古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

串作諏訪神社

『日本歴史地名大系』 「串作(くしつくり)村」の解説
 [現在地名]加須市串作
 北は会(あいの)川を境とし、南東は阿良川(あらかわ)村。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿では田高一六四石余・畑高四三七石余、ほかに野銭永三二文があり、川越藩領。

 元禄七年(一六九四)には幕府領で高七一六石余(「御検地之節日記」東京都河井家文書)。元禄郷帳では高五三七石余。旗本深尾・藤方・戸田の三給(国立史料館本元禄郷帳)。この三家の相給で幕末まで続いたとみられる(改革組合取調書など)。
        
              
・所在地 埼玉県加須市串作8701
              
・ご祭神 武御名方命 倉稲魂命 市杵島命 少彦名命
              
・社 格 旧串作村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 827
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360975,139.5237987,17z?entry=ttu

 加須市串作地域。「串作」と書いて、漢字の訓読み通り「くしつくり」と読む。この地域は加須市西端部に位置し、すぐ北側は会(あいの)川を境として羽生市川崎地域、西隣は行田市真名板地域であり、近辺に「羽生イオン」がなければ、何の変哲もない水田等の農地が大部分を占める中、地域の西側で自然堤防上に形成した集落が固まって存在する、閑静な地域である。現在は田園風景が広がる稲作地帯であるが、17世紀半ばに編纂された《武蔵田園簿》によると、田高一六四石余・畑高四三七石余と、田地より畑地の方が遙かに多かったようだ。
 
串作(くしつくり)の地名由来に関して、しっかりと記載されている資料がない。また同じ地名も少ないので、「串」のつく地名がある、数ある信頼し得るHPを参照し、それを総合して解釈すると、以下のようになる。
串(くし)」とは砂丘や小丘の高まりを意味する言葉であり、長く連なった丘状地形との記載が多い。川の流れによって出来た堤防がこの地に連なっていたことから付いた地名という。また「串」は物を連ねる棒のことで、アイヌ語のクシは「越える」、琉球語のクシも「越えること」、朝鮮語のクシは「岬」のこと(民俗地名語彙辞典)』
        
                  串作諏訪神社正面
 串作諏訪神社への途中経路は真名板高山古墳を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に進み、「真名板」交差点を右折、県道32号鴻巣羽生線合流後650m程南下する。「薬師堂前」交差点を左折後、700m程先の十字路を右折し暫く進むと左手に串作諏訪神社の境内が見えてくる。
 境内南側には駐車可能な駐車スペース(数台分)もあり、そこに停めてから参拝を行った。       
        
         鳥居の手前で参道右側に祀られている「塞神」の石碑と「力石」
 力石 (ちからいし)
 力石は、重さ200㎏近いものもあるように、大きくて重い石です。「源義家の腰掛石」や「武蔵弁慶がちぎって投げた石」など、武勇に優れた英雄に因む伝説があります。
 江戸時代頃から神社などの祭礼の場で、若衆たちの娯楽として肩に担ぎ上げたり、頭上に差し上げたりする力試しが親しまれるようになりました。そして、代々、力石を神社に奉納することが習わしとなったとも言われています。
 ここ、諏訪神社の祭礼の折にも、先人たちによる力試しの催しが行われていたようです。
 令和元年五月 串作諏訪神社
                                      説明板より引用
        
                          青空に映える白色の明神鳥居
 鳥居を過ぎて暫く参道を真っ直ぐ進むが、途中から右側直角に曲がる形式となっていて、境内は右方向に広がり、社殿も右側に建っている。
 真っ直ぐ進む参道途中には、幾多の石碑、境内社等が設置・祀られている。          
   鳥居の先で参道左側に設置されている      参道右側にある境内社、詳細不明。
         「
串作諏訪神社御造営の碑」      字北の頭殿社・字須崎の厳島社であろうか。
 
  「串作諏訪神社御造営の碑」の並びに           参道が右方向に曲がる先にある
祀られている境内社。左側八坂社・右側産泰大神        境内社・稲荷社
        
                     拝 殿
 当神社の由緒は不詳ですが、古くから串作の鎮守として祀られており、「風土記稿」 にも「諏訪社 村の鎮守なり」と記載されています。
 明治以前は、真言宗観音寺の持ちでしたが神仏分離によりその管理を離れ、明治五年に村社となり、同四十一年八月二十二日に字内野の稲荷社、字北の頭殿社、字須崎の厳島社を合祀し、更に、戦後になって、字東の八坂神社も合祀しています。
 主祭神は武御名方命で、大国主神さまの次男にあたられる神さまで、狩猟・農業の神さまとして信仰される一方、ことに武勇にすぐれた神さまとしても知られ、戦国時代に武田氏の守護神として、武士の尊崇もことのほか厚かったようです。
 現在の本殿及び旧拝殿は、明治十九年九月二十七日に建造されたもので、本殿を除く拝殿、覆屋は近年老朽化が甚だしく、年々営繕を繰り返してまいりましたが、その限界となり、有志の方々より改築の議がおこり、この地に生まれ育った大竹榮一氏より崇敬の念厚く、多額の浄財の寄進の申し出があり、一気に社殿御造営への気運が高まり、この度の施工をみたのであります。
 平成二十三年八月二十四日に奉祝祭を斎行し、ご神徳を仰ぎ、神威を昂揚し崇敬の誠を碑に刻み弥栄を記念するものであります。
平成二十三年八月吉日
                            「串作諏訪神社御造営の碑」より引用

        
                      社殿全体を撮影。右側が本殿部。
       
    社殿左側にはこのような大木が聳え立つ(写真左・右)。周りを網で覆っている。
                 ご神木の類であろうか。


 ところで「串」のつく地名に関して雑学を幾つか紹介しよう。この「串」のつく地名は、特に西日本の海岸に多ようだ。「串」地名が「岬」の地名に多いのは、朝鮮語の「コス」(岬の意味)から来ているという説がある。また海岸の崩壊地関係の「串」地名も多数存在し、斜面の傾斜地や海岸段丘崖を背にした小低地に多く見られるとの事だ。
 
  大木の北側近辺に祀る「辨才天」等の石碑       境内北側隅には「二十二夜塔」
      左側に石碑は不明          ・菩薩様像等が並んで祀られている。
        
                        手入れも行き届いている綺麗な社

「串」と「櫛」は同じ語源ともいう。櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(くすし)」や「聖(くしび)」との音の共通性から呪力を持つものとして扱われた。語の読みからは「苦死」に通じるため、贈り物にするときは、忌み言葉として「かんざし」と呼んだそうだ。
『古事記』には、伊邪那岐命が、妻の伊邪那美命が差し向けた追っ手(黄泉醜女)から逃れるために、櫛の歯を後ろに投げ捨てたところ筍に変わり、黄泉醜女がそれを食べている間に逃げることができたという記述がある。同じく『古事記』で大蛇を退治しに出向く須佐之男命は櫛名田比売を櫛に変えて自分の髪に挿した。
「串」というと美味しい食べ物を連想するほど串料理を連想するが、「串」の歴史も古く、神事を行う場所で、木竹などの串に玉がついたものをお供えしていたことから「玉串」と呼ばれ、神事のお供え串があったという。現在では榊や竹に麻や木綿、紙などをつけたものになっているが、「玉串礼拝」とも呼ばれ、礼拝する者の敬意や、神威を受ける為に祈りを込めて捧げるものとして、特別な意味を持つという。

 地名一つとってもその由来には幾つもの説があり、そこには淵源とした歴史の深さを感じる。少しの時間で全てを証明すること自体が無理なのであろう。その限られた時間の中で考察する楽しみもあるのだが。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「クニの部屋 -北武蔵の風土記-
    「四万十川地名辞典」「境内碑文・説明板」等

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