古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上戸日枝神社

 河越氏(かわごえし)は、日本の氏族の一つ。川越・河肥とも表記されることがあった。平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族である。河越氏は坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を代々取りまとめていたという。
 この河越氏の発祥地は、吾妻鑑文治二年条に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」とあり、現在の埼玉県川越市上戸地域で、常楽寺境内付近といわれている。
『新編武蔵風土記稿 上ハ戸村』
 もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、(中略)山王社 大廣院持、上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして例祭九月十九日なり、社地には松栢(かしわ)茂生じ神さびたる地にして、松の大なるもの圍一丈一二尺許なるを始とし、數十百株に及べる松林あり、其下は靑苔滑かにして、餘木なく榊のみにして、殊勝の景地なり、又西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり、又當社の古鐘、今川越の養壽院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず。銘文の略に曰、武藏国河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣經重、大勸進阿闍梨圓慶、文應元年云々、
 常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、
 大廣院 本山修驗、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回国雑記】に河越と云る所に至り、最勝院と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる日中の勤め聽聞の爲に罷りけると云云、
 河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君(やしないぎみ)」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿2年(1155年)816日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる
        
             
・所在地 埼玉県川越市上戸3161
             
・ご祭神 大山咋命 大己貴命
             
・社 格 旧上ハ戸・鯨井・的場三村惣鎭守 旧村社
             
・例祭等 例祭等 元朝祭 12日 春祭り 421日 
                  天王様 
715日 秋祭り 1015
 川越市上戸地域は、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地している。標高は入間川左岸に位置する河越館跡付近が19m程で、西側の日枝神社付近が21.1mと入間川から西方向に行くにつれてなだらかに標高は高くなっている。
 途中までの経路は吉田白鬚神社を参照。埼玉県道114号川越越生線に戻り、右折後東行する。小畔川に架かる「金堀橋」を渡り、そこから更に500m程進み、「上戸」交差点を右折すると、進行方向左手には上戸日枝神社の緑豊かな社叢林が見えてくる。
 上戸交差点を更に東行した2番目の路地を右折すると、上戸日枝神社の専用駐車場が道造にあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  
上戸日枝神社正面
『日本歴史地名大系』「上戸(うわど)村」の解説
 的場村の北東、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属し、「上ハ戸」とも記した。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の新田又七郎の所領として「弐拾貫三百文 河越卅三郷上戸」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。近世の検地は慶安元年(一六四八)に行われた(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、畑高二〇三石余、ほかに野銭永二五〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一六八石余、反別畑三五町二反余。
             
      鳥居付近に設置されている「
日枝神社(新日吉山王宮)の由来」の石碑 
       
          河越氏の長い歴史を無言で語りかけるような威厳さえ感じさせる境内 
 上戸白髭神社の境内は、平成1359日「川越市指定記念物 史跡」として指定を受けてくる。
 河越館跡近くにあるこの神社は、往時新日吉山王権現(いまひえさんのうごんげん)と称しており、河越氏の荘園経営と密接な関係にある。河越氏は後白河法皇(法皇在位1169から1192)のとき、この地を京都の新日吉社に寄進して河越荘を立荘し、自らは荘官(しょうかん)となって平安末期から室町時代の始めにかけてこの地方を支配した。その関係で、河越に新日吉社を勧請(かんじょう)したと考えられる。
「新編武蔵風土記稿」の挿絵によると、神社の社域に土塁が巡らされており、現在でも北側に一部痕跡が遺されている。
 河越館跡は昭和59年(1984)に国指定史跡になっているが、この上戸日枝神社境内も河越館跡と一対をなすものであり、その上でも重要である。なお、江戸城鎮守の山王社は、仙波山王社から勧請されたと江戸時代広く言い伝えられていたが、昭和時代に入り、熊野那智大社の米良文書が発見され、南北朝時代にすでに江戸山王社が存在していることがわかったため、河越氏の時代に当神社から分祀された説が出されているという。

    参道左側に祀られている神明社       参道右側には八坂神社が祀られている。
                          八坂神社の左手奥に見える社務所

      因みに神明社・八坂神社の鳥居寄り側には参道を挟んで一対をなして
       「戸衛神社」が祀られている。残念ながら写真に収めていない。
       まるで、門番・衛兵の如く、社殿を守る存在のような社である。
        
                                      拝 殿 
 日枝神社  川越市上戸三一六-一(上戸字山王原)
 上戸の地は、川越市西部の入間川と小畦川とに挟まれた所である。
 当社は、往時新日吉山王権現と称し、『明細帳』には「貞享三丙寅年秋九月隠士航譽ナル者誌セシ縁起書ニ云ク往古貞観年中ノ創立」とあり、平安初期の創建を伝えており、また、他の社記によると陸奥国の住人休慶という修行僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神示により武蔵野のこの地に社を建立したとある。
 しかし、川越三十三郷と称された河肥庄の庄司であった河肥氏の館跡が、上戸の地(現在の常楽寺境内の辺り)であるといわれていること、また河肥庄が新日吉社の社領とされていたこと、更に往時の社号が新日吉山王権現であったことなどを勘案するに創建年代は『明細帳』の記載よりも下るものとも考えられる。すなわち、新日吉山王権現の本社である新日吉神社は、永暦元年、近江にある日吉大社の信仰が厚かった後白河上皇が、京都東山七条の法住寺殿の一画に勧請し、以来、皇室による御幸は一一九度に及ぶほどの社であった。
 この新日吉神社と当地を結ぶのが河肥氏である。永暦二年に新日吉神社領となり、河肥荘の荘司であった河肥氏が、平氏の一門で、平氏は日吉神社を氏神として信仰していたことにより館のある上戸の地に京都から新日吉神社を勧請して新日吉山王権現と号したものと思われる。
社記によると、寛元元年北条時頼が当社に報賽し、社殿の再営に合わせて田畑の寄附を行っている。
 河肥太郎重頼の曾孫遠江守経重の開基となる川越市元町にある養寿院には、開基の前年、当社に奉献されたと思われる「武蔵国河肥庄新日吉山王宮 奉鋳錘鐘一口長三尺五寸 大檀那平朝臣経重 大勧進阿闍梨園慶 文應元年 大歳 庚申 十一月廿二日(以下略)」の銘文のある洪鐘(重要文化財)がある。『明細帳』には「文応元庚申年平朝臣経重別ケテ奉崇敬リ」とあり、更に『郡村誌』によると養寿院境内には古く山王社が祀られ、明治の神仏分離により門前稲荷社(現豊川稲荷社か)に合祀したことが知られる。これらのことから、経重が養寿院に当社を分霊し、当社に洪鐘を寄進したものと考えられる。
 江戸城の鎮護として仰がれた日枝神社は、以前より川越喜多院の日枝神社を文明一〇年太田道灌によって勧請されたものとして伝えられたが、『日枝神社史 全』(昭和五四年刊)によると紀伊国熊野那智大社に蔵する米良文書の貞治元年一二月の願文に「江戸郷山王宮」の名が見られることにより文明一〇年よりも一一六年前には江戸に山王宮が祀られていたことが知られる。この山王宮はその帰依者秩父氏・河越氏・江戸氏によって江戸館の鎮守社として当社より勧請され、代々崇敬を受けたもので、徳川家康の入城以前より江戸城内に祀られていたことが知られ、太田道灌の江戸城の築城により再興されたものであるとあり徳川家ではこの山王宮を産土神として祀るなど幕府直轄社として尊崇した。これによって、当社は慶安元年に社地境内畑九反六畝六歩が除地されている。
 明治元年九月、社号を新日吉山王権現から日枝神社と改め、同五年には上戸・鯨井・的場三カ村の鎮守として村社となった。
 祭神は大山咋命・大己貴命で、合祀神は大御食都命・少彦名命・大日孁貴命・大屋毘古命である。
 本殿は一間社流造りで、内陣には漆塗りに金属の飾りをあしらった宮型厨子に金箔押幣帛を安置する。以前このほかに日吉の本地である阿弥陀三尊を刻した懸仏も安置したが、現在は総代により管理されている。厨子の両脇には正徳元年の木製眷属像(猿)がある。

 祀職は『風土記稿』に「大広院 本山修験、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と号す、日吉山王の別当なり、社地の東に接して除地の内にをれり、本尊は不動木の立像長二尺三寸、慈眼大師の作」とある。この大広院は神仏分離により復飾して上戸姓を名乗り昭和三四年まで神職を務める。同家には修験の名残を示す弘化三年銘の不動明王の掛軸が二幅蔵されている。また、現在の社務所は以前の大広院であるという。
                                  「埼玉の神社」より引用 

 
 社殿左側奥に祀られている愛宕神社の石碑     社殿の左側に町られている境内社
                          左から疱瘡社・八幡社・八坂社
 
         本 殿                 本殿内部
 上戸白髭神社本殿一棟は、平成21128日「川越市指定有形文化財 建造物」として文化財の指定を受けている。本殿は、柿(こけら)葺屋根の大型一間社流造で、かつては妻飾り、組物、蟇股、頭貫(かしらぬき)、内法長押(うちのりなげし)、海老虹梁など極彩色が施されていた。彫刻装飾についても板壁に菊花紋、菊水紋が描かれていたが、現状では痕跡が残るのみである。妻飾りの蟇股は背が低く肩が盛り上がった輪郭の中に、近世前期の流れをくむ丸彫り彫刻が施され、虹梁や木鼻などの絵様は彫りが浅く、細い線で描かれるなど、古式の技法が用いられている。建築年代についての明確な史料はないが、装飾が控え目な近世前期の特徴を顕著にあらわしていることから、17世紀中期ころの建築と推測されるという。
        
          境内に案内板が設置されている
上戸白髭神社の「懸仏」
        
                     社殿に向かって右側に祀られている境内社
              左より大地主社・御嶽社・白山社

 河越氏は、頼朝が反平家の兵を挙げた治承4年(1180年)の治承・寿永の乱では当初平家方として戦うが、のちに同族の畠山氏・江戸氏と共に頼朝に臣従、頼朝政権下での重頼は、妻が頼朝の嫡子・頼家誕生の際に乳母として召され、娘(郷御前)が頼朝の弟・源義経の正室となるなど、比企氏との繋がりによって重用された。しかし頼朝と義経が対立すると、義経の縁戚であることを理由に重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も重能の子・畠山重忠に奪われる。
 河越氏はしばらく逼迫するが、元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱において重頼の遺児重時・重員兄弟が北条義時率いる重忠討伐軍に加わって以降、御家人としての活動が見られる。家督を継いだ重時は将軍随兵として幕府行事に参列し、弟重員は承久3年(1221年)の承久の乱で幕府軍として戦い武功を立て、畠山重忠が滅んでから20年後の嘉禄2年(1226年)4月、幕府により重員が留守所総検校職に任じられ、総検校職は40年ぶりに河越氏に戻る。但し、武蔵守を兼ねる執権・北条氏支配の元、総検校職は形骸化され実権を伴っていなかったことが窺える。
 元寇の頃には宗重が地頭として豊後国へ下向、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)元弘の乱では、宗重の弟の貞重が幕府軍の代表として在京すべき御家人20人に選ばれ、六波羅探題滅亡時に幕府軍として自害している。その子・高重は倒幕側に転じ、武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加わり倒幕に貢献した。
        
                                上戸日枝神社境内の様子

 河越氏最後の当主であり、高重の子である河越直重は、正平7/文和元年(1352年)、観応の擾乱直後の武蔵野合戦において足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させた。その後、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となる。しかし関東の足利体制を固める鎌倉公方・足利基氏の下で、康安2年(1362年)に畠山国清が失脚。河越氏の相模国守護職も解任されてしまう。
 応安元年(1368年)2月、上杉憲顕の留守を狙い反乱を起こすが敗れ、伊勢国に敗走した。
 こうして、平安時代から武蔵国の武士団の棟梁で、「武蔵国惣検校職」をつとめてきた名門河越氏は400年の歴史の幕を閉じたという。
 河越氏は平安時代末期以降、知行国主や幕府などに伝統ある国衙在庁出身の有力武士と認識され続け、そのために源氏、北条氏、足利氏ら時の権力者に翻弄された一族であったといえよう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市 HP」
    「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等
      

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吉田白鬚神社

『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、「後深草院二条」という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学である。このタイトルは問はず語り」とも表記され、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意との事であるという。
 但しその内容に関しては、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であるため、どこまで真偽を認めるかについては諸説あり、ここではそれ以上深くは追及はしない。
 この書物において、32歳で出家した彼女は、西行(さいぎょう)の跡を慕って諸国を旅した際に、各地の記録などを綴っている。その中に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」と載せてあり、この「吉田の里」が当地であるとの説があるという事だ。
        
              
・所在地 埼玉県川越市吉田192
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春祈祷 315日 秋日待 101617
 鶴ヶ島市役所から埼玉県道114号川越越生線を川越市方向に東行する。市役所から200m程先で、進行方向右手に見える高徳神社の社叢林や、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が交わる「鶴ヶ島JCT」の巨大な高架橋を左手に眺めながら、更に1.7㎞程進み、十字路を右折する。右折後、すぐ進行方向右手に曹洞宗派の寺院である「萬久院」が、その南側並びに「吉田自治会館」があり、その自治会館の西側奥に吉田白鬚神社が鎮座している。因みに「吉田自治会館」には十分な駐車スペースが確保されていて、そこの一隅に停めてから参拝を行う。
        
                 
吉田白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉田村」の解説
 小堤(こづつみ)村の南、的場村の西、小畔川流域の低地に立地。高麗郡に属した。「とはずがたり」に「昔はみよし野の里と申しけるが(中略)吉田の里と名を改められ」とみえる吉田の里を当地に比定する説がある。小田原衆所領役帳に江戸衆の太田大膳亮の所領として「卅八貫九百十八文 川越吉田郷」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六八石余・畑高五九石余、ほかに永二貫九〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三一石余、反別は田一六町五反余・畑二一町二反余、ほかに開発分高一三石余(反別田九反余・畑一町二反余)。
       
        
「白髭神社」と刻まれた石碑      鳥居の社号額「村社白髭神社」
 武蔵国は12世紀後半において大開拓時代にあり、児玉・入西(にっさい)の両郡領主であった児玉氏は、入西郡小代郷の空閑地を選定し、大規模に開拓を進めた。入西三郎大夫資行の次男である遠弘は小代郷を与えられ、小代氏となる
・武蔵七党系図
「有大夫別当弘行(弟有三郎経行)―入西三郎大夫資行―小代二郎大夫遠広―七郎遠平(弟小代八郎行平)―吉田小二郎俊平―二郎平内左衛門尉重俊―二郎重泰―又二郎伊重―彦二郎伊志」
 その後、小代遠広の子行平は、自分の養子となった小代俊平(としひら)に、入西郡小代郷の村々ならびに屋敷等を譲り、俊平は入西郡吉田の村に住んで、「吉田」と称したという。
・小代文書
「承元四年、小代行平は入西郡勝代郷よしたの村の四至を養子俊平に譲り与う」
 児玉党小代氏流吉田氏の誕生であり、その根拠地は、現吉田地域内の「堀の内」という。社から400m程北東方向で、現在「吉田堀之内公園」がある場所周辺との事だ。
        
             すっきり整備されている参道及び境内
 吉田白鬚神社の創建年代は不明である。716年(霊亀2年)の高麗郡設置の際に、郡内各地に創建された白鬚神社の一つといわれている。「西光寺」が別当寺であった。西光寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、西光寺の僧侶は還俗して当社の神職となった。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。そのうちの1社「稲荷神社」は1941年(昭和16年)に地元の出征兵士が参拝できる神社が近くにないという理由により復祀されている。
        
           上り坂の参道を抜けると、一段高い所に社殿が鎮座
 決して規模は大きくはない社だが、きれいに整えられている。社殿は改築されているようで綺麗。また境内も手入れはしっかりとされている。自治会館が隣にあり、裏手に滑り台等の遊具もあり、地域の方々との一体感がある社という印象。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 吉田村』
平夷の地なり、民戸五十二、所々に散住す、土性赤黑粗薄なり、水田多く陸田は少し、用水は村内を流るゝ小畔川を引來て沃げども、土性惡き故動もすれば旱損を患へ、又此川溢るゝ時は水損のあり、
神明社 西光寺持、例祭七月廿七日、社は塚上にあり、塚の匝り凡四十間、高さ一丈餘、社邊は平坦にて十五六歩の地なり、
稻荷社 萬久院の持、
稻荷社 西光寺持、下の二社も同じ、
白髭社 例祭九月廿九日、
諏訪社 例祭七月廿七日 村の鎭守なり、
西光寺 吉田山と號す、天台宗、東叡山末なり、本尊大日を安ず、開山觀長天正十二年寂す、
萬久院 無量山と號す、曹洞宗、足立郡大久保村大泉院末なり、本尊彌陀を安ず、開山超嚴守宗寛永十年寂す、


 白鬚神社(みょうじんさま)  川越市吉田一九二(吉田字宮山)
 当地は、古くは高麗郡名細村吉田という。南に小畦川が流れ、流域には縄文中期の水神遺跡がある。鎌倉期の『とはずがたり』に「昔みよし野の里と申しけるが、いつか吉田の里と名を改めらる」と残り、早くに開発された所である。当社は、霊亀年中高麗郡設置により、郡内各所に鎮守として白鬚神社が祀られた折、その一つとして奉祀されたものと考えられる。
 当地の開発は、明応のころ上杉の家臣小島某が当社の所在地宮山の辺りから始め、東方の高台、堀の内へと進めたという。当時の開発には厳しいものがあったと伝えられ、今でも二メートルほど掘ると楢の木と真菰が層をなして埋まっている。
 神仏習合時代に当社の別当を務めた西光寺は、小島家が入植後二代目に当たる時に建てられたと伝え、神仏分離後は吉田姓を名乗り、神職となったが、昭和二年の火災により同家は焼失した。
 明治六年村社となり、同四五年に大字天沼新田字稲沢の村社稲荷神社を合祀し、続いて字伊勢山の神明社、諏訪の諏訪神社、稲荷山の稲荷神社を合祀した。
 なお、稲沢の稲荷神社は、昭和一六年、出征兵士が多くなり、兵士の参拝する神社が近くにないのは不都合であるとの理由で、旧社地に新しく社殿を造り、還された。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

『新編武蔵風土記稿 吉田村』に記されているように、吉田地域集落の下段を小畔川が流れているため、干害を受けやすく、戦前までは雨乞いが頻繁に行われた。社前にある湧水のそばにある龍神像を刻む「オタキサマ」と呼ばれる石碑を池に投げ込み、村中の者が水を掛けると同時に、獅子が池を回ったという。
*追伸
後で知ったのだが、正面鳥居のすぐ南側に「吉田白鬚緑地」や「倶利伽羅不動」があったにも関わらず、見落としてしまいました。残念であります。
 
 境内社 左から、稲荷神社・諏訪社・神明社         本 殿
       
                           社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」等

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平塚新田氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市平塚新田18
             
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
             
・社 格 旧平塚村・新田鎮守 旧村社
             
・例祭等 元朝祭 12日 春祈祷 412日 
                  例祭(お日待) 
101415
 川越市の北西部に位置する平塚新田地域は、入間川と小畔川の合流点周辺の狭い区域にあり、『新編武蔵風土記稿 平塚新田村』にも「此地本村の間に攝し、北の方に一區をなせり、民家僅に九軒、田圃は本村と駁雜(はくざつ)の地なれば四境の界は本村に屬せり」と載せるように、平塚地域北端部から分けられた地が当地域であり、更に東西・南北共に1㎞程程度しかない中で、3区の飛び地で構成されている。
 下小坂白鬚神社から小畔川に沿った道路を北東方向に進み、土手を登った先にある小さな冠水橋である「鎌取橋」を渡る。今時珍しい木製の造りで、更に道幅も狭いため、通る時はゆっくりと走行したのだが、昭和生まれの筆者にとって、昔の懐かしい臭いが周囲一帯漂う風景に自分の幼少期や青年期の思い出と重ね合わせながら、時間が過ぎるのも忘れて眺めていた次第であった。
 
 昨今の橋にはみられない風情のある
鎌取橋      この橋は水面にも非常に近い。
 土手を下ると、平塚新田地域の民家が数軒見えてくる。この地域は飛び地が3カ所あるのだが、一番南東に位置するこの区域は一番狭いのだが、民家は集中しているようだ。そして、入間川方向に伸びる道を進むと、同河川土手手前に平塚新田氷川神社はひっそりと鎮座している。
        
                        
平塚新田氷川神社正面
              入間川の堤防がすぐ右手に見える。
『日本歴史地名大系』「平塚新田村」の解説
 平塚村の北東、入間川・小畔川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。
 
  平塚新田自治会館の手前に立つ社号標柱    無駄なものがない、さっぱりとした境内

 この社の創立時期はハッキリとは分からないが、『風土記稿』によると、「入間郡網代の百姓、又左衛門なるもの来て、新墾せしと云、」また社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とあり、万治二年(1659年)の棟札があるということなので、江戸時代初期にはこの社は祀られていたことになる。
        
            参道右側に並んで祀られている境内社や石碑
         左から境内社・稲荷社、天魔大王の石碑、境内社・御嶽社
        
                    拝 殿
 氷川神社  川越市平塚新田一二(平塚新田字氷川前)
 当地は川越市の北部にある水田地帯である。口碑に、川越の殿様が松平信綱の時、武蔵野の開発が行われ、その折、山田のうち北山田の次男・三男が入り草分けとなった所であり、当時二六戸であったという。当地は古くから洪水の多い所で、小畔川・入間川・越辺川の三河川が地内落合橋の所で合流する低湿地であり、俗に「小畔のコシロ」「伊草のケサ坊」と呼ばれる二匹の大蛇が暴れた所であるという。
 当社は草分けの入職時に川越の氷川様(現宮下町の氷川神社)の分霊を受け、川を治める神様として祀ったものといわれている。
『風土記稿』に「平塚村及び新田の鎮守なり、例祭六月一五日 入間郡網代村本山修験、教学院の持なり」と載せる。
 社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とある。
 本殿は一間社流造りで、明和七庚寅年九月再営の銘がある棟札を蔵する。内陣に、「明和七庚寅年六月二十日・川越本町高田長左衛門願主」と幣芯に銘がある金幣を祀る。口碑に、この金幣は川越の氷川神社に祀ってあったものであるという。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、口碑によれば、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによるという。後に水害により新田地域の戸数は減り、平塚地域の方が大きくなっている。
 祭礼日412日は、「春祈祷」と呼び、古くは幟を立て、神楽の奉納があり賑わった。神楽師は勝呂村塚越(現坂戸市塚越)から三名頼み、太々(だいだい)神楽であった。また、山田村福田の若衆が囃子を奉納したともいう。塚越の神楽は有力者の寄附により賄ったのでハナカグラとも呼んでいた。この神賑いも戦争の激化により中止されてしまった。現在は祭典があり、同時に村境四ヶ所にフセギと称する神札を立てる行事だけである。
        
 この地は、秋のお彼岸時期になると、河川の土手周辺や水田の畔に曼珠沙華が一斉に咲き誇るという。
 埼玉で曼珠沙華の観光名所と言えば、日高市高麗本郷の巾着田や幸手の権現堂堤が有名であるが、ここ川越市平塚新田の入間川の土手の曼珠沙華も、国道254号線に架かる落合橋から平塚橋まで土手の約700mに渡って群生していて、社の境内には、「埼玉県自然100マンジュシャゲ群生地」の看板と、「堤防を 緋の帯びにして 曼珠沙華」の句碑が設置されている。
 参拝時期が5月中旬と時季外れではあったが、いずれはこの真っ赤に咲き誇る曼珠沙華の風景を堪能したいものだ。
        
                 入間川堤防の眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
   

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笠幡尾崎神社

 寛永一三年の棟札に「高麗郡笠幡之鄕惣社大明神」とあるように、当社は笠幡地域(川越市合併前の笠幡村)の総鎮守で、芳地戸・新町・山伝・倉ヶ谷戸・協栄・本町・西部から成り、当社は芳地戸に鎮座する。また、各字ごとに字鎮守の社があり、新町は三島日光社、山伝は御嶽社、倉ヶ谷戸は箱根神社、協栄は八坂社、本町は宣言者、西部は金比羅社を祀っている。各社ごとに祭典が行われ、殊に浅間社は七月一四日に初山と称して母親が子供に連れて参詣し、その子の丈夫な成育を祈る信仰がある。
 当所は高麗から川越に通じる高麗街道が村内を通るため、大町・新町・本町に宿があった。一方、小畔川沿いには水田が広がり、ほかは陸田で養蚕が盛んな頃は一面の桑畑であったという。
 社の裏手には幹回り6m余りの大杉があり、御神木にしていた。その根本には50㎝位の空洞があり大蛇が住んでいると伝えられ、周囲を3回まわると大蛇が出るといわれていたため、氏子は近寄らなかった。なお、その大蛇は当社の神の使わしめであるといわれていた。しかし、この木も昭和四六年に枯死し、伐採してしまったという。
        
              
・所在地 埼玉県川越市笠幡1280
              ・ご祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫命
              ・社 格 旧笠幡村総鎮守 旧村社
              ・例祭等 元旦祭 道饗祭 321日 春祈祷 415
                   秋日待 1015日 例祭 1115
              (*秋日待は川越市合併前には17日。例祭は従来の929日の九日
               祭りをこの日に移したという)
 笠幡箱根神社から南北に通じる道路を北上し、小畔川に架かる「田谷橋(たやはし)」を渡る。小畔川流域周辺の肥沃な田畑風景を愛でながら200m程北上し、住宅街が並ぶ十字路を右折、小畔川と並行して暫く進むと、信号のある十字路に達するので、そこを左折する。緩やかな上り斜面を進むと、すぐ左手に笠幡尾崎神社の入口、及び駐車場が見えてくる。因みに、社に面した道路は通称「さざんか通り」というようだ
 参拝日は20255月中旬で、建て替え工事を行っていた関係で、正面参道入口に通じる駐車場一帯にはバリケードが敷いてあり、また境内も一部散策できなかった場所もあって、その点は少々残念。
 この社には「正面参道入口」「北側参道入口」、そして一番西側にある「西側参道入口」と、それぞれ鳥居が設置されているのだが、建て替え工事の関係や、駐車場から一番近いところから「北側参道入口」から出発することになった。
        
                                                     笠幡尾崎神社北側参道入口
『日本歴史地名大系』 「笠幡村」の解説 
 [現在地名]川越市笠幡・的場・川鶴・三芳野・伊勢原町、鶴ヶ島市太田ヶ谷
 安比奈(あいな)新田の北西、小畔川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。貞治二年(一三六三)六月二五日の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)に「武蔵国高麗郡笠縁」とみえ、年貢帖絹代を長井庄の定使給物として森三郎に給付し、残余および未進分などについては直納すべき旨が北方地頭に命じられている。また翌年九月一八日にもほぼ同内容の命令が高麗彦四郎経澄に下されている(「鎌倉府政所執事奉書」同文書)。「笠縁」は「笠幡」の誤記と考えられる。地内の尾崎神社に伝存する天文二〇年(一五五一)六月一五日の年紀がある懸仏の銘に「武州高麗郡笠幡尾崎宮」とみえ、また同年六月吉日の年紀がある懸仏銘には「大日本国武州高麗郡笠幡郷尾崎」とみえる。

       
             鳥居の右側にある社号標柱には    正面参道の様子。この参道は途中で
           「笠幡郡惣社」と表記されている。
     左側に曲がり、社殿に達する。
        
                 西側にある参道入口
 笠幡尾崎神社は古社であるのだが、その創建年代等はハッキリとは分からない。日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。当社には宝徳4年(1451)銘・大永8年(1528か?)銘の板碑や天文20年(1551)銘の懸仏など中世の信仰が残されており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものとして、共に市指定文化財となっていて、近世・江戸時代には笠幡村の鎮守社として祀られてきた。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 尾崎明神社 素戔嗚尊を祭と云、神體は圓鏡に鑄造す、その銘に武州高麗郡笠幡鄕尾崎、于時天文二十年六月吉日敬白とあり、外に慶長十二年の棟札あり、猶舊き棟札もあれど文字分たず、村中の鎭守なり、例祭九月二十九日、神職伊藤長門なり、
 稻荷社、疱瘡社
『入間郡誌』
 尾崎神社
 古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。 但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。 其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。 之れ現今の社殿也。 尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。

        
       西側鳥居を過ぎて、参道を進むと両部鳥居の二の鳥居が見えてくる。
 両部鳥居の両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残というのだが、この鳥居があるという事は、この社も神仏習合系の社であったのであろうか。
        
                                 社殿に続く参道の様子
                       老杉古檜が豊かに茂る尾崎の森
 
        参道途中にある手水舎                境内に入り、すぐ右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
 尾崎神社(みょうじんさま)  川越市笠幡一二八〇(笠幡字宮前)
 当社は南に小畔川を臨み、老杉古檜が茂る広大な境内は野鳥の楽園ともなっている古社である。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命で、その創始については、日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。
 宝徳四年及び大永八年の銘がある五〇センチメートル余りの板碑と、市指定文化財となっている「大日本國武州高麗郡笠幡尾崎宮」と刻む天文二〇年の懸仏二面を蔵している。このほか神宝として天文五年銘祐定作の太刀、榎本武揚奉納の銅製社号額がある。
 棟札も数枚あり、最も古いものは「慶長拾二年三月十五日禰宜伊藤刑部」と判読でき、以下、寛永一三年・貞享二年・元禄二年・寛文九年と続く。また、『明細帳』には天保九年にも再興したとある。現在の社殿は明治一八年に再営したもので、この時に草葺き屋根を瓦葺きとし、更に近年老朽化が進んだため昭和五六年に修復した。
 祀職は神社に隣接している伊藤家である。同家は室町時代より二〇代以上続く社家であり、当社とともにその歴史は古く、慶長の棟札に伊藤刑部とあり、『風土記稿』にも「神職伊藤長門なり」とあるほか、元禄七年・享保九年・延享四年・寛政七年・文政八年・嘉永三年・慶応三年の裁許状が残っている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
【参考 埼玉苗字辞典より】
・入間郡塚越村大宮住吉神社文書 「貞享三年・笠幡村尾崎社家伊藤刑部」
・尾崎神社文書「元禄七年・高麗郡笠幡村尾崎大明神之祠官伊藤長門守藤原吉勝、享保九年・祠官伊藤播磨守藤原好博、延享四年・祠官伊藤長門守藤原安清、嘉永三年・神主藤原安武、慶応三年・神主藤原安教」
        
             拝殿に掲げてある「尾崎神社」の扁額
        
                境内に設置されている「芳地戸のふせぎ・懸仏二面」の案内板 

 芳地戸のふせぎ(市指定・無形民俗文化財)
 懸 仏 二 面(市指定・工芸品)
 悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では、毎年春の彼岸の中日に行なっている。その日の午前中、神社でおみこしを作る。四角の木製の枠に榊や樫の小枝などを取付けただけの古風なもので中に神社の御本体を納める。神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る。村廻りの行列の先頭は太鼓である。「ヨーイド・マーダー」とはやし、「ドコデン・カッカ」と太鼓を打ちながら進む。次にみこし。昭和四十二~三年ぐらいまでは、一家の中まで入って清めていたが、今は庭まで。次に村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本。それに子供達が大勢従って行く。
 又、この神社に保管されている懸仏は、神の本体という意味の御正体を仏像で現したものである。二面ある懸仏はどちらも直径十八・六センチメートルの円板状の板金でつくられ、釣手が二つある。中央に鋳造した半肉の仏像一体が取付けられており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものである。
 昭和五十七年七月
 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 この「ふせぎ」は「道饗祭」とも称し、享保六年から始まった神事であるという。四角の木製枠に榊の枝を取り付けた神輿に神霊を移して担ぎ、男女の性器を模したわら細工をつるした竹の棒を先頭に、太鼓をたたきつつ、村境の八カ所にこの竹の棒を立てる行事とのことだ。
 
        境内社・祖霊社                            本 殿
                         (建て替え工事中にて遠くから撮影)
        
                綺麗に手入れされている社
 工事中のため、一部境内を散策することができなかったことは残念だったが、それ以外は気持ちよく参拝を行うことができた。改めて素晴らしい社との出会いに感謝した次第だ。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
 

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笠幡鏡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡282
             ・ご祭神 猿田彦命 大山祇命 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭(春祈祷) 415日 
                  秋祭(お九日) 
1015
 笠幡箱根神社から一旦南下、JR川越線の踏切を越えてすぐ右手に「川越警察署笠幡交番」がある十字路を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、暫く東行し、南小畔川に架かる田中橋を過ぎて1㎞程進んだ「霞が関小学校(東)」交差点を左折する。道なりに暫く進むと、南小畔川に架かる庚申橋が見えるので、その手前の十字路を右折して直進すると、正面やや右側に笠幡鏡神社の石製の鳥居が見えてくる。
        
                  笠幡鏡神社正面
 当社の具体的な創建時期は不明であるが、当地を開発したある村人が、一個の古びた鏡を発掘し、その裏に「猿田」の文字が読み取れたため、それを御神体として祀ったことに始まる。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 鏡宮 承應二年七月勧請の棟札あり、神職伊藤長門吉田家の配下、
『入間郡誌』
 猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
 古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
 
  綺麗に手入れされている参道、及び境内    境内の一角には案内板も掲示されている。
        
                                      拝 殿
      南小畔川のすぐ東側に位置している為か、石段上に社殿は鎮座している。
 鏡神社(みょうじんさま) 川越市笠幡282(笠幡字後大町)
 当社の創建は不詳であるが、かなり古くから信仰されていたことは、社蔵の承応二年の棟札により明らかである。棟札はそのほか延宝五年・元禄四年・宝永五年・宝暦八年・万延元年・明治八年のものを蔵する。古来、笠幡の伊藤家が祀職に預かり、承応の棟札にも「禰宜伊藤刑部」と見える。
 鏡神社という社名は古老の伝えに、昔土地開拓の折に鏡一面を発掘し、その鏡の裏面に「猿田」と字が彫ってあったのでこの鏡(承応のころ紛失したという)を奉斎して「鏡宮」としたという。祭神は、猿田彦命・大山祇命・菅原道真公である。
 古くは笠幡大町の神明地(現社地より五〇〇メートル南方)に鎮座していたが、明治初年に大室家の山林であった現在地を境内として移した。この理由は不明であり、旧地は現在、学校の敷地となっている。
『明細帳』には、境内神社として「神明宮祭神伊勢大御神、由緒不明」とあるが、現在はなく、本殿に合祀してしまったとも伝える。氏子は神明地にあった当時は神明様と呼んでいて、鏡宮ではなかったというが、『風土記稿』には「鏡宮」と載り、伊藤家の裁許状には「尾崎明神鏡宮両社」と記すことから社名に変遷のあったことがうかがわれる。古来当初の産土であったことから、明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          拝殿上部に掲げてある扁額
  拝殿は坂戸市の厚川大家神社のように、正面が見開き状態で、特徴的な構造をしている。 
        
                     本 殿
 氏子区域は笠幡の大町地区で、氏子戸数は『明細帳』によれば二四戸であるが、現在はかなり多くなった。当地は畑作を中心とする農業地帯であるが、近年、川越線の開通により、交通の便がよくなり、急速に宅地の造成が進められている。  
 鏡神社はお産の神様であるといわれ、古来この地域ではお産で亡くなった者がいないのは、鏡神社のお陰であるといわれている。昔は婦人が願を掛けるためか、中剃りの長い髪の毛が神社の拝殿に沢山結んで奉納されていたという。
        
                                 社殿からの一風景

 神社とは別に村の行事として「二百十日のお日待」を91日に行ったという。これは、回り番が事前に宿を決めて、雨風が荒れず、順調に収穫できるようにと祈願の意を込めて飲み食いする行事であり、このような行事のお触れを出すのは神社の年行事担当の役目で、日が決まると手分けをして触れ歩いたので、大変だったとの事だ。
 このように氏子の日々は鏡神社と密着した生活が延々と営まれていたのであろう



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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