの大滝村三峰に鎮座している。江戸期は、京都聖護院直末、天台宗本山派修験で、別当観音院が支配している。三峰大明神の勧請は、恐らく在地修験により行われたのであろう。
 三峰大明神の史料としては、寛文八年(一六六八)の『武州比企郡青山村御縄打水帳』があり、「田九畝拾八歩 三峰大明神」と記されている。この江戸初期の史料は、比較的早期の三峰信仰を知る上で貴重なものである。
 当社の社家である土岐家には、修験関係の許状、補任状が残る。この内、古いものでは、正徳元年(一七一一)の大常院の「袈裟着用許状」、次いで享保九年(一七二四)の青山坊の「僧都補任状」、泉蔵院の「袈裟、貝緒両緒着用許状」などがある。浄学院と号した土岐家に、これら坊・院の許状があるということは、恐らく当社の別当が次々と退転したことを示しているのであろう。
 この中で、当社は、享保十年に、社号を「三峰」から「氷川」へ変更している。これは、かつて三峰大明神を祀っていた大常院が退転し、その後、恐らく青山坊か泉蔵院が当社の祭祀に当たるに及び、新たに氷川大明神を勧請したのであろう。これらは、氷川神社とかかわりのある修験であったかもしれない。
 土岐家、すなわち浄学院の許状は、宝暦七年(一七五七)以降のものが残されている。浄学院は、本山派修験で、青岩山と号し、西戸村山本坊配下であった。また『風土記稿』には、氷川社の別当が浄学院であることを載せている。浄学院は、明治初年の神仏分離に際し、復飾して神職となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
     
           社殿の奥にひときわ高く聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
       
                  石段上からの眺め 
             因みに石段の向かって右側にある建物は神楽殿 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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青山愛宕太神社

 小川町青山地域は、外秩父山地一角で、小川盆地のほぼ中央部に位置し、JR八高線・東武東上線小川駅の丁度南側にあり、槻川を境にその南側一帯に広がる地域である。青山愛宕太神社が鎮座する青山字根木は、同地域東部にあり、JR八高線沿いに通る埼玉県道30号飯能寄居線が南北に走り、東端には仙元山(298m)をはじめとする尾根と、その仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部には「町指定史跡 青山城跡」が、そして地域の東側に接する下里地域には、国指定史跡の下里・青山板碑製作遺跡がある。
 なお、仙元山の中腹には周囲の自然を活かした「仙元山見晴らし公園」が整備されていて、この公園の目玉でもある、町に向かって滑り降りていくすばらしい眺望とスリルを誇る全長
203mの「ローラーすべり台」は、有料ながら子どもから大人までみんなで楽しめるすべり台で、更に展望台からは小川町の全景が見晴らしの丘公園から一望できる。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町大字青山2134
             
・ご祭神 火之炫毘古命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1015日前後の日曜日
 国道254号線を小川町市街地方向に進み、「道の駅おがわまち」を越え、「本町二丁目」交差点を左折する。その後、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、槻川を越え更に南下すること1㎞程先の「アドニス小川カントリー倶楽部」の看板がある細い路地を右斜め方向に進むのだが、車両はその周辺の路上にて駐車している。その後、右手には庚申塔や馬頭観音・地蔵尊が整然と並ぶ石碑群を見ながら上り斜面を徒歩にて進むと、右手に青山愛宕太神社の鳥居が見えてくる。
 
 北側参道に並ぶ
庚申塔や馬頭観音・地蔵尊等      北側の参道から徒歩にて参拝
              の石碑            緩やかな上り斜面の先に社は見えてくる。
 本来、社殿に対して正面方向に参道(石段)があり、急坂を下ると県道30号線に直接ぶつかるような配置となっていて、しかもその正面入り口は狭く、しかも鳥居や社号標柱等もなく、当然のことながら専用駐車スペースもない。当初は正面からの撮影を試みたのだが、県道の車両が意外と多く、残念ながら断念。そこで、北側から社に通じる舗装された道からのアプローチとなった。
        
        
県道30号線から急斜面の立ちあがった小高い山頂に鎮座する社
 青山愛宕太神社の創建年代等は不詳であるが、当社地の裏山は「鉄穴」を意味する「神名」と呼ばれていることから、鉱山採掘に関わる火の神として祀られたのではないかといわれている。
        
                    拝 殿
 氷川神社  小川町青山一三一二(青山字根木)
 地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 各地域の鎮守に対する信仰も厚く、沼ノ入の愛宕神社は、火の神・火防の神として崇敬されている。現在はほかに家内安全・商売繁昌や合格祈願等も行う。大祭は十月十五日の前後の日曜日で、福引やカラオケ大会を催してにぎやかな祭りである。
                                                  「埼玉の神社」・青山氷川神社の項より引用
        
                          社殿の向かって左側にある神興庫
     神輿のようなものが安置されている。当地の祭りに使用されたものであろうか。
        
      境内西側にある「愛宕太神社記念碑」とその右側にある「青山城の井戸石」
                青山城の井戸の石をこの神社に移動したのであろうか。
                  愛宕太神社記念碑
                      参議院議員 上原正吉書
              愛宕太神は火之炫毘古命にして出雲
                    の国より青山村に御来神と伝えられ
              万民安堵火伏の神として二百三十年
                           前より広く崇敬されしも明治末期神
                           社統制により氷川神社に移管され尓
                             来五十三星霜を経て今日に至る
                           昭和三十八年八月地区民挙って再鎮
                           座を発起し奉賛会を組織して新築完
                           成をみたので之を永く後世に伝える
                           と共に地区民の幸福と繁栄を記念し
                             茲に記念碑を建設するものなり
                                
昭和三十八年十一月吉日
       
               北側参道入口を参道側から撮影

 青山愛宕太神社から直線距離にて南東方向750m程の山頂部には町指定史跡である「青山城跡」がある。青山城は仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部に築かれていて、北端最高所に主郭を置き、南尾根に二郭、南東尾根に三郭を配している。少し離れているが小倉城とは尾根続きであり、戦国時代には松山城を守る支城としての役割があったようだ。 
 町指定史跡   青山(割谷)城跡
 小川町大字青山字立厳二二九二-二ほか
 平成四年三月二十五日 町指定
 青山(割谷)城跡は、青山と下里の大字境に位置し、青山側では青山城、下里側では割谷城と呼ばれています。
 城跡は尾根を巧みに利用し、標高二六五メートルの山頂部に築かれた本郭を中心に、南西に二の郭、南東に三の郭をコの字状に配し、それぞれの郭は深い堀切で画されています。本郭の南東側および二の郭の東側には通路状の帯郭が残されています。一方、北側は小規模な郭と堀を配するのみとなっています。
 板碑の石材である緑泥石片岩の分布域にあり、堀切はこの岩盤を掘り抜いて造られ本郭周囲の一部には石積みが残っています。城跡の下里側の麓近くには、板碑石材の採堀と加工を行っていた割谷採掘遺跡があります。
 江戸時代に書かれた『関八州古戦録』には永禄六年(一五六三)に「松山城へは上田安楽斎、同上野介朝広を環住なさしめ青山・腰越の両砦と共に堅固に相守らせ」とあり、松山城の支城であったと伝えられています。
 東二・六キロメートルには小倉城跡があり、北に四ツ山(高見)城跡、北西に中城跡、西に腰越城跡を臨むことができます。また麓を流れる槻川に沿った道や現在の八高線に沿った道を見下ろす地理的な要所に位置した城跡です。
                            「青山(割谷)城跡」案内板より引用



参考資料「埼玉の神社」「境内石碑文」「青山(割谷)城跡掲示板」「仙元山見晴らし公園HP」

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木呂子吉野神社

 小川町木呂子地域は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があったという。
 因みに「
木呂子」は「キロコ」と読み、なかなか個性的な地域名で趣もあり、響きも良い。旧蔵国男衾郡木呂子邑発祥ともいわれる名前である。
 木呂子氏は『埼玉苗字辞典』によると、男衾郡木呂子(現比企郡小川町木呂子)の出身でその在郷名を名乗ったものと記され、戦国時代には武州松山城主上田氏の家臣として、上田・難波田氏と姻戚関係を結び重要な地位にあったことが推測される。同氏は木呂子丹波守元忠-丹波守新左衛門元久-新左衛門元次と続き、後北条氏滅亡後には深谷上杉氏の重臣であった秋元氏に仕え同氏の家臣岡谷氏と姻戚関係を結んだとされている。
『平姓木呂子氏家譜』
「木呂子丹波守元忠(室上田能登守長則女。弟日遠は身延山僧、其弟下野守則貞は小田原滅亡後・百人組与力として歴仕・維新に至る)―丹波守新左衛門元久(鳥居土佐守家中、室難波田因幡守憲次女)―新左衛門元次(これより秋元但馬守家中、室岡谷門左衛門泰勝女)、元次の弟兵左衛門―清兵衛久庵―清兵衛」

        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町木呂子303
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧木呂子村鎮守・旧村社
             
・例祭等 山神社例祭 117日 稲荷例祭初午祭 3月初午日
                  
八王子神社例祭 423日 秋例祭 1015
 勝呂白鳥神社から東行し、兜川を越えた丁字路を左折、国道254号線に合流し、400m程北西方向に進んだ路地を再度左折する。木呂子地域の街並みを眺めながら約300m進んだ「木呂子区民センター」の見える路地を左方向に進行し、暫く進むと、緩やかな山なみの稜線の先に木呂子吉野神社が見えてくる。
        
                 木呂子吉野神社正面
『日本歴史地名大系』「木呂子村」の解説
 勝呂村の北東に位置し、男衾郡のうちで玉川領に属した。竹沢六村の一(風土記稿)。地名は戦国期に松山城(現吉見町)城主上田氏の家臣であった木呂子氏にちなむと考えられる。政所改戸(まんどころかいと)・政司改戸(しようじかいと)などの地名が残り、中世には開発されていたことがうかがえる。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば、木呂子分は高一三六石余、反別は田七町七反余・畑二一町余・屋敷七反であった(小川町史)。
『新編武蔵風土記稿 木呂子村』
 木呂子村は古勝呂・木部・靱負及び比企郡笠原村原川分等六村を合て、一村にて竹澤村と唱へ當郡に屬せしが、後年六村に分ちし時。笠原村原川分の二村は比企郡に属せりと云、されど鎌倉圓覺寺所藏應安二年の文書に、武藏國比企郡竹澤郡内、竹澤左近將監入道跡事云々と載たれば、古くは比企郡に屬し、中頃當郡に隷し、後又六村に分れし時、兩郡に分れしならん、按に【太平記】に載たる延文三年十月、新田義興を矢口の渡に於て畠山道誓と同〱謀殺せし竹澤右京亮も、此左近将監の一族なるべし、又天正十八年小田原攻の時、松山籠城人数の内に木呂子丹波守あり、是はまさしく當所の在名を名乗しならん、
 又此村の一名を吉野と呼べり、其由來は詳ならず、
 吉野川 村内山間の谷合より出る清水、落合て一篠の流れとなる、吉野は則當村の一名なり、

        
             静かな雰囲気の中、ひっそりと佇む社
 木呂子吉野神社の創建年代等は不詳であるが、『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、所有していた村民武藤家では、鎌倉時代作の薬師如来像を所有していることから、天神社で祀っている天満天神座像も鎌倉時代の作ではないかと伝えている。その後、天保15年(1844)に壱岐天手長男神社を勧請した天手長男神社、安政2年(1855)に養蚕を奨励した領主小野朝右衛門を讃える梅之宮神社の2社を天神社の摂社として村全体で祀っていたという。明治8年に武藤家が天神社を売却したのを機に、明治9年村社に列格、明治41年に無格社山神社・八王子神社・稲荷神社を合祀、大正15年には、旧地名「吉野の里」から吉野神社と改称したという。
        
                    拝 殿
 吉野神社(てんじんさま)  小川町木呂子三〇三(木呂子字上耕)
 竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤氏が氏神としてそれを祀ってきた。『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(『明細帳』では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(一八四四)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(一八五五)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
狛犬右手には、天手長男神社と書かれた大きな石銘が建てられている。
 因みに天手長男神社は、摂社の一つで、現在は梅之宮神社と共に本殿覆屋内に祀られている。

 天手長男神社のご祭神は櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神としてご利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がそのご祭神といわれている。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂(すぐろ)の人々からも崇敬され、423日に行われる例祭では、養蚕倍盛が祈願されるという。大東亜戦争以降、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は養蚕に限らず、諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が117日、稲荷神社の例祭(初午祭)が3月初午日、八王子神社の例祭に関しては、ご祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に合わせて行われているという。
        
                  社殿からの眺め
 木呂子地域は、小川町から寄居町へ通じる街道が通る要衝の地であり、天正年間にその在郷名を名乗った木呂子氏が領していたことの意味は非常に大きい。
 木呂子地域の南側に隣接する勝呂地域には白鳥神社が鎮座しているが、この社の創建には、増尾氏が関わってきたという。詳しい説明は勝呂白鳥神社に載せているが、この増尾氏は平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」。「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、増尾氏と共に木呂子氏も畠山一族の出身であるといわれている。





参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
 

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下里八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348
             
・ご祭神 須佐之男命(推定)
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482108,139.2827061,16z?hl=ja&entry=ttu
 上小川神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線、並びに国道254号線を2.8㎞程東行すると、国道左側脇で、小高い山の麓に下里八坂神社の鳥居が見えてくる。
 国道脇で鳥居周辺には、丁度駐車可能な空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                                 
下里八坂神社入口付近
『日本歴史地名大系』 での「下里村」の解説
 小川村の南東、小川盆地の東部に位置し、西は青山村、南西は日影村(現玉川村)。村域の中央を槻川が蛇行する。玉川領に属した(風土記稿)。至徳四年(一三八七)閏五月二一日の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)に「一、下里郷 銭捌拾貫文」とあり、この頃、当地は京都天龍寺の寺領であった。
 天龍寺重書目録(鹿王院文書)に収められる応永二七年(一四二〇)四月一九日の足利義持御教書案によれば、同寺領である下里郷などの段銭以下、諸公事・臨時課役・守護役などが免除されている。なお年未詳の天龍寺寺領目録(同文書)にも「武蔵国下里郷」が記載されているが、当地が天龍寺領としていつまで存続したかは不詳。
 
  参道入口左側には馬頭観音がずらりと並ぶ。   鳥居の右側奥にある「無格社 八坂神社」
                          、手前には「鳥居建設記念碑」。
 
   鳥居を越えると、いよいよ参拝スタート   鳥居を越えてすぐ参道左側に祀っている庚申塔 
      勾配のある石段を登る。       青面金剛(しょうめんこんごう))と石祠
       
             社殿まで長い石段が続く(写真左・右)。
    緑泥片岩で組まれた石段は傾斜こそあるがしっかりとしているため意外と登り易い。
 見た目通りの昔からの手作り感のある石組。材料は同地域内に緑泥片岩の採掘場所があるので、資材調達は特に問題はないと思うが、この斜面を人の力のみで作り上げたその労力は、想像するだけでも大変だっただろうと思いながら一直線の石段を登った。石段の数は数えなかったが、200段以上はあると体感した。但しこの石組は幅があまりない所もあり、登る際には、つま先歩きのような歩き方となり、そこだけはやや不便を感じた。
 
 石段の両側には、鬱蒼とした林と大杉等の巨木で埋め尽くし、日中参拝しているにも関わらず、ほの暗いが、樹木の枝葉の間からさし込む日の光は眩しく、そよ風は爽やかな新緑の木の香りに満ちていて心地よい。
 またこの古風な石段を粛々と登っていくと、この石段を作り上げた多くの地元住民の方々の思いが聞こえるような気がして、理屈では説明しがたい、第六感的な不思議な感覚が研ぎ澄まされたような気持ちになる。今まで数多く社に参拝しているが、時に不思議な感性が右脳を駆け巡り、直感力が増幅するような心持ちになる。
        
                     拝 殿
 拝殿正面には対をなす樹木が立つ。鳥居替わりであろうが、上手く撮影できないため、斜めからの撮影となった。
 八坂神社 小川町下里二三四八
 当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る谷を挟んで南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(一三四〇)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
 社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(八八九-九八)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も『風土記稿』に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(一八一〇)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
 なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る祀職が籠もって祈禱をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           境内社。三峯神社・金比羅神社・御嶽神社が合祀 
       

 下里八宮神社で紹介した「下里ささら獅子舞」は、7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社・八坂神社・大聖寺に奉納してきたという。
 下里の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。別名「防ぎの祭り」ともいわれ、難病や疫病が村に入らないように、村境に悪疫退散のお札を青竹にはさんで立つ。ささら獅子舞は、わらじがけの獅子3頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、4050人が大聖寺と鎮守の八坂神社に舞を奉納するものである。
 この獅子舞の奉納は、例年715日に近い日曜日に奉納されていて、八宮神社は毎年、大聖寺は八坂神社との隔年であるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「小川町議会だより 64 HP」
    「
比企ライフネットHP」等 


       

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下里八宮神社

 環境省では、様々な命を育む豊かな里地里山を、次世代に残していくべき自然環境の一つであると位置づけ、「生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)」(500箇所)を選定した。選定された「重要里地里山」は、地域における暮らしや営み、保全活動等の取組を通じて守られてきた豊かな里地里山を広く国民の皆様に知ってもらうためのものである。また、地域における農産物等のブランド化や観光資源などにも、広く活用できるものと考えているという。
 埼玉県比企郡小川町・下里地域周辺は、周囲を外秩父の山々に囲まれ、伝統産業で古くから栄えた町に、昔ながらの風景が残る農村地域である。農地を中心としたモザイク状の土地利用形態が維持されており、オオムラサキ、カタクリやニリンソウなど里地里山に特徴的な動植物が生息・生育していて、環境省による生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)の選定地となっている。
 里地里山は、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域である。そのような人の営みがつくり出した里地里山は、食料や燃料生産の場となるだけではなく、様々な動植物の生息・生育の場となり豊かな生物多様性を育んできた。また、国土保全や水源涵養、環境保全の機能など、多面的な機能を発揮し、さらに癒しや楽しみの場、絵図や文学を創出する役割なども果たしている。
 里地里山の多様な生物の営みによって、人が自然から得ているこれらの恵みは「生態系サービス」と呼ばれ、私達の暮らしに必要な資源を提供し、安全や快適性をもたらしている。これらの恵みの多くは、里地里山と人が関わり続けることで、生み出されるものであることから、里地里山を「国民共有の財産」と位置づけ、将来にわたって守り継ぐことが大切であるとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348 
             
・ご祭神 高龗神 伊豆能賣神 墨江三龗神 海見三柱神
             
・社 格 旧下里村鎮守・旧村社
             
・例祭等 下里ささら獅子舞 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0507979,139.2806173,16z?hl=ja&entry=ttu
 田黒日枝神社前に南北に走る道路を北上する。槻川に架かる谷川橋を渡った先にある丁字路を左折し、道なりに3.5㎞程進んだ左側に下里八宮神社の鳥居が見えてくる。
 小川町・下里地域は小川盆地の東端に当たり、地内中心を槻川が蛇行、屈曲しながら東流し嵐山渓谷に達する手前までの、槻川の清流と里地里山が創り出す豊かな自然体系が保存されている地域でもある。社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高298m)の麓に鎮座している。
            
                    下里八宮神社正面
 天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮という。「八宮」と書いて通常「やみや」と読むが、正式には「やぎゅう」。別名「矢弓」「箭弓」、時には「野牛・柳生」とも書く。
 五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男。

 
八宮神社は比企郡小川村、下里村、下横田村、能増村、中爪村(以上小川町)、志賀村、広野村、越畑村、杉山村(以上嵐山町)に鎮座している。淡州神社や黒石神社も同様だが、比企郡内には同系統の社が比較的狭い地域に集中的に鎮座している興味深い郡でもある。
 下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社である。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)嘗て寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称されたと伝えられている。
 
       鳥居を過ぎると丘陵地面の緩やかな登り参道を進む(写真左・右))。
 鬱蒼とした社叢林が参道両側に広がり、拝殿に近づくに連れて、自然と厳かな気持ちになる。
        
                             拝殿前に立つ神明系の二の鳥居
             どこまでも落ち着いた雰囲気が境内全体漂う
        
             拝殿に達する前にももう一段石段を登る。
 同じ八宮神社でも、下里八宮神社は、鳥居を過ぎた瞬間から自然と一体化したような参道、それに凛とした佇まいの社殿、加えて、目には見えない厳かな空気が境内周辺に滲み出ているのに対して、小川盆地内で町内に鎮座する小川八宮神社の荘厳で堂々とした造りである拝殿・本殿、綺麗に整えられた陽光眩しく明るい境内の雰囲気が、まさに対極的である。
「風格」「品格」等、色々と表現方法は多様であるが、結論から言うと、筆者はこの社を参拝して、つくづく感じた。他の八宮神社とは遙かに「格が違う」と
       
            石段を登り終えたすぐ左側に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 八宮明神社 村内の鎮守なり、
 別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
                           『新編武蔵風土記稿 下里村』より引用

 八宮神社 小川町下里九一二
 下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
 社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
 主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。
                                  「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に登場する「青木氏」を調べてみると、『新編武蔵風土記稿 下里村』に「古城跡、山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ことを伝へず」と記載され、この古城跡とは、青山城跡であろう。青木文書に「青山村に城跡あり、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱の後、ここに居住して青木氏と改姓す。城主に氏久・氏郷・右京亮の名あり、天文年間まで居城す」とあり、「鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる」と年代的にも一致する。
        
                     本 殿
        
           本殿の裏側に祀ってある七社分霊神璽を納めた祠
『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていたという。
 
      拝殿に掲げてある奉納額           拝殿左側に鎮座する境内社
             日露戦争の戦勝記念          左側の石祠は三峰社。右側は不明

        境内社・天神社                        境内社・稲荷社
       
           本殿奥の基礎部分にあたる地に
緑泥石片岩らしきものが層状となって見える。

 下里八宮神社から槻川に沿って1.5㎞程南下した場所に「下里・青山板碑製作遺跡」といわれる板碑製作遺跡が存在する。下里 青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への 加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称で、平成26106日付けで国史跡に指定されている。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、 石塔の一種である板碑の造立が盛んになる。緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・ 青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された 14世紀中頃から15 世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地域の板碑造立を中心的な生産地と考えられる。筆者も行って見たが、入口から少し上ると緑泥石片岩の大きな破片がむき出しに至る所に散らばっている。
 このような板碑製作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であると共に、 中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となったという。 
       
                     歴史も古い下里地域に鎮座している八宮神社

『町指定無形民俗文化財 下里の獅子舞』指定年月日 昭和44626
 下里ささら獅子舞は、古くは 7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社、八坂神社、大聖寺に奉納してきました。昭和39 年に一時活動を休止し 43 年に復活、保存会を発足いたしました。
 現在に至るまで大人から子どもたちへと引き継がれ、練習も 6 月中旬から毎日曜日を中心に行なっています。ことしは、7 15 日の午前中は八宮神社、午後は大聖寺に奉納いたしました。真夏の一日、下里 4区センターから奉納寺社まで、太鼓や笛の音が響き厳おごそかな気持ちになります。
                               「小川町議会だよりHP」
より引用



参考資料「環境省 自然環境局 自然環境計画課HP」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」
    「小川町議会だよりHP」「下里・青山板碑製作遺跡 案内板」「Wikipedia」等

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