古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北小浜八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市睦町2749
             
・ご祭神 誉田別命 
             
・社 格 旧小浜村鎮守・旧村社
             
・例祭等 名越祭(北小浜の獅子舞) 731
                  前夜祭 914日 大祭 915
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1285138,139.6052398,18z?hl=ja&entry=ttu
 三俣諏訪神社から埼玉県道38号加須鴻巣線を東行する。「加須市役所入口」交差点より同県道411号加須停車場線、更に「睦町」交差点で同県道152号加須幸手線と名称変更となるが、引き続き東方向に進む。「睦町」交差点から350m程先にある「加須市昭和歩道橋」が見える十字路を左折すると、進行方向左側に北小浜八幡神社の鳥居や社号標が見えてくる。
 社の正面入り口を通り過ぎた最初の丁字路を左折すると、「加須市三俣第三区集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                 北小浜八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「小浜村」の解説
 三俣村の東に位置し、北は手子堀(てこぼり)川、南は会の川を境とする。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高六〇一石余・畑高三七五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領と旗本四家の相給。宝暦一三年(一七六三)以前に二七石余が久喜藩領となる(文久三年「米津家由緒書」学習院大学史料館蔵児玉氏収集資料など)。同年一部が下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、同藩領は幕末まで続く(同調帳など)。「風土記稿」成立時は旗本松平領・佐倉藩領・川越藩領。
 北小浜地域は、旧利根川である会ノ川左岸の自然堤防上に位置していて、標高が12m13m程の低地帯であるのだが、社が鎮座している場所は、標高が14.5m程で、周囲よりも若干高い場所にある。写真を見るとより理解できるのだが、社の入口には石段があり、そこの場所が既に周囲より高い事を示している
「埼玉の神社」によれば、「北小浜」という地域名は、「当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であった」とその由来が記載されているが、どちらにしても地形上の名称であったのであろう。
 この地域は現在県道沿いに市街地が形成されていて、社のすぐ南側は民家が集中しているのに対して、北側は長閑な農耕地が広がっていて、社自体の存在が、その市街地との南北の境界線のような位置にある。
 
  道路沿いに設置されている社号標柱      道路から若干奥に石製の一の鳥居が立つ。
  「北小浜の獅子舞」の案内柱もある。
 北小浜八幡社は、寛文11年(1671)に創建、小浜村の鎮守として祀られ、また当地は小浜村と称されていた周辺で一番の高地だという。明治5年村社に列格している。
『新編武藏風土記稿 小濱村』
 八幡社 
 村の鎭守なり、寬文十一年造立する處なり、〇雷電社〇稻荷社二宇〇辨天社 以上地藏院持
 地藏院
 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、能惠山長命寺と號す本尊大日を安ず、元は地藏堂なりしを、今の里正市十郎が祖先、八左衛門と云るもの一寺となせりと、彼は延寶七年十二月十四日死せり、開山榮賀延寶三年七月廿四日寂す、地藏堂

        
                        一の鳥居から100m程の長い参道が続く。
  すぐ南側(写真左側)には住宅街に面しているのにも関わらず、参道周辺は至って静か。
   参道の両側には緑豊かな社叢林が生い茂り、落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
      参道を進むと、二の鳥居手前に突如行く手を遮る鳥居が一基建っている。
     今まで何百社と参拝をしてきたが、このような配置の参道は見たことがない。
        何かしらの由緒があるのであろうが、調べても分からなかった。
        
           二の鳥居の手前に祀られている境内社・八坂神社
                八坂神社の左側には「社殿再建紀念之碑」がある。
                「社殿再建紀念之碑」
      八幡宮は我が國古來崇敬最も厚き神にして靈威また極めて高く坐せり欽
      明天皇の朝應神天皇即ち譽田別命の神靈を宇佐に奉祀し清和天皇の御代
      更に男山に勧請して石清水八幡宮と稱し奉る源頼朝の幕府を鎌倉に開く
      や又その氏神として鶴が岡に社殿を造營せり爾来國中到る處其の祠を設
      く此の埼玉縣北埼玉郡三俣村大字北小濱の地に八幡社を造立し奉れるは
      實に徳川幕府の諸制度完備したる寛文十一年の事に属す其の後享保五年
      更に社殿を荘嚴し明治五年村社に列格も同四十年嚴嶋社雷電社稻荷社を
      合せて市杵嶋姫命別雷命倉稻魂命を配祀す村民常に善く之を奉じて敬神
      崇祖共同和樂の美風を成せり大正八年に至り社殿の改築を企つるや氏子
      等同心協力して震災の影響を排し十三年の秋終に神殿拜殿等悉く成る誠
      に神は人の敬に依りて威を増し人は神の徳に依りて運を添ふるものと謂
        ふべし乃ち茲に其の事業を石に誌して其の精神を後に傳へむとす
                         國學院大學敎授河野省三撰文并書及篆額
        
              二の鳥居を過ぎた先に鎮座する拝殿
 
        参道右側にある手水舎          同左側に設置されている石碑等
        
                                      拝 殿
 八幡社 加須市睦町二-七-四九(北小浜字堂前)
 当地は会ノ川(旧利根川)左岸の自然堤防上に位置する。北小浜の地名は当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であったことに由来する。当社の鎮座する堂前という耕地の地名は、現在の地蔵院の前身であった地蔵堂の前の耕地というところより起こったという。社地は当地区でも一番の高地である。
 当社の創立は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守なり、寛文十一年造立する処なり、雷電社 稲荷社二字 弁天社、以上地蔵院持」と記され、『明細帳』には「往古々利根川堤ニシテ現今境内トナリ、八幡社ノ公称アルハ享保五年十二月十九日ナリ、明治五年中村社ニ申立済、同四十年三月二十九日上知林九畝廿壱歩境内編入許可、同年七月十三日字堂前無格社雷電社、同稲荷社二社、字尾前同厳島社ヲ合祀ス」と記す。明治四〇年に三社が合祀されたが、その後、旧民子に災難が相次いだためこれらは旧地に戻されたという。境内社として明治元年創立の三峰社がある。
 大正一三年覆屋・拝殿が建立されるが、昭和二二年のキャサリン台風により社殿が半壊し、修復を行う。この時、神像も被害を受けたため、新たに八幡神像を浅草(東京都)の神具店より手に入れて祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
境内に設置された「北小浜の獅子舞」の案内板          本 殿
 加須市指定無形民俗文化財
 北小浜の獅子舞   昭和三一年九月指定
 寛文一〇年(一六七〇)に八幡神社の創立により、五穀豊穣、商売繁盛、悪魔降伏を祈って獅子舞を行ったのが始まりといい伝えられている。
 毎年七月一一日北小浜一円を行列を組んでまわり、七月三一日の名越祭は、社殿前から北に向かい葛西用水に架かる橋から形代を流す。
 九月一五日の秋祭には、社殿前で「初庭」「中庭」「末庭」の舞を奉納する。道中は提灯を先頭に笛・獅子が続き道中囃子を奏でる。
 構成人数は獅子三・笛四・提灯四・世話人三の計一四人である。
 平成二四年三月  加須市教育委員会
                                      案内板より引用

 
        社殿右側に祀られている石碑等(写真左・右)。詳細は不明。
        
                                 社殿からの景観
 ところで、加須市では市内に点在する屋敷林等の貴重な緑の保全のため、所有者と協議の上、次に掲げる基準により「保存樹木」及び「保存樹林」として指定しているとの事だ。
・樹形が良く、地上1.5mの位置の幹周が2.5m以上のもの
・健全に生育しているもの
・地域住民に親しまれ、自由に観賞できるもの
 北小浜八幡神社には、その「保存樹木」が、二の鳥居手前に屹立しているものを含めると4本指定を受けている。すべてがイチョウの大木である。
       
               指定樹木が聳え立つ参道の様子(写真左・右)
 加須市において、保存樹木等の指定に関する要綱が定められており、この要綱においてでは、豊かな自然が市民にとってかけがえのないものであることから、保存すべき樹木及び樹林等を指定することにより、自然の保護及び緑化の推進に資することを目的とする、との事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
    「境内掲示板・石碑文」等

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