古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小谷日枝神社

 鴻巣市小谷地域は、荒川中流域の左岸に位置し、標高は16m18m弱と沖積低地に属している。周囲は一面田園風景が広がり、荒川土手上にはサイクリングや散歩、ウォーキングを楽しむ姿が多くみられる。
 当地域の南側を流れる荒川は、江戸時代前は現在の元荒川の流れが主流だった。江戸時代に入り、関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なったもので、「荒川の西遷」と呼ばれている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた反面、時に起こる大水はこの地域を直撃して堤防決壊を繰り返す。「吹上町史」等に記録された被害だけでも「安永9年(1780)」「万延元年(1860)」等度々水害に遭った。旧吹上町の地形は、市街地の北側より、南方向へ行くにつれ標高が緩やかに低くなるため、当地域は水害をまともに受け、水が引くにも時間がかかり、低湿地状態が長時間続くことになる。
「吹上町史」による地名由来として、「元禄年間までは『小屋』と書いたのも見えるが、低湿地を意味する『谷』のほうが適切であろう」と記載があるのも当然頷けるものだ。
 このように水害の被害が多発する小谷地域であり、当時の生活は当然苦しかっただろうと想像できるが、実はこの地区だけでも「市指定文化財」は「仁治三年双方式板碑」「小谷城跡」「小谷ささら獅子舞」の3つあり、更に2022217日「日枝神社本殿」も市の文化財に指定されている。文化財は人々が守り伝えてきた証でもあり、小谷に住んでいた先祖の方々が、苦労しながらも当地域の文化を大切にしていたことを如実に証明している生き証人でもあろう。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小谷1505
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧小谷村鎮守 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月中旬頃 大祭 72425日 
                   
新穀感謝祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0813999,139.4663012,16z?hl=ja&entry=ttu
 小谷地域は旧吹上町南部に位置する。「新編武蔵風土記稿 小谷村条」では「東は箕田村、南は糠田村及び横見郡今泉村にて荒川を境とす、西も又川を隔て、同郡一ツ木・地頭方の二村に至り、北は当郡(箕田郡)大芦・三町免・明用・前砂・中井の五村に接せり」と記載され、比較的広い地域であるが、地域の半分である荒川左岸一帯は土手で区切られており、土手から東側に住居が点在している。その地域中央付近に小谷日枝神社は静かに佇んでいる。
 地形を確認すると一ツ木荒神社のほぼ北方にあり、直線方向で1.5㎞くらいしか離れていないが、間に荒川が横たわっており、残念ながら直に通ずる道路はない。
 一旦明秋神社まで戻り、埼玉県道
76号鴻巣川島線に合流して北上し、糠田橋を越えて、「関東工業自動車学校」前の斜めに抜ける道を左方向に進み、「上武水路」に達した後は水路に沿ってまた北上する。イタリアンレストランを越えた次のT字路を左折し、西方向に500m程進むと小谷日枝神社の社叢林が見えてくる。
        
 
        小谷日枝神社正面         一の鳥居には「日枝神社」の社号額あり。
    一の鳥居と二の鳥居が近距離に立つ。
        
                                小谷ささら獅子舞の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財  昭和四十年十一月十七日指定
 小谷ささら獅子舞
 主として五穀豊穣の祈願、悪疫退散の神事として各地で行われる獅子舞は、平安時代には宮廷や寺社で行われ、室町時代になって民間に広まった。
 それ以後はそれぞれの時代ごとの庶民の願望や土地ごとの気風などを反映させながら発展をとげていった。
 竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る小谷のささら獅子舞は、三百年ほど前から伝えられてきたが起源は不詳である。
 豊作を神に感謝するとともに無病息災、家内安全を願って毎年十月中旬に日枝神社に獅子舞や棒術、刀術、槍術が奉納される。獅子踊りに入る前の様々な所作、寸劇、掛け声等はよくその型を伝えており、貴重な民俗芸能である。
 また、関東地方の獅子舞はほとんどが三頭で舞うが、この獅子舞は五頭であることが特徴である。      平成二十四年二月 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 関東で風流の獅子というと3頭が多いが、こちらの獅子は5頭。昔は7頭で舞っていたというが、水害で2頭が流されてしまったと言われている。
        
                    境内の様子
      沖積低地に鎮座するためか、社殿には高台が造られ、周りは石で補強されている。
             
      参道左側には、江戸時代の俳人である加舎白雄の歌碑がある(写真左側の石碑)
 加舎白雄(かや しらお)は上田藩士加舎家の二男として江戸深川に生まれた。(元文3820日(1738103日)‐寛政3913日(17911010日))
 俳人として松尾芭蕉の真価を認め、芭蕉こそが俳譜の大成者であり、これからの俳譜は芭蕉風(蕉風)でなければならないことを主張、実践した人物である。
 今日「俳句=芭蕉」という小学生でも知る常識を、広く一般に定着させたのが白雄であったということである。
 実際に白雄の行動は、東奔西走し、広く全国各地に及び、芭蕉の歩いた土地はほとんど訪れているといい、その際にこの吹上の当地域にも訪れて詠んだと推測されている。

                              咲きしより冬野を超てとひし梅


        
                     拝 殿
 毎年のことなのか、兎年ということで拝殿の正面の壁には兎の絵が飾られている。鎮守社としての地域の方々との強い繋がりを感じると共に、印刷物でないほのかな人間の温かみを感じる絵柄だ。
        
                           拝殿手前に設置されている案内板
 日枝神社 御由緒 吹上町小谷一五〇五
 □御縁起(歴史)
 小谷は、荒川と元荒川の間の低地帯に位置する村で、古くは箕田村の一部であったという。その地内には、忍城主成田氏の家臣の小宮山内膳の居域と伝えられる小谷城跡があり、その近辺には、「城山」「小城沼」「元屋敷」「仕置場」たど、城に関係した地名が見られる。
 この小谷の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、元来は山王社と称していたが、神仏分離によって明治初年に日枝神社と改めたが、氏子の間では今でも「山王様」と呼ばれている。『風土記稿』小谷村の項には「山王社 村の鎮守なり、稲荷社 天王社 雷電社 稲荷社」と載り、寺院との関連は記されていないが、恐らくは当社のすぐ西にある金乗寺が祭祀にかかわっていたと思われる。
 寛永六年(一六二九)に荒川の瀬替えがあるまでは、幾度も洪水に見舞われてきたためか、当社の創建に関する資料は現存しない。内陣に「正一位山王宮」と刻まれた金幣が安置されているところから、江戸時代には、正一位の神階を受けたものと思われるが、残念ながら、その時期は不明である。また、この金幣と共に、「正一位雷電宮」と刻んだ金幣も安置されているが、これは明治四十年に字上新田から合祀された雷電社のもので、この年、字堤根の阿夫利社と字八丁免の衢ノ神社も当社に合祀された。なお、当社は、小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もできる。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
 
      拝殿に掲げてある社号額        拝殿正面には新聞記事が掲示されている。
「国宝の聖天堂そっくり 眠る本殿に彫刻 同じ大工の制作か」
 鴻巣市小谷(こや)の日枝(ひえ)神社の覆い屋の中に、国宝の妻沼聖天山(熊谷市)の聖天堂にそっくりな本殿が眠っている。本殿を保護する覆い屋は長年"開かずの間"になっていたが、昨年氏子が掃除した際、本殿に聖天堂と同様の彫刻が四方に施されているのを見つけた。研究者は、聖天堂の建築に携わった大工や彫刻師との関わりを指摘している。
(中略)昨年5月に神社の総代が交代し、8月に総代長の佃三郎さん(71)や総代の吉田豊さん(71)らが、宮司の立ち合いで覆い屋の中を片付けた。すると、彩色が施された彫刻で本殿の四方が飾られていることが分かった。正面に竜、側面や背面に布袋や大黒、七福神などの彫刻。すごろく遊びの彫刻は妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。氏子の依頼で現地を訪れた、ものつくり大学技能工芸学部建設学科の横山晋一教授は「屋根の形式も聖天堂の奥殿と同じ」と指摘する。
(中略)
門前で父の代から酒店を営む吉田さんは、神社への思いがひときわ強い。「この時代に総代になったことに使命感を感じる。(本殿を守ることが)達成できるように力を120パーセント振り絞りたい」と話している。
                        拝殿新聞切り抜き 「埼玉新聞」記事から引用
 
          拝殿前の両脇に並んで設置されている石灯篭、石碑等。
 
社殿の右側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。     社殿左側に鎮座する合祀社
                      左より三峰神社・稲荷神社・天満天神社・白山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「広報こうのす 令和44月号」
    「大人の地域再発見誌 こうのす」「Wikipedia」「境内案内板」 

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