桶川稲荷神社
当時は、街の至る所で紅花畑が見られたといわれている。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781~1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られるようになった
最上地方では7月に収穫するのに対し、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができます。そのため、“早庭(場)「はやば」もの”とも呼ばれ、紅花商人に歓迎されたそうだ
世情が安定した江戸後半は、江戸や大坂(現在の大阪)の大都市だけでなく地方の町も発展し、町人を中心とした消費生活が高まりつつ桶川臙脂の生産も急速に伸びていったという。遠方の商人も集まるようになると、富とともに文化ももたらされた。今も残る桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事である。
桶川稲荷神社には市指定文化財である一対の「紅花商人寄進の石燈籠」があるのだが、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものであり、明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたという。
・所在地 埼玉県桶川市寿2-14-23
・ご祭神 宇迦之御魂命
・社 格 旧桶皮郷惣鎮守・旧村社
・例祭等 春の例大祭 4月第一土曜日 秋の例大祭 10月第一土曜日
加納氷川天満神社から一旦南西行し、国道17号線に合流後、桶川市街地方向に左折する。2.5㎞程進んだ「北一丁目」交差点を右折し、2番目の十字路を左折すると左手に桶川稲荷神社の境内、及び一の鳥居が見えてくる。
駐車スペースは境内東側に綺麗に舗装された駐車場も完備されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
桶川稲荷神社正面
「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある。
鳥居の右側に設置されている案内板
綺麗に整備されている境内
桶川稲荷神社は旧中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に鎮座する。社伝によると嘉禄年間(1225年〜1227年)に創建とされ、現在の桶川市と上尾市に跨る地域に比定される「桶皮郷」の惣鎮守として創建され、ご神体として宝剣を祀っている。時代は下り1668年(寛文8年)の宗源宣旨が当社内陣に残されていて、また1694年(元禄7年)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許されていることから、江戸時代初期にはすでに祀られていたといわれ、1717年(享保2年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられている。「南蔵院」が別当寺であった。南蔵院は明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。南蔵院の僧侶は還俗して当社の神職となった。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。また時期は不明であるが、2社も合祀されている。現在は境内に本殿、幣殿、拝殿の他に、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られている。
稲荷神社の大磐石
稲荷神社の力石 民俗文化財(有形民俗) 昭和50年12月13日指定
力石は、神社などの境内に置かれ、若者などがこれを持ち上げて力比べなどをしました。稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
三ノ宮卯之助(1807~1854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認されています。三ノ宮卯之助がこの力石を持ち上げた嘉永5年2月は、稲荷神社の大祭と考えられます。卯之助の怪力ぶりに、集まった観衆はさぞかし驚き、拍手喝采を送ったことでしょう。
前出案内板より引用
拝 殿
拝殿の前には一対の紅花商人寄進の石燈籠がある。この石灯篭も桶川市指定文化財。
稲荷神社
稲荷神社は、近郷の氏子や崇敬者により、鎮守として祀られています。かつて、この地は芝川の水源地帯で、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切ってこの付近を流れ、一帯は豊かな社が広がっていました。創建は長承3円(1134)とも嘉禄年間(1225~1227)ともいわれます。元禄6年(1693)に桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)に桶川町の村社となりました。約1,200坪の境内地には本殿、幣殿、拝殿、手水舎、神楽殿、社務所のほか、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られています。また、かつての桶川宿の繁栄を偲ばせる文化財なども大切に守られています。
紅花商人寄進の石燈籠 有形文化財(歴史資料) 昭和49年3月5日指定
稲荷神社拝殿の正面にある一対の大きな石燈籠です。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えました。この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されました。また、不動堂は現在浄念寺境内へ移築されています。
燈籠には計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあります。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。
共に前出案内板より引用
本 殿
一間社流造りの本殿は、文化十四年(一八一七)に幕府の御用大工であった江戸の立川小兵衛という棟梁によって造営されたと伝える由緒あるものである。また、昭和四十三年には氏子崇敬者の総意をもって本殿の覆屋の解体復元が行われたという。
社殿のすぐ左側に鎮座する境内社・雷電社 参道左側に並列して鎮座する境内社四社
一番社殿側に鎮座する阿芙利社
阿芙利社の左側に祀られている境内社・八雲社
元市神
八雲社の左側に祀られている境内社・琴平社 琴平社の手前にある元白山社
現在は神楽殿
『埼玉の神社』によれば、「明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。一方宿の鎮守であった字西ノ裏の神明社は無格社となったため、明治四十年に字西ノ裏の白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社の三社の無格社と共に当社に合祀された。この時、字西ノ裏から白山社の社殿が当社境内に移築され、以後神楽殿に使用された。このほかに、明治九年に現在の西一丁目の加藤電気の辺りから雷電社が、又いつのころか桶川郵便局の西隣から浅間社が、同じく東和信用金庫の北隣から八雲社(市神)がそれぞれ当社境内に合祀された。中でも浅間社は昭和三十年ごろまで旧地に高さ二・七メートルほどの富士塚が築かれていた。この塚は、地元の富士講の人々が富士山に登拝の度に「黒ボク」と呼ばれる溶岩を一つずつ持ち帰り、これを積み上げたものであった。毎年七月一日には初山と称してその一年間に生まれた子供が母親に抱かれてこの塚に詣で額に神印を押してもらい、愛児の無事成長を祈願した」と、八雲社や白山社等の境内社に関しての記載がある。
東側にも鳥居があり、鳥居の先にはご神木が聳え立っている。
桶川稲荷神社のご神木
東側駐車場からの風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等