古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下古寺天満天神社

 天満天神社が鎮座する下古寺という地域名は、元は「古寺」であり、その後「上古寺」「下古寺」と分かれた。この「古寺」という地域名も赴きある名前である。
「埼玉の神社」によれば、「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書』所収)には、竜王寺と当社の創建について次のように記されている。その昔、役小角が武蔵国を訪れた時、都幾山を開いたものの山中に水が一滴もなかったため、岩窟に籠もって水神にこの由を祈ったところ、八大竜王が現れて小角に五か所の霊水を賜った。そこで、小角は竜王の尊像を一刀三礼に彫刻し、岩窟の近くに竜王寺と号する一寺を建てたが、当時、この辺りには人家もなく、寺号を知る人も希であったため、ただ「都幾山の北に古寺がある」と伝えられるだけになってしまった。それが『古寺』の地域名の起こりという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下古寺167
             
・ご祭神 菅原道真公、八大龍王
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例大祭 1015

 増尾白山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線を西方向に進み、700m程先にある「松郷峠入口」交差点を左折する。同県道273号西平小川線合流後、南方向に進路を取り槻川を越えて1.5㎞程進むと右側方向に微かに下古寺天満天神社の赤い鳥居が見えてくる。
 周囲には駐車場はない。通行に支障のない路肩に駐車する。周囲が田畑である舗装されていない道を徒歩にて鳥居方向に進む。
            
                   「古寺鍾乳洞」標柱 

 社に通じる道の入口には「埼玉県指定 古寺鍾乳洞 入口」という標柱がひっそりと建っている。「古寺鍾乳洞」は下古寺の槻川の支流で、金嶽川(かなたけがわ)左岸の山際にあり、総延長220m、高さは約 16m である。「新編武蔵風土記稿」にも「岩窟」と紹介される等江戸時代から「名所」と知られ一般開放され、埼玉県の天然記念物にも指定されてきた。とはいえ、1970年に観覧を中止して以来、閉鎖されたままで、地主によって入洞禁止の措置が取られているという。
               
                        舗装されていない農道を鳥居方向に進む。
      嘗ての日本の原風景を見ているような不思議な感覚を覚えながらの移動。
            その後土手のような場所があり、石段をのぼる。
 
             槻川の支流である金嶽川(写真左・右)
    清流で川魚が3月中旬であるにも関わらず、泳いでいるのが橋上からでも分かる。
      心が癒される一風景で、一昔前ならばどこにでもある風景だったのだろう。
               
                              下古寺天満天神社正面
 丘陵面に鎮座している社は、やはりこのアングルが一番似合う。最高の一枚が撮影できたと思う。
 
 意外と石段は急であり、手すり等もない。鳥居まで到着する(写真左)とその場は踊り場となっていて、その後更に石段が続く(同右)。社殿に通じる石段である。鳥居を過ぎると常緑樹が生い茂り、日中の参拝にも関わらずあたりはほの暗くなる。
                        
                鳥居の右側にある社号標柱
               
         石段を登ると拝殿側面に「桜林山」と書かれた扁額が見える。

『新編武蔵風土記稿』には「村の鎮守なり、別當梅松院、本山修驗、京都聖護院の末、梅林山龍王寺と號す、開山の僧を智海と云、本尊不動を安ず、智證大師の作と云、客殿の後に釋延救が千日の護摩を執行し、斷食して入定せしと云跡あり、又平村慈光寺の傳へには、此人慈光山にて入定せしといへり、猶慈光寺の條合せみるべし」と記載され、嘗て天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があったという。このお寺は「梅林山龍王寺」と号した。下古寺天満天神社はそのお寺が別当であり、それが扁額由来となっている。
               
                       拝 殿
        写真では右側に石段があり、登った先には削平した境内が広がる。
            拝殿は石段に対して横を向いた配置となっている。

 天満天神社(下古寺一六七)
 下古寺の天満天神社は、菅原道真公を祀ることから、学問を授け給う尊神として尊崇されており、特に入学・進学の際には天満宮に祈願礼拝すれば大願成就するといわれている。また、併せ祀られている八大龍王は、雨乞いに霊験があるとして信仰されてきた。
 この天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があった。今では寺は跡形もないが、寺伝の「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書」所収)によれば、梅松院は梅林山龍王寺と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたという。
 こうした行者の一人であった智海専戒という無筆の僧が、この地において天満天神から筆道を授かり、能書家となったことから、その思に報いんと一社を建立して八大龍王と共に天満天神を祀ったのが、天満天神社の創始とされる。智海はその後、松山城主上田能登守の嫡子上野介の書道の指南をするまでになり、文永五年(一二六八)二月十五日に没したと伝えられている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
    境内に鎮座する境内社・八坂神社      同じく境内にある「道了大権現」の石碑


 今回の下古寺天満天神社の参拝が主で、事前に県指定文化財である「古寺鍾乳洞」を全く確認していなかったため、この鍾乳洞の場所が全く分からなかった。調べてみると鍾乳洞は神社の下側にあり、現在洞入口は鉄柵があって入れないようになっているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「国土地理院HP」等

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増尾白山神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町増尾32
             
・ご祭神 白山権現(菊理媛命、伊弉諾命、伊弉冉命)
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 天王様71415日 例祭101819

 上小川神社から国道254号線を西方向に進み、「相生町」交差点を直進し、埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流後600m程直進する。「小川消防団第二分団第一部」の小さな建物が進行方向右側に見えるので、そこを過ぎた直後のT字路を右折すると正面に増尾白山神社が見えてくる。市街地を通る為、県道から参道に曲がる道が少し分かりにくい事、また目標となる小川消防団第二分団第一部の建物も小さいので、移動時も周囲の状況を確認しながら安全に走行して頂きたい。今回ナビのありがたさを十分に思い知った次第だ。
 社の東側隣には長晶寺、その寺の南側には増尾公会堂があるので、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
               
                             斜面上に鎮座する
増尾白山神社

 増尾地域は小川盆地の西南部に当たる。南北を丘陵に挟まれ、中央を槻川が流れる。当社の鎮座地である中条は、中城の意とされ、『風土記稿』増尾村の項に「古城蹟 村の東小名中条にあり、四方二町許の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり(中略)土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云ことは伝へざれば詳ならず」と記し、城郭跡があったことを伝えている。       
            
            社号標柱       町指定天然記念物「白山神社の大カシ」
                              の標柱
               
                        鳥居を過ぎると、急な石段あり。
              石段が急で境内が狭いため、拝殿の正面写真が少し撮りづらい。
               
                     拝 殿

 白山神社(増尾三二)
 増尾の白山神社は、穴八幡古墳などのある八幡台の麓に鎮座しており、増尾の鎮守として信仰されてきた。境内には推定樹齢四〇〇年という樫の大樹があり、特に信仰や神木としての伝えはないが、昭和五十七年ごろから注連縄を張るようになった。
 社伝によれば、白山神社は大塚の大梅寺の開山である円了禅師が勧請した社で、加賀国(現石川県) の白山権現を禅家擁護の霊神として建治二年(一二七六)二月に遷座し、大梅寺の末寺で神社に隣接する増尾山長昌寺が神社の管理を行ってきたという。『新編武蔵風土記稿』には「今も大梅寺にて社務を司どれり」とあるが、白山神社は大梅寺と関わりの深い神社であることから、形式上は本山である大梅寺の管理下に置かれていたものと推測される。
 神仏分離によって、白山神社は明治三年に長昌寺と分離され、同四年に村社となった。氏子からは「白山様」の通称で親しまれており、諸願成就の御利益があるという。また、境内にある八坂神社は、元は白山神社と合殿であったが、昭和五十四年に社殿を新たに造営して別に祀るようになったもので、健康を祈願する参詣者が多い。
                                                        「小川町の歴史別編民俗編」より引用
           
            
白山神社の大カシ(小川町指定天然記念物)
             
 町指定天然記念物の大カシは、増尾地域内に鎮座する白山神社の石段の上、社殿の左手前に立っている。
 目通り5.3m、樹高約20m、推定樹齢700年のカシの大木。空洞が上部まで突き抜けていて、内部は真っ黒焦げの状態。老木でありながら樹勢は盛んであるようだ。
 小川町の天然記念物(1963312日指定)
               
                             拝殿上部の立派な彫刻
                 
                       拝殿左側に隣接している境内社・八坂神社。

 小川町大塚地域には「中城」と呼ばれる城跡がある。この中城跡は、中世の土豪猿尾(ましお)氏の居館跡(中城跡)とされていている。当地増尾は貞享4年(1687)まで「猿尾」と書き慣わしていた(新編武蔵風土記稿)とされ、中世の書には「麻師宇(ましう)」と記されていた。当地は、万葉集研究の基礎を築いたとされる仙覚律師が著した「万葉集註釈」に記載される「文永六年三月二日、於武蔵国比企北方麻師宇郷書写畢、仙覚在判」の地とされている。

〇新編武蔵風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」

 上記のように伝承では鎌倉時代の地元の豪族・猿尾太郎種直の居城跡とされ、学僧・仙覚律師がこの城で「萬葉集註釈」を文永6年(1269)に完成させたとも伝わっている。
               
                              拝殿から鳥居方向を撮影。

 但し今までの発掘等の結果では、鎌倉時代に遡る遺構・遺物は発見されておらず、現在残っている遺構は、明らかに戦国時代のもので、現在でも単郭ながら折れの有る高い二重土塁や空堀、櫓台などを見る事ができる。
 中城は、鎌倉街道山辺ノ道を見下ろす台地の先端に位置し、鎌倉街道山辺ノ道は八王子から飯能を経由して上州へと向かう古道である。そしてこの街道は戦国後期には、鉢形城大手口と滝山城、小田原城を結ぶメインルートとなった為、後北条氏にとって大変重要な道であったようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」「小川町の歴史別編民俗編」「埼玉の神社」等
     
               

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上小川神社

 小川町は水の町である。当地は槻川・兜川流域の小川盆地に位置し、地内で両河川が合流する。古来、人々は槻川に対して支流の兜川を小川と呼んでいたのが地名に転化したと伝えられていて、川の成り立ちとまちの反映との親和性が非常に高い地域でもある。当地方は小川和紙で有名であるがその歴史は古く、『正倉院文書』の宝亀五年(七七四)に「武蔵国紙四百八十張」と載り、河川の利用と一帯に自生する楮を使用して、当地の産業として営まれていたと考えられる。
 小川町は嵐山町と並んで『武蔵の小京都』と謳われていて、歴史的価値のある寺社や仏閣、城跡などの名所旧跡が至るところに存在する。
 上小川神社は小川町市街地に鎮座する小さい社ではあるが、槻川の恩恵を受けて発展した『町の鎮守様』として長く町民の方々の崇拝を受けている「天王様」であり、定期的に開催された「市場の神」でもある。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町小川68
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 春祭り 3月初午 例大祭(七夕祭り) 725日 
                  秋祭り 
1128
 角山八幡神社から一旦小川町市街地方向に南下し、国道254号線に合流後、小川警察署を目標に道なりに進む。その後警察著手前左側で、国道に面して「華屋与兵衛」と民家の間に上小川神社が静かに鎮座している。
 道路沿いに社号標柱が立っていて、その奥に車を駐車できそうなスペースはあるのだが、出来る限り、神聖な社の敷地内に車等の交通量の多い道路での出し入れの問題もあり、また警察著にも近いこと等慮って、近隣にあるコンビニエンスストアで買い物終了後、一時的に車は置かせていただき、社の参拝を行った。
               
                             国道254号線に面する上小川神社
           
       鳥居の前には桜が咲き始め、その奥にはご神木らしき巨木が聳え立つ。
               
                                 神明系の鳥居

「埼玉の神社」によれば、江戸幕府が開かれ寛永年間(一六二四-四四)以降、江戸が大消費都市となるに伴い、小川和紙の生産が大きく発展した。しかも、当地は江戸から秩父への往還の宿駅で、物資の集散地として毎月一・六日に市が立った。市が寛文二年(一六六二)に大塚村から移転し、同じころに東秩父村の身形神社の分霊を市神様として当社に勧請してからは、当社は商売繁昌の神として広く信仰を集めるようになった。なお、和紙は農家の副業として農閑期に営まれていたものであるため、当社は農民からの信仰も厚く、『風土記稿』は「天王社 村民持」と記している。
               
                     拝 殿

 上小川神社(小川六六)
 上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この杜号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移つてきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(一三九四-四二八)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
               
                          幣殿・本殿。本殿は
土蔵造りでできている。
                 
 洪水対策であろうか、拝殿から本殿に至る下部には空洞となっていて、本殿は石を積み重ねて高くしている。「小川町 洪水ハザード」でも、この小川町中心街は
槻川と兜川の合流地点であり、町の形成にこの河川は欠かせない存在であったことは間違いないが、大きな水害が発生すると、この一帯は浸水等の被害もあったであろう。社の造り一つでもこのような歴史を架今着られるものだ。
 
  社殿左側奥にある「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」と刻印された石碑(写真左)。また社殿の右側に鎮座する上小川神社境内社。三峰社だろうか(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」
    「小川町 ハザードマップ」等

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角山八幡神社


               
            
・所在地 埼玉県比企郡小川町角山277
            
・ご祭神 八幡大神 諏訪大明神 大聖歓喜天 稲荷大明神 天満宮
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 夏祭り(天王様)726日 例大祭 1019

 靭負熊野神社から一旦東武東上線「竹沢駅」に引き返し、そこから南下して国道254号線に交わる交差点を左折する。東武東上線の線路を左側に見ながら沿うように国道も走っていて、その道を2.5㎞程進み、「小川町駅(西)」交差点の2つ手前の信号を左折、すぐ先にある陸橋を通り過ぎ、兜川に架かる橋を越えた直後のT字路を左折し、300m程進むと右側に角山八幡神社が見えてくる。
 境内には駐車可能なスペースも確保されていて、撮影等の邪魔にならない所に停めてから参拝を開始する。
               
                               
角山八幡神社正面
 現在は角山と書いて「カクヤマ」と読むが、嘗ては「ツノヤマ」と呼ばれていた時期もあったようだ。
               
                                    境内の様子

 角山八幡神社の南側は兜川が流れていている。
この兜川は、埼玉県比企郡小川町を流れる荒川水系の一級河川で、延長約7.5 km、管理延長は約6.9 km。小川町北西部の大字勝呂の山地に源を発する。木呂子川と西浦川が小川町大字勝呂字片瀬で合流した場所に当川の管理起点となる標石が設置されていて、起点当初から支流である「野竹川」「木部川」「桜沢川」「笠原川」「飯田川」「角山川」が短い距離にも関わらず兜川にそれぞれ合流していて、角山八幡神社西側500m付近で合流の連続は終了する。八高線や国道254号に沿うような形で南東方向に流れ、小川町駅を過ぎた小川町大字小川の小川橋の川下で槻川に合流する。
               
                                        拝 殿

 八幡神社
 角山の八幡神社は、元弘三年(一三三三)に勧請され、元は峰山に祀られていたが、兵火にかかって社殿を焼失したため、明暦二年(一六五六)に現在の境内に移転したという。峰山の元地には、石祀があり、しばらく前までは字峰山の人々が祭りを行っていた。
 この八幡神社は、「五社八幡宮」とも呼ばれるが、それは、明暦二年に現在の境内に移転した際、角山の草分けである栗生田・岩田・新井・杉田・根岸の五軒の各氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の五社を統合して角山全体の鎮守として祀ることになったためで、現在の境内は元来は新井家の諏訪杜があった場所である。
 五社の中でも八幡社が中心になった理由は、この社を氏神とする粟生田氏が、角山第一の土豪であり、移転当時は角山坊と号して修験者としても活動を行っていたことにあると思われる。
 なお、八幡神社は武術の神として信仰が厚く、昭和二十七年ごろまでは例大祭に流鏑馬が行われていた。また、八幡神社を祀っているためか、角山は武術が盛んな土地で、社殿には「明治辛未」に地元の弓道家が奉納した七個の金的と弓を配した額も掛かっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用

 角山村 八幡社
 村の鎮守なり、別當を宮生山正覺院と云、本山派修驗、男衾郡板井村長命寺の配下なり、本尊不動を安ず、
                          「新編武蔵風土記稿 角山村条」より引用

 案内板等では、現在でこそ小川盆地内で兜川左岸に鎮座しているが、元々山伏としてこの地に移住してきた粟生田一族が、元弘三年(一三三三)に字峰山の地に氏神である八幡社を祀り、角山坊と称して活動を行うようになったといい、いわば山岳修験の社であった。
 
  角山八幡神社境内社 手長社・八坂社合殿    「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」石碑

「粟生田」は 「アオウダ」と読み、武蔵七党 児玉党から分派した一族であり、入間郡浅羽庄(現坂戸市付近)粟生田村より起こっている。
武蔵七党系図
浅羽小太郎行業―粟生田五郎行直―四郎太郎季行―小三馬允行方(弟四郎季信―太郎行延、季信の弟五郎俊行)―馬二郎光直(弟三郎□忠)―野六郎直氏(弟孫二郎盛直)。季行の弟三郎正行―某―行弘。正行の弟八郎実行―家行―二郎泰行。家行の弟に、兵衛尉行氏、小八郎行盛、右近某」と見ゆ。越生郷報恩寺年譜に¬元応二年四月二日、幕府は、粟生田彦太郎直村妻藤原氏の訴えにより、小代馬二郎伊行の沽却せし武蔵国小代郷内田玖段を藤原氏女に領掌せしむ」
小川町史
角山村の八幡神社は粟生田氏の祖が元弘三年この地に移り住んで八幡社を勧請す。江戸時代は角山村名主を務む。八幡神社は五社八幡とも呼ばれ、粟生田・岩田・新井・杉田・根岸の五氏の氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の合社で、やぶさめ神事もこの五氏によって奉納されてきた」
               
             角山八幡神社の南側には兜川が流れる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「Wikipedia」等


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靭負熊野神社

「靱負尉(ゆきえのじょう))は「えもん(衛門)の尉」の別称で、律令制における官司。律令制以前は大王の親衛軍をさし、靫負(ゆげい)と言われていた。原義は「矢を入れる靫(ゆき、ゆぎ)を負うもの」であり、靫を持って朝廷の警護の任に当たった武官を指す言葉である。舎人同様、上に天皇や宮号を称するものであり(白髪部靫負・勾靫負など)、国造の子弟を主として編成されたもののようである。舎人が東国出身者が多かったのに対し、靫負はどちらかというと西国が中心である。舎人が天皇の警護を主としたのと異なり、靫負は宮城の門を守護することが主任務とされていたが、宮号を称する靫負が少ないことから、舎人の勢力に押され、儀仗的な存在になったことが推定される。
 宮城・衛門府の第三等の官で、左右二府に大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)がある。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。律令制では、従六位下、正七位上相当の官で、衛門府のことを「靫負司(ゆげいのつかさ)」と呼ぶこともあり、衛門佐を「靫負尉」とも呼称していて、検非違使庁も衛門府の官人の兼任からなるところから、「靫負庁」とも呼ばれている。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町靭負343
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 43日 御例祭 1015

 国道254号バイパスを寄居町方向に進み、進行方向左側に見える「ホンダオート オークション東京会場」を越えた直後のT字路を左折する。道なりに800m程進行すると右側に東武東上線東武竹沢駅ロータリーが見え、その先の突当たりを左方向に進路をとる。その後「靭負区民センター」手前にT字路があるので、そこを左折し、暫く進むと正面方向に曹洞宗竹沢山雲龍寺の標柱が見えるが、同時に熊野神社の参道入口でもある。地形を確認すると東武東上線東武竹沢駅から直線距離で東300m程の場所にある。
 曹洞宗竹沢山雲龍寺には専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行った。
               
                                 靭負熊野神社入口
                    
曹洞宗竹沢山雲龍寺の北側で高台に鎮座する。

  小川町靱負地域は嘗て竹沢郷と云われ、この一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
・武蔵七党系図
「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
冑山本の武蔵七党系図
「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」
               
                                      正面一の鳥居

 槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したという。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。
 竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。
                                                「小川町編集発行 小川町のあゆみ」より引用
            
 一の鳥居を過ぎ、緩やかな坂を上ってき、石段を登った先には二の鳥居がある(写真左)。また石段の手前右側には「改築記念碑」がある(同右)。

「改築記念碑」の手前には平成二十三年(2011)記述の「郷土史案内」の立札もあり、そこには「この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています」と記載されている。
               
                                  木製の二の鳥居
                   
          二の鳥居のすぐ左側に聳え立つ「熊野神社の大スギ」

 町指定文化財 天然記念物 「熊野神社の大スギ」
 所在地 小川町
靱負三四一
 昭和三十八年三月十二日指定
 目通り四・三メートル 樹高約三三メートル
 昭和六〇年十二月二十五日 小川町教育委員会 熊野神社

「埼玉の神社」には「昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった」という。
               
                  
靭負熊野神社境内 
 おそらく削平により平場にしたのであろう。右側の崖を見るとふと先人の方々の苦労を鑑みてしまう。
               
                                      拝 殿

 熊野神社(靱負三四三)
 靭負の熊野神社は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族で、竹沢郷一帯を領した竹沢氏の館跡とされる場所に祀られており、境内には竹沢左近将監の供養塔と伝えられる五輪塔がある。熊野神社の創建の年代は不明であるが、神社に隣接する竹沢山雲龍寺には、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にここに草庵を設けたことに始まるとの寺伝があることから、熊野神社の創建もこれと同時期と見る人もある。
 靭負では、熊野神社と雲龍寺が密接に関係していたため、いわゆる神仏分離令が出された後も、実態としてはなかなか分離が進まなかった。そのため、雹祈祷(春祭り)は雲龍寺の僧が祭りを行い、秋祭りは神職(地元にいないため飯田から呼んだ)が祭りを行うといった状況が明治二十年ごろまで続いていたという。
 熊野神社の社殿は、元来は南向きであったが、明治二十二年に拝殿を建築した際に立地上の理由から東向きに変えた。また、境内には昭和三十八年に「熊野神社の大杉」として町指定天然記念物になった老杉があるが、戦前はさらに大きい老杉が鳥居の脇にあった。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
       社殿左側(南側)にある五輪塔     社殿右側に鎮座する境内社・大山神社 天満宮
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。
               
               参道方向から見る靱負地区の眺め。
      先人たちはどうのような気持ちで現在の状況を思っているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「小川町の歴史別編民俗編」「小川町編集発行 小川町のあゆみ」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」等
      



       


            



   





 

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