古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

腰越氷川神社


槻川は埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発し、外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東北東方向から東方向に向きを変える。
 
東秩父村安戸地域から小川町腰越地域に下る際に、一旦南に流路を変えそれから北東側へ曲流しながら小川盆地へ向かう。山の多い日本では河川は山の間を屈曲して流れ、支流、またその支流が複雑に入り組んでいる場合が多いが、この槻川も例外でなく、外秩父山地から東松山台地、比企丘陵方向に流れこみ、山の麓をすり抜けるように流れるように頻繁に屈曲を繰り返して流れている。
 この外秩父山地に囲まれた小川盆地の西端に位置する腰越地区の槻川西側内陸部に、腰越氷川神社はひっそりと鎮座している。
所在地   埼玉県比企郡小川町腰越1382
御祭神   建速素戔嗚命、奇稲田比売命、大那牟遅命
社  格   旧指定村社
例  祭   10月18日
       
 腰越氷川神社は埼玉県同11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、東秩父村安戸宿交差点を小川町方向に進むこと約500m程で左手にコンビニがあり、そのすぐ先の交差点を左折する。丁度この位置は東方向に流れていた槻川が南方向に、そしてしばらくするとまた北東方向に急激に流路を変える場所にあり、また槻川支流の館川の合流地点でもある。この支流館川に沿って300mほど進むと右側に「指定村社 氷川神社」の社号標が見え、そこのT字路を右折し道なりに車を走らせると程なく正面に氷川神社の鳥居が見えてくる。
          
 
                   槻川支流の館川沿いの道路上にある社号標
          
                                                    一の鳥居

            
                              拝     殿
 社殿の左手には「天王山」と言われる嶮岨な岩山の切り立った崖が聳えている。現在の社殿は、昭和五十一年に岩山を削って再建されたもので、それまでは鳥居の正面に社殿があったらしいが、この社の立地条件やこの地域の歴史を考えると、はるか昔はこの岩山や山自体をを祀っていた社ではなかったろうか。近くには「腰越の立岩」と言われる岩山もあり、「日本の100岩場」とも言われていて、石灰岩で出来ているという。
 東秩父村白石地区を外秩父山系の峰々が取り囲んでいるが、その中の「笠山」、「堂平山」、「大霧山」は昔から「比企三山」と呼ばれていて、古くから信仰の対象の山だという。槻川支流の館川の上流部奥にある笠山(標高837m)は別名乳首山とも呼ばれ、東峰には笠山神社が鎮座している。その社の伝承では、111年に日本武尊が東夷征討の際、笠山に登り地形を賞嘆して、三大神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇太神)を奉祀したと伝える。その後、680年に大和国葛城の行者・役小角が三国伝来の白衣観音像を安置して国家安泰を祈念したといい、神道や仏教の信仰にも繋がる信仰の対象となる山であったと思われる。
 「新編武蔵風土記稿」には笠山について以下の記述がある。

新編武蔵風土記稿
比企郡巻之八   腰越村
笠山 村ノ西ニアリ。高サ五十町許ナル嶮岨ノ山ナリ。嶺ニ樹木生茂リテ笠ノ形ニ似タレハ名トセリ又乳ノ状ニ類スレハ乳首山トモ云、此絶頂ヲ當郡ト秩父郡白石村ノ界トシテ笠山權現ヲ鎮ス コハ白石村ノ鎮守ナレハ其村ニテ進退セリ。祠邊ヨリノ眺望最打開ケ東ノ方ハ筑波山ヲ望ミ、南ハ江戸ヲ越テ遠ク房總ノ山々ヲ見渡シ西ハ秩父カ嶺及ヒ浅間山連リ、北ハ日光山ヲ始トシテ上下野州山々見ユ(中略)


         拝殿に掲げてある社号額            社殿の右手、社務所の手前にある案内板

氷川神社         所在地 比企郡小川町大字腰越
 氷川神社の創立については不詳であるが、祭神には素盞鳴尊、奇稲田比賣命、大那牟遅命がまつられており、腰越の鎮守として「氷川様」と呼ばれている。
 古くは、神事として火渡りの行事や例祭十月十八日には、甘酒の振舞いも行われていたが今では途絶している。
 境内には、子授けや安産祈願にご利益があるといわれている産泰神社があり地元の信仰が厚い。
 昭和五十九年三月
                                                         案内板より引用

 比企郡神社誌によれば、腰越氷川神社の創建年代は詳かでないが、嘗て境内には、樹齢五百年を超える二股の大杉や、樹齢一千年を超える大欅があったらしく、創建は相当古いと思われる。大欅は周囲が9mもある立派なもので、現在の社務所当たりにあったが大正年間に立ち枯れてしまい、また二股の大杉も昭和24年のキティ台風で倒れてしまったという。この腰越氷川神社及びその周辺には中々侮れない歴史の古さを感じさせてくれる地域であることは間違いなさそうだ。
        
                      切り立った岩山の崖下にある本殿

社殿の左手にある鳥居 岩山を祀っていた場所か。    中には石祠が数基ある。



           
       垂直に切り立った岩山。 辺り一帯異様な雰囲気を醸し出している。

 笠山神社の由来に登場している役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した呪術者である。姓は君、又は公とも。修験道の開祖とも言われていて、日本各地に多くの伝説を今も残す謎の人物である。
 役小角の出自である役君氏は、出雲大社で有名な御祭神である大国主の別名とされている大物主神の後裔(一説では子とも言われている)大田田根子を祖とする三輪氏族に属する地祇系氏族で、賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれていた。賀茂氏は分類すると二系統あるようで、一つは前出の大和葛城(奈良県御所氏)を本拠地とする賀茂君。もう一つは山城国葛野を本拠とした代々賀茂神社の奉齋した賀茂県主からの一派で、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とするものたちにあたり、葛城氏と同類で神武天皇を大和に導いたという。
 山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある(『山城国風土記』逸文より)。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もあり、役小角のみならず、賀茂氏にも多くの謎が存在する。日本古代史の謎を解く鍵を握る氏族ということは、古来から多くの方が指摘し解明を試みているが、未だもって定説に至っていないのが実状である。

         境内社  八坂神社             日枝、稲荷、稲荷、疱瘡四社
           
                  社殿の左側にある境内社 産泰神社

 笠山から南東方向数キロには古刹で有名な都機山慈光寺がある。院号は一乗院法華院。開山1,300年と歴史あるお寺で、「都幾山慈光寺実録」によると、白鳳2年(673)に僧・慈訓が千手観音堂を建て、観音霊場とし、役小角も西蔵坊を設けて修験の道場を開いたという。さらにその後、奈良の唐招提寺などで有名な鑑真和上の弟子の道忠(どうちゅう)という人物が来て、釈迦如来を安置して堂宇を整えたという。慈光寺はる関東天台を代表する古刹であり、鎌倉時代には源頼朝が奥州の藤原泰衡追討の際に戦勝祈願を行い、征圧成就を記念して当寺一山75坊の営膳料と田畑1200町を寄進したり、畠山重忠の名が刻まれた板碑の存在したように、当代随一の政治家や武将の信仰が篤く、東国仏教の中心地として最盛期には都幾山一帯に75堂塔伽藍を数える大寺院にまで発展した。慈光寺は山岳信仰の霊場でありつつ東国に仏教を広める拠点でもあったといえる。

           
                         拝殿の手前にある鐘楼

 慈光寺には有名な「火渡りの神事」が毎年盛大に行われているが、案内板によると腰越氷川神社にも同じ神事が存在していたといい、決して偶然ではあるまい。比企三山の一つである笠山の近郊に位置する社であり、嘗ての山岳信仰の名残りがこの地域にはどことなく感じる、そんな感慨にふける参拝だった。

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奈良梨八和田神社

  奈良梨宿(ならなしじゅく)は、川越・児玉往還にあった宿場で、現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。天正10年12月9日の北条家伝馬掟には、奈良梨に対して、西上州の通路にして伝馬を高見及び菅谷まで綱立すること、一日につき平時は馬3匹、戦時には馬10匹を備えて置く。それぞれ公用荷物に限り無賃で輸送すること、それ以外の荷物は一里一銭の公定駄賃を取るように指示している。
 戦国時代の後北条氏は内政に優れた大名として知られていて、早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。伝馬制も同様に内政を得意とする後北条氏らしく細やかな規定だ。これらの事柄からここ奈良梨は戦国時代には伝馬駅宿に定められ、宿が形成されていたことを知ることができる。
所在地   埼玉県比企郡小川町奈良梨939
御祭神   建御名方命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   不明

      
 奈良梨八和田神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道296号菅谷寄居線が交わる奈良梨交差点の北側に奈良梨八和田神社、旧名諏訪神社は鎮座している。埼玉県道296号線沿いに嘗て鎌倉街道上道はあったと考えられ、この奈良梨も重要な拠点の一つであったことは上記後北条氏の伝馬掟でも判明している。八和田と書いて「やわた」と読むが、決して八幡系の社ではなく、諏訪神社系統のようだ。
         
 一の鳥居から二の鳥居や社叢までの長い参道。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあり、両県道の交通量の多さから今回撮影ができなかった。
         
                         二の鳥居正面参道

  二の鳥居の手前で右側には厳島社とその周りには水堀のような池があるが、農業用の溜池だろうか。
           
                             拝    殿
 八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。
 
              神楽殿                           本    殿 
                       
  昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
 当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
                                               「埼玉の神社」埼玉県神社庁
                  
                           八和田神社の大杉

  高さ約30m、目通り約5.7mの大スギ。赤茶けた幹が威容を誇る。周辺は田園地帯のため遠くからもよく目立つ。樹齢は約800年以上と推定され、小川町の天然記念物に指定されている。

 また八和田神社の鰐口は、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)大成と永順に寄り懸けられたが、その後、弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといわれる。大きさは、面の径34.6センチ、胴の厚さ18.5センチを測り、鰐口としては大型である。
           
 この八和田神社の鰐口は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けている。

 

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