古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

六万部愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部602
             
・ご祭神 迦具土命
             
・社 格 旧六万部村谷田向鎮守
             
・例祭等 お獅子様 426日 例大祭 823日 注連縄飾 1230
 北中曽根愛宕山神社・金山神社六万部大神宮社と参拝を終え、更に埼玉県道12号川越栗橋線を東北自動車道方向に東行し、「仁丁町通り」と交わる変則的な五叉路を左折すると、すぐ右手に六万部愛宕神社の境内一帯が見えてくる。県道を曲がればすぐ境内地となるにも関わらず、道路沿いにない事、また民家が社を隠しているため、目立たない場所に社は存在しているのだが、実際現地に足を踏み入れると、地域の鎮守様としての風格は十分に漂っている。
        
                  
六万部愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』による 「六万部村」の解説
 所久喜村の北にあり、北は辻村(現加須市)、新川用水を境に水深村(現加須市)・中妻村(現鷲宮町)。村の北西端の地は関ノ上、南部は仁丁(にちよう)町とよばれている。仁丁町の西部に上清久(かみきよく)村の飛地がある。村名は、当所に法華塚があり六万部の供養塔があったことによると伝える(風土記稿)。騎西領に所属。慶安四年(一六五一)に上清久村から三〇余軒の民家が移り一村をなしたといい(同書)、元禄郷帳に上清久村枝郷と注記がある。
        
                 参道、及び境内の様子
 写真左側に見えるのが社務所。年間行事の直会などの会場として社務所が現在使われているが、嘗ては社の東側に隣接する飯島家がその会場であったという。
 
 白い両部鳥居の先に見える鬱蒼とした林の中央部にハッキリと石段があり、古墳とも丘ともいえるその頂上部には小さく社が見える(写真左)。また石段手前で、左側には境内社・稲荷神社が祀られていて、そこから離れていない石段入口左側には力石もある(同右)。
        
                    拝 殿
 愛宕神社  久喜市六万部六〇二(六万部字谷田向)
 六万部は、かつての利根川の乱流地帯に残された台地上の村である。東に接する上清久村の一部であったが、慶安四年(一六五一)に、上清久村の三〇余戸がこの地に移住して枝郷となり、元禄期(一六八八〜一七〇四)以降、独立して別村となった。このうち当社が鎮座する谷田向は、この地の北側で、台地に大きく切れ込んだ谷田に面していることに由来する名である。
 当社の創建時期を明確に示す資料は発見されていないが、(中略)当社は、慶安四年をいくらか下った時期に創建されたと思われる。なお、『風土記稿』六万部村の項に当社と六所明神社・神明社・住吉社の四社は、共に村民の持で村内の鎮守と記されている。
 当社の東に隣接する飯島家は、右の口碑の家であるが、地租改正後に当社のやや南方からこの地に居を移したものである。そこには明治三年まで羽黒行人派の愛宕山万福寺という修験の寺があった。万福寺は立地や山号から見て、往時は別当を務めていたようである。飯島家では万福寺の廃寺後は本尊を引き継いで祀っていたが、後に香最寺へ納めた。この経緯と同家屋号を「ワタゴノウチ」ということから、江戸期の当社が「村民の持」とあるのは、同家ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               丘上の社殿から見る境内の様子
 当社の祭神は迦具土命で、氏子からは谷田向の鎮守神としてだけでなく、鎮火・防火に御利益のある神として信仰されている。また、社の氏子区域は、六万部の字谷田向全域である。
 本殿には迦具土命の本地仏である騎乗の勝軍地蔵像と地蔵菩薩立像が奉安されているが、共に年紀等の銘はない。社殿は、六メートル程の塚上に建てられており、この塚は、境内の西脇を流れる新堀という用水を江戸時代に開削した時に、掘り上げた泥を積み上げて築いたという。ちなみに新堀の開削時期は、周辺の用水整備の記録から十八世紀後半と見られている。なお、この塚は愛宕の本社で修験道場であった。京都の愛宕山に見立てていることから、その築造には万福寺の関与がうかがえる。
             
               境内に聳え立つイチョウの大木
                           久喜市の保存樹木に指定されている。
  


参考資料「新編虫風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

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六万部大神宮社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部539
             
・ご祭神 天照大御神
             
・社 格 旧六万部村本村鎮守
             
・例祭等 お神酒上げ 11日 灯籠 710
 北中曽根下集会所から東行し、一旦埼玉県道12号川越栗橋線に合流した信号のある交差点を直進する。その後、曹洞宗清鏡寺の山門を拝みながら暫く進み、最初の十字路を左折すると、進行方向右側に農地の先に垣根があり、その奥に六万部大神宮社の白い鳥居と社務所のような社殿が小さく見えてくる
 実のところ、加須市割目地域に鎮座する割目久伊豆神社からは東西に通る道路で繋がっており、400m程しか離れていない位置関係にある。
        
                 
六万部大神宮社正面
   「
大神宮」を冠する社としては、やや簡素でこじんまりした境内、及び社殿である。
        
                          境内に設置されている案内板
 久喜市六万部地域。如何にも仏教に関連しそうな地域名だ。この六万部という地域名の由来として、『新編武蔵風土記稿 六萬部村】では「村名の起り古へ當所に法華塚ありて、六萬部の供養塔ありしをもてかく名付く」と載せていて、「埼玉の神社」では「口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来する」という。
 この六万部地域は、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つ組に分かれ、当社はそのうちの本村で祀る神社である。
 本村は六万部の北西部に位置する農業地域である。『風土記稿』六万部村の項では、村の開発について「古は上清久村の内なりしが、慶安四年同村の民三十余此地に移り来りしより、一村となれり云」と載せているが、「本村」という呼称から推測すると、この慶安四年の移住は、まず当地から行われたものと考えられる。
「大神宮様」も通称で親しまれる当社は、伊勢神宮の内宮と同じく天照大御神をご祭神としていて、内陣には、両部神道におけるこの世にあらわれた姿である雨宝(うほう)童子像(全高二七㎝)が安置されている。
        
                    拝 殿
 大神宮社 御由緒  久喜市六万部五三九
 □御縁起(歴史)
 六万部の地名は、口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来するという。現在、西公民館の北側にある「お経塚」が、その経巻を埋めた場所とされており、塚の上に石碑が建てられている。この六万部では、村全体で祀る鎮守は昔からなく、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つの村組合各々で別個(新田と関ノ上は合同)の神社を祀ってきた。当社はそのうちの本村で祀る神社である。
『風土記稿』六万部村の項によれば、村の開発は慶安四年(一六五一)といわれているため、当社の創建はその後間もないころのことと推測され、氏子の間では「伊勢にお参りできない人が遥拝できるようにお祀りしたのがこの社」「伊勢に一度行った人が二度目に行った時に伊勢から御神体を受けて来て建立した社」などの話が創建にまつわる口碑として伝えられている。ちなみに『風土記稿』に「神明社村民の持にて、村内の鎮守なり」とあるのが当社のことである。
 この当社の境内は、本村の西の外れに位置し、その周囲には鬱蒼とした杉が生い茂っている。古くは、その中にそびえ立つ樅の巨木が神木として大切にされていたが、この樅の木はキティ台風で倒れてしまい、杉の大木も幾本かは昭和二十二年に鳥居を再建した時に伐採したため、樹林の規模は小さくなってきてはいるものの、今では貴重な緑地であり、森を維持するため杉が植樹されている。
                                    境内案内板より引用
        
               境内に祀られている境内社二基
                            左から稲荷社・三峰社
 元旦にある「
お神酒上げ」と七月十日の「灯籠」の二つが当社の年間行事であるが、嘗て「お獅子様」という行事も行われていた。この行事では、騎西に鎮座している玉敷神社(明神様)から借りてきた「お獅子様」を若衆が担いで回り、地内の悪疫除けをするのだが、当社がその出発点となり、そこで祈願を行い、氏子の各戸を回る。各戸には土足のまま暴れ込み、全戸を回り終えると、村境で「辻切り」をしてから新田に「お獅子様」を渡した。現在では、「お獅子様」を借りることはしないで、当番が玉敷神社に奉納金を持参し、希望者の分だけ神札を受けてくるという形に簡略化されている。
        
                  静まり返った境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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北中曾根久伊豆神社

 北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためであり、信仰の上では四社共に同格といえる。
        
            
・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1797
            
・ご祭神 大己貴命 猿田彦命
            
・社 格 旧北中曾根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 初詣 11日 追花 319日 二百十日 91
                 二百二十日 911日 お日待 1019日 大祓 1225
 北中曾根金山神社から埼玉県道12号川越栗橋線に戻り、東行すること約500m先の丁字路を右折、更に南下した突き当たりを左折するとすぐ左手に北中曾根久伊豆神社が見えてくる。
 社周辺には適当な駐車スペースもないため、東側に隣接する民家の更に先に「北中曽根下集会所」があるので、そこの駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                北中曾根久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「中曾根村」の解説
 東は備前前堀(びぜんまえぼり)川を境に六万部(ろくまんぶ)村・所久喜(ところぐき)村小河原井(こがわらい)、南は備前堀川を境に台・三箇(現菖蒲町)の二村と対する。騎西領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高二四二石余・畑高一八二石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高八四〇石余、反別は田方四三町余・畑方五五町一反余、ほかに新開高三三六石余、田方一七町三反余・畑方二二町余があった。元禄郷帳では高一千一九五石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
 
    鳥居の左側手前にある力石2ケ     力石の奥に祀られている道祖神らしき祠一基
        
             力石や祠と共に設置されている当社の案内板
 当社の創建の経緯は明らかではないが、北中曾根地域において「下」の人々によって祀られてきた社であり、『風土記稿』には観音院持ちの四社のうちの一社としてその名前が見えている。江戸時代、当社の別当である観音院は、天正17年(1579)入寂の法印照宥によって開かれた真言宗の寺院で、当社の300m程西方にあり、『風土記稿』では「本尊地蔵菩薩」となっているが、現在の本尊は「聖観世音菩薩」である
『新編武藏風土記稿 埼玉郡中曾根村』
 觀音院 新義眞言宗、正能村龍花院末、救世山と號す、開山照宥天正十七年十一月十五日寂す、本尊地藏を安ず、弘法大師の作、長三尺餘立像なり、 觀音堂 正觀音を安ず、立像にて長八寸七分、聖德太子の作なり、
 その後、神仏分離を経て明治3年に、近代社格制度に基づく村社となり、大正10年の神社合祀により、字森下の無格社・道祖神社を合祀したことにより、猿田彦命を祭神に加えた。更に昭和58年には字薬師前の八幡神社を合祀したという
        
                 すっきりとした境内
 
    参道左側に祀られている境内社       八幡神社の右側並び奥に祀られている
     左側から不明・八幡神社             境内社・八坂神社
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  御由緒 久喜市北中曾根一七九七
 □御縁起(歴史)
北中曾根は、明治十二年までは単に中曾根村と称していた。当社はその鎮守として祀られてきた神社であり、『風土記稿』中曾根村の項にも「久伊豆社 村の鎮守なり」と記されている。往時の別当は観音院であった。観音院は当社の三〇〇メートルほど東に位置する真言宗の寺院であり、正能村(現騎西町)竜花院末で、開山の照宥が天正十七年(一五八九)に入寂したと伝えられる。
 当社の創建の経緯については明らかではないが、三間社の本殿には当社の歴史を伝える幾つもの貴重な資料が奉安されている。本殿の中央には全高三三センチメートルの木造の久伊豆明神像及び一対の矢大臣、宝暦九年(一七五九)銘の金幣、神鏡、延享二年に神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがある。また、向かって左には天保五年(一八三四)の社殿再建の棟札がある。ただし、向かって右は空殿である。当社の主祭神は古くから大己尊命一柱だけで、三間社の形式となっている理由は定かではない。
 別当の観音院は、天保五年に社殿を再建した時には無住になっていたらしく、棟札には「別当観音院無住付江面村善徳寺住法印来賢記」とある。神仏分離を経て、当社は明治三年に村社となり、大正十年に字森下の無格社道祖神社を合祀したことによって、猿田彦命を祭神に加えた。更に、昭和五十八年には字薬師前の八幡神社を合祀した。
                                    境内案内板より引用

        
                  社殿からの眺め


【北中曾根諏訪神社】
 北中曾根久伊豆神社から300m程西行すると、同地域の諏訪神社が鎮座している。地図を確認すると、観音院のすぐ南側に社はある。
        
             ・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1906
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧中曾根村前組鎮守
             ・例祭等 新年のお神酒上げ 11日 大祓 1220
 北中曾根地域の中の一集落である「前」の地内は、更に矢足(やだれ)・小林(おばやし)・立山・新屋・森下第一の五つの耕地に分けられ、当社の氏子の数は五五戸である。
 近年の農地改革が実施されるまでは、社の周囲の約一千坪は社の所有地で、そのうち、社の後方は一面森林であったが、昭和10年頃に畑に変わったため、景観は大きく変わった。現在の社殿は、昭和59年に氏子一同の協力により建て替えられたもので、地域の集会所の役目も果たしている。
        
                          
北中曾根諏訪神社正面
 当社がどのような経緯でこの地に祀られるようになったかは不明であるが、氏子の間では、信濃国一之宮である諏訪大社の下社が当社の本社であるとの伝えがあり、昭和59年の社殿再建の際には、これを記念して諏訪大社の下社に参詣を行っている。
氏子の間では、当社の祭りと並んで、すぐ北側にある観音院の灯籠が大きな年中行事とされていた。89日に行われる観音院のこの行事は、前集落と裏集落が合同で行っている行事とされ、双方の集落から登板で5名ずつ出てその世話をするようである。

 また、北中曾根地域では疫病除けの行事として510日には「お獅子様」があり、騎西の玉敷神社から借りて来たお獅子様が川妻・裏・前・下の各集落順に回っていくが、下は近年行事を中止した。前では、今もお獅子様が全戸を回っていて、そのうちの約半数の家では、昔ながらにお獅子様が座敷に暴れ込み、一家の悪疫を祓うという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等
 

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北中曽根金山神社


        
                          ・所在地 埼玉県久喜市北中曽根1325
                          ・ご祭神 金山彦命
                          ・社 格 旧北中曽根村裏組鎮守
                          ・
例祭等 春祭り 412日(近年では12日近くの日曜日) 
                                    秋祭り(お日待) 
1019
 久喜市旧菖蒲町にあるショッピングモールである「モラージュ菖蒲」北側に沿って通じる国道122号騎西勝負バイパスの「菖蒲北」交差点を左折し北行、埼玉県道12号川越栗橋線に合流し、備前堀川に架かる「笊田橋」を越えて右側にカーブし終えた先の路地を左折、そのまま道なりに進むと、北中曾根金山神社が見えてくる。
 境内も含めて小さな社。道幅も狭く、隣接する「北耕地自治会集会所」にも駐車スペースはなく、路駐をしてから急ぎ参拝を行う。
        
                 北中曾根金山神社正面
      社は規模こそ小さいものの、手入れも行き届いて、綺麗に纏まっている。
                          
               境内に建つ「神社移轉記念之碑」
                  神社移轉記念之碑
                 當金山神社ハ元南埼玉郡北中曽根村字戸崎現今ノ北埼玉郡
                 水深村大字割目字戸崎権現宮耕地ニ鎮座マシマセシガ明治
                        廿二年七月廿四日當地ニ移轉シタルモノナリ
                 〇神〇〇〇地タリシ戸崎耕地拾町四段七畝廿二歩〇當地中
                 曽根〇飛地ナリ〇ガ明治廿二年地〇制度〇施ニ伴〇〇〇〇
                 〇〇〇〇飛地組換ノ處分ニ依リ大字割目ニ編入神〇〇〇〇
                 〇〇〇〇〇〇〇〇〇割目〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇北相ノ
                 道西浦耕地氏子ハ從來金山神社ヲ以テ耕地鎮守氏神トナシ
                 〇仰シ來リシ関係上如何ニモシテ該神社ヲ當耕地ニ移〇奉
                 リ耕地氏子守護神トシテ尊崇致シ度協議ノ結果遂ニ信徒總
                 代土屋喜藏岩瀬歌之助岩瀬佐兵エ小林庄右エ門大熊傳五右
                 エ門増田彌五郎土屋八五郎出願人トナリ地〇長官ノ許可ヲ
                 得タリ偶々土屋政三郎ノ敷地寄附アリ現地ニ移轉セラルル
                         ニ至ル茲ニ概歴ヲ誌シ記念トス(以下略)
「神社移轉記念之碑」に載る出願人の一人に「岩瀬氏」がいる。この「岩瀬氏」は嘗て別当である観音院の住職を一時期務めていた。この岩瀬家は屋号を「たたみや」といい、先祖が小田原城落城の際にこの地に落ち延び、飛び地(現在の加須市。当社の旧社地付近)に住み着いたが、ここに至る前に一旦騎西の一向宗の寺に寄り、その寺の紹介で観音院の僧になったという。
        
                                  金山神社境内
        
                           拝 殿
 金山神社  久喜市北中曾根一三二五(北中曾根字森下)
 北中曾根は、明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。村組は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四つであり、当社はその中の裏組で祀っていつ神社である。ちなみに、川妻は愛宕社、前では諏訪社、下では久伊豆社を祀っている。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためで、信仰の上では四社共に同格といえる。なお、観音院は久伊豆神社の近くにある真言宗の寺院である。
 当社境内は、元来は字戸崎の権現宮耕地にあったが、明治二十二年七月二十四日に字森下に移転した。この移転は行政区域の変更に伴い、境内地と氏子二戸が水深村割目(現加須市)に編入されたため、これを遺憾とした当時の信徒総代七名が地方長官に出願して行ったもので、現在の社地は氏子の土屋政三郎が寄附したものである。
「埼玉の神社」より引用


【北中曾根愛宕山神社】
        
              ・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1024
              ・ご祭神 火迦具土神(推定)
              ・社 格 旧北中曾根村川妻鎮守
              ・例祭等 不明
 北中曾根金山神社から一旦県道12号線に戻った後左折し、左カーブし終えた丁字路を右折する。その後、500m程道なりに進むと、道路脇に北中曾根愛宕山神社が見えてくる。
 道路端に旗立柱と朱色の両部鳥居(?)が建ち、その後に円墳なのか塚の様な小さな丘があり、頂上部に社殿が建っている。
        
                     小さな丘上部に拝殿は鎮座する
『新編武蔵風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆神社 村の鎮守なり、諏訪社・愛宕社・金山社 4社とも観音院持」とあり、近世以来北中曾根では、鎮守として久伊豆神社を祀る一方で、村組ごとにも神社を祀ってきた。北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。
 当社もまた、そうした村組で祀る神社の一つであり、創建以来、川妻地区の守り神としてその地域の住民の方々から信仰されている。

  石段の手前で右側にある青面金剛二基     丘上に聳え立つイチョウの大木
                                    久喜市の保存樹林に指定



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内懸念碑文」等
 

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菖蒲町小林神社

 久喜市菖蒲町の元荒川の左岸には「小林」という地域名がある。全国的にも有名なこの名称であるのだが、この「小林」という名称を調べてみると、苗字に関して、全国で苗字ランキング第9位の大姓で、中部日本を代表する苗字である。特に、関東・甲信越地方に多く、そのほとんどの県でベスト5に入っている(埼玉県でも4位)との事。なかでも長野県では第1位の苗字、長野県発祥の小林氏も確認されていて、江戸時代の俳人小林一茶も長野県の北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の生まれである。
 その由来として、『地形』や『地名』由来からでは、「小林」という名称は、「小さな林」や「林の近くの土地」に由来すると考えられていて、日本は森林が多い国であり、古くから「林」に関連する地名が各地に存在していた。そのため、全国のさまざまな地域で独立して「小林」という地名や苗字が生まれたという。
 因みに、当地域名では「小林」と書いて「オバヤシ」と読むのだが、この「オバヤシ」の「小」=「オ」は「御」のことともいわれることから、「小林」とは「御林」つまり、神聖な林という意味で、森や林を切り開いて土地を開拓するとき、土地の神様の住処(すみか)として「鎮守の森」を残し、そこには神社が建てられた。小林氏には神官が多いといわれているが、それは小林という地名が神様の森に由来していることと関連性があるのかもしれない。
 祭りのお囃し(おはやし)に由来する「小囃子(こはやし)」にも「小林」と音が共通し、何かしら語源と関連あるそうだ。土地や家が栄えることをあらわす古代語の「栄し(はやし)」から来るものもあり、「小林」に関する由来にはとてつもなく深い日本独自のおくゆかしさを感じたものである。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町小林2482
             
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 慰霊祭 211日 春例祭 48日 灯籠 78
                  
秋季例祭 108日 新穀感謝祭 1123日 他
 上栢間神明神社から埼玉県道312号下石戸上菖蒲線を北西方向に進み、久喜市立小林小学校のある「小林小学校前」交差点を左折する。同県道310号笠原菖蒲線に合流し、350m程進むと、進行方向右側に菖蒲町小林神社の正面入口が見えてくる。
 県道周辺には専用駐車スペースはないので、社の正面入り口の東側手前の路地を右折し、その後左側に回り込むと、その正面に社の一の鳥居が見える。当初、県道沿いから見る正面入り口は民家に挟まれ、その奥も石壁によって見えないため、あまり期待していなかったのだが、一の鳥居から北側にかけて続く長い参道と深い社叢林に囲まれた荘厳な雰囲気が漂う境内が広がっていて、まさに地域の方々に大切に祀られている鎮守様という印象がピッタリなお社であった
        
                 
菖蒲町小林神社正面
『日本歴史地名大系』「小林(おばやし)村」の解説
見沼代用水の右岸、栢間村の北に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。西側に小林沼がある。慶長一二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩があった折、鴻巣宿から笠原村(現鴻巣市)を経て騎西町場(現騎西町)への道筋を当村など九ヵ村の百姓が開いたという(風土記稿)。同一七年・寛永八年(一六三一)検地があり(同書)、田園簿によると田高七九五石余・畑高五八三石余、旗本内藤・天野の相給。ほかに正眼寺領一二石・妙福寺領二一石余がある。
              
                                神橋の右隣に建つ社号標柱
                            その手前には伊勢参宮記念碑がある。
        
        入口を越えると、まず神橋があり、その先に一の鳥居が見える。
 久喜市菖蒲町小林地域は「おばやし」と称しているが、当地には「こばやし」苗字が数十戸住んでいて、周辺地域にもこの苗字は多いという。
『新編武蔵風土記稿 小林村』には「小田原北條家分國の頃は、小林周防守が領せしよしを傳へ、且村内妙福寺の鬼薄にも、小林周防守法名蓮心居士、小林圖書頭法名蓮宗居士とのせたるをもて見れば、是等當所を領し、則ちこヽに居住し、在名を稱せしなるべし、今村民に小林を稱するもの五軒あり共に周防守が家より分れしものなりと云、又成田分限帳に百貫文小林監物、拾貫文小林圖書などのせたり、是等も周防守が一族にて、當所に住せしなるべし」と「小林周防守」が領有・居住し、、その子孫がこの地域に今でも存在していることが記載されている。
           
                       一の鳥居の先で、参道左側にある青面金剛像 
 嘗てその地域内には京手・下野寺・上手・木間ヶ根・本村・中上・大上・北東・小下・野々宮といった11の組がある。村の開発の時期はハッキリと分かっていないが、地内にある妙福寺は、応安元年(1368)に真言宗から日蓮宗に改宗したと伝えることから、当時既にこの地には相応の村が開かれていたものと推測される
 氏子の各組には、各々組で祀る神社があったが、それが大正二年に統合されて当社が誕生した。しかし、統合された後も、実際には旧地に社殿が残されたり、集会所に改築されたりして、各組の人々の拠り所となっていたようだ
 
 一の鳥居の先に朱を基調とした二の鳥居あり   境内には久喜市保存樹木であるクスの木
                          が聳え立つ。平成2年度指定を受けた。 
     朱を基調とした二の鳥居          二の鳥居のすぐ先にある手水舎
 手水舎は古いが、柱に施された彫刻、木鼻の龍等の彫刻が素晴らしい。日本人の職人気質である匠の技が、このような場所にもさりげなく垣間見られる。
   
     手水舎の先にある神楽殿                  参道右側には社務所あり
        
                    拝 殿
 小林神社(おばやしじんじゃ)  菖蒲町小林二四八二(小林村字京手)
 鎮座地の小林は、江戸時代には菖蒲領のうちで、慶長十二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩りがあった際、鴻巣宿から笠原村を経由して騎西に至る道筋を開いた九ヶ村のうちの一つであった。また、その地内にある妙福寺は、小林周防守忠宜を開基とし、三代将軍徳川家光から寺領二一石の朱印を受けた日蓮宗の大刹である。
『風土記稿』小林村の項によれば、村の鎮守は妙福寺の三十番神堂で、ほかに天神社・客人明神社(明治以降は白山社と改称)・三上明神社・稲荷社・平野明神社・八幡社・愛宕社・雷電社があった。これらの神社のうち、明治維新後の社格制度に当たり、三上明神社が三上神社と改称し、村社になった。一方、『風土記稿』で村の鎮守とされていた三十番神堂は、堂宇として扱われ、無格社にもなっていない。
 小林では、政府の合祀政策に従い、一旦は三上神社に村内の無格社を合祀したが、諸般の事情から大正二年二月二十日に改めて無格社白山社に字本村の村社三上神社、字森下の八幡社、字北東の稲荷社、字宮後の平野社、字小下後の水神社、字木間ヶ根の天神社、字中上の本宮社、字北東の雷電社・第六天社・稲荷社・妙見社、字野々宮後の愛宕社、字野々宮前の八雲社を各々の境内社と共に合祀し、社号を小林神社と改め、村社とした。このような経緯により当社は成立し、大正四年四月には境内を拡張、整備し、本殿及び拝殿が改築された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 小林村』
「客人明神社 元白山を勧請せしが いつの頃よりか 客人神に祀りかえしと云 是も妙福寺持なり」

        
          拝殿の右隣には廊下によって繋がれている社務所がある。
             旧村社レベルでは初めて見る配置である。
        
                    本 殿
 小林地域で古くからある伝統行事が春秋の例祭と灯籠で、春季例祭には氏子による獅子舞である「水ささら」が奉納されている。春季例祭の48日という祭日については諸説があるが、江戸時代からこの日には妙福寺の三十番神堂の前でササラの奉納があったというところから、三十番神堂の祭日を継承したものと思われる。
 春季例祭に奉納されるササラ獅子舞の起源は、口碑に「安政六年(1859)の大水害の際に、上流から三頭の獅子頭を納めた箱が流れてきて、これを妙福寺に奉納しておいたところ、いつのころか村人が摺(す)り方(舞い方)を覚え、三十番神堂の前で行うようになった」といい、「水ささら」の「水」とは、言い伝えにある獅子頭が流れ着く原因となった洪水に由来するものと考えられているという。
        
                              社殿から眺める境内の風景
 かつて小林神社の獅子舞「水ささら」は、戦前まで法眼(ほうげん)・中獅子(なかじし)・女獅子(めじし)の3頭獅子による庭場舞(にわばまい)、付属芸能の居合抜き・棒術、村内を摺り歩く道中舞(どうちゅうまい)が行われていたという。その後、昭和30年代以降に一時期途絶えたが、平成元年に復興し、現在は小学生を含む幾多の有志が稽古に励んでいるという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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