古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鎮守男沼神明社


        
               
・所在地 埼玉県熊谷市男沼225
               
・ご祭神 大日孁貴神(天照大御神)
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 不明
 鎮守男沼神明社は妻沼台白山神社の北西に鎮座する。途中までの経路は妻沼台白山神社を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線を1㎞程西進し、「熊谷市消防団男沼分団」と、隣接する「男沼公民館」がある手前の十字路を右折し、正面左側を眺めると鎮守神明社の社叢がすぐに見える。社の入口には数台分の駐車スペースがあり、路駐等の心配はない。
 周囲一面田園風景の中にポツンと静かに佇む「地域の鎮守様」といった第一印象。
        
                  鎮守男沼神明社正面
           周囲は綺麗に整備をされていて、境内も手入れも行き届いている。
        
                   神明系の鳥居
  鳥居の左右に社号標柱が建てられており、左に「鎮座天満宮」、右に「鎮守神明社」とある。    
「男沼の起源」として、「熊谷市 Web博物館」では以下の解説をしている。
「男沼の名称は隣村女沼に対するものと考えられる。男沼村・女沼村ともに利根川の浸水地域に位置していることから、その昔利根川の乱流で台地(今の大字台)を挟み、2つの沼ができた。その沼の近くに男体様(男沼神社境内に東向きに建つ祠)があり、下の沼の辺りには女体様(大字女体の白髪社の付近に西向きに建つ)があったことから、上の沼を男沼(おどろま→泥沼の意味)、下の沼を女沼(後に妻沼に改名)と呼んだのがルーツであると言われる。
 確かに地元の古老に言わせると、現在町民運動公園の北、工業団地として開発された地域は、土地が(雉尾堤の北側から大堀地区にかけて)低湿で泥沼状態のところが多かったと聞く。また、妻沼聖天様境内北の芝川ほとりに弁天裏と称する所がある。その低地の中心部にすりばち状の沼があってこれを目沼と呼んだ。また、女体様の関係でいつしか女沼と書くこともあり、女沼と目沼とが併用されている時代もあった。」
「柳田国男氏の地名研究によれば、沼を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから沼の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言える。」
        
                            高台に鎮座する鎮守男沼神明社拝殿
 
         拝殿正面               拝殿に掲げてある扁額
 
 見ずらいが拝殿右側には境内社が鎮座する。    社殿左側裏には石祠。やはり詳細不明。
         詳細不明
           
           鎮守男沼神明社入口左側にある「男沼樋門改修之碑」

 男沼地区は、上流から流れてくる悪水や利根川の氾濫により湛水を余儀なくされた地域で、一時は集団移村が検討されたこともあった。文政2年(1819)頃、長勝寺住職十三世の堪能和尚がこの湛水除去の手段として、利根川に水を流す樋門をつくる計画をたて、建設された。
男沼樋門は、この樋門を大正六年(1917)に煉瓦造りに改築したもので、男沼鎮守神明宮の境内に、男沼樋門改修之碑(1918年建立)がある。

 また幡羅郡妻沼村の記事に、渡場として「当村より上野国へ達する利根川の舟渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、この道は熊谷宿より上野への脇往還なる」とある。
「風土記稿」の「古戸渡」という記述から、この辺りが陸水運の要衝の地で、東山道山武蔵路の利根川渡河の地を示し、その周辺の社は東山道武蔵路を守る為に建立した神社とも考えられるという。

 結論として、神社が街道を守るように配置されている例は幾つか見られる。しかし、拝む方向に拝む対象があるのが普通であり、この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然ではないだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷市文化財日記」「関東平野にある女体神社」
    「熊谷市 Web博物館」等

拍手[1回]


妻沼台白山神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼台331
              
・ご祭神 菊理媛神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 国道407号線を熊谷警察著から北上し、刀水橋の南に位置する、「登戸」交差点を左折する。埼玉県道45号本庄妻沼線合流後、すぐ先に同276号新島尾島線に分岐する交差点があるが、その手前の細い十字路を右折し、まっすぐ走って行くと左手側に白山神社が見えて来る。
 残念ながら専用駐車場、社務所等は無い。神社脇に路駐し、参拝を急ぎ参拝する。
 
            妻沼台白山神社正面        参道を進むと右側にある「土地改良之碑」

 社の参道は東向きにあるが、行き止まり地点で右側、つまり北側に直角に曲がり、その正面に社殿が鎮座している配置となっている。

「土地改良之碑」
 本地区は妻沼町のほぼ中央北部に位置して東に国道四〇七号を控え北は利根川南に登り戸西は台を隔てて男沼門樋悪水路に囲まれた肥沃な沖積台地で一部陸田を含む畑地より成り受益面積は四十八.二ヘクタールである。此処台若宮耕地は古くより排水の便が悪く圃場は形状不規にして道路が狭曲し常に照れば旱魃降れば堪水の害に悩まされ永く農家経済安定の障碍となる。為に予ねて関係者相集い土地改良の推進協議計画中の処昭和四十六年十月備前島賢順助役の指導により団体営畑地帯総合整備事業に採択され幾多の困難を経て同四十七年十二月土地改良区を設立し工事に着手す。爾来組合員一七〇余が総力を結集し二か年の歳月と一億円の巨費を投し四十九年三月良く此の大事業を完遂し地域発展の基盤が確立されたことは慶びに堪えず。茲に関係各位に深く謝意を表し併せて此の感激を碑に刻し後世に伝える(以下略)。
                                     「碑文」より引用
「土地改良之碑」は決して社と直接的に関係する内容の碑文ではないが、この地域の歴史の一端を垣間見る貴重な歴史的な遺産でもある。境内にはこの碑の他に「開田の碑」もあり、そこにも「大里郡旧男沼村大字台並びに旧妻沼町の一部耕地は粘土質壊土横層である為に降雨には堪水し旱魃には乾枯し」とも記載があり、地域一帯は肥沃な沖積台地にあるのも関わらず、排水の便が悪いため、長年農作業に携わっている方々の苦労を軽減するため、土地改良事業を実施した経緯が刻まれている。
              
                              
南向きの鳥居
               また右前には「塞神」の石碑がある。
        
                                   境内の様子
 妻沼の地は、嘗ては利根川の乱流地帯であった。口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」、と称するようになったと云われている。
 一方、妻沼聖天宮の縁起によれば、昔、伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、「女沼」・「男沼」と称したという。因みに「女沼」は古い表記であり、その後「目沼」、「妻沼」となったと考えられ、一方「男沼」は「お泥沼(おどろぬま)」が名称が変化したといわれている。
 
また女沼と男沼という二つの沼の間には、「台」と称する微高地が伸びているが、これは利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所であり、妻沼台白山神社が鎮座する周辺地域をいう。

 伝説では、
「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに祀られ、白山社は両社の中間にあって南向きに祀られている」
 と云われている。
 女体様は白髪神社(妻沼1038)、男体様とは男沼天満宮(男沼225)のことと推定される。

 この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然と考えられる。
        
                     拝 殿
 白山神社  妻沼町台二七九(台字大明神)
 台は、利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所である。伝説では「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに把られ、当社は両社の中間にあって南向きに祀られている」という。女体様は白髪神社、男体様とは神明社のことであろう。
『風土記稿』は「白山社、蔵王権現社、以上二社、共に村の鎮守にて円満寺持」と載せている。この白山社が当社のことで、蔵王権現社は中島にあり、明治初期に曾登神社と改称し、明治四十一年に当社に合祀している。ちなみに、円満寺は天文三年(一五三四)、僧良栄の創建との伝えがある。
 口碑によると、古くは当社内陣に、青い小さな像が祀られていたが神仏分離調査の折に持ち去られたという。また、本殿の下に大きな石が据えられていて、これが昔の神体であるとも伝えている。
 曾登神社は、当社に合祀され境内に祀られているが、一方、旧地でも権現様と呼んで跡地に社殿を建て、古くからの神像を祀り現在に至っている。この神像は室町初期の作と推定される蔵王権現像である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
              拝殿右側に鎮座する境内社・曾登神社

「熊谷デジタルミュージアムHP」には、熊谷市指定有形文化財である彫刻「蔵王権現像」が紹介されていて、そこには以下のように記載されている。

・所在地 妻沼台
・所有者(管理者) 曽登神社
・時代 室町時代
・法量 像高40.0cm
 檜の寄木造りの立像。かつて妻沼台の白山神社に合祀されていましたが、里人の要請により現在地に移されました。焔髪が逆立ち、振り上げた右手に三鈷杵を持ち、右足をあげた形をしています。色彩はあせていますが、雄渾な作品で、力強さとバランスを供えた優品です。
・指定年月日 昭和34417



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷デジタルミュージアムHP」等

拍手[1回]


小島神明神社

 熊谷市小島地区は、熊谷市の中で利根川の北側にある市内唯一の地域である。「小島」という地名は「小嶋」と表記されていた時代もあり、約800年前の鎌倉時代初期にその名称は登場している。その頃から室町時代にかけて現在の群馬県にあたる上野国新田庄の一部に属していた。他の市内の地域と同じく、小島村が現在の埼玉県にあたる武蔵国、幡羅郡になるのは江戸時代に入ってからの事だ。
 小島村は上小島と下小島に分かれていた。明治時代に小島村は利根川の南側にある男沼村に合併した後、昭和時代に妻沼町に、平成時代に入ると熊谷市となった。現在旧小島村の地域は妻沼小島地区と名称となった。妻沼小島地区は群馬県太田市に囲まれるように位置し、南側に利根川、北側には石田川が流れている。
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市妻沼小島2358
              ・ご祭神 天照大御神 春日大神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 小島神明神社は、国道407号を熊谷警察署から北上し、利根川に架かる刀水橋を渡り切った「刀水橋北詰」交差点を左折、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線に合流し、利根川支流である石田川に架かる「古利根橋」方向に道なりに進む。暫く左手に利根川の風景を愛でながら1.7㎞程進んでいくと、進行方向の右手に「医王寺」が見え、すぐ先のY字路を右折、今度は埼玉県道・群馬県道301号妻沼小島太田線に入り、北西方向に300m弱程行くと右手に「熊谷市消防団小島分団」の建物が見え、その左隣に小島神明神社の社号標が見えてくる。
        
                                小島神明神社正面
 
       小島神明神社参道            参道の先に鳥居が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 江戸時代、この地域は利根川の流れを生かした舟運により栄え、妻沼小島地区は利根川の雄大な流れから恩恵を受ける一方、川の流れが人々の生活を苦しめることもあった。時に洪水や大水等の水害により、人々の住まいや野菜等の生産物等も流されるなど大きな被害を受けることもあった。地区内の神明神社等の社は、人々の信仰の場所となり、水難が起きないように、そして洪水がなく、無事に農作物が収穫できるよう、多くの願いが込められてきたという。
 
                       本 殿
           
              「
神明本社改造拝殿建築趣意書」石碑
 神明本社改造拝殿建築趣意書
 村社神明社は天照大御神春日大神の御二柱を始め數社を合祀し奉りたる鎮守にして該春日大神は元弘三年新田義貞公鎌倉北條氏討伐に際し脇屋義助當小島に本陣を構へ祭りて以て戰勝を祈願したりと傳ふ爾来郷人の崇敬最も篤く神威四方に赫赫たり明治四十二年本社拜殿等建築の工を起し略竣成したりしか翌年未曾有の大洪水の為拜殿其他の設備は倒潰流失の惨害に罹りたり蓋し當所の地形其前後に河川を控へ濁流奔騰の激甚中に在りしを以てなり然かも一人の死傷無く又民家の流失するものなかりしは是偏へに神明社の御加護に依るものとして感銘措く能はさる所郷人語つて曰く社殿の復興一日も忽諸にすへからすと然れとも連年水禍の至れるあり區民の疲弊困憊甚しく再興の計畫容易に成らす神靈に對し奉りて恐懼の極なりとせり現時社會の状勢は國體觀念の明微國民精神の作興を緊急要務とするに至り之か實現を期するには敬神崇祖の根本觀念を培養するを以て最も捷徑なりとす是に於て社掌氏子一體となり本社改造並拝殿建築の計畫を樹立して昭和十年四月工事に著手し年を閲すること三回今茲十五年四月に至り甫めて其工を終へたり殿宇清明にして尊嚴神徳愈高く氏子の崇敬益深し真に郷土の盛事にして國體の明微民心の作興に資する大なるものあるへきを信す茲に聖圖を石に勒むに當り齋戒して敬仰の情を舒へ神威の餘徳を永く後昆に傳へんとす乃ち誠恐誠惶して誌す
 紀元二千六百年聖戰第四年四月  
衆議院議員石坂養平篆額撰並書
                                      石碑文より引用
        
                              ひっそりと佇む社

参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館」「境内石碑碑文」等



拍手[1回]


奈良新田湯殿大神社

              
              ・所在地 埼玉県熊谷市奈良新田257
              ・ご祭神 大山祇命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月21日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月10日
              *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
 奈良新田湯殿大神社は南北に長い奈良新田地区に鎮座する、規模は小さいながらも旧村社格の社である。途中までの経路は四方寺湯殿神社を参照。「中奈良」交差点を利根川方向に北上し、道路沿いにある「横塚山古墳」の手前のT字路を左折すると、ほぼ正面に奈良新田湯殿大神社が鎮座する場所に到着できる。
 残念ながら専用駐車場等の適当な空間が周辺確認したが見当たらなかった為、道を隔てた東側に路駐して、急ぎ参拝を行った。
           
              南北に長い参道の先に朱の鳥居が屹立している。
 奈良新田地区は『新編武蔵風土記稿』では「中奈良新田村」として紹介されている。元々江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになったという。その後幕末に至り今の奈良新田に改称されたとの経緯があった。
 創建年代等は不詳ではあるが、江戸時代に中奈良新田として当地が開拓され、村の鎮守として出羽の湯殿山権現を勧請して創建したという。
 広大な妻沼低地の肥沃な地域の中に集落は形成され、その最北東部に社が鎮座している。まさに村の鎮守様との形容が相応しい社。
         
                      正面鳥居
         
                 拝殿手前左側に聳え立つ老木。
          ご神木と判別できないが、やはりこの姿には威厳が感じられる。
         
                      拝 殿

 湯殿大神社 熊谷市奈良新田二五七(奈良新田字東通)
 奈良新田は、江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになり、幕末に至って現行の奈良新田に改称された。この辺りは、利根川と荒川に挟まれた農業地帯であり、水利を生かして米麦が耕作されている。
 当社は、この奈良新田の鎮守として、出羽国(現山形県)の湯殿山から分霊したものと伝えられており、江戸時代には湯殿権現社と称していた。ただし、残念なことに、出羽国から分霊して当社が創建された年代については伝わっていない。また、湯殿権現社と呼ばれていた当時は、本殿に本地仏として、阿弥陀如来を中央に、その両脇に観世音菩薩と勢至菩薩を配した阿弥陀三尊像を祀っていたが、神仏分離により、当社に隣接する氏子の箕田家に移された。
 この本地仏の移動と同時に、従来当社の祭祀をつかさどってきた西福寺の管理を離れ、明治二年四月に湯殿大神社と改称し、村社となった。このことは、当時、村社として認められるには仏教色を排除することが必要であったことを物語っている。また、当社は村社ではあったが、小規模で氏子の数も少なかったところから、明治の末に奈良神社に合祀するとの話があったが、氏子の厚い信仰を尊重して合祀は見送られ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿に掲げてある趣のある扁額      社殿左側にポツンとある石祠。詳細不明。
 
  社殿の右側に鎮座する境内社・八坂神社      八坂神社の隣には庚申石碑2基
                            及び大黒天石碑あり。
        
 奈良新田湯殿大神社のすぐ東側には横塚山古墳(写真中央部のこんもりとした場所)が見える。


 
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
     

拍手[2回]


四方寺湯殿神社

 山形県にある湯殿山神社は、月山神社・出羽神社と並ぶ出羽三山神社の一つである。出羽三山は、明治時代まで神仏習合の権現を祀る修験道の山だったが、明治以降は神山となっていて、湯殿山神社では大山祇命、大国主命、少彦名命の三神が祀られている。
 熊谷市内では、「奈良新田」、「四方寺」、「西別府」そして境内社であるが、「代」各地区に湯殿神社が鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市四方寺401
             
・ご祭神 大山祇神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 四方寺湯殿神社は国道407号を熊谷警察書から旧妻沼町方面に北上し、「中奈良」交差点を右折、埼玉県道359号葛和田新堀線に沿って、暫く2㎞程進むと、道路沿いに「四方寺農村広場」と呼ばれる公園があり、その隣に四方寺湯殿神社はひっそりと鎮座している。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、県道に対して背を向けて鎮座している配置となっており、また社務所や自治会館等ないため、専用駐車場がない。そこで南側に回り込むように移動し、社正面近くの路肩に停めてから、急ぎ参拝を行った。
        
                            南向きの四方寺湯殿神社
             
                     社号標柱
 
          石製の鳥居           「慎ましい」という表現が似合う境内
 
        社殿手前で左側に境内社            同手前右側に境内社
       左から八坂社・天神社          左から神明社・石灯篭・伊奈利社
        
             ひっそりと鎮座する
四方寺湯殿神社拝殿
 湯殿神社 熊谷市四方寺一〇六五(四方寺字西田)
 利根川と荒川のほぼ中間の低地に位置する四方寺に鎮座し、大山祇命を祀る当社は、『風土記稿』に「湯殿山権現社 村の鎮守とす」とあるように、古来、四方寺村の鎮守として奉斎されてきた。創建の年代は定かではないが、村一番の旧家である吉田家によって祀られたとの伝えがある。吉田家の屋敷から見ると、当社はちょうど艮(北東)に当たるため、この伝えによるならば、初めは、同家の鬼門除けとして祀られたが、村の発展に伴い、村の鎮守になったものと推測される。
 江戸時代には、地内の蓮華院が別当を務めた。蓮華院は、湯殿山と号す真言宗の寺院で、開基は不明であるが、やはり吉田家によって建てられたものとの伝えがある。また、当社は享和元年(一八〇一)九月に神祇管領卜部良連から幣帛を献じられており、これは今も本殿内に奉安されている。かつては、このほかに、金の幣束も本殿に入っていたが、いつのころか盗まれてしまい、以後「本殿に神体が入っていないから『カラッポコ様』だ」と揶揄されることもしばしばあった。
 旧社格は村社で、『明細帳』には祭神の項に「合殿 月夜見命」とあるが、合祀の記録はなく、口碑にも伝えがないため、月夜見命を祀るようになった経緯はわからない。境内には、元は杉の大木が林をなし、参道が南に長く延びていたが、杉はキティ台風で倒れ、参道は区画整理でなくなったため、昔からみると随分寂しくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               社殿右奥に鎮座する境内社・金比羅宮
「四方寺(しほうじ)」という地名も変わっているが、『埼玉県地名誌』によれば、「はっきりしていないが、寺名ではないであろう。撓んだ土地を意味する。“シオジ”の転化からきたものではないか」と簡潔に説明されている。
「撓んだ」とは「曲がる・傾く・ たわむ」という意味があり、思うに河川等の氾濫により、自然堤防等が形成され、そこから低地帯とはいえ、緩やかな凸凹のある地形に地区全体が形成されていたのではないだろうか。
「シオジ」とは漢字変換すると「塩地」になると仮定して、話を進めよう。「塩」を冠したこの地域で、土地から塩が採れたり、交易品として集った事実はないようで、そうすると地形に由来するものと考えることができる。
        
                四方寺湯殿神社からの遠景

 旧男衾郡には塩村が存在していて、今の江南町塩地区がそれにあたるが、江戸時代の文献には嘗て「四方郷」と呼ばれていた。この塩地区は、「地名辞典」などでは、“シワ”と同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明していて、実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面から形成されている。つまり、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージを、当時の方々は「シオ(塩)」という言葉で表現し、それが今でも使われているかもしれない。

 四方寺という地名も、「塩地」を語源と考えると、妻沼低地に位置しているとはいえ、全ての土地が現在のように均一のとれた地形ではなく、河川のより出来る堤防もあれば、窪地や高台もあったであろう。自然がつくりだす造形をうまく利用し、低地を開拓し、田畑をつくり、自然堤防等の高地に居住していたに違いない。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉県地名誌」
          「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等 

拍手[2回]