古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

勝呂白鳥神社

ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族で、『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
 16才の時、景行天皇に命じられ九州の熊襲に攻め入り、その際、女装して首長川上梟帥の宴に紛れ込み、梟帥を刺殺した。この時、梟帥に賞され、日本武皇子の名が贈られた。その後、東国の蝦夷による乱が起き、再び尊が命を受け、途中、伊勢神宮に仕えていた叔母倭姫命より草薙剣を授けられ、これが焼津で賊の放った火から逃れるのに役立った。平定後、帰途尾張で宮簀媛と結婚した。其の後五十葺山で荒れ狂った神を鎮めようとして逆に病を煩い、満身創痍の状態となりながら伊勢に入り能褒野で没したと伝わる。
 白鳥神社は、日本各地に鎮座する日本武尊を祀る神社である。大鳥信仰の神社と同様に、日本武尊の伝説に因む白鳥信仰の神社であるものが多い。宗教法人としては全国に白鳥神社が111社、白鳥神社を名称に含む神社が1社、白鳥社が6社存在する。全国の白鳥神社に共通する「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられたという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町勝呂310
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧勝呂・木呂子両村鎮守
             ・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0780802,139.2152652,15z?hl=ja&entry=ttu
 勝呂白鳥神社は古くは相模街道と呼ばれていた埼玉県道30号飯能寄居線を小川町から寄居町方向に進む。(途中、比企郡小川町から大里郡寄居町まで国道254号と重複している所もあり、説明することもややこしくなるため、ここでは県道30号にて統一表記する)JR竹沢駅を過ぎて、右側に津島神社を見ながら最初の手押しのT字路である交差点を左折し、左側に流れる兜川の源流である西浦川に沿って進むと勝呂白鳥神社に到着する。
 神社の鳥居手前に駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
        
                  勝呂白鳥神社正面
        
                     拝 殿
 境内碑
 当神社の御創建は、南北朝時代の初め現在の奥社が鎮まる土地に祀られたという。社伝によれば、当社の前谷津にあった「神出」という小字名を残す付近に毎夜光るものが現われ、土地の人々が恐れおののいていた。そこへ一人の旅の武士が通りかかってその話を聞き、その場所を掘ってみると、十一面観音の座像が出てきた。
 しかもその時、上空には白鳥が一羽舞い来たり、暫くすると向い側の森に舞い下りた。そこで武士は「これはあの森に祀れというお告げだ」と考え、この座像を奥社の地に安置したが、以来土地の者たちが、これを白鳥明神と崇め、日本武尊を御祭神として篤く信仰するようになった。
 御祭神は、光を発し何度も拝見すると眼を悪くするので、六十年に一度だけ開扉して御神像を拝することとなり、今回がその第十一回に当たる。
 撰文 宮司 宮澤貞夫 
 皇紀二千六百六十年 
 平成十二年十月十五日 
 埼玉県神社庁長 
 秩父神社宮司 京都大学名誉教授 薗田稔謹書
 
      拝殿に掲げている扁額           拝殿の奥の斜面上に鳥居が見える
        
          位置的に見てもどうやら白鳥神社の奥宮のように見える。
 
左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿    覆屋の左手には三峰神社が鎮座する。
             
                白鳥神社本殿からの眺め 
 ところで勝呂地区に鎮座する白鳥神社の創建には、増尾氏が関わってきたという。男衾郡竹沢勝呂村(小川町)は猿尾庄を唱えていて、その後、猿(ましら)の佳字を用いて増尾を猿尾と称したようだ。其の後その系統から木呂子村を所領として木呂子氏を称したという。
 平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、畠山一族の出身であることがわかる。畠山一族は重忠の名声により、とかく「坂東武者の鑑」とその一面のみ語られる事が多いが、その一族の本来の素性も語られるべきではないか、とも筆者は考察するところだ。猿尾氏に関しての資料として以下の書簡等があるのでここに紹介する。
風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
「比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」
永禄十年大梅寺縁起
「大塚郷大梅寺は、仁治三壬寅年猿尾氏が霊山院初祖栄朝禅師を請して創建す」
大塚村栃本如意輪観世音縁起
「六条天皇の御宇、土豪増尾十郎兼信・斎藤六郎輝実、力を協せて殿堂の衰頽せるを再興し、荘園を寄進し、又百体観世音像を造りて、百僧を供養し給ふ。増尾氏は元弘の頃まで栄えたりしが、守邦親王に再挙を勧め事成らずして共に亡び、斎藤氏は一族と共に南朝に尽くし、一族中には名を顕はしたるあり。正徳二年正月看主」
        
                 社殿より正面鳥居を望む。
 勝呂という地名も何か曰くがありそうだ。
 冒頭「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられた、と述べたが、「日本武尊伝説」自体が鉱山と密接な関係があるように思えてならず、そのうえ畠山一族である猿尾氏まで絡んでいる。勝呂白鳥神社近郊にある「竹沢駅」の地名竹沢も、元来秩父児玉党の出身である竹沢党から起こっている。
○靭負村の曹洞宗竹沢山雲竜寺裏に館跡あり。武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
○冑山本、武蔵七党系図「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」

『埼玉の神社』では、白鳥神社に関して《当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。》と述べ、この神社の創祀伝説を記している。また、『新編武蔵風土記稿』は、西光寺持ちの虚空蔵堂を記している。西光寺は明治の神仏分離時に廃寺となっている。白鳥神社には本殿と並んで、三光社が祀られているが、これは妙見神のことらしい。ちなみに、妙見神とは、北辰神、すなわち北極星信仰のことであって、日本在来のものではなく、渡来人が持ち込んだ道教の神である。勝呂地区の南隣、木部にも三光神社が鎮座している。

 勝呂の北東端にある標高
263.4mの金勝山がある。今では低山ハイキングコースとして有名な山となっているようだが、この一帯は白亜紀に変成した三波川変成岩の上に衝上断層を介して乗っている地質で、今でも前期 三畳紀 (25000万年前, 250 Ma)の金勝山花崗閃緑岩に見られるペグマタイトが産出している。ペグマタイトはほとんど石英, 長石, 雲母から構成されるが、チタン鉱物を伴うことがあり、ある一時期マンガン等の鉱物が産出したことも否定できない。鉱物学には至って低レベルな知識しか持ち合わせていないので、科学的に立証しているわけではないが、白鳥伝説といい、地名の由来、畠山一族がこの地域一帯を治めていたことを考えると、そのような仮説が漠然と浮かび上がってくるのだ。


          

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木部三光神社

妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれ、秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域である。
 妙見信仰は秩父地域を中心に木部三光神社も嘗ては妙見社と称していたという。
 近くの東秩父村安戸地区には安戸身形神社が鎮座し、「妙見様は三姉妹で、長女は当社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されているという。木部三光神社当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くないという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町大字木部458
             ・ご祭神 大日孁貴命・月夜見命・国常立尊
             ・社 格 旧男衾郡竹澤木部村鎮守
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0691396,139.230241,17z?hl=ja&entry=ttu
 木部三光神社は東武東上線竹沢駅から埼玉県道30号飯能寄居線方向に直進し、交差点をそのまま進む。しばらくすると細い道幅になるが、対向車や低山ハイキングで歩かれている方々には気を付けて進むと、低山ハイキング用に設置されたのであろう木部公衆トイレが右側に見え、その先のY字路の斜面上に木部三光神社は鎮座している。
 専用駐車場は無いが、東側の道端に退避エリアがあるのでそちらに駐めて、参拝を行った。
        
                         Y字路の角地に鎮座する木部三光神社
               
                    道路面から一段高い場所に鎮座する社     
         
               境内に設置されている案内板
 三光神社  所在地 比企郡小川町大字木部
 三光神社は、建久年間(1190)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
 江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
 古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
 昭和五十九年三月 
埼玉県 小川町                     案内板より引用
             
        
                     拝 殿
 ご神木の杉が拝殿に向かう参道内にもたれるように聳え立ち、正面ではこのアングルしか撮影することしかできなかった。
         
                ご神木である大杉の案内板
 三光神社の大スギ   平成8419日 町指定天然記念物
 三光神社は、一般に「妙見様」として知られていますが、元来は妙見社と称し、明治維新の神仏分離によって三光神社と改称されました。東秩父村の安戸に鎮座する身方神社も、神仏分離までは妙見社と称しており、同社には、「妙見様は三姉妹で、長女は木部の三光神社、次女は安戸の身方神社、三女は秩父神社である」との伝えがあります。
 神社本殿を囲む社叢の中でひときわ目立つ大スギは、目通り4.6m、樹高35.1mを測り、御神木として、地元の信仰を集め愛護されています。
 スギは比較的湿潤な土地を生育の好適地とし、神社の社叢は小さな沢に接する山裾にあることから、スギの生育に適した立地であるといえます。また、本殿左後方のスギ林の中にスダジイ・アラカシの高木が各一本ずつあります。
 小川町教育委員会                              
案内板より引用
 
      拝殿に掲げている扁額           拝殿左側に鎮座した末社群
今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い   左から稲荷神社・手長男神社・聖天社

 社伝によると、当社の創建は児玉党の竹沢氏の子孫により行われたという。竹沢氏は大字靱負を本拠とした中世の豪族で、正平十三年
(1358)に竹沢右京亮が足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られている。
 一方、同じく妙見社(現身形神社)を鎮守とする東秩父村安戸には「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されている。この伝えは、妙見信仰の系譜を物語るものとして重要である。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれ、秩父神社の分社を郡境の交通の要所七か所に祀り、攘災の守り神とした。そのうちの一社が東秩父村安戸の妙見社である。当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くない。
「風土記稿」には「妙見社 村の鎮守なり、村持」とある。
 当社は神仏分離により三光神社に改称した。その社号は「明細帳」に見える大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱の祭神にちなんでいる。しかし今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い(中略)
 末社に手長男神社・聖天社・稲荷神社がある。手長男社は、天保八年(1837)に神主相馬播磨藤原知祇により勧請された。火防の神といわれ、十二月十日の祭事に配られる神札を家の台所に貼る。聖天社は、氏子の根岸銀蔵家(既に絶家)の氏神であったと伝え、当社の春祭り(四月第一日曜日)に合わせて祭事を行っている。稲荷社は当社の例祭に合わせて祭りを行っている。
                          「埼玉の神社 大里 北葛飾
比企」より引用
        
                 
拝殿前の石段より撮影


 

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大塚八幡神社

小川町は埼玉県のほぼ中央に位置し、広い関東平野が外秩父の山脈と接する位置にあり、中心地は周囲を山々に囲まれた小川盆地で、中央を荒川の支流、槻川が流れていて、京都に似た自然景観であるため、別名「武蔵の小京都」と呼ばれている。
 小川町で高い場所といえば、笠山で標高837m、一番低い所は市野川沿いの55m、その差約800mあり、この標高差の中に山地があり・盆地・丘陵、低地がありと非常に変化に富んだ地形を有しているのが小川町の特徴である。人々はこの地形と川を生かして古くから和紙、絹、建具、酒造などの産業を起し、地場産業として定着させ町場の賑わいを造りだしてきた長い歴史があり、その代表がユネスコ無形文化遺産に登録された細川紙である。
 同時に小川町域は中世(鎌倉・室町・戦国)の時代から人びとが往来する道筋にあり、鎌倉と上州・信州を結ぶ鎌倉街道上道が町域を貫通しており、奈良梨はその中心であった。本来は軍馬が行き交う軍用道路として整備されたものだったが、人々の交流や物資の輸送にも重要な役割を果たした。仙覚律師もこの道をたどって草深いこの地につき、『万葉集註釈』を完成させたと思われる。また高見が原の合戦等の戦場となり、さらに国指定史跡となった「下里・青山板碑製作遺跡」からきり出された緑泥石片岩(下里石)で作られた板碑が町域に1000基以上現存するが全てこの時代のものである。
 時代が下り江戸時代には賑わう町場が誕生し活況を呈し、外秩父の山裾を南北に八王子と上州を結ぶ八王子街道が、川越秩父道と町場の中心で交わる交通の要衝となった小川村は、人と物資の集散地となり「民家が軒を連ね」、一と六の日には市が立ち賑わったという。
 総じて山間地が多く耕作地の少ないこの地域には副業が発達し紙漉き・養蚕・絹織物・素麺・酒造などが盛んとなりその製品が街中で売買され、同時に江戸から秩父への最短距離であったため秩父巡礼や三峯山参拝で文人墨客の来遊も多く、道中日記や旅行記等に作品をみることができる。 
        
             ・所在地   埼玉県比企郡小川町大塚427
             ・ご祭神   品陀和気命(応神天皇) 天照大御神 豊受大神
                  大山咋命 保食命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 元旦祭 11日 春祭 310日 例大祭 1019
                  秋祭 1123日 他小祭
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.060892,139.2495185,16z?hl=ja&entry=ttu 
 大塚八幡神社は国道254号小川バイパスを小川町方向に進み、駅前(西)交差点を道なりに直進、八坂神社を右手に見ながら、先のT字路を右折し、そのまま5分弱進むと大塚八幡神社の一の鳥居に到着する。一の鳥居は八幡神社から350m程東に建てられており、ここから北へ向かうと大梅寺、東へ向かうと仙覚律師遺跡や小川町立図書館がある。
 鳥居の先左側に町営グランド駐車場があり、そこで車を停めて参拝を行った。
           

          
小川町営八幡台グラウンドの南側に鎮座する八幡神社
 
   町営グランドから神社の社叢を望む       東側神社入口付近には案内板がある
 八幡神社 所在地 比企郡小川町大字大塚
 八幡神社は、元弘三年(1333)に、創建されたと伝えられている。
 鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
 守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。 
 慶安二年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けていたと伝えられている。守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行われていた。
 八幡神社の大欅は、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと言われている。
 昭和五十九年三月                              
                                    「案内板」より引用

 境内の案内板によれば、元弘3年(1333)創建。鎌倉幕府最後の将軍であった守邦親王(もりくにしんのう)が当地に逃れ来て、梅香岡(うめがおか)に仮寓したという伝承があるらしい。その際、鎮守神明社の境内に八幡神を勧請したのが始まりとされている。
        
       南側に回ると社号標と鳥居があり、ここが正式な正面となるようだ。
        
          旧郷社の風格もあり、境内は広く、奥行きもある空間
『増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部の地域は、中世の麻師宇郷に相当するといわれている。大塚の八幡神社は、この四か村の中央に位置する台地上に鎮座しており、古来、広範囲の人々の崇敬を受けてきた故を以て、戦前は町内で唯一郷社に列していた。 
 境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた。その後、文治三年(1187)に源頼朝が山王社(現日枝神社)を、さらに元亨三年(1323)にこの地に隠遁していた鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を境内に勧請し、その結果、八幡社が主体となって祀られるようになったと伝えられる(中略)
 また、社伝によれば、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡後、一旦京都に上ったのちに源氏と縁の深い都幾川村の慈光寺を頼ってこの地に逃れ、猿尾氏に迎えられてからは梅皇子と名乗って再挙を図ったが志を遂げられないまま没したので、その霊を自ら勧請した鶴ヶ丘八幡宮に配祀したという。「新編武蔵風土記稿」に「梅皇子の霊を祀る」と記されているのは、そのことを言ったものと思われる。
 このほかにも、八幡神社の行事や信仰には守邦親王にちなむものが多い。例大祭は親王の命日である九月十九日を祭日とし、生前に親王が的場で馬術の練習に励んでいたことから流鏑馬が行われていた。また、この日授与する矢除守は、守邦親王の父である久明親王が将軍となって鎌倉に下向した際に母君から授かったお守りに倣ったものであるという。なお、神職の片岡家は、守邦親王の子孫とされ、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派修験の寺であった。
 矢除守や、流鏑馬の神馬に陪従して無病息災を願う子育矢(陪従矢)によって、八幡神社は子育ての神として信仰が厚いが、「子」が「蚕」に通じることから、養蚕が盛んなころには養蚕の神としても信仰され、比企郡下はもとより入間・大里・児玉・秩父の各郡や群馬県に多くの崇敬者があった。また、同社は縁結びの神としても信仰されている。それは、かつて境内の芭蕉句碑の脇には、愛染椿と呼ばれる椿の大木があり、その葉を取って白紙に包み、拝殿前の石段で潰して葉が藍色に染まると相思の人と結ばれるとされてきたためである。この椿は枯死したが、現在は二代目が植樹されている』
「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
 
                 神楽殿              境内には多数の境内社が横一列に並ぶ
 
        拝殿前で参道を中心に対となっている
鳩(狛鳩 写真左・右)
 八幡神の神使は鳩だから不思議はないが、しかしながらなかなか見かけるものでもなく珍しい。
        
                     拝  殿


征夷大将軍という官職は、元来令外官(律令制定後に新設された官職)のひとつで朝廷と対立する「蝦夷」を追討するための軍を編成する際に任じられる臨時職であり、初期には征夷使、征東使などとも呼ばれていた。武家政権の為政者としての意味を持つようになるのは源頼朝以降で、この慣例は、室町幕府の足利(あしかが)氏、江戸幕府の徳川氏まで引き継がれ、1867年(慶応3)に王政復古で廃止されるまで続いた。ちなみに武家政権を幕府と称するのは、将軍の邸宅を中国風に幕府とよんだことに由来する。
 武家政権を樹立して征夷大将軍職に就いた最初に人物は源頼朝、その後頼家、実朝、この3人で源氏は途絶える。しかしその後も北条執権体制で鎌倉時代、幕府は存続した。しかし執権職はあくまで鎌倉殿を助け政務を統轄したいわばナンバー2の職権であり、名目的ではあるが征夷大将軍は鎌倉幕府が滅亡する1333年(正慶2/元弘3年)まで存在していた。鎌倉時代約140年間を通して9名の征夷大将軍が就任したが、源氏3代の後は摂家将軍2代、親王将軍4代が実権のない傀儡として細々と続いていた。
 鎌倉幕府最後の征夷大将軍は守邦親王である。前将軍久明親王の子であり、鎌倉幕府将軍の中で249カ月と在職期間が最長であったが、なんの実権も持たない形骸化された名目的な存在に過ぎなかったようだ。実際将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっていない。この小川町大塚八幡神社にはその守邦親王(ないしその庶子)の伝説「梅皇子伝説」が今なお語り継がれている。

    境内社・寅稲荷神社、天満宮、秋葉神社、天手長男神社、琴平神社、産泰神社(写真左)
           境内社・高良神社、高龗神社、新羅神社・稲荷神社(同右)
       
        
        名称 八幡神社の大ケヤキ(はちまんじんじゃのおおけやき)
 小川町指定天然記念物(1963312日指定)
 樹高 30m 目通り幹囲 5.0m 推定樹齢 不明
 八幡神社は元弘3年(1333年)年に創建されたと伝えられている。鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麗の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言い伝えがある。守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが八幡神社のはじまりであると言われている。
 八幡神社の大ケヤキは、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水がかれることがないと言われている。
        
                  拝殿からの一風景
 守邦親王やその庶子とも言われる梅皇子の伝承・伝説は真偽の程はわからない。但し大塚八幡神社が創建されたとする元弘三年(1333)以前からであることは確かである。上記「小川町の歴史 別編 民俗編」にも「境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた」との記述から、古代から信仰のある社が大塚地区には鎮座していたと推測される。
        
         旧郷社の格式でもあり、総鎮守に相応しい貫禄ある社である。
     

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小川八宮神社


埼玉県比企郡小川町は、埼玉県の中央部よりやや西側で、秩父地方外縁部に位置する。面積は60.36m²程で、比企郡西部の中核をなす町である。町の北東部は川越児玉往還に沿っている東松山台地を挟んで比企北丘陵の西端がかすめる。人口は30,667人(平成2711月時点)。
 
古代から近世にかけての小川町域は主として武蔵国比企郡に属し、一部の地域は男衾郡に属していた。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。また周囲を緑豊かな外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地が形成され、市街地の中央部には清流で知られる槻川が流れる。その歴史を秘めて佇む史跡や往時の面影を留める町並みなど、その風情から「武蔵の小京都」とも呼ばれ、伝統工芸の和紙で知られている。
           
            ・所在地 埼玉県比企郡小川町小川9901
            ・ご祭神 天忍日命等八柱
            ・社 格 旧小川村総鎮守・旧村社
            ・例祭等 祈年祭 223日 青麻三光宮例大祭 5 1日 
                 諏訪祭 
9 1日 八宮神社例大祭 1019日 
                 新嘗祭・大黒天祭 
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 小川八宮神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、国道254号線と交わる小川小学校交差点を左折する。槻川支流の兜川沿いに300mほど進むと、「町指定文化財 八宮神社本殿」の標識が見えるので、そこのT字路をまた左折する。左折すると正面に小川八宮神社の鳥居が見えてくる。
       
               小川八宮神社 正面一の鳥居
       
              一の鳥居のすぐ右側にある案内板
 八宮神社         所在地 比企郡小川町大字小川
 旧小川村の総鎮守で、天忍日命ほか七柱を祭神としていることからこの名前がある。創建は不明だが、『新編武蔵風土記稿』に「元和三年(一六一七)再建の棟札あり」とあることから、それ以前と思われる。かつては小川赤十字病院のある日向山あたりにあったが、享保二年(一七一七)この地に移転したと伝えられている。
 現在の本殿は妻切葺屋根の重厚な作りで、熊谷市妻沼聖天院の棟梁の系譜を引く林兵庫正尊を棟梁として天保四年(一八三三)四月に再建された。本殿三面と破風には龍・唐獅子などを配した中国風俗の彫刻が施され、作者は上州花輪(群馬県)の石原常八である。現在本殿は、町の文化財に指定されている。
 また境内には、青麻大神社や諏訪神社などの末社がある。
 小川町
                                      案内板より引用                                                                               
 案内板によれば、小川八宮神社の祭神は、忍日命ほか七柱、つまり「五男三女神の八柱の神」と伝えられている。しかし八柱の神については諸説があり、『風土記稿』では「国狭槌尊・豊酙尊・泥土煮尊・沙槌煮尊・大戸道尊・面足尊・惶根尊」と記載され、『比企郡神社誌』では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。
 おそらく案内板を記述した教育委員会はこのうち、『比企郡神社誌』の内容を採用したと思われるが、大体祭神が全く共通事項がなく、何故このように矛盾が発生してしまったのかは不明だ。
                        
 一の鳥居を過ぎるとすぐ右側に「芭蕉の句碑」の看板があるが、かなり色褪せてよく読めない。
 芭蕉の句碑
 八宮神社境内、往時、椎の大木あり
 小川町大字小川九九一番地
 先堂能む椎の木も安里夏木立     者世越
出典  猿蓑
年代  元禄三年(一六九
年齢  四十七歳
(中略)

句の大意
 奥の細道などの長旅で辛苦をなめた末に、しばしの安住を求めて、この幻住庵に入ってみると、傍らの夏木立の中にひときわ高い椎の木もあり、当分身を寄せるに足り、まことに頼もしく、まずはほっとする心持である。                                                                                                                                           
案内板より引用

        
          案内板のすぐ下にある石に芭蕉の句が刻まれている。
                                   
                    拝 殿         
 この八宮神社は小川町を中心に数社存在している(小川町四社、嵐山町四社、滑川町一社)。この狭い区域にのみ、しかも鎌倉街道に沿って集中的に分布している。美里町には北向神社、滑川町には淡州神社が似通った形態で分布しているが、何故このような狭い区域に同じ名称の社が限定的に分布しているか、実はハッキリとは解明されていない。
 ちなみに「八宮」と書いて「やみや」と読む。但し「新編武蔵風土記稿」では「やきう」と記述され、「やみや」と名前が変わったのは明治時代直後のようで、その名称変更の理由も不明だ。更に東松山市には「箭弓」稲荷神社が存在する。共に同じ「やきゅう」を頭に頂く社として何かしらの関連性があると思われるが真相はやはり闇の中だ。


   拝殿向背部にある緻密で精巧な彫り物             社号額
        
        
        
        
            
        
 埼玉県指定有形文化財・建造物 八宮神社社殿
 所在地 小川町大字小川九九一一   平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿です。本殿は棟札によると天保四年(1833)に建てられました。大棟梁は林兵庫正尊、彫物棟梁は石原常八主信で、妻沼歓喜院聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引いています。埼玉県内に特徴的な精巧な彫刻をもつ寺社の中でも、年代を特定できる好例として貴重な建造物です。
                                    境内案内板より引用                                                       

  社殿手前左側にある境内社 諏訪神社       諏訪神社の並びにある御嶽神社
        
                     青麻大神社
        
           青麻大神社内部の精巧な本殿。埼玉県指定有形文化財。
        
 埼玉県指定有形文化財・建造物 青麻三光宮本殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社境内に末社として建つ青麻三光宮本殿は、棟札によると天保十三年(1842)に八宮神社本殿と同じく林兵庫正尊を棟梁として建てられました。
八宮神社に比べ規模は小さいですが、本殿全体に施された彫刻は見劣りしません。                                                                                                                                       案内板より引用
 青麻神社の総本社は宮城県仙台市宮城野区に鎮座していて、嘗ては青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称している。東日本を中心に数多く鎮座し、御祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神を三神で、平安末期、源平合戦の折、源義経の配下で四天王として有名を馳せた常陸坊海尊を併祀する。
 常陸坊海尊を併列して祀られているが、その由来として天和2年(1682年)、源義経の家臣であった常陸坊海尊(清悦仙人)であると称する老人が当地を訪れ、中風を治す霊験を顕したことによる。中風封じの御利益のある社としても有名だ。
 主祭神三神はそれぞれ日神・月神・星神であり、神仏習合の時期にはそれぞれ、大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩と号していたらしい。

      社殿の左側奥にある大黒天         社殿の奥にも石祠があり。詳細不明。

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高見四津山神社


四津山は標高197m、比高100mの小川町の北東部に聳える独立嶺である。この山は社としてよりも嘗ての高見城跡としての意味合いが強く、四津山の頂上に築かれ、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望できる要害の地に位置する。山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・東西54mに広がり、北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は山稜最高部であり、現在は四津山神社が建っている。四津山の東側麓には市野川が流れ、、その川筋には「旧鎌倉街道上道」が走り、戦国時代、松山城と鉢形城の中間にあって街道を扼する要衝の役割を負っていたと推測される。
所在地   埼玉県比企郡小川町高見1125
御祭神   火之迦具土神
社  格   不明
例  祭   4月24日 春季例大祭

        
 埼玉県道184号本田小川線を小川町方向に進み、能増交差点手前1㎞程手前に四津山神社入口と刻まれた標石が建てられているので、そこから2km程西へ走って行くと、ふれあい四津山デイサービスセンターの先に四津山神社の入口がある。駐車スペースはないが、退避エリアの空間が入口近くにあるのでそこに駐車し参拝を開始する。
        
                 県道沿いにある四津山の入口
 四津山神社は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とある。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八州に及ぶという。宝暦91759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたといい、明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したということだ。
            
             四津山東側の麓にある正面参道。ここから山頂の道程が意外と長く続く。
 
    鳥居の手前にある四津山神社再建記念碑                  一の鳥居
 鳥居を過ぎて暫く歩くと石段にかわり、そこには標識で「犬走り跡」と書かれていて、おそらく城跡の遺構が残っているのだろうが、そちらの散策をする余裕もないので、真っ直ぐ石段を上る。すると今度は右側に曲がるので、素直に道通りに歩く。時間はそれほどではないが、思っていたよりも結構きつい。

 曲がった先にあるやや広い空間。山頂の案内板で後になって知ったことだが、高見城跡の「腰郭」といわれた所。そこには不動明王(写真左)と大黒天(同右)の石碑がある。なにか一種異様な雰囲気。そのすぐ左手には四津山神社まで一挙に上る急勾配な石段が何十段とあり、愕然として気持ちが滅入る。石段を上るが途中2,3回と休み、登り切るとやっと山頂にたどり着く。四津山神社の入口から散策すること正味20分ぐらいだろうか。体力と気力との闘いの参拝だ。
        
                 山頂に鎮座する四津山神社
「比企郡神社誌」には四津山神社について以下の記述がある。
比企郡神社誌
御社名 四津山神社
御由緒 往古明王寺境内に有りしが宝暦九巳卯年三月二十四日山越に安座す、明治四十年四月三十日付大字小字竹の鼻 村社辺取神社。字山越無格社阿夫利神社。字四津山無格社疱瘡神社 字上の前無格社尺司社。字六所無格社六所社。字山越無格社渉問神社。字日丸無格社天津神社。字四津山無格社八雲神社。字無格社熊野神社。大字能増字八幡村社八幡神社。字町場無格社菅原神社を地名により四津山神社と改称す。 

            
県指定史跡 四ツ山城跡
 小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか
 平成十五年三月十八日県指定
 四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
 城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
 文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
 また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます
                                         案内板より引用

         
                 拝殿上部に掲げてある「四津山神社」の社号額

 きつい登山道から解放され山頂に到着すると、やや広めな空間が広がる。天候は晴天とは言えなかったが、それでも山頂からの眺望は素晴らしく、しばし時間を忘れてしまった。


       
                  山頂から東側の奈良梨地区の丘陵地の稜線を撮影。

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