古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

弁財厳島神社

 弁財天、日本では「七福神」で御馴染の七人の神様の一人で、唯一の女性神である。意外なことにこの神は日本古来の神ではなく、インドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる神聖な川・サラスヴァティに由来したヒンドゥー教の女神を指し、弁財天という名前は、仏教における呼び名であり、仏教に取入れられて音楽,弁舌,財富,知恵,延寿を司る女神となった。日本に持ち込まれた後は、神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた女神である。
 元来このサスラヴァティという神様は「河を神格化した神様」と呼ばれていて、川は農耕に非常に重要な存在で、豊穣をもたらすということから、豊穣の女神として祀られるようになる。
 弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となり、元々弁才天を祭神としていた社の多くは、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命をご祭神としていて、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂として数多く祀られた。瀬織津姫が弁財天として祀られる例も少しはある。
 熊谷市弁財地区は、旧弁財村という名称で、新編武蔵風土記稿は「当村 弁財天の古社有しより村名起こると云」と伝えられ、更に当社を弁財天社として、「村名なりしを見れば、古社なるべけれど伝を失う」と、創建の古いことを記している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市弁財174
               ・ご祭神 市杵嶋姫命(推定)
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 春季祭 旧3月7日 秋季祭 旧9月7日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 弁財厳島神社は熊谷市弁財地区北部に鎮座する。弁財地区は備前渠用水が福川に合流する道閑堀排水機場の北側に位置し、東西は長くても400m弱、南北でも1㎞も満たない縦長の地形で、狭い区域である。地形上、上須戸地区とは道閑堀排水機場の北から埼玉県道263号弁財深谷線までの300m程、備前渠用水を挟んで接している。
 弁財厳島神社までの途中経路は上須戸八幡大神社を参照。社が鎮座する南側に埼玉県道263号が東西に通っているが、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点を左折し、福川を渡る。福川を越えて北上すると、T字路となり、303号と263号との分離地点となる為、そこを263号側に右折。その後観音堂付近では形式上直進、実際は左折する変則的な場所もあるが、そこから以降は県道263号を道なりに北上する。暫く進むと同県道59号羽生妻沼線との交わるT字路となるので、そこを左折、100m程進むと、進行方向右側に弁財厳島神社の鳥居が見えてくる。

 上須戸八幡大神社から弁財厳島神社までの経路は、地図で確認すると、それ程難しくはないが、説明すると細かくなってしまう。筆者の説明能力不足をお許し願うほかない。
        
                  弁財厳島神社正面

 弁財厳島神社西側には保育所・学童クラブも隣接していて、参拝日は平日の昼間でもあり、園児さんたちや保育士さんたちに不審がられないように、静かに参拝した。
        
                                    参道の様子

『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れている。
        
                                        拝 殿

 享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘している。

 弁財天を祀る神社には蛇神や白蛇神を祀る神社が見られる。この弁財天と蛇神がつながるという信仰の形はインドや中国でも見られないそうで、日本独自の弁天信仰と言える。日本では蛇は田んぼを荒らす害獣を食べることから田の神として祀る民間信仰があったり、その他様々な面で神聖な動物として見られている。弁財天のお使い(眷属)が蛇と考えられるようになったのは、弁財天と蛇神である宇賀神が同一視されるようになったように、水の神・豊穣の神というご神格があったことからと考えられている。
              
                      境内碑

 当社は弁財天を祭神とし村名なりしを見れば古社なるべけれどその年代は詳ならず往古は弁財山薬王寺持なれど一時上須戸西光院の兼務せしことあり明治維新の際神仏分離の制定により厳島神社と改称して日向島田大衛氏兼務し爾来子孫相継ぎ現宮司の奉仕するところとなる境内に往時三反五畝歩余あり周囲大余の老杉欝蒼として昼尚暗く狐貉の棲息せしことあり社殿の後を利根川の本流東に流れて日向裏に向ひ舟運の便ありしと言ふ其の後享保十六亥年利根川大洪水の際上川邑楽郡境界へ川筋変更して弁天沼となり面積一町八反歩余深さ百余尺周囲には葦一面に生茂りて鴻鶴の来り游ぶあり沼主として大蛇の棲みしことありと伝へらる大正三年秋今の清浄池を残して埋立て耕作地となす折北の部落の草分けは僅に八戸なりしが其の後戸数次第に増加し毎己年開扉祭典を執行する事となり明治二十六巳年には社殿の改築をなす当社は天災地変を消滅し福徳智慧延寿財宝の守護神として四隣の信仰厚く吾等氏子も亦崇敬神殿の保全に専念しつつありしが偶枯木を売却したる浄資金二十有余万円にて社標旗枠石垣石階段敷石社殿修理記念碑等を竣工し之を記念する為此の碑を建つ 昭和二十八年四月
                                     境内碑文から引用
        
                社殿の屋根にはリアル過ぎる位立派な蛇の瓦がある。

 弁財厳島神社の創建は、「風土記稿」が述べるように古いものであり、大昔は水の神、下っては養蚕守護の神として、長く氏子の崇敬を集めてきたという「大里郡誌」には「悪鼠除の霊験ありと云ひ、信徒は絵馬を拝受して、之を倍加して奉賽す。毎年春陽、養蚕期に参詣祈願者最も多し」と、養蚕が盛んであったころの信仰について記している。
 
          本 殿              本殿左側奥に鎮座する境内社
                               詳細不明
        
                                 社殿より鳥居方向を撮影

熊谷市旧妻沼町付近には「竜海」と云われる伝説がある。

「竜海」
 昔、秦村(現妻沼町)と長井村(現妻沼町)との間に竜海という大池があり、四丈余の大蛇が棲んでいた。源頼義が奥州征伐の途次、葛和田の渡をわたろうとした時、土人の言上で、大蛇の棲むことを知り、土豪島田大五郎道竿に命じて大蛇退治を行なわせた。道竿は弓の名人だったので、よくこれを退治して命にこたえた。この時首、胴、尾を三つに切断、池の三方に埋め、その跡に八幡を祀り、池の中央に竜神の霊をまつって弁天社が建てられた。八幡社は現に存し、地名にも竜海、矢通というのがある。なお大蛇の鱗は日向の八幡社の宝物として秘蔵されているという。((韮塚一三郎「埼玉県伝説集成・下巻」より)

 この伝説の八幡社は、現在の長井神社(熊谷市日向1090)であるが、この伝説に登場している弁天社は、厳島神社のことなのかも知れない。


*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡誌」「埼玉の神社」「Wikipedia                            

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