古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上須戸八幡大神社

 成田氏は平安時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族である。実は出自のはっきりしない一族で、藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。藤原氏説では『群書系図部集』所収の「成田系図」では藤原行成の弟藤原基忠の子孫という系図を載せ、『藩翰譜』では藤原道長の孫・任隆の末裔という系譜を乗せているが、そのように云われるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことは解っていない。一方、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。
 どちらにせよ、古くから幡羅郡に土着した豪族であったことは確かであり、その子孫が武蔵国の有力豪族か、中央貴族の一族との接点を通じて、その高貴な「姓」を獲得した可能性もある。
「熊谷市公連だより 平成2312月号」には、『斎藤叙用から五代後の越前権守・河合斎藤助宗の子・実遠が、康平五年(1062)「前九年の役」で、源頼義・義家親子の軍に散陣し、勲功を立て、恩賞として長井庄の庄士を拝命している。長井庄に赴任した実遠は「長井
斎藤」を名乗り、長井斎藤氏の祖となり、妻沼・西城を拠点とし、西城(長井城)に入城したと伝わっている』と記載されており、前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、成田助高は素直に城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となったという。つまり、斎藤実遠が長井庄を与えられる前は、この地域一帯は成田助高が領有していたということになる。
 
なお、助高はこの西城を築いた際に、東の守りとしてとしての砦も築いており、以来、里人は西城を本丸、砦を東城(ひがしじょう)と呼び、これが地名の由来となったと伝わる。
 上須戸八幡大神社はまさに旧上須戸村小字東城に鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市上須戸838
              ・ご祭神 
品陀和氣命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 3月18日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月7日
 上須戸八幡大神社の途中までの進行ルートは西城大天獏神社を参照。上須戸地区は、西城地区の東側に位置し、西城神社からは埼玉県道263号弁財深谷線を東方向に進み、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点手前の道幅の狭い道路を左折、道なりに真っ直ぐ進むと上須戸八幡大神社に到着できる。
 社に隣接しているゲートボール場周辺に駐車スペースがあるようにも思えたが、周囲一帯ほの暗いので、そこまで車両を進める事に躊躇いがあり、また鳥居の手前に若干のスペースがあったので、そこに停めて参拝を行う。
        
                 上須戸八幡大神社正面
 社は社叢林一帯に覆われ、昼間の参拝で晴天の天候だったが、このようにほの暗く、また前日の雨が乾いていない為、湿度も何気に高いようだ。社近郊には「東城城跡」の遺構があるそうだが、平野部の社とは思えない一種神秘的な雰囲気を醸し出している。
 もしかしたら、昔の社はこのような社叢林に囲まれた、世間の喧騒等とは隔絶された別次元の世界を体現したものであったのかもしれない。参拝中、このような感慨を思わせる何かが、この社には存在する。
 
     鳥居上部に掲げてある社号額        朱の両部鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 
 二の鳥居を過ぎてすぐ左手に鎮座する合祀社  合祀社の傍に紀元二千六百年記念碑
         詳細不明
        
                     拝 殿
 『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とある
 
        本殿は高床、流れ造りで外壁は朱塗りで予想以上に凝った造り。
 
    社殿手前、左側には社務所がある。           社殿の左側に置かれている石祠群       
    歴史を感じさせてくれる雰囲気あり。             詳細不明
        
                           社殿右側に鎮座する境内社・八坂大神
                           瓦には天狗の面と天狗扇がある。
                      
                    八坂大神 内部
       最近何かお祭り等があったのだろうか。正面入り口の建具が外れていた。                
        
 ところで上須戸八幡大神社が鎮座する旧幡羅郡上須戸村字東城は『新編武蔵風土記稿 上須戸村』に以下のように記載されていて、嘗て成田助高がこの地に居住していたことが記されている。
「当所に屋敷跡あれど、何人の住せしにや傳へず、一説に成田党の住せし地にて、其後古河の成氏宿陣せしことありといへり、隣村西城村の城跡は、住昔左近衛少将藤原義孝より、其孫式部大輔助高も居住ありしといへば、古くは成田氏住せし地にて、かの西城に対し当所をかく唱へ、其頃砦などありし○、又城は條里の條の假借にて田里の割より起し名なるも知るべからず」

 また隣村である西城地区も『新編武蔵風土記稿 西城村』で同じような記述がある。
「又隣村上須戸村の小字東城と云地にも屋敷跡あり、西城に対していへる名なるにや、とにかく古此邊なべて居住の地なるべし」
 つまり「東城」という小字は西側に隣接している「西城」に対し、東に城があったことに由来する名称である事のみならず、それより遥か昔の奈良時代に制定された、「条里制度」の名残でもあると「城は條里の條の假借にて田里の割より起し名」という記述で風土記稿の編者は言っているともいえよう。

*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷市Web博物館」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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