古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

常木神社


        
               
・所在地 埼玉県羽生市常木1135
               
・ご祭神 大雷命 誉田別命
               
・社 格 旧常木村鎮守
               
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り 826日 
                    秋祭り(大祭)
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 堤千方神社南方の用水路に沿って南東方向に走る道路を1.3㎞程進むと、進行方向左側で、利根川右岸の土手に「羽生スカイスポーツ公園」が見え、その公園に対して道路の反対側で、用水路に沿って常木神社は鎮座している。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、上記公園の道路沿いにある広い駐車場に停めてから参拝を開始する。
        
            
利根川右岸の自然堤防上に鎮座する常木神社
『日本歴史地名大系 』「上常木村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置する。古くは下常木村と一村で、両村の境は入組んでいて分ちがたく、西は下村君村・堤村、東は上大越(かみおおごえ)村(現加須市)。現東京都世田谷区森巌(しんがん)寺所蔵鰐口の宝徳二年(一四五〇)八月日付銘文(武蔵史料銘記集)に「武州太田庄恒木郷極楽寺」とみえる。天正六年(一五七八)三月七日の木戸元斎願文(奈良原文書)によると、羽生城主木戸忠朝次男元斎が羽生城回復を上野国三夜沢大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に祈願し、回復のうえは埼玉郡常木郷など三郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している。
 
        南北に流れる用水路に沿って社は鎮座し、社号標柱(写真左)から
             鳥居まで比較的長い参道が続く(同右)。
        
           笠木部は反りがなく、一直線という特徴ある鳥居
 現在は常木神社の名称であり、どのような由緒なのか名称だけでは皆目見当もつかないが、嘗ては「雷電天神合社」という社名で、雷神を祀る社であった。当地の方々は「雷電さま」の名で親しまれ、雷にちなむ信仰が語られている。『新編武蔵国風土記稿』によると、「二俣竹 此二俣竹は昔当社地に生ぜしものなるを大久保彦左衛門忠教、当所の地頭たりし時、刈り取て杖になさんとせしに、忽ち雷轟きわたりて、従者悶絶し雷鳴数日止ざりければ、忠教恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり」とあり、この二俣の竹は、縁起と共に社宝として伝わっている。祭礼の折に設けられている舞台を社殿に背を向けて建てると、大夕立が来るとも言い伝えられている。
        
                    拝 殿
 当地は雷電講で賑わう群馬県板倉町を利根川の対岸に望む畑作地帯である。ここは全国でも有数な雷の多発地帯で、村民は夏の北西からの雷雲には殊に注意を向けている。
 嘗て「雷光」は「稲妻・稲光」とも云われ、稲の豊穣をもたらすものと言い伝えられるのだが、これは雷の古い信仰形態をみることができる。
 当社は慶長五年『常木雷神社大久保彦左衛門願文』によると、上州大楽木部佐貫之庄板倉之領廻之村(現邑楽郡板倉町)へ、承和年中勧請した雷電神社の神璽が、永正元年五月一日に常木の地に飛んで来たことから、村民は早速社殿を建立した。その神威は日ごとに増し、祈願すれば病気は治り、旱魃には大雨が降るなど、人々はその神慮に大いに歓んだという。享保三年吉田家から宗源宣旨を受けている。『新編武蔵風土記稿』にも「雷電の神体は一寸余の玉にして水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必ず其の験有りと云う」とある。また明治四年六月の「祭雷公文」が残り、往時の信仰の様子をうかがい知ることができる。
 明治四年九月に八幡神社を当社に遷座、合併している。因みに八幡神社は往古より当村茂手木という所に鎮座し、慶安二年社領二八石六斗の御朱印を付されたといわれる。
 昭和二〇年一月八日 現社名に改称している。
                                   「埼玉の神社」より引用

 

  拝殿の回りに祀られている末社三基…栗島・諏訪・熊野社。但しいずれかは不詳との事
        
                  社殿からの一風景
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上常木村下常木村』
 雷電天神合社 
 雷電の神體は一寸餘の玉にして、水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必其驗ありと云、慶長五年別當龍門坊の住僧深舜が記せし緣起に、當社雷電は承和年中上野國邑樂郡板倉鄕に勸請せしを、不思議の
ありて永正元年當所へ移り祀りし由載せたれど、恐く傳への誤なるべし、今も彼地に雷電の大社存すれば、遙拜の爲に寫し祀れるならん、
 寶物 二俣竹 
 此二俣竹は、昔當社地に生ぜしものなるを、大久保
左衞門忠敎、當所の地頭たりしとき、伐り取て杖になさんとせしに、忽ち雷とヾゑきわたりて、從者悶し、雷鳴數日止ざりければ、忠敎恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり、銘左の如し、

 らいてんくうの御不地として、是をこめ奉也、さる間拙はきやうしうに候間、よろつの事をくわんねんし、中道のいんにひうけこんし三がいのもんにいり、そくしんしやうぶつをきはめ、無二やく無三ときはめ申よりして、よろつおしこといたし候へ共、此らいてんにおひて、さらさらおしことならす候間しやれうを爲付此ふちをこめ申候、以上此外不申候以上
  けい長三年八月一日  つねきちとう大久保左衞門
 

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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