古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

弁財厳島神社

 弁財天、日本では「七福神」で御馴染の七人の神様の一人で、唯一の女性神である。意外なことにこの神は日本古来の神ではなく、インドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる神聖な川・サラスヴァティに由来したヒンドゥー教の女神を指し、弁財天という名前は、仏教における呼び名であり、仏教に取入れられて音楽,弁舌,財富,知恵,延寿を司る女神となった。日本に持ち込まれた後は、神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた女神である。
 元来このサスラヴァティという神様は「河を神格化した神様」と呼ばれていて、川は農耕に非常に重要な存在で、豊穣をもたらすということから、豊穣の女神として祀られるようになる。
 弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となり、元々弁才天を祭神としていた社の多くは、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命をご祭神としていて、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂として数多く祀られた。瀬織津姫が弁財天として祀られる例も少しはある。
 熊谷市弁財地区は、旧弁財村という名称で、新編武蔵風土記稿は「当村 弁財天の古社有しより村名起こると云」と伝えられ、更に当社を弁財天社として、「村名なりしを見れば、古社なるべけれど伝を失う」と、創建の古いことを記している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市弁財174
               ・ご祭神 市杵嶋姫命(推定)
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 春季祭 旧3月7日 秋季祭 旧9月7日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 弁財厳島神社は熊谷市弁財地区北部に鎮座する。弁財地区は備前渠用水が福川に合流する道閑堀排水機場の北側に位置し、東西は長くても400m弱、南北でも1㎞も満たない縦長の地形で、狭い区域である。地形上、上須戸地区とは道閑堀排水機場の北から埼玉県道263号弁財深谷線までの300m程、備前渠用水を挟んで接している。
 弁財厳島神社までの途中経路は上須戸八幡大神社を参照。社が鎮座する南側に埼玉県道263号が東西に通っているが、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点を左折し、福川を渡る。福川を越えて北上すると、T字路となり、303号と263号との分離地点となる為、そこを263号側に右折。その後観音堂付近では形式上直進、実際は左折する変則的な場所もあるが、そこから以降は県道263号を道なりに北上する。暫く進むと同県道59号羽生妻沼線との交わるT字路となるので、そこを左折、100m程進むと、進行方向右側に弁財厳島神社の鳥居が見えてくる。

 上須戸八幡大神社から弁財厳島神社までの経路は、地図で確認すると、それ程難しくはないが、説明すると細かくなってしまう。筆者の説明能力不足をお許し願うほかない。
        
                  弁財厳島神社正面

 弁財厳島神社西側には保育所・学童クラブも隣接していて、参拝日は平日の昼間でもあり、園児さんたちや保育士さんたちに不審がられないように、静かに参拝した。
        
                                    参道の様子

『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れている。
        
                                        拝 殿

 享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘している。

 弁財天を祀る神社には蛇神や白蛇神を祀る神社が見られる。この弁財天と蛇神がつながるという信仰の形はインドや中国でも見られないそうで、日本独自の弁天信仰と言える。日本では蛇は田んぼを荒らす害獣を食べることから田の神として祀る民間信仰があったり、その他様々な面で神聖な動物として見られている。弁財天のお使い(眷属)が蛇と考えられるようになったのは、弁財天と蛇神である宇賀神が同一視されるようになったように、水の神・豊穣の神というご神格があったことからと考えられている。
              
                      境内碑

 当社は弁財天を祭神とし村名なりしを見れば古社なるべけれどその年代は詳ならず往古は弁財山薬王寺持なれど一時上須戸西光院の兼務せしことあり明治維新の際神仏分離の制定により厳島神社と改称して日向島田大衛氏兼務し爾来子孫相継ぎ現宮司の奉仕するところとなる境内に往時三反五畝歩余あり周囲大余の老杉欝蒼として昼尚暗く狐貉の棲息せしことあり社殿の後を利根川の本流東に流れて日向裏に向ひ舟運の便ありしと言ふ其の後享保十六亥年利根川大洪水の際上川邑楽郡境界へ川筋変更して弁天沼となり面積一町八反歩余深さ百余尺周囲には葦一面に生茂りて鴻鶴の来り游ぶあり沼主として大蛇の棲みしことありと伝へらる大正三年秋今の清浄池を残して埋立て耕作地となす折北の部落の草分けは僅に八戸なりしが其の後戸数次第に増加し毎己年開扉祭典を執行する事となり明治二十六巳年には社殿の改築をなす当社は天災地変を消滅し福徳智慧延寿財宝の守護神として四隣の信仰厚く吾等氏子も亦崇敬神殿の保全に専念しつつありしが偶枯木を売却したる浄資金二十有余万円にて社標旗枠石垣石階段敷石社殿修理記念碑等を竣工し之を記念する為此の碑を建つ 昭和二十八年四月
                                     境内碑文から引用
        
                社殿の屋根にはリアル過ぎる位立派な蛇の瓦がある。

 弁財厳島神社の創建は、「風土記稿」が述べるように古いものであり、大昔は水の神、下っては養蚕守護の神として、長く氏子の崇敬を集めてきたという「大里郡誌」には「悪鼠除の霊験ありと云ひ、信徒は絵馬を拝受して、之を倍加して奉賽す。毎年春陽、養蚕期に参詣祈願者最も多し」と、養蚕が盛んであったころの信仰について記している。
 
          本 殿              本殿左側奥に鎮座する境内社
                               詳細不明
        
                                 社殿より鳥居方向を撮影

熊谷市旧妻沼町付近には「竜海」と云われる伝説がある。

「竜海」
 昔、秦村(現妻沼町)と長井村(現妻沼町)との間に竜海という大池があり、四丈余の大蛇が棲んでいた。源頼義が奥州征伐の途次、葛和田の渡をわたろうとした時、土人の言上で、大蛇の棲むことを知り、土豪島田大五郎道竿に命じて大蛇退治を行なわせた。道竿は弓の名人だったので、よくこれを退治して命にこたえた。この時首、胴、尾を三つに切断、池の三方に埋め、その跡に八幡を祀り、池の中央に竜神の霊をまつって弁天社が建てられた。八幡社は現に存し、地名にも竜海、矢通というのがある。なお大蛇の鱗は日向の八幡社の宝物として秘蔵されているという。((韮塚一三郎「埼玉県伝説集成・下巻」より)

 この伝説の八幡社は、現在の長井神社(熊谷市日向1090)であるが、この伝説に登場している弁天社は、厳島神社のことなのかも知れない。


*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡誌」「埼玉の神社」「Wikipedia                            

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上須戸八幡大神社

 成田氏は平安時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族である。実は出自のはっきりしない一族で、藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。藤原氏説では『群書系図部集』所収の「成田系図」では藤原行成の弟藤原基忠の子孫という系図を載せ、『藩翰譜』では藤原道長の孫・任隆の末裔という系譜を乗せているが、そのように云われるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことは解っていない。一方、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。
 どちらにせよ、古くから幡羅郡に土着した豪族であったことは確かであり、その子孫が武蔵国の有力豪族か、中央貴族の一族との接点を通じて、その高貴な「姓」を獲得した可能性もある。
「熊谷市公連だより 平成2312月号」には、『斎藤叙用から五代後の越前権守・河合斎藤助宗の子・実遠が、康平五年(1062)「前九年の役」で、源頼義・義家親子の軍に散陣し、勲功を立て、恩賞として長井庄の庄士を拝命している。長井庄に赴任した実遠は「長井
斎藤」を名乗り、長井斎藤氏の祖となり、妻沼・西城を拠点とし、西城(長井城)に入城したと伝わっている』と記載されており、前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、成田助高は素直に城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となったという。つまり、斎藤実遠が長井庄を与えられる前は、この地域一帯は成田助高が領有していたということになる。
 
なお、助高はこの西城を築いた際に、東の守りとしてとしての砦も築いており、以来、里人は西城を本丸、砦を東城(ひがしじょう)と呼び、これが地名の由来となったと伝わる。
 上須戸八幡大神社はまさに旧上須戸村小字東城に鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市上須戸838
              ・ご祭神 
品陀和氣命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 3月18日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月7日
 上須戸八幡大神社の途中までの進行ルートは西城大天獏神社を参照。上須戸地区は、西城地区の東側に位置し、西城神社からは埼玉県道263号弁財深谷線を東方向に進み、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点手前の道幅の狭い道路を左折、道なりに真っ直ぐ進むと上須戸八幡大神社に到着できる。
 社に隣接しているゲートボール場周辺に駐車スペースがあるようにも思えたが、周囲一帯ほの暗いので、そこまで車両を進める事に躊躇いがあり、また鳥居の手前に若干のスペースがあったので、そこに停めて参拝を行う。
        
                 上須戸八幡大神社正面
 社は社叢林一帯に覆われ、昼間の参拝で晴天の天候だったが、このようにほの暗く、また前日の雨が乾いていない為、湿度も何気に高いようだ。社近郊には「東城城跡」の遺構があるそうだが、平野部の社とは思えない一種神秘的な雰囲気を醸し出している。
 もしかしたら、昔の社はこのような社叢林に囲まれた、世間の喧騒等とは隔絶された別次元の世界を体現したものであったのかもしれない。参拝中、このような感慨を思わせる何かが、この社には存在する。
 
     鳥居上部に掲げてある社号額        朱の両部鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 
 二の鳥居を過ぎてすぐ左手に鎮座する合祀社  合祀社の傍に紀元二千六百年記念碑
         詳細不明
        
                     拝 殿
 『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とある
 
        本殿は高床、流れ造りで外壁は朱塗りで予想以上に凝った造り。
 
    社殿手前、左側には社務所がある。           社殿の左側に置かれている石祠群       
    歴史を感じさせてくれる雰囲気あり。             詳細不明
        
                           社殿右側に鎮座する境内社・八坂大神
                           瓦には天狗の面と天狗扇がある。
                      
                    八坂大神 内部
       最近何かお祭り等があったのだろうか。正面入り口の建具が外れていた。                
        
 ところで上須戸八幡大神社が鎮座する旧幡羅郡上須戸村字東城は『新編武蔵風土記稿 上須戸村』に以下のように記載されていて、嘗て成田助高がこの地に居住していたことが記されている。
「当所に屋敷跡あれど、何人の住せしにや傳へず、一説に成田党の住せし地にて、其後古河の成氏宿陣せしことありといへり、隣村西城村の城跡は、住昔左近衛少将藤原義孝より、其孫式部大輔助高も居住ありしといへば、古くは成田氏住せし地にて、かの西城に対し当所をかく唱へ、其頃砦などありし○、又城は條里の條の假借にて田里の割より起し名なるも知るべからず」

 また隣村である西城地区も『新編武蔵風土記稿 西城村』で同じような記述がある。
「又隣村上須戸村の小字東城と云地にも屋敷跡あり、西城に対していへる名なるにや、とにかく古此邊なべて居住の地なるべし」
 つまり「東城」という小字は西側に隣接している「西城」に対し、東に城があったことに由来する名称である事のみならず、それより遥か昔の奈良時代に制定された、「条里制度」の名残でもあると「城は條里の條の假借にて田里の割より起し名」という記述で風土記稿の編者は言っているともいえよう。

*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷市Web博物館」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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西野長井神社

 斎藤氏(さいとうし、旧字体:齋藤氏)は、日本の姓氏のひとつで、平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされている。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展し、その後斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住したという。
 藤原利仁は敦賀の豪族・秦豊国の娘を母に持っていたことから、越前を中心に北陸一帯に勢力を築き、その後加賀にまで勢力を広げた。その後裔はそれぞれ越前斎藤氏と加賀斎藤氏の2系統に分かれた。そのうち越前斎藤氏は2派に分かれ、それぞれ現在の福井県敦賀市疋田を本拠とした疋田斎藤氏と、福井県福井市河合を本拠とした河合斎藤氏の2派に分かれる。
 河合斎藤氏は美濃斎藤氏や長井別当と呼ばれた斎藤実盛を始祖とする長井斎藤氏(武蔵斎藤氏)はこの系統といわれている。
 
斎藤実盛(11111183)は、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれているが、生粋の武蔵国武士ではなく、越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子として誕生し、13歳の時、長井庄庄司・斉藤実直の養子として、長井庄に居住し、名を実盛としたという。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市西野522
             
・ご祭神 市杵嶋姫命・下照姫命・天児屋根命・猿田彦命・天細女命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 西野長井神社は熊谷市旧妻沼町西野地区に鎮座する。埼玉県道341号太田熊谷線を旧妻沼町市街地方向に北上し、東西に流れる利根川支流である福川に架かる橋のすぐ南側に鎮座している。
 西野という地名は『新編武蔵風土記稿』に「西野郷長井荘忍領に属す。慶長の頃は御料にして、寛永10年前田左助に賜はり、残る御料所は元禄11年阿部新四郎・設楽市十郎賜ふ。されど正保のものに、花房勘兵衛・前田左助知行と見えたれば、寛永年中前田左助と共に花房氏も賜はり」と記載されている。
 因みに「御料」とは、江戸時代の幕府直轄地の俗称で、当時は単に「御領」「御領所」と呼ばれていたようだ。それに対して「天領」は本来、朝廷(天皇)の直轄領のことを称したが、明治維新の際、旧幕府領の大半が明治政府の直轄県つまり天皇の直轄領になったともみられたことから、遡って幕府直轄領を天領とよぶようになった。
        
                                  西野長井神社正面
 西野長井神社のすぐ北側には福川が流れている。嘗てこの川は妻沼町内から熊谷市にかけて激しく蛇行して流れていて、水害常襲地だったようだ。昭和初期に、蛇行していた河川の水路に対して堤防を築いて改変したため、旧態とは大きく変わっているとのことだ。
        
        長井神社は西野地区の他に、「日向」地区にも同名の社がある。
        
                                      拝 殿
 明治以前は、 「井殿神社」あるいは「井殿大権現」と称していて、氏子は「井殿」を湧き水の意であると伝えており、水の恵みを称えて祀られたことを物語っている。『新編武蔵風土記稿』では、当社の創建は「承和8年(841年)215日、高橋戸須基貞、松平八郎正直の2人建立にして、祭神は、市杵嶋姫命・下照姫命・天児屋根命・猿田彦神・天細女命の5座を祀り、永井の総社と唱へし」と記している。
 明治5年に村社となり、長井荘にちなみ長井神社と改称した。
【信仰】
 古くから井殿様のお使いは亀であると伝えられている。例えば、願掛けの際には亀を持参して祈願し、亀の口にお神酒を含ませて用水に放すと願いが叶うとの信仰があり、昭和10年頃までは、拝殿の格子に多数の亀の絵馬が下がっていたと言われている。
*「くまがや自治会だより」を参照

                    本 殿                                
 斎藤実盛が長井庄に居住していた当時、相模国を拠点とする源義朝と上野国の源義賢が兄弟でありながら対立し、義賢が秩父氏の応援を得て武蔵国大蔵にまで勢力を拡大すると、勢力拡大を恐れた源義朝の長男・義平が久寿2年(1155)大蔵館を襲撃、ついには叔父である義賢を討ってしまう。実盛は当初義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に奉公するようになっていたため、再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢へのご恩は忘れておらず。義賢の子・駒王丸を保護し、信濃国の中原兼遠の元へ届けて命を救った。この駒王丸こそ、のちの木曽義仲となる人物である。

 保元の乱、平治の乱では、源義朝につき従い活躍をした。特に平治の乱では実盛はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。その後長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となったが、長井庄における、これまでの功績を認められた実盛は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、自ら守本尊である「大聖歓喜天」を古社に祀り聖天堂と称し、長井庄の総鎮守とする。
 
  本殿左側奥にある大黒天・馬頭観音の石碑。    本殿右側奥に鎮座する境内社か。
   その手前には石祠もあるが、詳細不明。

 1180(治承4)年に義朝の子・頼朝が韮山で挙兵するがそれでも平家方に留まり、頼朝追討に出陣する。そこからは、源平の戦いにおいて死ぬまで平家方に忠誠を尽くすことになる。平維盛の後見役として頼朝追討に出陣したが、富士川の戦いにおいて頼朝に大敗、その後木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

 かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
        

 西野長井神社が鎮座する場所から近郊には「実盛塚」と呼ばれる塚がある。正式には「「斎藤実盛館跡実盛塚」というが、この塚一帯は斎藤氏の館跡と伝えられ、隣接する塚に板石塔婆一基が残っている。現在、斎藤別当実盛館跡史跡保存会によって管理が行われているとの事だ。
 

 熊谷市指定文化材 
 一 種別 史跡
 一 名称 斎藤氏館跡実盛塚
 一 指定年月日 昭和529
13日
 福川の河川改修等により形状が変わっているが古代長井庄の中心的な位置にあたり水堀の跡や出土品のほか、古くから「この辺、堀内という所は長井庄の首邑にて実盛の邸跡なり」との伝承や、長昌寺の椎樹にまつわる口碑その他史実などからして大正153月埼玉県指定史蹟「斎藤実盛館跡実盛塚」として指定されたが、何時の日か誤って「史蹟実盛碑」となったため昭和38年に県指定史蹟を解除された。
 中央に残る板碑は、実盛の孫である長井馬入道実家が死去しその子某が建てた供養塔である。
 熊谷市教育委員会  実盛館跡史跡保存会
                                      案内板より引用



*参考文献 「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館」「
くまがや自治会だより」「Wikipedia」等
                      

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小曽根神社

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市小曽根281
             
・ご祭神 天鈿女命
             
・社 格 旧村社 創建  天明2年(1782)
             
・例 祭 不明
 小曽根神社は国道17号バイパス「柿沼」交差点を左折し、600m程行った左側にコンビニエンスがあり、その手前のT字路を左折する。道なりに500m程進むと前方右側にこんもりとした小曽根神社の社叢が見える。旧小曾根集落の南東の端にあたる場所に鎮座していて、旧社格は村社。
 
駐車場は残念ながらないので、神社脇に駐車させてもらい素早く参拝する。
 
 一の鳥居(写真左)を過ぎて、突き当たりを右側に曲がると二の鳥居(同右)が見える。
        
                                  こざっぱりした境内
        
                                         拝 殿
 小曽根神社(熊谷市小曽根二八一(小曽根字東浦))
 当地は、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されている。当社境内も“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑がある。また、小曽根は昭和二十九年まで中条村の大字であり、中条とは、古い条里制より起った呼称である。
 小曽根の地名は、やせた荒地を表すとする説がある。しかし、これは当社の祭神にちなむものではあるまいか。祭神の天の鈿女命を古くは「うずめさま」更に「おすめさま」と呼び、これがいつしか古い社名の雀宮となり、地名の小曽根となったと考えられる。
 『風土記稿』には「雀宮 村の鎮守なり、修験東光院持」とある。東光院は、当社前にある納見尚男家の先祖で、維新による復飾後も当社の面倒をみていたと伝える。また、地元の山田淳之編『小曽根と山田氏』に、納見家には「雀宮別当 権大僧都知道」と書かれた慶長十二年(一六〇七)の文書があったことが記されている。
 『明細帳』に「明治四十一年十月十二日、同大字字向河原天神社、字西浦稲荷神社ヲ合祀シ社号雀神社ヲ小曽根神社ト改称ス」とある。
 内陣に三基の霊璽が安置してある。一つは雀宮霊璽で、「武蔵国埼玉郡小曽根村 雀大明神勧請 鎮座天明二年(一七八二)三月廿六日 神祇道長上卜部良延」とある。次の一つは天神社のもので、内部に像高三二センチメートルの古い男神像を納めている。残る一つは稲荷神社霊璽である。
                                  
「埼玉の神社」より引用
 
    小曽根神社の扁額(写真左)他に雀神社と天神宮の額も掛けられている(写真右)

 小曾根村の鎮守社である当社は、嘗て祭神である「天鈿女命」を「うずめさま⇒おすめさま」となり、いつしか社名も「雀宮」と変わり、現在の地名の小曽根となったと考えられる。その後明治41年に字向河原天神社、字西浦稲荷神社を合祀、小曽根神社と改称した。その名残が3枚扁額という形で残されている。
 
    拝殿左側に並列して鎮座する石祠           石祠の隣には境内社
           白山神社と牛頭天王                 詳細不明
        
                    御嶽塚碑群
 石碑群の奥中央には
「三笠山大神・御嶽山大神・八海山大神」が鎮座し、その周りには、摩利支天・大江大神・清瀧権現・十二権現・一心霊神・三鷲義霊神などの文字も見える。

 小曽根神社が鎮座する熊谷市小曽根地区。この小曽根地域は、熊谷市北東部に位置し、東で今井、西で柿沼・代、南で肥塚、北で下奈良に隣接する。
 
ところで「小曽根」は「おぞね」と読む。この小曽根の地名由来はいくつかあって、熊谷WEB博物館等では以下の説があるという。
小曽根地区は、利根川と荒川の中間に位置し、河床由来の砂礫の多い痩せた土地で、古語でそれを意味する「埇(そね)」を当てていたことが名前の由来と言われている。〔熊谷市史〕
ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地のことか。〔日本古語事典〕
・「
ソネ」は表土の下部に岩や礫、砂などがある痩地のところで、礁の名や旧河床の部分をいう名として各地にみられる。〔日本の地名・埼玉県地名誌〕
県内に多くみられる「ソネ」という地名は、元荒川・古利根(ふるとね)川などの河川の沿岸にあるという。「ソネ」地名の発生時代は15001700年とみられる。〔日本地名学〕
アイヌ語(オソネイOsonei)から露岩の尻という意味。
             
 小曽根神社北方近郊には「東浦遺跡」が存在し、平成17年に調査・発掘されている。古墳時代後期の住居跡や、竪穴状遺構、須恵器腿等の出土によって、開始時期は5世紀末から6世紀初めに遡る可能性が高い。「埼玉の神社」による小曽根神社の由緒では、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されていると書かれているが、
「東浦遺跡」の発掘により証明されている。

 小曽根神社境内には“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑があるという。写真でも見た通り、境内で古墳らしき面影が残っている場所は、本殿奥周辺に若干の高みが見えるだけである。『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』には直径25mの円墳。半壊で直刀出土伝承ありとの記載がある。




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平塚新田八幡神社

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市平塚新田508
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 415日 春祭、715日 夏祭(雷電社・風雨順次の祈願)
                 
1015日 秋祭
 平塚新田八幡神社は国道407号を東松山方向に進み、荒川大橋を越えた「村岡」交差点を直進するが、最初の「村岡三又」のY字路を右折し、そのまま1㎞程進み、和田吉野川を渡って、熊谷警察著・吉野駐在所のあるT字路を左折する。左側に吉岡中学校を見ながら左方向に円を描くように進むと、高台のある一角に平塚八幡神社の参道入口に到着する。
 地図を確認すると、熊谷私立吉岡中学校に隣接して社は鎮座している。
 参道付近に駐車スペースなどは無いが、参道周辺には路上ではあるが駐車できる僅かな緑地帯もある為、そこに停めてから参拝を行う。
 
 入口には神社名を彫った社号柱と門柱が立つ。 門柱を過ぎるとすぐに石段になり境内まで続く。
        
                                    石段途中には鳥居

 ところで鎮座地である「平塚新田」の由来として「地名語源辞典」からは以下の説明がされている。
「平塚新田」
明らかではないが、「平塚」の「塚」は、古墳という意味があるので、古墳かさもなくば、古墳のような小山か岡があったものとみられる。「新田」とは文字のごとく、新しく開発された土地のことをさす。
『風土記稿』によると、草原の中に塚があったことに由来するとあり、実際、昭和20年頃までは地内には3基の古墳があり、最も大きな古墳は大塚山と呼ばれていたとのことなので、昔は古墳上にあった可能性は否定できない。社の鎮座地の字は「前原」であるが、別名八幡山と呼ばれているそうだ。
 
     石鳥居に掲げてある社号標        石製の鳥居を過ぎると境内が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 境内は広く、木々に囲まれているとはいえ開放感もあり、雑草等もなく、手入れも行き届いている。
        
                          平塚新田八幡神社 案内板
○八幡神社
 平塚新田村社である当社の創建は、江戸中期に当地が万吉村から分村した頃と伝えられています。
 明治四十一年四月二十七日には原新田村の村社である八幡神社が合祀されました。
 当社は、古くから「赤旗八幡」と呼ばれ、それに対して原新田の八幡神社は、「白旗八幡」と呼ばれていました。この名称については、古老の話によれば、平氏と源氏の子孫が祀る神社であることから社名に冠したとする伝承と、当地と原新田の開発が同時期で、祀る神社も同じ八幡神社であったことから区別するため社名に冠したという伝承があります。
 
本殿は、古来より流造で、現在建設中、本殿屛に拝殿は往古のままですが、外宇は元大字楊井原新田村社八幡神社の外宇を合祀と共に改築したものです。
 
年間の祭事には、元旦祭をはじめ、四月十五日の春祭り、七月十五日の夏祭り、十月十五日の秋祭りがあります。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
 
 平塚新田八幡神社社殿の左側手前には境内社・雷電神社が鎮座している(写真左)。案内板(同右)もあり、それによると、元々は吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となったという。因みに説明にでてきた「楊井」は「やぎい」と読む。
○雷電神社
雷電神社は、元々は、吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となりました。
 雷神は、文字通りカミナリの神様ですが、古代においては日神(ヒノカミ・太陽神)の分身として、天と地をつなぐ役目を果たす神の代表的存在でした。見た目には恐ろしい形相をしていますが、雨を導くカミナリは、稲の豊作をもたらす五穀豊穣の神として、古くから稲作農家には欠かせない神様でした。雷神を祀った神社は各地にありますが、どこにおいても、雨乞いや火伏せといった水火両面を司る神様として親しまれています。
 かつて、日照りが続くと原新田関谷にある井戸から水をくみあげ、御神水として雷電神社に供え、降雨を祈ったと謂われています。今日では、七月十五日に風雨順次の祈願が行なわれています。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
        
             帰路社殿側から一の鳥居方向の風景を撮影
 
   和田吉野川から鎮座地方向を撮影           和田吉野川の流れ

 平塚新田八幡神社が鎮座するこの地域は、平均標高25m30m程の和田吉野川を境として左岸の河岸低地、右岸は東南から北西方向に広がる江南台地(洪積台地)に移る境となっていて、低地帯からの標高差15m程の微高地を形成している。
 社の東側には吉岡中学校、南側の微高地には民家が立ち並ぶが、北側・東側は台地への境界でもあり、北側は耕作地、東側は崖面もあり、開発されていない。昼間ながらほの暗い場所でもある。


 

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