古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原川駒形神社

        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町原川74
             ・ご祭神 駒形大神(推定)
             ・社 格 不明
             ・例 祭 例大祭1015日 祈年祭43日
 原川駒形神社は笠原諏訪神社の北西100m程の位置に鎮座している。鳥居左側に若干の空間があり、そこに車を停めて急ぎ参拝を行う。小川町原川地区は兜川上流の山間地に位置し、古くは玉川領に属していたが、正保から元禄年間にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立したという。
 創建由来として、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。松山城主上田案独斎に仕えた家老原川丹波守が、天正18年(1590)の松山城落城後に当地に土着、原川丹波守が持参した「袂石」を奉斎、「明細帳」では慶長4年(1599)に再建したという。
        
                                 原川駒形神社 正面撮影
           
                                   参道・社号標柱
        
                     拝 殿
 駒形神社 小川町原川七四(原川字桜沢)
 当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
 これより先、天正十八年(一五九〇)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。
 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、『明細帳』には慶長四年(一五九九)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのであろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五〇センチメートルほどの円柱形の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものと言われ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔にあたる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという。
                                   「埼玉の神社」より引用 

 
   拝殿に掲げている「駒形神社」扁額        石碑には仙元大神宮。その奥には稲荷社。
        
                   左側には参宮記念参道改修之碑。その横にある「袂石」。

  原川の駒形神社は、天正十八年(一五九〇)に松山城が陥落した際、城主・上田案独斎に仕えた三人の家老の中の一人、原川丹波守がこの地に落ち延びて隠れ棲んだ際に、祀ったものであるという。また、境内にある高さ50㎝程の「袂石」と称する円柱状の石は、原川丹波守が袂に入れてきたものと伝えられている。
        
                                      鳥居の右側で、道路沿いにある地蔵堂。
         
その隣には如意輪観音や庚申塔、無縫塔などが並んでいる。   

拍手[1回]


笠原諏訪神社

        
                                     ・所在地 埼玉県比企郡小川町大字笠原229-4
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 例大祭105日 祈年祭225日
 笠原諏訪神社は小川町から埼玉県道30号飯能寄居線を寄居方向に進み、途中県道274号赤浜小川線の陸橋を越えて最初の押しボタン式信号のある交差点を左折する。その後5差路に分かれる交差点を優先道路の路面標示された方向に進むとすぐ右側に笠原諏訪神社が見えてくる。
 因みにこの通りを真っ直ぐに進むと以前アップした笠原熊野神社に到着できる。
 笠原諏訪神社の一の鳥居付近は斜めから進む道路に対して三角地帯のような空間を形成していて、適当なスペースもあり、その場所周辺に駐車して、参拝を行う。
        
                笠原諏訪神社 一の鳥居
 笠原諏訪神社は、信州から当地に移住してきた小笠原内膳が、慶長年間(1596-1615)に諏訪大社から奉持してきた神体を当地に祀って創建したと伝えられ、江戸期には(小笠原氏から名付けられた)笠原村の鎮守として祀られていた。寄居町白岩(立原)諏訪神社・奈良梨諏訪神社(現八和田神社)と共に「兄弟三社」と称されている。
        
                                                               参道正面
        
           丘陵地端部に位置する社。高台には二の鳥居あり。
        
                     拝 殿
 諏訪神社 小川町笠原二三〇(笠原字宮ノ脇)
 当社の鎮座する笠原は、外秩父山地の東縁部、兜川の支流滝川流域の山間地に位置している。古くは竹沢村と称していたが、正保・元禄年間(一六四四-一七〇四)のころに六か村に分村した一つであった。
 当社は、創祀年代を慶長年間(一五九六-一六一五)と伝えられている。信州諏訪から落ち延びて来た武者、小笠原内膳が当地に住み着き、守護神として奉持して来た建御名方命の神体を祀ったことに由来するという。もともと笠原氏は、古代の名族の一つで、全国の各地に進出して活躍した一族であったが、その中心地が信州であり、諏訪大社の神官家の中にも笠原一族が活躍していたことが明らかにされている。したがって、この時の武者が、その流れを汲むものであることは十分に推定できよう。更には、当社の社紋が諏訪大社と同一の「穀」であることもそのことを証する。また、『風土記稿』に「諏訪社 村の鎮守なり、村民持」とあるのは、小笠原氏の末裔が奉祀していたことをうかがわせるものであろう。
 明治四年に村社となり、同四十五年四月、陣屋の愛宕神社、栃本の神明社の二社を合祀した。
 なお、当社は、かつて寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称され、近郷に聞こえた名高い神社の一つであった。
                                   「埼玉の神社」より引用

 境内は広い。子供用の遊具や、ゲートボール場などがあり、神社脇には諏訪会館という社務所兼の建物もある。日頃の清掃も行き届いている明るい社という印象。
 
           石神                                    合祀社
  
神日本磐余彦尊、大国主命、弥勒大菩薩    天満天神宮、三峯神社、愛宕神社、天手長男神社

「小川町の歴史別編民俗編」による笠原諏訪神社の由緒には、氏子の笠原イッケは小笠原内膳の後裔であるとされており、このイツケの家の間では、正月に門松は立てず、家の土間の中に一本の松を立てるのが家例となっている。これは、小笠原内膳がこの地に落ち着いたのはちょうど年の暮れであったが、門松を立てると目立って敵に見つかる恐れがあるため、家の中に松を立てて新年を迎えたことに始まるものであるという
 当地の氏子たちは「白蛇は神の使いである」と信じている。古来白蛇は、水神として崇められ、氏子の間では雨乞いが行われ、五穀豊穣が祈願されている。したがって当社では、白蛇がとりわけ大切にされ、粗相があってはならないと、蛇をついばむ鶏は飼わないという習いがあり、今なお守られ続けている。
 また、「諏訪神社の氏子は白い鳥を飼ってはならない」ともいい、昔は白い色の鶏を飼うことを禁忌としていた。
        
            合祀社の右側にある紙垂が巻かれている石柱。
                            ミシャグジ神の類かどうかは不明

 
 

拍手[1回]


笠原熊野神社

熊野神社が鎮座する小川町笠原地区の「笠原」という地名は、とにかく歴史が古い。埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり、「加差披余」が「笠原」という名前に比定されているという説が多い。
 また日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見えるが、この「笠原直使主」と「加差披余」が同じ一族との説もある。 
 小川町にも昔から「笠原」苗字の方も多いようで、正倉院天平六年宝物に「武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里」と見えることから、この地と笠原氏はかなり昔から居住していたことが伺える。
 所在地 埼玉県比企郡小川町笠原333
 ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命 
 社 格 不明
 例 祭 不明
        
 笠原熊野神社は小川町から埼玉県道30号飯能寄居線を寄居方向に進み、途中県道274号赤浜小川線の陸橋を越えて最初の信号(手押しだが)のある交差点を左折する。東武東上線や八高線に沿って県道は流れているため、踏切を越える為に設置された信号のようだ。その後5差路に分かれる交差点を左方向に進む。途中大きく右方向にカーブするがそのまま道なりに直進し、3差路以降道は細くなるが、暫く進むと、笠原熊野神社を越えて「笠原地区憩いの場公衆トイレ」のある休憩所兼駐車スペースに到着する。
 笠原熊野神社参道は駐車スペースから東側にあり、専用駐車場もないため、休憩所に車を停めて参拝を行った。
        
                     鳥居正面
 一般道から民家や畑を抜けながら鳥居方向に向かうため、細長い参道を含めた撮影は極力控え、民家等ない位置から撮影した。
        
                                 笠原熊野神社正面鳥居
  
    左側の石祠は天神社。右側は板碑か       創建時に関わりにあった行者社との事
        
                     拝  殿
        正面
鳥居をくぐり、60段余の石段を登ったところに鎮座している

『笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(159296)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祀った社であるという。
 江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(1842)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
 なお、かつては熊野神社では女人禁止とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという』
                            「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
  
       拝殿左側に鎮座する石柱、境内社        社殿の奥には
境内社:御嶽社
         
                 社殿手前右側に聳え立つ御神木

 冒頭に述べた「笠原」に関して,その後特段記載する内容もなく、中途半端で終わってしまう事をお詫びしたい。但し古代「笠原」姓の方々が、この地にいたことは事実である。また慶長年間にこの地に土着したとされる「
柑名桜井氏」も調べたが同様に何も分からなかった。

 低山とはいえ数十段の階段を上るのはややきつい。しかし斜面上をうまく利用して社殿等を送検する先人たちの努力には敬意を表したい。また参拝中もどこか厳かな雰囲気もあり、風格のある社とも感じた。


 

拍手[0回]


勝呂白鳥神社

ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族で、『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
 16才の時、景行天皇に命じられ九州の熊襲に攻め入り、その際、女装して首長川上梟帥の宴に紛れ込み、梟帥を刺殺した。この時、梟帥に賞され、日本武皇子の名が贈られた。その後、東国の蝦夷による乱が起き、再び尊が命を受け、途中、伊勢神宮に仕えていた叔母倭姫命より草薙剣を授けられ、これが焼津で賊の放った火から逃れるのに役立った。平定後、帰途尾張で宮簀媛と結婚した。其の後五十葺山で荒れ狂った神を鎮めようとして逆に病を煩い、満身創痍の状態となりながら伊勢に入り能褒野で没したと伝わる。
 白鳥神社は、日本各地に鎮座する日本武尊を祀る神社である。大鳥信仰の神社と同様に、日本武尊の伝説に因む白鳥信仰の神社であるものが多い。宗教法人としては全国に白鳥神社が111社、白鳥神社を名称に含む神社が1社、白鳥社が6社存在する。全国の白鳥神社に共通する「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられたという。
 
所在地  埼玉県比企郡小川町勝呂310
 ご祭神  日本武尊
 社 格  不明
 例 祭  不明
        
 勝呂白鳥神社は古くは相模街道と呼ばれていた埼玉県道30号飯能寄居線を小川町から寄居町方向に進む。(途中、比企郡小川町から大里郡寄居町まで国道254号と重複している所もあり、説明することもややこしくなるため、ここでは県道30号にて統一表記する)JR竹沢駅を過ぎて、右側に津島神社を見ながら最初の手押しのT字路である交差点を左折し、左側に流れる兜川の源流である西浦川に沿って進むと勝呂白鳥神社に到着する。
 神社の鳥居手前に駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
        
        
                     拝  殿
境内碑より引用
 当神社の御創建は、南北朝時代の初め現在の奥社が鎮まる土地に祀られたという。社伝によれば、当社の前谷津にあった「神出」という小字名を残す付近に毎夜光るものが現われ、土地の人々が恐れおののいていた。そこへ一人の旅の武士が通りかかってその話を聞き、その場所を掘ってみると、十一面観音の座像が出てきた。
 しかもその時、上空には白鳥が一羽舞い来たり、暫くすると向い側の森に舞い下りた。そこで武士は「これはあの森に祀れというお告げだ」と考え、この座像を奥社の地に安置したが、以来土地の者たちが、これを白鳥明神と崇め、日本武尊を御祭神として篤く信仰するようになった。
 御祭神は、光を発し何度も拝見すると眼を悪くするので、六十年に一度だけ開扉して御神像を拝することとなり、今回がその第十一回に当たる。
 
撰文 宮司 宮澤貞夫 
 皇紀二千六百六十年 
 平成十二年十月十五日 
 埼玉県神社庁長 
 秩父神社宮司 
 京都大学名誉教授 薗田稔謹書
  
       拝殿に掲げている扁額          拝殿の奥の斜面上に鳥居が見える
  
  左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿    覆屋の左手には三峰神社が鎮座する。

 ところで勝呂地区に鎮座する白鳥神社の創建には、増尾氏が関わってきたという。男衾郡竹沢勝呂村(小川町)は猿尾庄を唱えていて、その後、猿(ましら)の佳字を用いて増尾を猿尾と称したようだ。其の後その系統から木呂子村を所領として木呂子氏を称したという。
 平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、畠山一族の出身であることがわかる。畠山一族は重忠の名声により、とかく「坂東武者の鑑」とその一面のみ語られる事が多いが、その一族の本来の素性も語られるべきではないか、とも筆者は考察するところだ。猿尾氏に関しての資料として以下の書簡等があるのでここに紹介する。
風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
「比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」
永禄十年大梅寺縁起
「大塚郷大梅寺は、仁治三壬寅年猿尾氏が霊山院初祖栄朝禅師を請して創建す」
大塚村栃本如意輪観世音縁起
「六条天皇の御宇、土豪増尾十郎兼信・斎藤六郎輝実、力を協せて殿堂の衰頽せるを再興し、荘園を寄進し、又百体観世音像を造りて、百僧を供養し給ふ。増尾氏は元弘の頃まで栄えたりしが、守邦親王に再挙を勧め事成らずして共に亡び、斎藤氏は一族と共に南朝に尽くし、一族中には名を顕はしたるあり。正徳二年正月看主」
        
                社殿より正面鳥居を望む。
 勝呂という地名も何か曰くがありそうだ。
 冒頭「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられた、と述べたが、「日本武尊伝説」自体が鉱山と密接な関係があるように思えてならず、そのうえ畠山一族である猿尾氏まで絡んでいる。勝呂白鳥神社近郊にある「竹沢駅」の地名竹沢も、元来秩父児玉党の出身である竹沢党から起こっている。
○靭負村の曹洞宗竹沢山雲竜寺裏に館跡あり。武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
○冑山本、武蔵七党系図「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」

『埼玉の神社』では、白鳥神社に関して《当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。》と述べ、この神社の創祀伝説を記している。また、『新編武蔵風土記稿』は、西光寺持ちの虚空蔵堂を記している。西光寺は明治の神仏分離時に廃寺となっている。白鳥神社には本殿と並んで、三光社が祀られているが、これは妙見神のことらしい。ちなみに、妙見神とは、北辰神、すなわち北極星信仰のことであって、日本在来のものではなく、渡来人が持ち込んだ道教の神である。勝呂地区の南隣、木部にも三光神社が鎮座している。

 勝呂の北東端にある標高
263.4mの金勝山がある。今では低山ハイキングコースとして有名な山となっているようだが、この一帯は白亜紀に変成した三波川変成岩の上に衝上断層を介して乗っている地質で、今でも前期 三畳紀 (25000万年前, 250 Ma)の金勝山花崗閃緑岩に見られるペグマタイトが産出している。ペグマタイトはほとんど石英, 長石, 雲母から構成されるが、チタン鉱物を伴うことがあり、ある一時期マンガン等の鉱物が産出したことも否定できない。鉱物学には至って低レベルな知識しか持ち合わせていないので、科学的に立証しているわけではないが、白鳥伝説といい、地名の由来、畠山一族がこの地域一帯を治めていたことを考えると、そのような仮説が漠然と浮かび上がってくるのだ。


          

拍手[2回]


木部三光神社

妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれ、秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域である。
 妙見信仰は秩父地域を中心に木部三光神社も嘗ては妙見社と称していたという。
 近くの東秩父村安戸地区には安戸身形神社が鎮座し、「妙見様は三姉妹で、長女は当社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されているという。木部三光神社当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くないという。
 所在地 埼玉県比企郡小川町大字木部458
 ご祭神 大日孁貴命・月夜見命・国常立尊
 社 格 不明
 例 祭 不明
        
 木部三光神社は東武東上線竹沢駅から埼玉県道30号飯能寄居線方向に直進し、交差点をそのまま進む。しばらくすると細い道幅になるが、対向車や低山ハイキングで歩かれている方々には気を付けて進むと、低山ハイキング用に設置されたのであろう木部公衆トイレが右側に見え、その先のY字路の斜面上に木部三光神社は鎮座している。
 専用駐車場は無いが、東側の道端に退避エリアがあるのでそちらに駐めて、参拝を行った。
        
        
                    神社の案内板

 三光神社  所在地 比企郡小川町大字木部
 三光神社は、建久年間(1190)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
 江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
 古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
 昭和五十九年三月 
埼玉県 小川町                     案内板より引用
        
                     拝  殿
ご神木の杉が拝殿に向かう参道内にもたれるように聳え立ち、正面ではこのアングルしか撮影することしかできなかった。
        
                 ご神木である大杉の案内板

 三光神社の大スギ   平成8419日 町指定天然記念物
 三光神社は、一般に「妙見様」として知られていますが、元来は妙見社と称し、明治維新の神仏分離によって三光神社と改称されました。東秩父村の安戸に鎮座する身方神社も、神仏分離までは妙見社と称しており、同社には、「妙見様は三姉妹で、長女は木部の三光神社、次女は安戸の身方神社、三女は秩父神社である」との伝えがあります。
 神社本殿を囲む社叢の中でひときわ目立つ大スギは、目通り4.6m、樹高35.1mを測り、御神木として、地元の信仰を集め愛護されています。
 スギは比較的湿潤な土地を生育の好適地とし、神社の社叢は小さな沢に接する山裾にあることから、スギの生育に適した立地であるといえます。また、本殿左後方のスギ林の中にスダジイ・アラカシの高木が各一本ずつあります。
 小川町教育委員会                             
案内板より引用
  
       拝殿に掲げている扁額           拝殿左側に鎮座した末社群
今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い   左から稲荷神社・手長男神社・聖天社

 社伝によると、当社の創建は児玉党の竹沢氏の子孫により行われたという。竹沢氏は大字靱負を本拠とした中世の豪族で、正平十三年
(1358)に竹沢右京亮が足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られている。
 一方、同じく妙見社(現身形神社)を鎮守とする東秩父村安戸には「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されている。この伝えは、妙見信仰の系譜を物語るものとして重要である。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれ、秩父神社の分社を郡境の交通の要所七か所に祀り、攘災の守り神とした。そのうちの一社が東秩父村安戸の妙見社である。当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くない。
「風土記稿」には「妙見社 村の鎮守なり、村持」とある。
 当社は神仏分離により三光神社に改称した。その社号は「明細帳」に見える大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱の祭神にちなんでいる。しかし今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い(中略)
 末社に手長男神社・聖天社・稲荷神社がある。手長男社は、天保八年(1837)に神主相馬播磨藤原知祇により勧請された。火防の神といわれ、十二月十日の祭事に配られる神札を家の台所に貼る。聖天社は、氏子の根岸銀蔵家(既に絶家)の氏神であったと伝え、当社の春祭り(四月第一日曜日)に合わせて祭事を行っている。稲荷社は当社の例祭に合わせて祭りを行っている』
                          「埼玉の神社 大里 北葛飾
比企」より引用
        
                 
拝殿前の石段より撮影


 

拍手[0回]