大越鷲尾神社
・所在地 埼玉県加須市大越526
・ご祭神 天日鷲命
・社 格 旧上中下大越村鎮守・旧村社
・例祭等 祈年祭 2月17日 名越祭(祓い祭)7月31日・8月1日
秋祭り 10月16日
常木神社から用水路沿いの道路を南東方向に1.2㎞程進むと大越鷲尾神社に到着する。但しこのルートでは社が背を向いたような状態であるので、一旦手前の十字路を右折し、左回りのようなルートにて、正面に到着することができる。
社に隣接し社務所らしき建物もあり、そこには広大な駐車スペースもあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
大越鷲尾神社正面
『日本歴史地名大系』 「上大越村」の解説
北は利根川を境として上野国邑楽郡大久保村(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷の武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)に鷲宮神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。
*成田分限帳
「五十一貫文・大越彦四郎、二十一貫文・大越彦八郎」
*萱氏系図(鷲宮村鷲宮神社所蔵)
「莿萱重郎正忠(建保元年死す、行年七十九歳。母大越次郎貞正娘・武蔵国大越住人)」
羽生領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。
参道の先に建つ鳥居
参拝日は8月のお盆を過ぎた平日。連日35度以上を記録する「酷暑日」に参拝を行っているにも関わらず、鳥居の先は、樹木の木陰げとなっており、水分補給をしながら汗ばむ体を休ませるには丁度良い空間となっていた。
拝殿手前、参道左側に祀られている合祀社
左から天神社・( ? )・稲荷社
拝 殿
『新編武蔵国風土記稿 上中下大越村』
羽生領葛濱鄕に屬す、按に【梅松論】に建武二年十月十日太田庄を、小山常若丸に宛行云々とあり、當村に小山の建立せし寺院あれば、彼太田庄と云へるは當所の事なるにや、成田分限帳に五十一貫文大越彦四郎とあるも、當所に住して在名を名乗しなるべし、當村元は一村なりしに、後上下の二村となり、後又其内より中村を分てりと云、
鷲尾明神社 上中下三村の鎭守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしものなりと云、
末社 淺間 ○辨天社 ○八幡社 以上の四社は共に上分にあり、
「埼玉の神社」による解説では以下の説明がある。
当社は『新編武蔵国風土記稿』に「上中下大越村の鎮守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしもの」とある。往時真言宗妙雲山宝幢寺持ちとされ、明治以前は現社務所が同寺末の西行寺で、当社の直接管理に当たっており、享保四年の石鳥居にその寺名が残されている。
昭和七年覆屋改築の際に見つかった棟札には「延享二年八月本殿改築 宝暦三年厨子造営 文政八年九月幟寄進 文政十年浅間神社創建」などが記されていたが、昭和四十四年社務所改築の折に紛失している。
祭神は「天日鷲命」であるが、本来「天穂日命」であったものを、時の領主であった尾沢某が自分の姓から「尾」の一字を入れて、社名を「鷲尾」に改めた時に、祭神名も変えたと伝える。しかし、この祭神変更は、江戸期北埼玉一帯に綿が広く栽培され、青〇の名で知られる織物が盛んに行われていたことから、尾沢某が木綿作り、紡績業創始の神である天日鷲命を奉斎したものと思われ、現在も尾沢某が奉納したと伝える宝永四年の社号額が残る。
当社には字宮西の今宮神社、字中内の御嶽神社二社、字馬場の白山神社、字前田の伊奈利神社・天神社を明治四十四年から大正二年までに合祀した。境内には安産子育ての信仰のある宣言者のほか八坂神社、湯殿神社、今宮神社、稲荷神社、天神社、神明社、弁天宮が祀られている。
本 殿
また大越の氏子は祭神名が鷲であるためか、鳥(ニワトリ)は食べなかったといわれ、家で飼っているニワトリが年をとると鷲尾神社の境内に放したという。このほか、大越では正月三が日はうどんを家長が打ち、四日から餅を食べるという風習があり、三が日に餅を食べるとオデキができるといって、これを戒めたという。
社殿右側に祀られている境内社・浅間社か 浅間社の右隣に祀られている八坂神社
境内に祀られている石祠群。詳細不明
7月31日と8月1日に行われる「名越祭」は「祓い祭」とも呼ばれている。この祭りは鎮座地である中内の氏子へ日頃の奉仕に対する労賃として始められ、収益は中内に還元される。祭りの1週間前に輪くぐりの材料となる真菰(まこも)を刈り、各戸へ招待状と人形(ひとがた)を配る。31日真菰で輪をつくり、神職があらかじめ集めておいた人形を持参して輪をくぐり、祓いを済ませた後神札を配る。嘗ては翌日の午(うま)の刻に神職が輪と人形を流したが、現在は河川の汚染防止の為お焚き上げをしているとの事だ。
参拝終了後木陰の場所に戻り、一旦休み、鳥居方向を撮影。
大越鷲尾神社から240m程北側で、利根川右岸の土手付近に大越樋口伊奈利神社が鎮座している。境内は決して大きくはないが、コンパクトに纏まった社殿やその手前に設置されている石碑二基の立派さ、また社殿の奥に並んで祀られている庚申塔や石祠等を拝みながら、なかなか立派な社と言う印象を持った。
なにより境内の手入れが行き届いていて、地域の方々の社に対する崇敬の念を充分に感じさせる社でもあった。当初は立ち寄る予定はなかったのだが、何かのご縁で手繰り寄せられたもとの感じ、ありがたく参拝させて頂いた次第だ。
但し周辺には駐車スペースは全くない様子。路駐して急ぎ参拝を開始した。
・所在地 埼玉県加須市大越650
・ご祭神 倉稲魂命
・社格・例祭等 不明
鳥居正面
鳥居の社号額には「西宮稲荷大明神」と刻まれている。
社殿前には立派な「伊奈利神社 改築記念碑」「椿森稲荷神社碑銘」が設置されている。
椿森稲荷神社碑銘
武蔵國北埼玉郡大越邨字樋口堤上有一社曰
椿森稲荷一落人民尊信甚厚失不詳何年何人
之所創建傳言慶安二年一加修繕焉後至天保
二年社木繁茂良材頗多及伐以建前殿規模較
大同三年三月罹災而燼失其八月雖再造營舊
觀頗損後經四十年明治十三年新造萃表〇〇
石置末社多擴舊規以擧行祭典同十九年官下
令〇在堤地者無社寺無民家悉除去之是以事
之關堤地者百方哀願緩其期終至今年不可復
請焉官亦不許也於是一落相謀推荒木喜太郎
三井長次郎三井清藏荒木重郎次四氏為幹事
以永遷社之地初雖捧三井楠吉氏之屋後低窪
不可以祭神焉及購三井長次郎氏之地定為社
地奉一落經營甚勉不日竣功茲卜九月九日大
奉還社之盛式神之享之以福落民亦不可疑也
因之亍石永傳子孫係以銘々云(以下略)
拝 殿
当社は椿森稲荷とも呼ばれ、明治初期の利根川改修まで、現社地北側の堤防付近に鎮座していた。古くは木が繁殖していたことが伝えられ、「椿森」の名もこれに由来していたと思われる。
祭神は倉稲魂命。内陣には茶き尼天像(だきにてん)と嘉永七年に奉納された水晶玉を安置している。境内には末社天満宮、御嶽仙元宮、白雲山妙義大権現が祀られている。
氏子にとって当社は「雨乞いの神」「疫病除けの神」「洪水を防ぐ神」としてご利益があるとされている。
社殿奥に祀られていた庚申塔・石碑・石祠
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内石碑文」等