古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妻沼若宮八幡宮

 熊谷市には不思議なお社がある。元妻沼町の最北端、利根川右岸堤防沿いにポツンと鎮座する「妻沼若宮八幡宮」。地形的には決してありえない場所に、「立派な本殿」がほぼむき出し状態(実際は屋根はついているが)で、見事な彫刻等が施されているのだが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある、という印象が頭から離れない。
「立派な本殿」という言い回しは決して誇張表現ではない。この本殿の姿を見た人ならば一応にそう言うと思う。現在利根川河川敷特有の激しい雨風にさらされた為か、塗装等ほぼ欠落してしまい、屋根下部に僅かながら着色していて、当時の絢爛豪華なイメージを想像するほかない状態である。路面もコンクリートで舗装されてはいるが、鳥の糞もあちこちに見られ、「侘《び》・寂《び》」を信条とする我が日本人の美意識とはかけ離れた「朽ち果てられつつある」ものがそこに存在している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼
               
・ご祭神 誉田別命(推定)
               
・社 格 旧若宮村鎮守(推定)
               
・例 祭 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2373134,139.3650602,15z?hl=ja&entry=ttu
 国道407号線を北上し、「刀水橋」交差点のすぐ先にある信号のある十字路を左折し、利根川堤防沿いに走って行くと「大里郡利根川水害予防組合第三号水防倉庫」の少し先に妻沼若宮八幡神社が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、土手脇のスペースに路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
              利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する社
 写真を見ても分かる通り、利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する本当に小さな社である。創建・由緒等も不明。但し景観まちづくり地域ディスカッションHP」において、妻沼若宮八幡宮の事にふれている箇所があり、そこにはこのような記述がある。
かつて源頼朝が群馬の新田に来たときに奉られたという八幡宮が利根川の河川敷内にあったが、河川改修に伴い、土手の上に遷宮され、若宮八幡宮となっている。見事な彫刻等が施されていたが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある(以下略)」
 つまり以前は利根川河川敷内に鎮座していたのだが、時期不明の河川改修の際に、現在の地に遷宮、若宮八幡宮となっているという。
        
                   鳥居の社号額
 由緒は不明。但し断片的な資料・書物等で、僅かにこの社を取り巻く地理的な環境がわかる。
・東山道武蔵路の、利根川の渡河地点は、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定している説が有力視されている。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれる渡し場があったという。古戸は「古渡」で、近世には既に古い渡しであったことを意味している。
『新編武蔵風土記稿 幡羅郡妻沼村条』
「渡場 当村より上野国へ達する利根川の船渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、此道は熊谷宿より上野への脇往還なる」
【源平盛衰記】に、足利又太郎宇治川先陣の時の語に、足利より秩父に寄けるに、上野の新田入道を語て搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり、搦手は長井の渡と定たりと云々」
「【東鑑】治承四年十月右大将頼朝義兵を発し、大井・隅田南河を越て来り賜し條に、畠山次郎重忠長井渡に参会す」
        
          拝殿はなく、玉垣に囲われた屋根の下に本殿が鎮座する。
       
                    瑞垣と屋根で覆われた中に本殿が見える。
    本殿は流造りに妻入りの屋根を重ねた権現風で、周囲に彫刻が施された立派な造り
 玉垣の隙間からでも彫刻の雰囲気がよく見え、これほどの彫刻レベルを真近かで見られるのは、
                  少し興奮ものだ。
      
                                   本殿(写真左・右)
 江戸時代に頂点に達した「装飾建築物」の担い手である「上州の彫物師」は、この当時「妻沼歓喜院本殿」の再建に取り掛かっていた。この本殿もこの彫物師たちが手掛けたものであったのかは不明である。
        
                    社の手前右側にある庚申の石碑と八幡宮湧泉之記碑
八幡宮湧泉之記碑」
 延享5年(1748)造立。砂岩製。高93cm。裏面には、若宮八幡神社建立の縁起と、寛保の大洪水(寛保2年:1742)の際、井の水は濁り飲めず民衆が憂いていたところ、寄しくも清泉が湧き邨を救ったと記載されています
 社主:内田惣兵ヱ
 願主:橋上五郎兵衛、橋上茂右ヱ門
 本碑は、聖泉湧出碑(妻沼歓喜院)と同年銘のものであり、2基とも寛保の大洪水の際に泉が湧き民衆を救ったと刻まれています

寛保の大洪水
「寛保の洪水」とは、寛保2年(174281日に発生した利根川の氾濫のことで、近世最大の水害と言われている。この年が戌年であったことから「戌の満水」とも呼ばれているという。利根川上流・千曲川流域では、727日から降り出した雨が8月2日まで降り続き、水位の上昇は、平常より2mから場所によっては6mにも及んだことが記録されている。
 この時歓喜院では、丁度大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になる。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われている。
 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めている。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっていう。
 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られているという。
                                「熊谷Web博物館HP」より引用


 ところで、旧妻沼歓喜院の東側に鎮座する旧村社・大我井神社の境内で、参道にて拝殿に通じる途中に「
唐門」がある。この唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立されたという。
        
                          現在は
大我井神社のある「唐門」
             
              唐門の柱に飾られている由来の木札
 大我井神社唐門の由来
 当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した

 この立派な唐門を配置した江戸時代・明和年間当時の妻沼若宮八幡宮とは如何なる社であったのであろうか。少なくとも現在のような小規模な社ではなかったろうし、鎮座地も現在の利根川土手南岸ではなく、河川敷内にあったのであろう。現在の規模の社で、江戸時代当時のイメージをすると、この唐門ばかり目立ってしまい、社としての纏まりを欠いてしまう。
 また木札に記載されている大正2年10月に移転したという経緯も、もしかしたらこの時期に利根川の河川改修があったとも考えられる。どちらにしてもこの場違いな程見事な唐門を包括していたこの社は『新編武蔵風土記稿』にも「若宮八幡宮 持同上」としか記載されていない。謎多き社である。
*この妻沼若宮八幡宮の創建に関して、妻沼村の土豪「田久氏」の関与を考えているが、まだ推測段階で、しっかりとした考察ができているわけでない。検討課題がまた一つ増えてしまった。
        
                            利根川土手沿いに静かに鎮座する社
 筆者が長年悩んでいでいて、今現在でもしっかりとした解説ができないでいるため、この社をなかなか紹介できなかった理由は正にここにある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館HP

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大井榛名神社

 熊谷市太井地域には「変わったひなまつり」という榛名神社の祭りがある。「熊谷市公協だより第41号」に掲載されているので、全文紹介する。
 「太井地区の榛名神社の祭りのうちの一つ。一ヶ月遅れのひなまつり。普通は三月の桃の節句だが、四月二日にひなだんのかざってある家の座敷に土足で、竹のササを持った男の子が、ワッショイと叫びながら回り、一番年上の男の子中学二年生(新学期から三年生になる)が北埼玉郡騎西町の玉敷神社から借りてきた神具(木刀、面、御神体)の三つをもって後ろから回って歩きます。用掛の人たちは、郭が四つ(北口・番場・新井・新田)あるので普通は四名ですが、この日は年度代わりで、新旧の用掛八名が出て、子どもたちの後ろから一軒一軒御神酒をふるまって歩きます。昔は、太鼓を二人でカツイでタタイて歩いたのですが、今はトラックに太鼓をのせて、子どもたちがタタク。だいぶ変わってきたものです。私が子どもの頃は、全部子どもたちが仕切っていたものです。一番上の子どもが代表して、祭りの前日の夕方、電車で加須駅まで行って、騎西の玉敷神社まで歩いていき、御神体を借り、かなり重い箱にカツギボーをつけてカツグのです。私たちの頃は四人でしたので、二人づつ交代して、夜中の二時ごろ出発して、走って、追いついたら交代して休み、追いついたら交代しながら、朝の六時頃には榛名神社に着いて、待っていた下の子どもたちを先導して家々を回ったものでした。
 今では用掛が前日に全部用意しておくそうです」
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市太井2284
               
・ご祭神 湯彦友命 埴安姫命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 4月上旬 オシシサマ
 国道17号線を行田駅方向に進み、「北砂原」交差点次のT字路を左折し、300m先の十字路を左折すると、正面に太井榛名神社の社叢林と鳥居が見える。
 社に通じる農道は、右へカーブする道路となっていて、その右側に曲がる付近に太井榛名神社が鎮座しているが、道が曲がり始める社叢林の右側に丁度駐車可能なスペースが確保されていて、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
 一面田畑に囲まれるように中に社叢林が鎮守の杜一帯に生い茂り、いかにも「村の鎮守様」としての佇まいを今でも色よく残している。
        
                  
太井榛名神社正面
 熊谷市の南東部に位置する太井地域は、国道17号線を挟んで南北に広い地域で、国道周辺以外の地は現在でも田園風景が広がる。この太井地域は嘗てもっと広大であったようで、『新編武蔵風土記稿』においても、「東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村にて、西も同郡久下村に隣り、北は本郡(埼玉郡)持田村なり、東西二十町、南北八町許」と記載され、東西2.2㎞程、南北900m程で、現在の行田市棚田町、門井町、鴻巣市旧吹上町新宿地域も太井地域に属していて、村の歴史は江戸初期まで遡り、当時は「太井四ケ村」と呼ばれる大きな村であったようだ。

 新編武蔵風土記稿 巻之二百十八 埼玉郡之二十 忍領
 大井村(大井・門井・新宿・棚田) 第十一冊-頁七十七
 大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より十五里。当村は古へに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。  正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。  民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西二十町、南北八町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。  高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ

       
       入口に設置されている社号標柱   鳥居の脇には塞神が祀られている。
  
塞神の脇には草鞋が奉納されていて、旅の無事や脚の健康を今でも願っているのだろう。

 ところで太井(おおい)という地域名の由来としては、「大堰」からきたといわれている。広瀬から荒川を分水して用水を導き、この地に大きな堰をつくったので、太井の名ができたという。〔埼玉県地名誌〕
 尚「太井」の文字は正保・元禄(16441703)の改図には、「大井」と書いているが、更に古くは「太井」の文字を用いているので、今日の名称は、古称に従ったものであるという。
        
                                  参道からの風景
 この写真では分かりづらいが、一の鳥居から拝殿前まで続く敷石の一枚一枚に奉納者の名前が刻まれている。地方の一神社でありながら、このような形式の奉納が何世代にもかけて継続されていることに、代々氏子の方々から篤い信仰を受け継いでいる証拠をみるようで、不思議な感銘を覚えた。
        
                    二の鳥居  
  一の鳥居が神明系であるならば、二の鳥居は朱を基調とした木製の両部鳥居となっている。
        
                     拝 殿
 榛名神社 熊谷市太井二二八四(太井字堅田)
 湯彦友命と埴安姫命を祀る当社は、畑に囲まれて鎮座している。かつて、当社の境内には鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉の大木が林を成し、遠方からでもすぐ神社の位置がわかるほどであったが、太平洋戦争後は多くが枯死してしまい、現在ではわずかな面影を残している。
 鳥居をくぐると、拝殿まで整然と敷石が続いているが、よく見ると一枚一枚に名前が刻んであることに気づく。これは、毎年一枚ずつ、その年の仕事を終えた用掛かりと呼ばれる年番が奉納するもので、大正の末から始められ、昭和六十二年にようやく鳥居の所にまで達した。こうした敷石の奉納は、信仰が薄れてきたといわれる今日にあっても、当社が依然、太井の鎮守として氏子に親しまれていることの表れであるように感じられる。
 当社の創建について、詳しいことはわからないが、江戸時代に当社を管理していた福聚院が慶長七年(一六〇二)の草創と伝えられていることから、それとほぼ同じころではないかと考えられている。明治になると神仏分離によって同寺の管理を離れ、明治六年六月に村社となり、同四十一年十一月二十八日、字堅田の雷神社と字伊勢前の神明社を合祀した。
 このほか、『明細帳』には記録されていないが、新田廓にあった伊勢神宮社と、番場廓にあった鷲宮社も当社に合祀されているという。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
                境内奥に聳え立つご神木のクスノキ
       
           「社殿新築記念碑」   「社殿新築記念碑」の並びに鎮座する末社殿 
                         塞神と浅間神社が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」「熊谷市公協だより第41号」等

 

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佐谷田神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市佐谷田310
              
・ご祭神 主祭神 
                  (佐谷田)八幡神社 譽田別命・神功皇后・玉依姫命
                   相殿神 
                  (戸 出)神明神社 大日孁貴命・天鈿女命・手力雄命
                  (平 戸)住吉神社 
底筒男命・中筒男命・表筒男命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春季大祭 415日 例祭 85日 秋季大祭 1015
                   
燈明夜 1123
 佐谷田神社は国道17号線を行田駅方向に進み、「佐谷田」交差点を左折、埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、400m程進んだ「佐谷田歩道橋」先で右側の道路沿いに鎮座している。
 県道からも「佐谷田神社」の大きな看板が見えるので、分かりやすい社と言える。県道の十字路を右折し、左手に見える社入り口には「佐谷田中央集会所」も左手にあり、駐車スペースも確保されているので、その一角をお借りしてから参拝を開始した
     
            社号標柱           入口に設置されている佐谷田神社の案内板


 熊谷市佐谷田地域は市の東部に位置する標高21m26mの低地帯の地域である。旧中山道沿いにある「埼玉県農林総合研究センター」を起点に、東方向にかけては「秩父線」が、南東方向には「元荒川」が地域の境となって、概ね3㎞程放射線状に広がっている地域であると考えて頂ければよい。
 この地域は国道17号線と埼玉県道128号熊谷羽生線が分岐していて、地域内には上越・長野新幹線、高崎線、秩父線が通っている。平成163月には、指導130号線立体交差が開通し道路整備も進められ、交通量も増している地域でもある。昭和50年代後半以降、圃場整備の進展があり、地域内は市街化調整区域として耕地確保の施策が続いているという。
        
                              佐谷田神社 正面鳥居
  
  鳥居には「八幡大神」と刻印されている。     参道途中には紙垂がまかれた松が
  「佐谷田村鎮守」の頃の名残りだろう。   まるで参道にせり出すかのように伸びている。

 佐谷田神社は元々「旧佐谷田村鎮守社」であり、隣接する「旧戸出村」の神明社、「旧平戸村」の住吉神社(他国社)にもそれぞれ鎮守社が存在していた。
『新編武蔵風土記稿』においてそれぞれ以下の記載がある。
 佐谷田村「八幡社 村の鎮守 永福寺持」
 平戸村「他國明神社 村の鎮守なり 祭神詳ならず 或云住吉を祀りし社なりと云 超願寺持」
 戸出村「神明社 社領七石の御朱印を賜へり 別当金錫寺」

 因みに平戸村の「他国社」に関して、慶長年間の記録に、九州は肥前の国松浦郡平戸郷より藤井稚楽之助なる郷士が当初に住し、村の北東丑寅の地に境内を定め住吉大明神を勧請し氏神として祀ったのが始まりとある。

 
古くは隣接する集落であったが、国郡郷制度の定めでは統治下が異なり、佐谷田村は郡家郷に、平戸・戸出村は埼玉郷に属し、郷治されていた明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となり、この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。 
             
                      参道左手で境内には「佐谷田中央集会所」があり、
                    その入り口前には立派な松のご神木が聳え立っている。                                         
        
                         参道の先に鎮座する佐谷田神社

「佐谷田(サヤダ)」という地名由来はどこからきているのであろうか。
1 サヤ(佐谷)には、小川、水溝の意味があり、谷は(や)で(たに)とのみ考えるのではなく、水辺に萱やよしなどの多く生える低湿地に与えられた地名である。このため「谷」のつく地名は山地よりもむしろ平野に多い。〔埼玉県地名誌〕
2 土地の人々は、サエダと呼んでいる。これによると、“サエダ”は、“サエド”の転化と考えられ、道祖(サエ)の神を祭るところの意味からこの名がついたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
「新編武蔵風土記稿」には佐谷田は古く佐谷郷と唱えたという。

付け加えて「戸出(とで)」「平戸(ひらと)」に関しては
戸出(とで)
1 アイヌ語で(トエヌタブ:Toyenutep)川が蛇行するという意味から付けられた。
2 「ト」は外を意味し、「テ・デ」は方面を意味する語なので、「トデ」は外の方面という意味。もとは「外手」であり、「堤の外の地」あるいは、「集落の外の地」を指した地名。
平戸(ひらと)
平たい地形で川の堰(戸)が付近にあったから名づけられた説と、現在の長崎県平戸(肥前国松浦郡平戸郷)から藤井氏が移住し、同名の地名を付けたという説がある。
        
                     拝 殿
 佐谷田神社 熊谷市佐谷田三一〇(佐谷田字不動堂)
 明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となった。この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。
 佐谷田の八幡社は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守、永福寺持」と記され、『大里郡神社誌』には享保七年(一七二二)三月十一日に宗源宣旨を受け、正一位になったことや、寛政五年(一七九三)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記事がある。ただし現在では、この宣旨や添え状は残念ながら確認できない。
 一方、戸出の神明社は、『風土記稿』に「神明社 社領七石森の朱印を賜へり、別当金錫寺 新義真言宗」とある神社であるが、七石の社領を明治初めに上地されて以来零落し、県行政文書によれば、明治三十二年に、時の社掌杉浦正太郎は内務大臣・農商務大臣に上地林を下げ戻しの上、境内に編入することを嘆願している。しかし、この嘆願により調査を行った東京大林区署長島田剛太郎の「該神社は、村社なるも全く荒廃に任せ、神体は唯御幣のみ存するの状況、殆ど無格社に劣る」との報告に、上地林の下げ戻しは実現しなかった。
 平戸の他国社は『風土記稿』に「他国明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云、超願寺持」と載り、口碑に「長崎平戸の神を祀り他国という」と伝え、戦後旧地に戻っている。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                     本 殿
        
               社殿左側に祀られている合祀社
 手前の四社は社頭にある案内板によると、厳島神社、日本武尊神社、天児屋根命神社、大山祇神社のようだが、札等がないので詳細不明。奥に祀られている社は、左から天神社、八坂神社、琴平神社、稲荷神社があり、その奥には三峯神社が祀られている。
 
   合祀社の手前には塞神が多数ある。     合祀社の並びには石祠や石碑等が並ぶ。
        
   社殿右側には富士塚があり、塚の上には浅間神社と小御嶽石尊大権現が祀られている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」
    「Wikipedia」「佐谷田神社HP」「熊谷市公連だより」「境内案内板」等

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久下神社

 久下 直光(くげ なおみつ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士といい、私市氏(私市党)の一族久下氏の当主で、季実の子、重光の父。本姓より私市直光(きさいち なおみつ)とも呼ばれる。久下権守を名乗った。
但し久下氏が私市党だったかどうか、実は不明で、別説によると、舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔といい、親王の三代目に源満仲の弟武末が養子として入り、その孫基直が開発地の久下を称し、武蔵国久下郷に在住したとする「皇胤」の一族とする説もあり、今現在どちらも断定する決定的な資料はない。
 どちらにせよ平安時代末期、久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182年)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。
 勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久3年(1192年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年11月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられている。
 その後久下氏は、承久の乱(1221)に際して、久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上り、戦後、かれは武蔵へは帰らず所領の丹波国栗作郷金屋に留まる。以後、久下氏は丹波に住して国人領主に成長してくのである。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市久下829
              ・ご祭神 大山祇神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 2月20日 例祭 414日 新嘗祭 12月10日

 熊谷市南西部、荒川土手に沿って集落を成す久下地域は、現在の行政区域で凡そ北西方向から南東方向に荒川が流路を形成する凡そ5㎞程の細長い地域であり、主要道路である旧中山道沿いに民家が集中し、その道路の南側は荒川堤防で仕切られ、現在では民家もほとんど存在しない。
 久下地域は江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』において「久下村」が存在していて、その距離は「一里十一丁」、現在の距離数で計算すると一里=4㎞、十一丁=1090mとなり、5,090m程で現在の形とそう違いはないかもしれない。また細長い地域故か、中山道近くにあったものは「内三島」、荒川の近くにあったものを「外三島」と呼称された。寛永6年(1639)伊奈備前守忠治は久下新川先から小八林至る新しい川を開削し、この地で新川河岸が開かれると、江戸との廻船が盛んとなり大いに栄えた。当時は忍藩の領地であり藩の財政に大きく貢献する河岸は重要視され江戸との距離も適当であったため、堤の中に多くの人々が住むようになった。明治となって新川村が誕生し、外三島社は新川村の村社として祀られるようになった。一方内三島の方も中山道に沿って栄えた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり明治43年に村内の無各社を合祀して社名も久下神社と改めている。
        
               旧中山道沿いに鎮座する久下神社
 国道17号線を熊谷市街地から行田・鴻巣方向に進路をとり、熊谷市街地を抜けた「佐谷田(南)」交差点を右折する。埼玉県道257号胄山熊谷線に合流し、JR高崎線を越えて更に南下し、荒川に架かる「久下橋」の高架橋手前で左斜め方向に下がるように進み、その先にある信号のある十字路を左折する。そして旧中山道を東方向に600m程進むと左側に久下神社が見えてくる。
                    
                   歴史を感じる社号標柱
        
                              「久下神社」と表記された鳥居

 地域名「久下」の地名由来は「熊谷市web博物館」では以下の説明がされている。
1 文武天皇の世(701年)大宝律令によって定められた土地制度で、全国の国、郡、各々に国司、郡司、里長が置かれた。郡司の治所(郡役所のあるところ)を郡家と書き、訓読みでは【コオリノミヤケ】、音読みで【クゲ・グウケ】と読んだところから転じて郡家の所在地を久下と書くようになった。〔地名の研究〕
2「崩潰」を意味する古語である。【クケ】とは、水が漏って貫ける意味。洪水のために堤が崩壊されたために、この名が生じたと解される。久下を地形的に見ると、古くは荒川の氾濫地域であった。よって、久下の名は、荒川堤の崩潰によって生じたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
3 
アイヌ語(Kukei、クケイ)で、川場漁をとるところの意味。久下は荒川のそばにあり、川でよく魚がとれたので、この名が生じた。
       
 鳥居を越えて参道を進むと、左側に
「合祀久下神社之碑」の石碑(写真左)と「神日本磐余彦天皇」と刻印された標柱(同右)がある。どちらも昔の字体となっていて、読むのが難しい。
        
                     拝 殿
 久下村
 三島社、吉祥院持村の鎮守なり。権守の頃は久下村に三嶋両社八幡三社ありと云。土人の云るに、今久下村・下久下の五村にある者是ならんと,
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

 久下神社 熊谷市久下八二九(団久下字鎮守耕地)
『吾妻鏡』建久三年(一一九二)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。これが当社の始まりであると伝えられている。この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、街道(中山道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。
 江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。
 新川村と久下村は明治二十二年に合併し、その後も二つの三島社は共に村社として祀られてきた。しかし、大正二年、当社(内三島)は更に村内の神社一四社を合祀し、社名を久下神社と改めるに至り、その際、外三島は当社に合祀された。また、この合祀の翌年である同三年、当社は水害を避けるために堤内にある現在の社地(明治四十三年に合祀した伊奈利神社の境内であった)に移転し、今に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿に掲げてある扁額。旧字体で表記。  社殿左側には幾多の奉納額が並べて設置されている。
        
                    本 殿
 本殿には石段を積み上げて、更にしっかりと補強もされているようで、当地の水難の歴史を垣間見ることができる。
 此処から1.5㎞荒川下流域は熊谷市、行田市、鴻巣市吹上の境界であり、左岸堤防上には「決壊の跡」の石碑が設置されている。昭和22(1947)のカスリーン台風による洪水で、荒川の左岸堤防は、この地点で決壊した。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあり、決壊による濁流は元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れたという。
 現在熊谷市水害ハザードマップにも隣接している久下小学校は地域の避難所ともなっていて、旧中山道の道の向かい側には熊谷市消防団久下分団も設置されていて、地域の防災拠点ともなっている。
 
 社殿左側奥には稲荷社・琴平大神・石祠が祀られている(写真左)。石祠の前に猿らしき像が置かれているので日枝社kかもしれない。また社殿奥には並べて祀られている末社群あり(同右)。
        
 當神社は、その上、武家の棟梁征夷大将軍源頼朝公に臣從せる久下直光が、鎮守として勸請せる三嶋神社にして、後村内二十五社を合祀、久下神社と改稱、當地總社として村民遍く尊崇のうち今日に至りしなり。下りて元文四年四月この地の氏子崇敬者浄財を寄せ大鳥居を奉獻す。時恰も櫻町天皇の御宇徳川吉宗八代將軍たりし代なりけり。爾来二百七十年、風雪漸く材を損ひ、終には亀裂をも生ぜしめ、倒壊の虞を豫感するに至る。茲に平成十七年四月十五日當社例祭の佳日、氏子總代會の議を經て大鳥居奉獻委員會を結成、廣く浄財を募り事を興す。工事は、二代に亘り現代の名工を擁する野口石材店に委ねたり。直ちに、工匠材を求め想を凝らしつつ事に當たるに半歳。神域の時を刻みし参道の下つ磐根に礎固く深く、遥けく平成の蒼穹を望む大鳥居復古して竣工す。元朝の嘉辰を卜し、鴻業の經緯を奉獻氏子の赤心を後昆に傳へ顯彰すべく、聊か概略を碑に刻すること斯くの如きなり (以下略)
                                      石碑文より引用
        
                                  拝殿からの眺め

 久下地域は中山道に沿った農業地帯であるが街道筋では商工業者も多く、その中でも久下鍛冶の名で知られた鍛冶職人がいて、近世武蔵の鍛冶を代表するものとして知られるところという。天明六年(1786)の「久下村鍛冶先祖代々申伝覚書」が残っており、治承四年(1180)久下直光が鎌倉から国安という鍛冶を招いたことから始まり、以降代々忍城のご用鍛冶を務めたという。

 久下は荒川左岸に位置しながら、熊谷市でも古くから開けた地域の一つであり、このページに収まり切れない、調べるほどにその歴史的な古さを感じることができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「熊谷市web博物館」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等

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本町千形神社

 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、日本神話に登場する天津神で、『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命との別名を持ち、忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊尊(たかみむすび)の子と記されている。
 岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。 そして、八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、天児屋命とともにその前に鏡を差し出した。
 天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴した。『日本書紀』の一書では、天児屋命と共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれていて、また古語拾遺にも「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。天太玉命は天皇家が居する皇城の門神、つまり門を守護する神ではなかったのではなかろうか
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市本町118
             
・ご祭神 主祭神・天津彦火瓊瓊杵尊 
                  相 殿・天兒屋根命 天太玉命

             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 23日・101日 祈年祭 217日 新嘗祭 1123日
 本町千形神社は熊谷市街地である大字本町に鎮座している。高城神社からも近く、国道17号線沿いで、すぐ北側にある一の鳥居とその北側に伸びた参道の先に二の鳥居があるが、この鳥居を越えると東西に通じる道路があり、その十字路を左折してから200m程歩くと本町千形神社の正面鳥居が右側に見えてくる。
 高城神社周辺もそうだったが、周辺は一方通行の道が多く、車両を使用する際には注意して通行して頂きたい。また市街地になるので、人通りも多く、自転車や歩行している一般の方々の迷惑がかからないような配慮も必要だ。因みに筆者は市内に居住していて、市役所にて所用を済ませてから周辺の散策を行ったので、参拝場所の駐車場等の心配は今回はない
        
                  本町千形神社正面
 高城神社のご祭神は高皇産霊尊(タカミムスビ)で、本町千形神社は天津彦火瓊瓊杵尊(二ニギ)を祀っている。系譜上二ニギはタカミムスビの孫にあたり、相殿に祀られている天児屋根命と天太玉命は、ニニギの天孫降臨時に随伴した神でもあることから、本町千形神社は高城神社の系統に近しく仲の良い社ともいえよう
        
                                 本町千形神社参道
     国道17号線にも近く、街中にありながら、ひっそりと佇む静かな社という印象。
 参拝日は2022年4月13日で、既に桜は散っていて若葉が芽吹いていた。参道両側にある桜並木を見ながら、もう1週間程参拝が早ければ、綺麗な桜が見られたか…と少々後悔の念が広がったことを今でも頭の片隅に憶えている。
        
                                       拝 殿
 千形神社 熊谷市本町一-一八(熊谷字本町二丁目)
 中山道の熊谷宿の中心として栄えた本町の守護神として祀られ、天津彦火瓊々杵尊を祭神とする当社の由緒は、熊谷の町の歴史とかかわりが深く、次のような話が氏子の問に伝わっている。
 その昔、気の荒い大熊がこの地にいて、人々を悩ましていた。その熊を熊谷次郎直実の父親である直貞が退治したことによって、暮らしやすくなったので次第に大きな町になっていった。直貞は、殺した熊があまりにも大きかったので、熊の霊を慰めるために、その頭蓋骨を埋めた所に熊野権現を勧請して祀るとともに、熊の血が流れていった(飛んでいったともいう)所にも社を建て、血形明神と称して祀った。これが当社の起源である。
 右の話にあるように、当社の社名は、初めは「血形」と書いていたが、いつのころからか「千方」と書くようになり、それが更に「千形」と書く急うになったという。なお「熊谷寺縁起」によれば、熊谷直貞による熊退治は、永治年間(一一四一-四二)のことと伝えられている。
 江戸期においては、熊野権現杜と共に円照寺の持ちであったが、実際の社務は、当社の境内にあった当山派修験の万光院が行っていた。神仏分離の後、当社は明治七年二月に村社となったが、熊野権現社は無格社であったため、同四十年に高城神社へ合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額            扁額の左側にある奉納額
 奉納
 千形神社境内の土俵は宝暦年間より近郷力士が千形相撲として毎年二百年の永く草相撲が続けられた相撲歴史発祥の地である(以下略)
                                    境内奉納額より引用
 江戸時代中期の宝暦年間(1751-1764)より近郷力士が「千形相撲」として毎年十月初めに奉納相撲を行い二百年以上の永きに渡り草相撲が続けられた熊谷における相撲発祥の地とされる。神社にはその際の板番付が奉納されているという。拝殿の左側にはその土俵があったそうだが、確認できなかった。
     
    拝殿手前左側に設置されている神楽殿          本 殿

 本町千形神社の創建の年代は不詳ながら、神社の由来については、平安時代末期に遡るという。その時期に、熊谷近辺に巨大な熊が出没して人々を脅かしていて、人々の不安が日々募る中、藤原千方と名乗る者が現れて熊退治を呼び掛けた。村人は賛同して数百名が思い思いの武具を手に集まり、山狩りを始めた。
 熊は山狩りを逃れて熊谷から姿を消したが、人々はなおも追跡して大谷村(現:東松山市)まで熊を追い詰めた。その地で千方は弓を取り、熊を射ち殺した。倒れた熊の死骸の巨大さに千方は神霊の存在を感じ、熊の霊を赤熊明神としてその地に祀った。人々は熊の霊を慰めるとともに千方の武勇をたたえ、熊谷の中央に「熊野山千方明神」として祀ることにした。一時期は鎮守社となり、後に千形神社と改称した。
 別説では、熊を倒したのは平直貞(熊谷直実の父)ともいう。この説に拠れば、熊が倒れたのは「くまん堂」(熊谷市内に石碑が現存)という場所で、熊の血が流れた場所に建てた社を「血形明神」(血形神社)と呼び、後に「千形神社」と改めたという。ただし、この説は熊谷氏が直貞の武勇伝を誇大に伝えるために熊を退治したのは直貞と言い伝えたことが史実であるとされる。熊を倒した千方は藤原秀郷の子であり、秀郷は武蔵守を兼任していたのでよく熊谷近辺を往来していた。その際に熊の害を聞き及んで退治に乗り出したものと伝わる。
        
               拝殿側から見た参道の一風景

 また別説では、『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事によると、天智天皇の御代に、伊賀・伊勢の二国で、藤原千方が反乱軍を起した。千方は、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼(四人の怪人)を配下に、都などでも変幻出没を繰返し、朝廷も手をこまねいていた。そこで紀友雄が勅命を戴いて当地に赴いた。
 友雄は、和歌を書いた紙を矢につけて射たという。
 ○土も木も我が大王の国なるを、いづくか鬼のすみかなるらん   紀友雄
 すると四鬼はこれを読んで、己が住むべき国ではないと、たちまち本物の鬼に化生して、奈落に落ちたという。その穴の跡は今も四つ残っていて、四つとも風が吹き抜け、どこかでつながっているらしい。今の名賀郡青山町付近だという。
 首謀者の藤原千方は、家城(いへき、現在の白山町)付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしているところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ。千方は首を切られ、その首は川を遡って、川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたという。
 この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関わる行事も多いという。

 更に藤原千方の四鬼は坂上田村麻呂伝説にも登場する。
『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』では、奥州達谷窟の岩屋に住む悪郎と高丸兄弟が苅田丸と田村丸親子を討って帝位に就き、先祖である藤原千方の無念を晴らそうと風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼も加えて謀議を企てていた。都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れて帝に近付いたが、田村丸に見破られて水鬼は討たれ、隠形鬼は逃げ帰った。勅命を蒙った田村丸は58千余騎を率いて奥州へと攻める。田村丸の弟・千歳君は城中深く攻め込み隠形鬼に囚われたが、山伏姿であらわれた秋葉山大権現が千歳君を救いだし、虚空より大磐石をふらせ、大地より火焔を湧き出させて殲滅させたという。
        
        
正面鳥居の右側に本町一、二丁目の有形文化財「山車」倉庫がある。

 伝説上の藤原千方は反乱の首謀者であり、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼を引き連れて変幻自在に出没する悪党として出典され、またその子孫も同様に先祖の仇を討つことで、田村丸に滅ぼされるなど、大悪党としての印象としての印象が強いが、史実の上での本人はどのような人物であったのだろうか。
 平安時代の藤原氏の系図を探ると「尊卑分脈」に藤原北家魚名流とされ、藤原秀郷‐千常‐千方が載っている。
 秀郷は俵藤太ともいい、琵琶湖の三上山に住む大ムカデを退治したことで有名であり、元々は関東の豪族である。
 藤原秀郷は天慶3年平将門が関東に兵を挙げたときに朝廷側として将門側と戦火を交え、その首級を上げた。そして秀郷の子孫である千常やその嫡子文脩は、共に鎮守府将軍として関東地方に勢力を張る。千方は鎮守府将軍兼下野国押領使藤原文脩の弟であり、もし伝説の千方を秀郷の孫の千方とすれば、乱の首謀者である千方の縁者である文脩にも災いが及んでいたことは容易に想像できようが、そのような形跡は一切ない。史実の上での千方は叛乱を起こした事実はないし、当時伊賀・伊勢一志地方に叛乱が起こったことは正史には見ることは出来ない。史実での千方を初めとする秀郷流藤原家は、関東にあって父祖の所領をついで豪族として関東地方支配に努めていたはずである。『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事での「天智天皇の御代」となると、全くの時代がずれまくっている。
 また同時に紀友雄も紀氏の系図には出ていない。伝説の千方が秀郷の孫でないことは明らかではあり、そこには伝説と史実の間にかなりの乖離がある。

 平安時代は正に藤原北家独占の時代。正面切って藤原家の悪口は言えないため、「物語」を創作して少しでも気持ちの鬱憤を晴らしたい気持ちは理解できる。例えば「竹取物語」では7人の求婚者のうち、「車持皇子」には厳しい要求をしたというが、この「車持皇子」には実際史実上のモデルがいて、「藤原不比等」と言われている。
 しかし一体どうしてこのような残虐非道な人物に仕立て上げる必要があったのだろうか。勝手な推測するに伝説地のどこかで大規模な叛乱があり、その事件が千方と重なり合い伝説化されたのではないかとも考えられるが、そのような事件は「平将門の乱」「平忠常の乱」以外は見当たらないと思われるが、しかし実際は定かではない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「歌語り風土記」「奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内奉納額文章」等

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