古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下里八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348
             
・ご祭神 須佐之男命(推定)
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482108,139.2827061,16z?hl=ja&entry=ttu
 上小川神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線、並びに国道254号線を2.8㎞程東行すると、国道左側脇で、小高い山の麓に下里八坂神社の鳥居が見えてくる。
 国道脇で鳥居周辺には、丁度駐車可能な空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                                 
下里八坂神社入口付近
『日本歴史地名大系』 での「下里村」の解説
 小川村の南東、小川盆地の東部に位置し、西は青山村、南西は日影村(現玉川村)。村域の中央を槻川が蛇行する。玉川領に属した(風土記稿)。至徳四年(一三八七)閏五月二一日の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)に「一、下里郷 銭捌拾貫文」とあり、この頃、当地は京都天龍寺の寺領であった。
 天龍寺重書目録(鹿王院文書)に収められる応永二七年(一四二〇)四月一九日の足利義持御教書案によれば、同寺領である下里郷などの段銭以下、諸公事・臨時課役・守護役などが免除されている。なお年未詳の天龍寺寺領目録(同文書)にも「武蔵国下里郷」が記載されているが、当地が天龍寺領としていつまで存続したかは不詳。
 
  参道入口左側には馬頭観音がずらりと並ぶ。   鳥居の右側奥にある「無格社 八坂神社」
                          、手前には「鳥居建設記念碑」。
 
   鳥居を越えると、いよいよ参拝スタート   鳥居を越えてすぐ参道左側に祀っている庚申塔 
      勾配のある石段を登る。       青面金剛(しょうめんこんごう))と石祠
       
             社殿まで長い石段が続く(写真左・右)。
    緑泥片岩で組まれた石段は傾斜こそあるがしっかりとしているため意外と登り易い。
 見た目通りの昔からの手作り感のある石組。材料は同地域内に緑泥片岩の採掘場所があるので、資材調達は特に問題はないと思うが、この斜面を人の力のみで作り上げたその労力は、想像するだけでも大変だっただろうと思いながら一直線の石段を登った。石段の数は数えなかったが、200段以上はあると体感した。但しこの石組は幅があまりない所もあり、登る際には、つま先歩きのような歩き方となり、そこだけはやや不便を感じた。
 
 石段の両側には、鬱蒼とした林と大杉等の巨木で埋め尽くし、日中参拝しているにも関わらず、ほの暗いが、樹木の枝葉の間からさし込む日の光は眩しく、そよ風は爽やかな新緑の木の香りに満ちていて心地よい。
 またこの古風な石段を粛々と登っていくと、この石段を作り上げた多くの地元住民の方々の思いが聞こえるような気がして、理屈では説明しがたい、第六感的な不思議な感覚が研ぎ澄まされたような気持ちになる。今まで数多く社に参拝しているが、時に不思議な感性が右脳を駆け巡り、直感力が増幅するような心持ちになる。
        
                     拝 殿
 拝殿正面には対をなす樹木が立つ。鳥居替わりであろうが、上手く撮影できないため、斜めからの撮影となった。
 八坂神社 小川町下里二三四八
 当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る谷を挟んで南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(一三四〇)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
 社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(八八九-九八)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も『風土記稿』に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(一八一〇)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
 なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る祀職が籠もって祈禱をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           境内社。三峯神社・金比羅神社・御嶽神社が合祀 
       

 下里八宮神社で紹介した「下里ささら獅子舞」は、7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社・八坂神社・大聖寺に奉納してきたという。
 下里の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。別名「防ぎの祭り」ともいわれ、難病や疫病が村に入らないように、村境に悪疫退散のお札を青竹にはさんで立つ。ささら獅子舞は、わらじがけの獅子3頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、4050人が大聖寺と鎮守の八坂神社に舞を奉納するものである。
 この獅子舞の奉納は、例年715日に近い日曜日に奉納されていて、八宮神社は毎年、大聖寺は八坂神社との隔年であるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「小川町議会だより 64 HP」
    「
比企ライフネットHP」等 


       

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下里八宮神社

 環境省では、様々な命を育む豊かな里地里山を、次世代に残していくべき自然環境の一つであると位置づけ、「生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)」(500箇所)を選定した。選定された「重要里地里山」は、地域における暮らしや営み、保全活動等の取組を通じて守られてきた豊かな里地里山を広く国民の皆様に知ってもらうためのものである。また、地域における農産物等のブランド化や観光資源などにも、広く活用できるものと考えているという。
 埼玉県比企郡小川町・下里地域周辺は、周囲を外秩父の山々に囲まれ、伝統産業で古くから栄えた町に、昔ながらの風景が残る農村地域である。農地を中心としたモザイク状の土地利用形態が維持されており、オオムラサキ、カタクリやニリンソウなど里地里山に特徴的な動植物が生息・生育していて、環境省による生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)の選定地となっている。
 里地里山は、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域である。そのような人の営みがつくり出した里地里山は、食料や燃料生産の場となるだけではなく、様々な動植物の生息・生育の場となり豊かな生物多様性を育んできた。また、国土保全や水源涵養、環境保全の機能など、多面的な機能を発揮し、さらに癒しや楽しみの場、絵図や文学を創出する役割なども果たしている。
 里地里山の多様な生物の営みによって、人が自然から得ているこれらの恵みは「生態系サービス」と呼ばれ、私達の暮らしに必要な資源を提供し、安全や快適性をもたらしている。これらの恵みの多くは、里地里山と人が関わり続けることで、生み出されるものであることから、里地里山を「国民共有の財産」と位置づけ、将来にわたって守り継ぐことが大切であるとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348 
             
・ご祭神 高龗神 伊豆能賣神 墨江三龗神 海見三柱神
             
・社 格 旧下里村鎮守・旧村社
             
・例祭等 下里ささら獅子舞 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0507979,139.2806173,16z?hl=ja&entry=ttu
 田黒日枝神社前に南北に走る道路を北上する。槻川に架かる谷川橋を渡った先にある丁字路を左折し、道なりに3.5㎞程進んだ左側に下里八宮神社の鳥居が見えてくる。
 小川町・下里地域は小川盆地の東端に当たり、地内中心を槻川が蛇行、屈曲しながら東流し嵐山渓谷に達する手前までの、槻川の清流と里地里山が創り出す豊かな自然体系が保存されている地域でもある。社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高298m)の麓に鎮座している。
            
                    下里八宮神社正面
 天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮という。「八宮」と書いて通常「やみや」と読むが、正式には「やぎゅう」。別名「矢弓」「箭弓」、時には「野牛・柳生」とも書く。
 五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男。

 
八宮神社は比企郡小川村、下里村、下横田村、能増村、中爪村(以上小川町)、志賀村、広野村、越畑村、杉山村(以上嵐山町)に鎮座している。淡州神社や黒石神社も同様だが、比企郡内には同系統の社が比較的狭い地域に集中的に鎮座している興味深い郡でもある。
 下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社である。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)嘗て寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称されたと伝えられている。
 
       鳥居を過ぎると丘陵地面の緩やかな登り参道を進む(写真左・右))。
 鬱蒼とした社叢林が参道両側に広がり、拝殿に近づくに連れて、自然と厳かな気持ちになる。
        
                             拝殿前に立つ神明系の二の鳥居
             どこまでも落ち着いた雰囲気が境内全体漂う
        
             拝殿に達する前にももう一段石段を登る。
 同じ八宮神社でも、下里八宮神社は、鳥居を過ぎた瞬間から自然と一体化したような参道、それに凛とした佇まいの社殿、加えて、目には見えない厳かな空気が境内周辺に滲み出ているのに対して、小川盆地内で町内に鎮座する小川八宮神社の荘厳で堂々とした造りである拝殿・本殿、綺麗に整えられた陽光眩しく明るい境内の雰囲気が、まさに対極的である。
「風格」「品格」等、色々と表現方法は多様であるが、結論から言うと、筆者はこの社を参拝して、つくづく感じた。他の八宮神社とは遙かに「格が違う」と
       
            石段を登り終えたすぐ左側に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 八宮明神社 村内の鎮守なり、
 別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
                           『新編武蔵風土記稿 下里村』より引用

 八宮神社 小川町下里九一二
 下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
 社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
 主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。
                                  「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に登場する「青木氏」を調べてみると、『新編武蔵風土記稿 下里村』に「古城跡、山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ことを伝へず」と記載され、この古城跡とは、青山城跡であろう。青木文書に「青山村に城跡あり、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱の後、ここに居住して青木氏と改姓す。城主に氏久・氏郷・右京亮の名あり、天文年間まで居城す」とあり、「鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる」と年代的にも一致する。
        
                     本 殿
        
           本殿の裏側に祀ってある七社分霊神璽を納めた祠
『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていたという。
 
      拝殿に掲げてある奉納額           拝殿左側に鎮座する境内社
             日露戦争の戦勝記念          左側の石祠は三峰社。右側は不明

        境内社・天神社                        境内社・稲荷社
       
           本殿奥の基礎部分にあたる地に
緑泥石片岩らしきものが層状となって見える。

 下里八宮神社から槻川に沿って1.5㎞程南下した場所に「下里・青山板碑製作遺跡」といわれる板碑製作遺跡が存在する。下里 青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への 加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称で、平成26106日付けで国史跡に指定されている。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、 石塔の一種である板碑の造立が盛んになる。緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・ 青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された 14世紀中頃から15 世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地域の板碑造立を中心的な生産地と考えられる。筆者も行って見たが、入口から少し上ると緑泥石片岩の大きな破片がむき出しに至る所に散らばっている。
 このような板碑製作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であると共に、 中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となったという。 
       
                     歴史も古い下里地域に鎮座している八宮神社

『町指定無形民俗文化財 下里の獅子舞』指定年月日 昭和44626
 下里ささら獅子舞は、古くは 7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社、八坂神社、大聖寺に奉納してきました。昭和39 年に一時活動を休止し 43 年に復活、保存会を発足いたしました。
 現在に至るまで大人から子どもたちへと引き継がれ、練習も 6 月中旬から毎日曜日を中心に行なっています。ことしは、7 15 日の午前中は八宮神社、午後は大聖寺に奉納いたしました。真夏の一日、下里 4区センターから奉納寺社まで、太鼓や笛の音が響き厳おごそかな気持ちになります。
                               「小川町議会だよりHP」
より引用



参考資料「環境省 自然環境局 自然環境計画課HP」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」
    「小川町議会だよりHP」「下里・青山板碑製作遺跡 案内板」「Wikipedia」等

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腰越熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町腰越353
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例大祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0506104,139.2390118,17z?hl=ja&entry=ttu
 増尾白山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流後、左折して西方向に1.3㎞程進むと、進行方向右側で道路沿いに「村社 熊野神社」の石標柱が見え、そこのT字路を右折する。「自性院」の看板もあるので、住宅街の一角を曲がるのに目印になる。道幅の狭い道路を北上するとすぐ正面に腰越熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社に隣接して、真言宗智山派 自性院がある。江戸時代には別当寺であり、当時の神仏習合の雰囲気を醸し出してくれる。
 駐車スペースも真言宗智山派 自性院の専用駐車場に止めてから参拝を行った。
        
                                 腰越熊野神社 一の鳥居

 一の鳥居から暫くはゆるい傾斜の参道が続く(写真左・右)。参拝時、地元の方々が参拝がてらウォーキングをしていた。日々の適度な運動にもなるし、足腰等の筋力維持にもこの参道は適しているのだろう。
 参道を進み始めると右側に広い空間があり、そこには「峯岸四朗翁顕彰之碑」や忠魂碑があった。「埼玉の神社」によれば、昭和9年から11年にわたり大規模な参道改修と神社前庭拡張工事が行われ、腰越熊野神社の氏子総代や自性院の檀徒総代を務めた峯岸四郎が中心となり、七百余名の寄附を募って行われた大規模なものだったようだ。
        
                    二の鳥居
           二の鳥居から先の参道石段は傾斜が急になる。

 地元の方々もウォーキング程度の適度な運動で終了するのであれば、二の鳥居付近で引き返し、元の場所に戻る方もいるし、この石段を登る方は本気で参拝をする人なのであろう。うまい具合にこの鳥居がその境界となっているようだ。筆者の憶測ではあるが。      
 
  二の鳥居の左側にある手水舎と庚申塔    傾斜の急な石段を登る。結構足腰にこたえる。
       
             石段が終わる手前に聳え立つ杉の御神木
                 樹齢二百年を超えるという
        
                  山腹に鎮座する拝殿
 熊野神社 小川町腰越三五三(腰越字北山)
「おくまん様」の通称で親しまれている当社は、氏子区域である腰越一・二区を一望できる山の中腹にあり、閑静なその境内は、樹齢二百年を超えるという大杉をはじめとする山林に包まれている。山の下から続く、境内に至る長い石段の途中には、江戸時代に別当であった自性院があり、神仏習合のころの名残が感じられる
 当社の創祀について、氏子の間では江戸時代中期の安永七年(一七七八)十二月の創建で、宏壮な社殿が造営され、熊野大権現と称して庶民の崇敬が極めて厚かったと言い伝えられている。檜皮葺の屋根を持ち、要所要所に彫刻が配され、古風な趣が感じられる当社の本殿は、棟札等がないため断言はできないが、安永七年の造営当時のものであろう
 神仏分離を経て、明治四年に村社になり、昭和九年から十一年にわたり大規模な参道改修と神社前庭拡張工事が行われた。この工事は、永らく当社の氏子総代や自性院の檀徒総代を務め、信仰心の厚いことで知られた峯岸四郎が中心となり、七百余名の寄附を募って行われた大規模なもので、当時の氏子一三五戸の各々三日間の勤労奉仕を得て竣工したことが境内の石碑から知られる。ちなみに、この工事に使われた石灰石は、腰越中区の落合山から切り出したものである。また、昭和四十四年には、老朽化した覆屋兼拝殿の再建も行われている
                                  
「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿に掲げてある趣のある扁額      拝殿左側に鎮座する境内社。
天満宮・大黒天。
        
                   天満宮・大黒天の並びに鎮座する境内社・八坂社。
 
 八坂社から適度に離れてはいるが並びに鎮座する境内社・北山開運稲荷神社(写真左)。また少し離れて観音堂が並びに立っている(写真右)。

 拝殿もそうだが、山腹に鎮座しているので、境内は奥行きはなく、代わりに横に広がる配置となっている。丘陵地面に鎮座する宿命ともいえよう。但し北山開運稲荷神社は二の鳥居付近から稲荷神社特有の赤い鳥居から急な斜面を登る参道があり、実際に筆者は登ってみたが、手すりがついていないと意外と危ないと感じた。
 
 写真ではあまり実感できないかもしれないが、社殿付近から見ると、意外と高い位置に鎮座していることを実感できた(写真左・右)。
 当日の天候も晴天で気持ちよく参拝できたし、何より静かな境内から見る腰越地域の街並みや、遠くに見える山々の美しさを肌で実感できたことは、心を潤す何よりの財産となった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等
        
       

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小川町 飯田神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町飯田681
             
・ご祭神 琴平神 貴布禰神(高龗神)菅原道真公                   
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春季大祭 410日 夏祭り 715日 秋季例大祭 1019
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.058122,139.2414431,17z?hl=ja&entry=ttu
 小川町増尾地区に存在する「穴八幡古墳」から北西方向に進み、小川西中学校を左手に見ながら保育園角のT字路を左折する。道幅の狭い道路なので対向車両等に気を付けながら300m程進むと「飯田神社 入口」の看板が見えるので、そこを左折。すると今まで以上に道幅が狭く、鳥居前に到着するまで車両1台分位しか通れないような道となるので、鉢合わせには注意が必要だ。
        
                駐車場から社の入口方向を撮影。

「埼玉の神社」によれば、飯田神社は「琴平山」の頂に鎮座しており、境内の神楽殿付近からは氏子区域である飯田の集落が一望できるという。元来、飯田の鎮守は、『風土記稿』に記されているように字中島(現在の集落農業センター)に鎮座する貴布禰神社であり、この社は永禄五年(一五六二)に勧請されたと伝えられ、明治初年の神仏分離まではその別当であった長福寺の門前に鎮座していた。それを、大正元年十二月十四日に字打越に鎮座する天神社と共に、現社地にあった琴平神社に合祀されたことによって成立したのが飯田神社という。
 本来ならば村社である「貴布禰神社」の社号を継承すべきであったが、三社が合祀によって一体になったことや、一村一社にふさわしい社名をということで飯田神社と称することになった。
 
 写真を見るように、社周辺には住宅等もない静かな空間。また道幅の狭い道路ではあるが、鳥居前には駐車スペースは数台分確保されているので、路駐する心配はない。
 丘陵地に鎮座する社独特の適度な勾配のある石段に近づく間の興奮する気持ちを抑えつつ、平野部に鎮座する社では味わえない静寂感とある種の荘厳さを感じながら参拝を行う。
 現在の飯田神社自体の創建は大正元年であり、比較的新しい社であること、また飯田神社の創建に際して、時の政府による合祀制作の意向に従って行われたものであろうが、飯田地域住民の希望により、飯田の集落が一望できるこの琴平山」に鎮座させたことは、如何にこの地が地域の方々にとって重要な場所であったかを証明する事柄ではなかったろうか。

       飯田神社 一の鳥居          一の鳥居から石段を登ると二の鳥居が見える。        
「小川町の歴史別編民俗編」によれば、飯田神社は、「琴平様」の通称で知られていて、それは、かつては別々の場所にあった琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年十二月十四日に統合し、飯田神社として祀るようになった際、琴平神社の境内であった場所に飯田神社が設けられた。
 琴平神社は、創建の年代は不詳であるが、古くから現在の境内にあり、出世開運の神として信仰されてきた神杜である。これら三社を統合して祀る場所として琴平神社の社地が選ばれたのは、一つには琴平神社が小川の町場にも多く崇敬者を持ち著名であったことが上げられ、同時にこの山が飯田の南西端に位置し、大字全体を見渡せる地であったためと思われる。
 
         一の鳥居・二の鳥居を過ぎて、暫く真っ直ぐな石段を登る。
 途中踊り場も存在し、休みながら比較的長めの石段を登り続ける(写真左)。その後石段は一旦突き当たりとなり、やや右側方向に進路を変えて境内の空間に行きつく(同右)。
        
           長い石段の先に、やっと飯田神社の境内が見えてくる。
        
                       飯田神社 山頂ながら比較的広い境内
「埼玉の神社」によれば、合祀する前の琴平神社は境内が狭かったため、貴布禰神社を迎えるに当たり、氏子は日役で境内の造成を行ったという。地域住民の方々の苦労を鑑みると唯々脱帽するばかりだ。
 
         神楽殿                   拝殿付近
                      傾斜を均すためか、ここも石段で整地されている。
       
                                    拝 殿
 飯田神社(飯田六八一)
 飯田神社は、「琴平様」の通称で知られている。それは、かつては別々の場所にあった琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年十二月十四日に統合し、飯田神社として祀るようになった際、琴平神社の境内であった場所に飯田神社が設けられたためである。
 琴平神社は、創建の年代は不詳であるが、古くから現在の境内にあり、出世開運の神として信仰されてきた神杜である。貴布禰神社は字中島(現在の集落農業センター)に祀られており、江戸時代から飯田の鎮守として祀られてきた神社であったことから明治以降は村社となっていた神社である。最後の菅原道真公を祀る天神社は、字打越に祀られていた神社で、学問の神として信仰されてきた。
 これら三社を統合して祀る場所として琴平神社の社地が選ばれたのは、一つには琴平神社が小川の町場にも多く崇敬者を持ち著名であったことが上げられ、同時にこの山が飯田の南西端に位置し、大字全体を見渡せる地であったためと思われる。また、末社の石船社は、明治二十七年まで長福寺の裏山に把られていたもので、戦前神体の石船を用いた雨乞いがしばしば行われていた。
                                                        「小川町の歴史別編民俗編」より抜粋

       境内に祀られている石祠(写真左)、また鎮座する境内社(同右)
 拝殿左側奥には火光天等の石碑が祀られている(写真左)。飯田神社では10月に秋の大祭(収穫祭)があり、秋の大祭の前日には宵宮祭(よいみやまつり)が執り行われる。この宵宮祭では「火光天」という神様に捧げものを並べ祀る。この火光天の前で神主が祝詞をあげ、その後捧げ物等を蠟燭の火で燃やすという、所謂「火祭り」が行なわれているという。
 境内に設置されている「飯田神社本殿改築記念碑」には火光天に関して、「昔から十月の秋祭りの宵の晩に氏子の家から集めた粗朶薪を焚く火祭りが行われている昭和の中頃一時中止されたがその後間もなく地区内に大火が発生したため復活した」と記載されている。
 この「火光天」は仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である「十二天(じゅうにてん)」の中に存在する「火天(かてん)」と思われる。
 十二天は四方(東西南北)四維(北西・南西・北東・南東)の八方を守護する八方天、上下の二天、日天・月天の十二の天部、つまり東・帝釈天、東南・火天、南・焔魔天、南西・羅刹天、西・水天、西北・風天、北・多聞天、北東・伊舎那天、上方・梵天、下方・地天、日天、月天である。

 拝殿右側に並んで鎮座する境内社(同右)。左側から「日枝神社」、「合祀 稲荷神社・石船神社・天手長男神社」、「津島神社」。
                 
            拝殿右側に鎮座する境内社群の並びにある
昭和十四年秋建立の蠶桑之碑」
           この地域も養蚕業が生活の糧の一つととなっていた。
        
                    境内に設置されている「
飯田神社本殿改築記念碑」
「飯田神社本殿改築記念碑」
 由来
 この飯田の集落には字中島に永禄五年勧請と伝えられる鎮守の貴布祢神社を始め 字打越に天正三年勧請と伝えられる天神社 字日附田で現在地の琴平神社に 大正元年十二月十四日政府の合祀政策により上記三社を合祀し飯田の集落が一望できるこの琴平山を鎮座地として選定し同時に社号を村社飯田神社と改称したといわれる
 また境内社は 明治二十七年に地内各所から貴布祢神社境内に集められていた石船神社 津島神社 天手長男神社 稲荷神社 日枝神社の五社が大正元年の合祀の際移転され末社として祀られ さらに本殿の裏山に二つの祠に祀られている 一つは火光天という火防せの神で もう一つの神は定かでない
 火光天については 昔から十月の秋祭りの宵の晩に氏子の家から集めた粗朶薪を焚く火祭りが行われている昭和の中頃一時中止されたがその後間もなく地区内に大火が発生したため復活したといわれる
 当社はもともと現在地に琴平神社があったことや三社のうち琴平神社が開運招福の神樣として有名であることから通称こんぴら樣と呼ばれて毎月十日に行われる月並祭には開運や商売繁盛のご利益にあやかろうと遠近より参詣者が訪れる
 合祀以来八十余年の歳月を風雪に耐えてきた本殿も老朽が著しく氏子の中から改築の声があがっていた 昭和六十二年にプリムローズカントリークラブが当地域にゴルフ場開發を計画することになり 同社と飯田区ゴルフ場対策委員会の協定により飯田神社本殿の改築工事が行われる運びとなり改築工事は平成四年十月着工され翌五年三月三十一日に落成した 同年四月十一日春季大祭にあわせて遷座祭を挙行し清水宮司を祭司とし多ぜいの神官を始め建築関係者近隣の崇敬者氏子を招いて盛大に行われた 改築にあたり、プリムローズカントリークラブを始め多ぜいの崇敬者から多額の浄財を神納いただいたので 諸祭具を新調したほか諸行事を行うことができた ここに関係者各位に感謝の意を表し神社の由来並びに改築経過を記念碑に刻して後世に伝える(以下略)
                                      案内板より引用
        
                             境内から石段方向を撮影。
 残念ながら現在木々に遮られて、案内板等に書かれているように、飯田地域を見渡せることはできなかった。
        
                            参道の石段から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「Wikipedia」等
                  

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上古寺氷川神社

 古寺という地域名は「埼玉の神社」によると嘗て文字通り古い寺があったことから地名となったと伝えられたという。明治十九年の地誌の下調書によると、聖武天皇の天平年間(七二九-四九)に各地に国分寺・国分尼寺が建立されたが、それ以前に当地の中央に既に大講堂という大きな堂宇があり、大宝年中(七〇一-〇四)に大和国葛城の行者、役小角が関東に下向し、その近傍を遊歴したという。
 後に小角が都幾山に移り慈光寺を建立し、その住職であった慈薫和尚がしばらく大講堂の住僧となっていた関係で、慈光寺の所管となる。貞観二年(八六〇)二月に左大臣清原晏世卿為公が勅使として郡司宣下の折、慈光寺の寺領・境界を定めた際に、この地には慈光寺以前に古い寺(大講堂)があったので古寺村と名付けたとされる。そして正慶二年(一三三三)に守邦親王が来寓して、その古い寺が東の王の意から東王寺となった。
 
しかしその後数度の火災により焼失したため、『風土記稿』上古寺の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持」と記され、既に別当寺は無くなっていた。
               
              
・所在地 埼玉県比企郡小川町上古寺566
              ・ご祭神 健速須佐之男命 竒稲田姫命 大那牟遅命(大己貴命)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月第3日曜日  例大祭 

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑を更に1㎞程南下すると、上古寺氷川神社の標柱が見える。やや目立たない所に立っているため、見逃す可能性は多い。その後右折し舗装されていない、また道幅の狭い砂利道を進行する。
        
          「
古寺鍾乳洞入口」の碑のすぐ南側にある二十二夜待供養塔等の石造物

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑がある場所のすぐ南側は、嘗ての下古寺村と上古寺村の境界地であり、二十二夜待供養塔などの石造物も並んでいる。二十二夜待供養塔並びに立っている石碑の中央部には「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、その上には阿弥陀如来の梵字「キリーク」と刻印されている。更に左右には「右 おがわ・左 ちちぶ」と刻まれている。嘗てこの地域に小川町方面と分岐して、天満神社から矢岸橋を渡って腰越村に続き、最終的に秩父方向に行く道が存在していたようだ。
            
                 県道沿いにある社の標柱
          
 舗装されていない砂利道を進むとほぼ正面に社の社号標柱が見える場所に到着する(写真左・右)。但し専用の駐車スペースは進行中見当たらず、途中路肩に停めてから徒歩にて目的地まで進む。鎮座地は上古寺の中央に位置していることもあり、古くから地内の人々の心の拠り所となってきたようだ。
 
 進行方向正面に小高くこんもりと茂る杜の入口がすぐに目につく(写真左)。杉・檜・椎の古木に包まれる中、長い参道を歩くと荘厳な雰囲気が漂い、いかにも神域にふさわしい景観を呈している。参道当初は石段があり、緩い上り斜面をスムーズに登る(同右)。
               
 石段が途中で終了し、木製の両部鳥居が見えてくる辺りから参道の様相は一変し、木の根が幾重にも参道を横切るように路面上を覆っていて、この参道は境内まで続く。
 かなり歩きづらいが、
幸いなことにこの木の根は階段代わりになっている。
               
                       参道の様子。最後まで木の根の階段を登る。

 斜面上、またか丘陵地や山の頂上部に鎮座する社は、現在綺麗な石段を積み重ねて参拝出来ているが、一昔前はどの社もこのような所が多かったのではなかろうか。自然と一体感となるこの心持が逆に心地よく、また社への純粋な信仰心へと導いてくれるようだ。
               
 木の根で構成されている階段を上っている途中、山頂の境内の若干下部・左側に「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板が立っている。
                     
              境内前には一対の石灯篭が立ち、その右側には杉の大木が聳え立つ。
                 その先に境内が広がる。
 
      境内正面から拝殿を撮影。      境内にある『氷川神社のエンエンワ』案内板
  社殿が西を向いている珍しい神社である。 

 上古寺のエンエンワ 大字上古寺 [平成13823 町指定無形文化財]
 氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。
「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行われる。先達が全国60余州の一宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンワンワ(因縁和)」とも呼んでいる。
 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。「シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い様式を踏襲しており、地区全体でその伝統を保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。
                                      案内板より引用

               
                                 拝 殿

 氷川神社(上古寺五六六)
 因縁和の神事で有名な上古寺の氷川神社は、社記の『因縁和神事覚』によれば、斉明天皇の五年(六五九)九月十九日、役行者部(役小角)が関東に下向して廻遊していた際、この地の村人の敬神宗祖の念厚きに感じ、かつまたその景観をめで、霊感を得て地域中央の宮の森に小耐を建立すると共に、武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請して手づから神像を木彫してこれを安置し、当地の繁栄鎮護を祈念したことに始まると伝えられる。この故を以て、氏子の間では毎年九月十九日に例大祭が斎行されてきた。
 社殿に武蔵一宮氷川神社の宮司岩井宅幸筆の「氷川神社別御魂」という扁額が幕末に掲げられたのも、こうした創立の経緯によるもので、役行者が彫ったと伝えられる神像は、氷川神社の神体として今も本殿内に大切に祀るられている。ちなみに、社の近くの金嶽川には屏風ケ岩という滝があり、そこで役行者が斎戒休浴したといわれてきたが、慶応年間(一八六五~六八) の洪水によって大石が崩れ込んで浅瀬になってしまっており、往時の面影はない。
 氷川神社で行われてきた特殊な祈願としては、養蚕倍成祈願と子供の癇封じがある。養蚕倍成祈願は、繭五~七個に糸を通し、拝殿の格子のところにつるすもので、養蚕が盛んに行われていた昭和三十年ごろまでは秋になるとよく上がっていた。癇封じは、竹を切って作った筒を二本つなぎ、これに酒を入れて供え、祈願するもので、昔は時折見かけたが、近年では絶えてしまった。
境内には、役行者が当地に寓居した時の手作りの面を祀る姥神神社、村の悪疫を被う八坂神社、火防の神として祀る天手長男神社、雨乞いや雷除けに御利益のある雷電神社、豊作や子孫繁栄をもたらしてくれる稲荷神杜などが祀られている。この稲荷神社は、白蟻除けの信仰もあり、神前の白狐像一対を借りて帰り、家の大黒様の横に祀っておくと白蟻が家に上がらないとの信仰がある。
 また、本殿の裏側には「御末社」と呼ばれる一八の祠が祀られている。この「御末社」は、氷川神社の創建当時、この地域を開発したとされる草分けの一八戸の氏神を祀ったもので、寺院でいう位牌堂のような印象を受ける。なお、秋の例大祭に行われる因縁和の神事では、全国七十余州の一宮への奉献に先だち、この「御末社」に対して献膳を行うのが習いとなっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
  拝殿に掲げてある「氷川大明神」の扁額     拝殿手前で左側にある『代々椎』の切り株

 境内には境内社が鎮座する。
   
 拝殿左側には『稲荷社・天手長男社・姥神社』        『御嶽大神』
 
   『御嶽大神』の奥には『境内三社』         拝殿右奥には『雷電社』
               
                 拝殿右側には社務所があり、その隣に八坂社が鎮座する。
      

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等  
                       

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