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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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赤城久伊豆神社


   久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に100社ほど分布する一地域集中型の神社で、祭神は大己貴命(大国主)。名前の由来である祭神の大己貴命(=大国主命)は出雲大社の祭神で、「出雲」を万葉仮名で書くと「伊豆 久毛」となり、創建当時より(出雲族・多治比真人三宅麿)が故郷を久しみ、久(ひさ)しい出雲(いずも)の大神と呼んだのが転化して「ひさ いず (=久伊豆) 大明神」と呼ぶようになったと考える説もある。この久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲と不思議なことにほぼ一致している。

  この久伊豆神社の最西端である熊谷市石原にこの赤城久伊豆神社は鎮座している。

所在地  埼玉県熊谷市石原1007
御祭神  大己貴命(別名大穴牟遅神)    豊城入彦命
社  挌    不明
例  祭    不明
 


         
  赤城久伊豆神社は熊谷駅南口から荒川方向に進み、最初の交差点を右折する。元荒川通りを真っ直ぐ国道140号線方向に向かい秩父鉄道の踏切を越えるとすぐ左側に赤城久伊豆神社の鳥居が見えて来る。駐車場は鳥居を越えた先に広い駐車場があるのでそこへ停め参拝を行った。

        
  神社の案内板によると山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社を合祀したとの事だ。それ故か
後で分かったことだがこの社には正面の鳥居が東側と北側の2か所存在する。神明造りで東側に向いてる上の写真は久伊豆神社の鳥居のようで、参道の先には手水舎があり、社殿もこの鳥居の方向に向いているので本来は久伊豆神社が基にあり、その後赤城神社が合祀されたと解釈したほうが自然だと思う。
 
      神明造りの鳥居から撮影、             参道の先、左側にある手水舎
       正面に社殿が見える。
 
 よく見ると参道が2方向にあることが分かる。             神楽殿
       
                          拝  殿
 
      社殿の左側にある富士塚             社殿の奥にある稲荷社
        
                          本  殿
熊谷市赤城久伊豆神社社叢ふるさとの森

   身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季 折々の風情に富んだこの赤城久伊豆神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
  この神社は山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社とを合祀した物で、北面の鳥居は郡(群?)馬県の赤城山に向かい立っています。
  境内にある森はスギ、ケヤキ、クス、エノキなどで構成されており、市街地内にある貴重な鎮守の森として、私たちに、安らぎと潤いを与えてくれています。
  埼玉県熊谷市
                                                                                                          案内板より引用

        
               北側にある両部鳥居、赤城神社側の鳥居か
        参道の先には神楽殿が見える。この社は神社の配置が妙に面白い。
                 





  

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玉井大神社


 東別府神社から南東方向に1km弱の所に玉井大神社が鎮座している。
  その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。

所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

主祭神    天津日高彦火火出見命(あまつ ひこひこほほでみ)
         *一般には山幸彦(やまさちひこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。   
社  格     旧村社
例  祭     三月十五日 例大祭    
       
                   
地図リンク
  玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。
                      

  由来書によると玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地
に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主神として十五柱を奉斉する。
                                      
玉井大神社造営記念碑より引用                                                                                                 

                     
                                                参道より社殿を撮影
   手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。
 
 延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある

*オビシャ

 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
                                    
                             拝  殿
                        
                        
                                                    
朱色の鮮やかな本殿
         
          拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座                       社殿脇に並ぶ末社

  今何気なく思うことがあり、最後に一言追加して述べたい事項がある由来書による玉井大神社の地名「玉井」の由緒は上記に記載した通りだが、実際の信憑性はいかがなものだろうか。というのも神社名である「玉井」の「玉」に関して、武蔵国、特に北部には「玉」のつく地名や神社が、例えば「埼玉郡」「前玉神社」「児玉郡」「玉敷神社」等少なからず存在するからだ。
                                    
                                           社殿方向から御神木の銀杏を撮影
  
               この御神木は何百年の歳月を静かに見守っている。

  地名は生きた化石と云われ、地名の起原や由来を調べれば当時の歴史がおぼろげながら見えてくる。いわば地名とは「歴史の生き証人」と言えないだろうか。
 そもそも地名とは
人類が言語を使用するようになってから現在まで、特定の地表面を表現するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきたものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより表現方法も多彩なものとなって、日本国中の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。
 そういう意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の表現しきれていない隙間を埋める一つの重要なファクター的存在であろうと考えることは愚かな事だろうか。

                                        
 

 
                      

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東別府神社

  幡羅郡には、白髪神社を祀る論社が4社ある。式内社、つまり神名帳に載る白髪神社は、現在いずれか定ってはいない。その論社である社は妻沼の大我井神社、白髪神社、深谷の東方にある熊野大神社と東別府にある東別府神社である。
  別府城址の一角に鎮座する東別府神社は、今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたり、その鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。

所在地    埼玉県熊谷市東別府708
主祭神    天児屋根命    祝詞の神、出世の神 中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
         宇迦之御魂神   生産の神/五穀豊穣の神
         大物主神      蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神、酒造り(醸造) の神
                    国の守護神
        (合祀)          彦由岐命    不詳
                      埴山比売神   土の神
社  格     旧村社  延喜式神名帳 白髪神社 武蔵国播羅郡鎮座
例  祭    四月十五日 例大祭


        
地図リンク
 延喜式内社 奈良神社からほぼ西方向約3kmに東別府神社が鎮座している。直線距離では2km強だが実際の道路事情ではかなり入り組んでいて3km以上はある。籠原駅方向から行くと埼玉県道276号線を航空自衛隊熊谷基地から妻沼方面へ北上し、別府中学校北側の交差点で右折ししばらく走って行くと、そのうち左手側に東別府神社の社号標石が見えて来る。左折すると突き当たりに東別府神社が鎮座している。
      

          東別府神社 一の鳥居
                史跡 別府城跡地碑
                                別府城跡地の一角に東別府神社は鎮座している。
          
                       別府城の土塁跡。埼玉県指定史跡
埼玉県指定史跡別府城跡

  熊谷市別府 七七七 他
 昭和十六年三月三十一日指定
 別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
 この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲にに巾約二~三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。

 太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
                                                                                                                                                                                                                         昭和五十四年三月三十一日

       
 参道途中から西へ伸びた参道の奥には神明社(写真左側),またその脇には御手長神社(同右)がある。神明社の社殿はよく見ると傾いている。
          
                               
拝  殿
          
                                本  殿
  東別府神社は別府氏の始祖藤原鎌足の後裔であるので、総本社は春日大社であり、かつては春日神社と称していたという。ということは本殿に祀られている3神はどういうことか。春日大社といえば、藤原氏の春日四神(経津主神・武甕槌神・天児 屋命・姫大神)を祭神としている。それに対して東別府神社の祭神は天児屋根命、宇迦之御魂神、大物主神だがそのうち藤原系は天児屋根命のみで、その他2神は稲荷系、出雲系である。どの資料にもそのことについての資料がないが不思議といえば不思議である。

        
       境内社 八坂神社、天満天神社、八幡神社              青面金剛と三猿
     
          両方とも大黒天の石碑                    王瀧口 登山道?
         
          
                                 御嶽塚
東別府神社

篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂
  ここ別府城址に鎮座する東別府神社は今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたりその鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
  明治22年6月境内地を拡張するとともに当時既に奉斎されていた春日神社稲荷神社□□がこの地域内に祭られていた榛名神社神明社御嶽神社大国主神社八坂神社琴平神社三船神社当を合祀し地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間神祇を崇め祭祀を重・・・・・・みにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた・・・・が本殿拝殿など積年の風雨による損いもはなはだしく之が修理について斉しく憂慮するところであった。
  昭和32年10月東別府自治会が中心となり同憂の人達と協議をかさねた結果東別府神社(以下略)
                                                                                                                                                                                                                                                        社頭掲示板

 
                             
                             



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大雷神社

所在地    埼玉県熊谷市拾六間690
主祭神    別雷命
社  格    村社 
 
       
由  緒   
 由緒不明

例  祭         
不詳

地図リンク
  国道17号線新堀(北)交差点を自衛隊基地入口方向へ下り、約1km位行くとY字路の交差点があり、手前の歩道橋脇から左側へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。参道の両側は徳蔵寺の墓地になっており、その墓地の西側に観音堂と閻魔堂、北東側に徳蔵寺がある。この社は筆者の住まいの近所にあり、今までなかなか参拝できずにいたが、今回満を持して紹介することとなった。

 この地域は熊谷市の中にあって人口の増加から周辺は開発が進んでいるが、この社周辺にはその喧騒が全く感じない静かな時間が広がっている。小さい社ではあるが大切にしたいものだ。
             大雷神社の静かな佇まい

  ところで大雷神社の扁額には「大電八公宮」と記されている。熊谷市新島地区に鎮座する大雷神社も大電八公宮という。祭神も同じく別雷命。そこの由来の碑にはこのような説明が書かれている。


大雷神社 由来

  当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字となり、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、熊谷市大字新島となる。
 当社は古くは大電八公社(ダイテンハクシャ)として現在の熊谷市大字新島大天白北三百二十八番地に鎮座し・・・(中略)祭神は別雷命です。・・・(中略)風の神、安産の神として近郷の人々の信仰を集めてきました。
  大電八公でダイテンハクと読ませることのほうが興味深いことだ。大天白神は星神・水神・農耕神・産泰神などの性格を持ち、別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり
別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり、またこちらの神社では産泰神としての性格も持たされていることを考えると、大天白神と別雷神を同一視している可能性もあるだろうか?

 またある書類ではこのようなことが記入されている。

・・・・『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。関東では大天白を「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという。・・・

           額に記された大電八公宮

「熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森」の看板の説明文には以下のことが記載されている。

熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森
 昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この二つの樹林が、「ふるさとの森」に指定されました。
 徳蔵寺は、真言宗の寺院として、六〇〇年ほど前に建立されたと言われ、薬師如来と十二神将軍の石像は、古くから人々の深い信仰を受けています。
 大雷神社は、源平時代(1056年)に父の命を受けた源義家が、征途にあたり、この付近に十六間四方の兵舎を築き、五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています。
 周囲の都市化が進むなか、天に向う大樹の森は、かけがえのない緑です。
 林相としては、主に、カヤ、イチイガシ、マツ、クスノキ、スギ、ヒノキなどで構成されています。

  大雷神社社叢ふるさとの森の説明板でも「大雷神社は、源平時代・・・(中略)五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています」と書かれている。拝殿の額に書かれた「大電八公宮」という名前といい、読み方といい、この説明板の水神といい、天白神との関係が非常に深いのでは、と感じた。






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冑山神社

 国道407号線は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫し混雑が激しいこの道は、関東平野の西端を走っている事もあり、国道129号や国道16号と組み合わせ、神奈川県西部や多摩地域から埼玉県西部、群馬県方面に向かうルートとして利用されている。不思議なことに東山道武蔵路はこの国道407号線上と並行していたと大体においては考えられているが詳細は完全には解明されていない。この国道407号線沿いに甲山神社は鎮座する。
  甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約51メートルの丘陵上に構築された古墳で、古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられたという。
 この古墳は、墳形が中段にテラスを持つ円墳で、規模は南北径が約90m、高さが約11.25mある。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径105m)についで県内第二位の大きさを誇り、全国でも4番目の大きさの円墳だそうだ。
  墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているように見える。
  この古墳の正式な発掘調査はなされていないようだが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた太刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されている。
 この甲山古墳とともに、北へ約1km先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長74mの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられている。

所在地  埼玉県熊谷市冑山1
祭  神  兄多毛比命
       誉田別命
       大山咋命
       素盞鳴命(明治四十二年に八雲神社を合祀)
社  格  旧村社
例  祭  不明

        
地図リンク
  大里冑山神社は国道407号線熊谷市から南方向、東松山市と吉見町との堺に鎮座する。住所を見ると熊谷市冑山1となっており、この地域の中心に位置しているといったところだろうか。南には1km足らずで大谷瓦窯跡があり、また吉見郡の延喜式内社である伊波比神社、横見神社、高負彦根神社も近隣にあり、大里郡に属する地域でありながら比企郡との関係は深かったろうと思われる地形だ。
  律令時代この冑山地方は比企郡の管轄であったとの考察もある。平安時代前期、九・十世紀ごろと推定される「九条家延喜式背紙文書」にみえる「大里郡条里坪付」は、大里地域に広がる水田地帯に施行された条里を示すものとされるが、その文書によると、当時の冑山、箕輪地域は横見郡内に相当することとなっているようだ。
 
                           
                                                          冑山古墳 遠景
            
埼玉県指定文化財 史跡 甲山古墳
 指定 平成元年三月十七日
 所在 大字冑山字賢木岡西
 甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約五一メートルの丘陵上に構築された古墳です。古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられました。
 この古墳は、墳形が中段にテラスをもつ円墳で、規模は南北径が約九○メートル、高さが約一一・二五メートルあります。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径一○五メートル)についで県内第二位の大きさをほこっています。
 墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているようにみえます。
 この古墳の正式な発掘調査はなされていませんが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた大刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されています。
 この甲山古墳とともに、北へ約一キロメートル先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長七四メートルの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられています

                                                               案内板より引用
 古墳の中腹に冑山神社拝殿、兼本殿が鎮座している。
                 

  拝殿の裏に回ると石段が墳頂まで伸びて、山頂には八幡神社がある。このような形態は初めてで、どう見ても山頂にある八幡神社の方が立派に見える。
                
                            
                                                               八幡神社本殿
 八幡神社本殿は宝暦二年(1752年)に造られ、昭和五十四年五月十四日に熊谷市指定有形文化財に登録された。一間社流造で本殿の壁面のみならずほとんどの部分に彫刻が付けられた素晴らしい建物である。
  『埼玉の神社』によると、慶長十三年(1608)に村人が古墳を発掘し、剣・鏡・五?玉・土偶・土馬などが出土したが、その後間もなく村に病がはやったので、塚を埋め戻し、祟りを鎮めるため墳頂に八幡神を祀った。一方で、冑山には文永年間(1264~1275)に勧請された日吉神社が村社としてあり、明治四十二年、すでに冑山神社と改称していた八幡神社と合併し、日吉神社を冑山神社と称するようになったが、その後、八幡神社本殿の東下に日吉神社の拝殿が移築されて、現在の冑山神社の姿になったという。

                   



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