古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

石戸八雲神社

 八雲神社(やくもじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、須賀神社、素盞嗚神社、感神社、などがあり、時代や資料によって通用される。
 社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。
 他のスサノオを祀る神社と同様、江戸時代までは「牛頭天王社」などと称していたが、明治の神仏分離により「牛頭天王」という社号が禁止されたため、祭神を牛頭天王と習合していたスサノオに変え、社名もスサノオに因んだものに変更したものである。
        
              
・所在地 埼玉県北本市石戸88
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 無格社
              
・例祭等 五月燈籠 614日 祇園祭 715日 
                   新穀感謝祭 
1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020219,139.5193196,17z?entry=ttu

 高尾氷川神社から一旦南下し、埼玉県道33号東松山桶川線に合流後、北本市街地方向に進む。その後「荒井一丁目」交差点を右折し、500m程進むと県道沿いで進行方向右側に石戸八雲神社が見えてくる。
 県道沿いで日中交通量が多い場所に鎮座しているにも関わらず、境内は静寂そのもので、寂しくもある。
        
                  石戸八雲神社正面
 石戸八雲神社が鎮座する「下石戸下」地域は、市の南部に位置する。大部分は台地で、南部にはいまなお平地林を広く残している。南西に向ってゆるやかに傾斜し、高尾に水源をもつ江川に達し、下石戸上と画する。駅西側から発する考戸(かんがえど)排水路も南西に向って流れ、字の南端で江川に合流する。平地林の間に畑と住宅が混在し、南部は桶川市に達する。中央平地林の中を昭和47年市道上原線が開通した。南部の字蔵引の江川に沿う水田地帯は埋め立てられ、昭和46年から入居を開始した日本住宅公団の高層団地・通称「北本団地」がある。
             
                  県道沿いに建つ社号標
 この社は、本殿に奉安される石祠に「奉造立牛頭天王御宮」と刻まれるように、元は牛頭天王と号していた。このため今も「下石戸の天王様」の名称で呼ばれることが多い。
 創建は元文二年(一七三七)三月のことで、この辺り一帯に悪病が流行したので、地内の修福寺の檀那たちによって京都の感神院(東山区祇園町鎮座の八坂神社)からその鎮めとして勧請されたと伝えている。

       石戸八雲神社鳥居       鳥居の手前右側にある「鳥居建立寄進御芳名」碑
       
                 思った以上に広い境内
       
                                         拝 殿
 八雲神社  北本市大字下石戸下字向郷2065番地 
 沿革
 ・下石戸下の原、上手、台原、蔵引、久保新田、北原地区の氏神として、信仰があつい。無格社であるが、 他町村からの参詣人が多い。牛頭天三社とも称し、元文二年(1737)三月の創建で石戸村領主・修福寺の檀那等の奉造と伝えられている。その頃悪疫が流行したため、その疫神の鎮として勧請したので、霊験あらたかである。明治六年(1873)四月八日に八雲神社と改称した。
 本殿は石戸小学校の奉安殿を戦後払い下げをうけ再建されてぃる。
信仰・習俗・その他
農家では「キュウリ」を栽培し、自由に食べられない風習がある。
「キュウリ」を食べるときは包丁でまるごと切ることはいけない。神社の紋に見えるというので天王様に「バチ」があたるといわれている。そこで縦に切り、更に横に切ってから食べる風習がある。
                                                      「北本デジタルアーカイブス」より引用
 
          本 殿           社殿の右側にある「神興庫」であろうか。

 それにしても、埼玉県中央部から以南にかけての荒川沿岸の地はスサノオをご祭神とした社が極端に多く、そのことは同県北部に鎮座する社が「八百万の神々」のオンパレードに対して対照的である。スサノオをご祭神する氷川神系統の社は荒川等の「水神」を祀る神が多く、それ程当時のこの地に居住していた方々が、大地に食料等の豊かな恩恵を与える偉大な河川に対して祀り称え、同時に不定期的に起こす「洪水等の猛威」を恐れ、絶えず災いが起こらないように「鎮魂」の儀式等をおこなっていたかを雄弁に物語っていよう。
        
                             
石戸八雲神社 境内

「祭る」の語源とされるのは,「まつ」という言葉であるという。「まつ」「まち」というのは,「守つ」と書かれ,神慮を表現する意味として使われていた。その後「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形に変化する。あくまで「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。
 つまり、「まつる」の本来の意味は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶのはそのためである。
 日常当たり前のように使っていた「まつり(祭)」という言葉にも、そんな語源から現代まで繋がっているのかと祭の歴史やその背景を知ることができたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」等
        

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