古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

俵瀬伊奈利神社

 荻野吟子は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、現熊谷市俵瀬に生まれました。18歳で結婚しましたが、不慮の病に罹り2年ほどで離婚しました。この時、婦人科の治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意しました。
 しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走しました。その際、「令義解(りょうのぎげ)」という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。この「令義解」を校訂し、後世に引き継いだのが埼玉の偉人「塙保己一(はなわほきいち)」でした。
 こうして吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となりました。
 開業後は、診療活動に加え、婦人解放運動等の社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。大正2年(1913年)、62歳で永眠し、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。
                                      埼玉県㏋より引用
 荻野吟子記念館は熊谷市俵瀬地区にあるが、その記念館近郊に伊奈利神社が鎮座している。俵瀬地区で生まれ、青年期まで過ごした吟子はこの社にお参りに行ったことがあったのだろうか。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市俵瀬489
              
・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧俵瀬村鎮守
              ・例 祭 4月・10月 例祭
 熊谷市俵瀬地区は、熊谷市の最北東部に位置し、利根川とその支流である福川が合流する地点の東側に、東西1.4㎞程、南北850m程の2河川に挟まれた地域に行政区域は形成されている。地区名「俵瀬」もその河川に囲まれた「俵型」の島が連なっているようなので、その地名が付けられたとも云い、また江戸時代、収穫した米の俵を船に乗せた場所という言い伝つたえもある。但しこの「俵瀬」という地名は、江戸時代正保年間の国図には見当たらず、元禄改定図が初見であり、正保以降(検地は寛文以降)に分かれた村で、「新編武蔵風土記稿」には天領として代官を置き、幕府が管轄していた地であった。

 俵瀬伊奈利神社は、葛和田神明社から900m程東へ走って行くと、俵瀬コミュニティセンターに隣接して稲荷神社が鎮座している。俵瀬コミュニティセンター前には駐車可能なスペースも確保されており、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                               俵瀬伊奈利神社正面
 
 鳥居を過ぎると左側に石碑がある(写真左)。但し解析が難しく断念。そのまま社方向に進む中で、左側にある俵瀬コミュニティセンターを左手に見ながら(同右)二の鳥居方向に進む。
        
                              石段の先にある二の鳥居
 利根川と福川に挟まれた俵谷地域。嘗てこの旧俵瀬村は、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村であったようだ。ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではの配置に思えた
       
          紙垂等はないが、二の鳥居付近に聳え立つ巨木。
 周辺にある巨木・老木は、嘗て体験していた幾多の水害等の被害を見てきたであろう、物言わぬ歴史の証人でもある。
        
                                         拝 殿

 熊谷市指定無形民俗文化財
「葛和田のあばれみこし 」大杉神社祭礼行事
熊谷市北東部、利根川沿いの葛和田(クズワダ)地区は嘗て、利根川水運の河岸として賑わいました。河岸に鎮座した大杉神社は、水難守護の神として信仰され、祭日には各地から数百の船が接岸したと云います
関東の奇祭としても知られる東のあばれ神輿「大杉様のあばれ神輿」の渡御で使われる神輿は、関東一重いもので2トンもあり、その神輿を地区内の若い衆が担ぎ、早朝から葛和田地区をはじめとする秦地区内(葛和田・大野・俵瀬)を練り回り、午後1時過ぎから利根川の清流でさらにもみ合い覇を競って除災を祈願します
この葛和田の大杉神社祭礼行事は、町の無形民俗文化財に指定されています。大杉神社は、古くから水難、悪疫守護の神として知られています。葛和田地区は江戸時代河岸場があり、水運に携わる人々が無事安泰を神社に祈願した祭札が「あばれ神輿」であり、その名残を今に伝えるものです。川のまち妻沼ならではの夏の風物詩が、東西のあばれ神輿なのです。
                            熊谷市デジタルミュージアムより引用


『新編武蔵風土記稿』俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの、「成就院持」としか記載されていない。また創建由来が他の資料等見つからず、間接的に「俵谷」地区に関連した歴史等を探すより考察方法がない。
『埼玉の神社』でも同様で、直接的な資料がないため、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されている。
 また江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝えている。
              
                  境内社 仙元社


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉県 HP」「埼玉の神社」「熊谷市デジタルミュージアム」等


                        

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葛和田神明社

 葛和田地域は、熊谷市の北東部に位置し、利根川がすぐ北側にあり、現在は肥沃な妻沼低地面で野菜の栽培が盛んな地域である。また、利根川の渡船場、グライダー滑空場、荻野吟子氏生誕の地が地区周辺にはあり、歴史と文化に彩られた地域でもある。葛和田神明社は地区東部に鎮座していて、すぐ後ろは利根川の土手であり、永禄年間(15581569年)には、上杉謙信が船橋を架けて軍が渡河していたと伝わる、埼玉と群馬群馬県千代田町赤岩を結ぶ「葛和田渡船/群馬県側の名称は赤岩渡船」が現在も利根川に残る貴重な渡し船として現役で活躍している
 
嘗て北東の利根川の葛和田の渡しの近くに鎮座していた大杉神社が、大正期の利根川の河川改修堤防工事に伴い境内に合祀されて、市指定無形民俗文化財である大杉あばれ神輿が葛和田神明社で年に一回行われている。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市葛和田591
             ・ご祭神 天照大御神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 祈年祭 4月中旬 大杉祭典 7月下旬 例大祭 10月中旬
 葛和田神明神社は、埼玉県道59号羽生妻沼線と同県道83号熊谷舘林線が合流する「秦小学校前」交差点を右折し、100m程進み、変則的な十字路を左折し、300m程先の十字路をまた左折すると葛和田神明神社が見えてくる。残念ながら神社東口にある境内に入る入口は封鎖されていたので、仕方なく門前に路駐し、急ぎ参拝を開始。
        
                 葛和田神明神社正面鳥居
 
     木製で神明造りの一の鳥居         二の鳥居。脇には社号標柱あり
                        社号標柱には「指定村社 神明社」と表記
        
                                     
南北に長い参道
        
                 
参道の両脇には2基の灯篭。その先にある非常に小さな狛犬。
 特別狛犬の大きさには規定があるわけでないと思うが、境内の規模に対しての違和感は拭えない。但し狛犬の表情は可愛らしい。
        
             参道左側にある「大杉神輿修繕記念碑」と修繕寄附芳名碑
【大杉神輿の由来】
 江戸時代、葛和田・大野・俵瀬村は利根川の川岸場として賑いの地であった。大杉神社は利根川に注ぐ道竿堀の南に在ったが大正三年堤防工事に伴い現在の地、神明神社に合祀されたものである。
 その昔、荒宿の与助という腕の良い船頭がおり江戸まで三十余里の船路を運行していた。ある日、与助が百石船に、米・野菜・薪等を積んで江戸に向かって出発した。二日目に霞ヶ浦の西浦に差し掛かった頃一天俄にかき曇り凄まじい暴風となった。腕に自信のある与助であったが操る船は木の葉の様に揺れ今にも波に飲まれんばかりであった。思わず口をついて出た言葉は「南無大杉大明神」日頃厚く信仰している大杉様におすがりしようと一心に祈念するうち、これは不思議、荒れ狂う波の上に白髪の大杉様が白雲に乗って静かに現れ木の葉の様に揺れ動く与助の船を片手で掴みあれよあれよと言う間に波静かな海へ運んでくれました荷物を無事に届け村に帰った。与助の口からこのことを聞いた村人達はいまさらの様に大杉様の霊験あらたかなることを感じ、そのお礼と以後船路の安全を祈念して当初江戸末期享和一年(1801年)に神輿を造営した、と伝えられており明治六年(1873年)に現在の大神輿に作り替えられ、年に一度の祭礼を毎年七月二十六日と決めその大神輿を担ぎ村内を一日がかりで練りまわり揉みに揉んでさらには利根川に入れいつしか暴れ神輿といわれ関東地方でも有名なお祭りのひとつに数えられる様になった。
 平成五年一月二十五日付大杉神社祭礼行事として町の文化財に指定され現在の祭礼は時代の変化にともない七月下旬の土・日曜日に変更し盛大に行われている。
                               大杉神輿修繕記念碑文より引用
        
                       葛和田神明社境内に鎮座する大杉神社神輿殿
【関東一のあばれ神輿】
 当社は、伊勢神宮の御師が天照大御神を奉り、利根川の乱流と共に移転を繰り返した葛和田の総鎮守である神明社に大杉神社を合祀した。当地は昔江戸との利根川舟運が隆昌し、与助という船頭が水難の際に大杉明神に助けられた伝説が残っている。7月下旬の大杉祭典は利根川に入れた神輿の上で揉み合うことから「関東一のあばれ神輿」と呼ばれ、勇壮な祭りである。
 神明社は祈年祭(4月中旬)と例大祭(10月中旬)を斎行し、7月下旬の大杉祭典は13時過ぎに利根川に神輿を入れて男衆が揉み合いを行い大勢の観客で賑わう。
 近くの利根川河畔にはグライダー滑空場があり、また群馬県と往来する渡し船が今も運航しており風情豊かな田園風景が残っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          
大杉神社の隣には富士塚と石碑、石祠群
 塚付近に非常に多くの神様が祀られているが、ロープやベンチで詳しく確認できなかったのが残念。
        
                                        拝 殿
 
  凱旋記念碑と石祠2基。石祠は詳細不明。      社殿の右奥にある庚申塔群
        
                                境内にある「改築記念之碑」
【改築記念之碑】
神明社は天照皇大神を鎮祀し葛和田の鎮守と崇敬して来りしものなれどその創設は不詳なり。社領十五石一斗の御朱印を慶安二年に下賜せられしと言えるを見てもその年所久しきを知るなり。明治四十年五月以降葛和田全域神社大杉神社外八柱合祀す。昭和四十二年時代の要求により境内の整備を行う。全氏子協議の結果委員会を結成、第一期工事予算金五十余万円を以て起工し雑木を伐採し適地植樹をなす区画を整然となすにブロック塀延長二百五十三米を建設し昭和四十三年三月竣工。引き続き第二期工事として圣年久しきによる腐朽甚しき建造物の修復を協議中偶々五月十六日子供弄火により拝殿草葺屋根消失直ちに改築委員会に切り替え内外信者の浄財二百八十余万円を以て従来の建坪五十五平方米屋根工法は草葺を廃し日本瓦葺となし斉藤隆彦氏の請負となり昭和四十四年七月竣工す。尚神職は上杉家二代に次いで現島田家三代に亘り奉仕するなり。
                                  改築記念之碑文より引用




 *参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「千代田町HP」等

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日向長井神社

 新撰武藏風土記稿 日向村条 八幡社
 村の鎭守なり、源賴義奧州征伐の時此地に止宿し、軍陣の首塗を祝して、勸請する所なりと云、按に此地當時の奧州道に屬せしこと、慥ならずといへども、府中より高麗郡へかヽり、上野ヘ入しは必定なれは此事なしとも云難し、今當社の緣起あり、建久・大永・文祿の三度に書繼し由なれど、本書にはあらず、其建久の記に曰、天喜五年源賴義奧州征戰之時當郡に滯留、其頃式部太輔助高郡中西城に居城、城の東に四町四方の池有、大蛇栖て村民を惱、然るに賴義の命に寄て、島田大五郞道竿と云者、彼大蛇を退治し、其地より利根川迄掘をほり水を通る、是を道竿堀と名く、其蛇を退治有しを、賴義征伐の吉事なりとて、當所に八幡を祭る、天喜五年八月也、建久三壬子年八月十五日日向彌五郞記錄寫畢此記書信すべからずといえども姑載す、天喜五年の勸請實ならんには、前年賴義首途の時土人に命じ置て、此時成就せしなるか、又曰其後治曆二年島田大五郞道貞に此地を給り、神職付置といえども、亂世故興廢有、曆應元年尊氏再興、文和元壬申同人新田義興退治之節、嶋田山城守・長井大膳大夫、於戰場鬱憤を夾み、合戰の時社頭竝屋敷燒失す、嶋田備前守上州岡山の城に遷る、大永三年八月十五日、島田山城守書次之此書繼によれば、一旦中の時昔の傳は失て、その萬一のみを傳ふるならん、又曰其後永祿四年上杉謙信小田原發向之時、嶋田山城守又當村に遷、新田を寄附す、夫より成田長康信仰して、年々納物有、天正十八年忍落城故、成田・嶋田兩家社荒廢せり、文祿元年八月十五日嶋田源次郞書記す此源次郞は則別當三學院の先祖なりと云、
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市日向1090
             ・ご祭神 品陀別命、息長帯姫命、外八柱
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 例大祭 418日、1018日 他
 上須戸八幡大神社の南側には埼玉県道263号弁財深谷線が東西に通っていて、東方向に進み、同県道303号弥藤吾行田線との交点をそのまま真っ直ぐ進むと、900m程先で、進行方向右側に日向長井神社が鎮座している。駐車スペースは境内にあるので、そこに駐車してから参拝を行った。
        
                                  日向長井神社正面
      社は社殿等、東向きの配置となっていて、鳥居から社殿まで長い参道が続く。
                   因みに「日向」は「ひなた」と読む。 
 参道の手前には鳥居が立っていて(写真左)、その上部社号額には、明治9年に長井神社へ改称される前の「八幡宮」と表記されている(同右)。
        
                     参道は長く、その両側には豊かな社叢林が広がる。
              手入れも行き届いていて、荘厳さもある社。
 
 参道を進む途中、右に曲がるルートがあり(写真左)、その先には境内社(同右)が鎮座している。狐様の置物がある為、当初は稲荷社と思ったが、他のHPを見ると違う社との事だ。詳細不明。
        
                    100m程参道を進むと、ようやく社殿が見えてくる。
        
                        境内に入ると左側に案内板が見える。

 長井神社略伝
 この神社は、品陀別命・息長帯姫命外八柱の命が御祭神である。
 1057年(天喜五年)に、源頼義が安部貞任を討つため東北地方へ行く時、当地に滞在した。この時、竜海という池に大蛇がすんでいて村人を悩ますと聞き、島田大五郎道竿(みちたけ)という者に、弓矢と太刀を与えて大蛇退治を命じた。
 道竿は利根川まで道竿(どうかん)堀を掘り、川を落として大蛇を退治した。これは東北地方平定の吉事として、この神社を祭った。
 当社は日向の鎮守として御神徳を仰ぎつつ、家族や地域の平安をお守りしている。特に、昔から安産、血の道などの婦人病に霊妙な御利益ありと伝えられる。
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
            社殿右側手前で、聳え立つご神木(写真左・右)

「熊谷Web博物館」によると、昭和30年、14カ村が合併して「妻沼町」が誕生する前、この地域は妻沼町・男沼村・太田村・長井村・秦村とそれぞれ行政区域は分かれていた。秦村は明治22年の新町村制施行いわゆる明治の合併の際に、葛和田、日向、俵瀬、大野、弁財の各村を併せて誕生した比較的新しい村名ではある。
 秦という名前の起因は『埼玉県大里郡郷土誌』を要約すると、「和名抄の上奏郷及び下秦郷が今の本村(秦地区)であるという記載に依るもので、吉田東伍博士の説にも、中古時代の上下秦郷の地は今の成田・中条あたりから本村にかけてであり、この地方は元々秦郷と称えていたとしている。しかし、一方『国郡志』では和名抄の指す秦郷は今の熊谷市奈良付近であるとしている。したがって、今の本村(秦地区)を完全な秦郷の地と判断するには多少疑問が残る。」とある。
            
             神興庫             神興庫の脇に並ぶ石祠群

 歴史的に秦と呼ばれた地域は、現在の妻沼町秦地区だけを限定していない。『日本地理志料』も奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であるとしている。また、『埼玉県史』も長井村、秦村から奈良村上奈良にかけた大部分をあてている。
 秦の範囲について、どちらかといえば『日本地理志料』や『埼玉県史』の説により、奈良村から葛和田にかけての広範な地域の地名であると考えたい。そう考えれば、むしろ明治の合併の際、この地に秦の地名を用いたことは、賢明であったと言えるのではないだろうか。 
   境内にあるイラスト入りの長井神社略伝       社殿左側に鎮座する天満宮

 利根川の流域に属するこの秦地区は、昔から常に洪水にさらされ、地形の変化が激しく、概ね今のような集落が形成されたのは徳川氏の江戸入府以降のことと推測される。それ以前は洪水の浸水地として農耕が極めて不適で土着に耐え難い状況であった。そのため、集落の固定化はそれなりに難儀であったと思われる。

 また、当時の様子を『埼玉縣大里郡郷土誌』から要約すると、「利根川は村の北境を東流し、福川は長井村より来て村の南境を東流し利根川に合流する。更に道閑掘も長井村より入り、村の中央を東北流して俵瀬にて利根川に注ぐ。また村内に沼が三カ所あり、日向にある沼を次郎兵衛沼、辨財にある沼を辨財沼、俵瀬にあるを大池と呼んでいた。」このように秦地区は平均的に低地で、三つの川に挟まれ、池沼も多く洪水の被害を受けやすかった。しかし、逆に水運には適していた。そのため交易・交通の要となる条件も有していたと言えよう。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉縣大里郡郷土誌」「埼玉県地名辞典」「熊谷Web博物館」等
       

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弁財厳島神社

 弁財天、日本では「七福神」で御馴染の七人の神様の一人で、唯一の女性神である。意外なことにこの神は日本古来の神ではなく、インドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる神聖な川・サラスヴァティに由来したヒンドゥー教の女神を指し、弁財天という名前は、仏教における呼び名であり、仏教に取入れられて音楽,弁舌,財富,知恵,延寿を司る女神となった。日本に持ち込まれた後は、神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた女神である。
 元来このサスラヴァティという神様は「河を神格化した神様」と呼ばれていて、川は農耕に非常に重要な存在で、豊穣をもたらすということから、豊穣の女神として祀られるようになる。
 弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となり、元々弁才天を祭神としていた社の多くは、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命をご祭神としていて、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂として数多く祀られた。瀬織津姫が弁財天として祀られる例も少しはある。
 熊谷市弁財地区は、旧弁財村という名称で、新編武蔵風土記稿は「当村 弁財天の古社有しより村名起こると云」と伝えられ、更に当社を弁財天社として、「村名なりしを見れば、古社なるべけれど伝を失う」と、創建の古いことを記している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市弁財174
               ・ご祭神 市杵嶋姫命(推定)
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 春季祭 旧3月7日 秋季祭 旧9月7日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 弁財厳島神社は熊谷市弁財地区北部に鎮座する。弁財地区は備前渠用水が福川に合流する道閑堀排水機場の北側に位置し、東西は長くても400m弱、南北でも1㎞も満たない縦長の地形で、狭い区域である。地形上、上須戸地区とは道閑堀排水機場の北から埼玉県道263号弁財深谷線までの300m程、備前渠用水を挟んで接している。
 弁財厳島神社までの途中経路は上須戸八幡大神社を参照。社が鎮座する南側に埼玉県道263号が東西に通っているが、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点を左折し、福川を渡る。福川を越えて北上すると、T字路となり、303号と263号との分離地点となる為、そこを263号側に右折。その後観音堂付近では形式上直進、実際は左折する変則的な場所もあるが、そこから以降は県道263号を道なりに北上する。暫く進むと同県道59号羽生妻沼線との交わるT字路となるので、そこを左折、100m程進むと、進行方向右側に弁財厳島神社の鳥居が見えてくる。

 上須戸八幡大神社から弁財厳島神社までの経路は、地図で確認すると、それ程難しくはないが、説明すると細かくなってしまう。筆者の説明能力不足をお許し願うほかない。
        
                  弁財厳島神社正面

 弁財厳島神社西側には保育所・学童クラブも隣接していて、参拝日は平日の昼間でもあり、園児さんたちや保育士さんたちに不審がられないように、静かに参拝した。
        
                                    参道の様子

『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れている。
        
                                        拝 殿

 享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘している。

 弁財天を祀る神社には蛇神や白蛇神を祀る神社が見られる。この弁財天と蛇神がつながるという信仰の形はインドや中国でも見られないそうで、日本独自の弁天信仰と言える。日本では蛇は田んぼを荒らす害獣を食べることから田の神として祀る民間信仰があったり、その他様々な面で神聖な動物として見られている。弁財天のお使い(眷属)が蛇と考えられるようになったのは、弁財天と蛇神である宇賀神が同一視されるようになったように、水の神・豊穣の神というご神格があったことからと考えられている。
              
                      境内碑

 当社は弁財天を祭神とし村名なりしを見れば古社なるべけれどその年代は詳ならず往古は弁財山薬王寺持なれど一時上須戸西光院の兼務せしことあり明治維新の際神仏分離の制定により厳島神社と改称して日向島田大衛氏兼務し爾来子孫相継ぎ現宮司の奉仕するところとなる境内に往時三反五畝歩余あり周囲大余の老杉欝蒼として昼尚暗く狐貉の棲息せしことあり社殿の後を利根川の本流東に流れて日向裏に向ひ舟運の便ありしと言ふ其の後享保十六亥年利根川大洪水の際上川邑楽郡境界へ川筋変更して弁天沼となり面積一町八反歩余深さ百余尺周囲には葦一面に生茂りて鴻鶴の来り游ぶあり沼主として大蛇の棲みしことありと伝へらる大正三年秋今の清浄池を残して埋立て耕作地となす折北の部落の草分けは僅に八戸なりしが其の後戸数次第に増加し毎己年開扉祭典を執行する事となり明治二十六巳年には社殿の改築をなす当社は天災地変を消滅し福徳智慧延寿財宝の守護神として四隣の信仰厚く吾等氏子も亦崇敬神殿の保全に専念しつつありしが偶枯木を売却したる浄資金二十有余万円にて社標旗枠石垣石階段敷石社殿修理記念碑等を竣工し之を記念する為此の碑を建つ 昭和二十八年四月
                                     境内碑文から引用
        
                社殿の屋根にはリアル過ぎる位立派な蛇の瓦がある。

 弁財厳島神社の創建は、「風土記稿」が述べるように古いものであり、大昔は水の神、下っては養蚕守護の神として、長く氏子の崇敬を集めてきたという「大里郡誌」には「悪鼠除の霊験ありと云ひ、信徒は絵馬を拝受して、之を倍加して奉賽す。毎年春陽、養蚕期に参詣祈願者最も多し」と、養蚕が盛んであったころの信仰について記している。
 
          本 殿              本殿左側奥に鎮座する境内社
                               詳細不明
        
                                 社殿より鳥居方向を撮影

熊谷市旧妻沼町付近には「竜海」と云われる伝説がある。

「竜海」
 昔、秦村(現妻沼町)と長井村(現妻沼町)との間に竜海という大池があり、四丈余の大蛇が棲んでいた。源頼義が奥州征伐の途次、葛和田の渡をわたろうとした時、土人の言上で、大蛇の棲むことを知り、土豪島田大五郎道竿に命じて大蛇退治を行なわせた。道竿は弓の名人だったので、よくこれを退治して命にこたえた。この時首、胴、尾を三つに切断、池の三方に埋め、その跡に八幡を祀り、池の中央に竜神の霊をまつって弁天社が建てられた。八幡社は現に存し、地名にも竜海、矢通というのがある。なお大蛇の鱗は日向の八幡社の宝物として秘蔵されているという。((韮塚一三郎「埼玉県伝説集成・下巻」より)

 この伝説の八幡社は、現在の長井神社(熊谷市日向1090)であるが、この伝説に登場している弁天社は、厳島神社のことなのかも知れない。


*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡誌」「埼玉の神社」「Wikipedia                            

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上須戸八幡大神社

 成田氏は平安時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族である。実は出自のはっきりしない一族で、藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。藤原氏説では『群書系図部集』所収の「成田系図」では藤原行成の弟藤原基忠の子孫という系図を載せ、『藩翰譜』では藤原道長の孫・任隆の末裔という系譜を乗せているが、そのように云われるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことは解っていない。一方、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。
 どちらにせよ、古くから幡羅郡に土着した豪族であったことは確かであり、その子孫が武蔵国の有力豪族か、中央貴族の一族との接点を通じて、その高貴な「姓」を獲得した可能性もある。
「熊谷市公連だより 平成2312月号」には、『斎藤叙用から五代後の越前権守・河合斎藤助宗の子・実遠が、康平五年(1062)「前九年の役」で、源頼義・義家親子の軍に散陣し、勲功を立て、恩賞として長井庄の庄士を拝命している。長井庄に赴任した実遠は「長井
斎藤」を名乗り、長井斎藤氏の祖となり、妻沼・西城を拠点とし、西城(長井城)に入城したと伝わっている』と記載されており、前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、成田助高は素直に城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となったという。つまり、斎藤実遠が長井庄を与えられる前は、この地域一帯は成田助高が領有していたということになる。
 
なお、助高はこの西城を築いた際に、東の守りとしてとしての砦も築いており、以来、里人は西城を本丸、砦を東城(ひがしじょう)と呼び、これが地名の由来となったと伝わる。
 上須戸八幡大神社はまさに旧上須戸村小字東城に鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市上須戸838
              ・ご祭神 
品陀和氣命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 3月18日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月7日
 上須戸八幡大神社の途中までの進行ルートは西城大天獏神社を参照。上須戸地区は、西城地区の東側に位置し、西城神社からは埼玉県道263号弁財深谷線を東方向に進み、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点手前の道幅の狭い道路を左折、道なりに真っ直ぐ進むと上須戸八幡大神社に到着できる。
 社に隣接しているゲートボール場周辺に駐車スペースがあるようにも思えたが、周囲一帯ほの暗いので、そこまで車両を進める事に躊躇いがあり、また鳥居の手前に若干のスペースがあったので、そこに停めて参拝を行う。
        
                 上須戸八幡大神社正面
 社は社叢林一帯に覆われ、昼間の参拝で晴天の天候だったが、このようにほの暗く、また前日の雨が乾いていない為、湿度も何気に高いようだ。社近郊には「東城城跡」の遺構があるそうだが、平野部の社とは思えない一種神秘的な雰囲気を醸し出している。
 もしかしたら、昔の社はこのような社叢林に囲まれた、世間の喧騒等とは隔絶された別次元の世界を体現したものであったのかもしれない。参拝中、このような感慨を思わせる何かが、この社には存在する。
 
     鳥居上部に掲げてある社号額        朱の両部鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 
 二の鳥居を過ぎてすぐ左手に鎮座する合祀社  合祀社の傍に紀元二千六百年記念碑
         詳細不明
        
                     拝 殿
 『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とある
 
        本殿は高床、流れ造りで外壁は朱塗りで予想以上に凝った造り。
 
    社殿手前、左側には社務所がある。           社殿の左側に置かれている石祠群       
    歴史を感じさせてくれる雰囲気あり。             詳細不明
        
                           社殿右側に鎮座する境内社・八坂大神
                           瓦には天狗の面と天狗扇がある。
                      
                    八坂大神 内部
       最近何かお祭り等があったのだろうか。正面入り口の建具が外れていた。                
        
 ところで上須戸八幡大神社が鎮座する旧幡羅郡上須戸村字東城は『新編武蔵風土記稿 上須戸村』に以下のように記載されていて、嘗て成田助高がこの地に居住していたことが記されている。
「当所に屋敷跡あれど、何人の住せしにや傳へず、一説に成田党の住せし地にて、其後古河の成氏宿陣せしことありといへり、隣村西城村の城跡は、住昔左近衛少将藤原義孝より、其孫式部大輔助高も居住ありしといへば、古くは成田氏住せし地にて、かの西城に対し当所をかく唱へ、其頃砦などありし○、又城は條里の條の假借にて田里の割より起し名なるも知るべからず」

 また隣村である西城地区も『新編武蔵風土記稿 西城村』で同じような記述がある。
「又隣村上須戸村の小字東城と云地にも屋敷跡あり、西城に対していへる名なるにや、とにかく古此邊なべて居住の地なるべし」
 つまり「東城」という小字は西側に隣接している「西城」に対し、東に城があったことに由来する名称である事のみならず、それより遥か昔の奈良時代に制定された、「条里制度」の名残でもあると「城は條里の條の假借にて田里の割より起し名」という記述で風土記稿の編者は言っているともいえよう。

*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷市Web博物館」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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