古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠幡箱根神社

 古代より箱根山は、山岳信仰の一大霊場であり、『筥根山縁起并序(はこねさんのえんぎならびにじょ)』(1191年成立)によると、孝昭天皇の時代に聖占が駒ケ岳において神山を神体山として祀って以来、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。因みに、地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいったようだ。
 天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、神仏習合の魁として活躍し、神と仏を結ぶ聖僧(しょうそう)である『万巻上人』が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得し、夢の中の神託により、箱根権現を祀る社殿(現・箱根神社)を建立したという。神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は東密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄え、鎌倉時代には、源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集め、鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。その後、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えたという。
 江戸時代には、箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、東部交通の要(道中安全の守護神)に位置する箱根権現は、庶民信仰の聖地と共に一層篤い信仰を受けるようになった。
 その後、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、関東総鎮守箱根大権現は箱根神社へと改称され現在に至っている。
 川越市笠幡地域には、その「箱根」を冠した小さな社が静かに鎮座している。

        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡4431
             
・ご祭神 天津彦火火出見尊
             
・社 格 旧笠幡村倉ヶ谷戸鎮守
             
・例祭等 天王祭 715日 お日待 1014
 川越市の西側にある笠幡地域。この「笠幡」の地域名は、嘗て「陸奥国齋藤文書」に正慶二年(1333)「武蔵国高麗郡賀作波多村」と記載されていて、かなり古くからあった地名であったようだ。この地域中央部やや東側で、小畔川右岸の自然堤防上に笠幡箱根神社は静かに鎮座していて、JR川越線笠幡駅からでも北東方向で直線距離にして500m程しかない。
 駅周辺には住宅地や学校・病院等が建ち並ぶのだが、駅から北側に流れる小畔川付近は、一面長閑な田園風景が広がっていて、住宅街と昔ながらの風景が共存する地域ともいえよう。
        
                  笠幡箱根神社正面
 笠幡箱根神社の創建年代等は不詳であるが、倉ヶ谷戸地区を開拓した発知(ほっち)氏の先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えられ、慶安年間(1648-1652)に再興したという。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 舊家者啓次郎 
 發智を氏とす、先祖は六郎次郎と稱して、永正の頃より代々この村の里正たり、古器舊記等も傳へしに、文化年中火災にかゝりて烏有となれり、
 高倉村高倉寺燈籠(*もとは笠幡村発知家にあったという)
「発地氏曩祖曰、植田太郎源公光・仕鎌倉右府、五世孫光規・弘安八年十一月有武功、北条貞時賞賜以信濃国佐久郡発知之郷因称発知太郎、後更発地。正安年間有故来于此地、世為里正。光規二十四世之孫為光正性直而淳朴産益優富有田畝山林三百余町、明治六年区長兼戸長。明治十一年発地庄平光正建」
        
                   境内の様子
        
                    拝殿覆屋 
 箱根神社(ごんげんどう)  川越市笠幡四四三一(笠幡字倉ヶ谷戸)
 当社の創立は口碑によると、この笠幡の倉ヶ谷戸地区を開拓したという発知氏の遠い先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えている。『風土記稿』には「箱根権現」とあり、別当が修験大泉院であったことがわかる。古くから当社の通称は権現堂で更に老朽化した権現堂と箱根神社が並立していることから、一所、別個の社が混同視されていたのかもしれない。『明細帳』には「当社勧請年暦詳ナラサレドモ慶安年中頃発地庄平ノ祖先再興ナリ」と記してある。
 祭神は天津彦火火出見尊である。境内社は『明細帳』に「八坂神社 祭神素盞鳴尊、天保年中勧請明治十六年六月再興、琴平神社 大物主命、文政年中勧請明治十四年三月再建、稲荷神社 倉稲魂命、発地庄平の先祖某が祭る、蚕守神社 宇気母智命」と四社を載せるが、各社殿が老朽化したため、昭和五五年に本社を改築した際、本殿覆屋内に合祀した。同時に三峰社・御嶽社も合祀している。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神輿が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神興が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 嘗て境内にあったとされる権現堂は既に取り壊されていて、駐車スペースとなっているようだ。また「埼玉の神社」に載せられている別当・大泉院は『風土記稿」によると「本山修驗、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す」と記されていて、修験道一派が開山した寺院ということから、箱根権現との関連性は十分に頷けられよう。
 
  拝殿に掲げてある「箱根神社」の扁額          本殿覆屋内に合祀されている社あり

   本殿に合祀されている社は、御嶽社・三峰社・養蚕社・八坂社・稲荷社・琴平社。
        
               境内にある「廻国供養塔」等
 供養塔の並びには、嘗て「蚕影社」が祀れれていたのだが、今はないようだ。この地域は、昭和30年代まで氏子のほとんどは養蚕に従事していて、毎年10月2日に蚕影社の祭りがあったが、養蚕農家の減少により、廃されたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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鯨井春日神社


        
              
・所在地 埼玉県川越市鯨井26
              ・ご祭神 武甕槌命 斎主命 天児屋根命 姫大神
              ・社 格 旧鯨井村犬竹鎮守
              ・例祭等 一升講 19日 春祈祷 49日 
                   お日待 10月15日 秋祭り 11月23日
 鯨井八坂神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行すること1.2㎞程、入間川に架かる「雁見橋(かりみはし)」を渡る手前で、堤防がある路地を左折し、土手を下るように進むと、木陰の中に佇む鯨井春日神社が見えてくる。
       
                  鯨井春日神社正面
『日本歴史地名大系』 「鯨井村」の解説
 上戸(うわど)村の北、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。村名は久次郎が開発し居住していたことから久次郎居村といい、久志羅井とも書いたと伝える。延宝(一六七三―八一)頃までは地内に犬武(いぬたけ)郷の地名が残り、独立性が強かったが、その後完全に鯨井村に合併されたという(風土記稿)。現東京都青梅市安楽(あんらく)寺蔵の大般若経巻一一六は、永和五年(一三七九)三月一八日に「河越庄犬武郷」において書写されていた。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「百四拾二貫五百六十四文 河越卅三郷犬竹鯨井」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われた。天正六年(一五七八)北条幻庵は大井郷名主・百姓中に人馬を調達し鯨井郷から上依知(かみえち・現神奈川県厚木市)まで兵粮を運ぶよう命じている(同年正月二〇日「北条幻庵印判状」塩野文書)。

『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
 鯨井村は郡の東入間の群界にして三芳野郷に屬せり、往昔久次郎なるもの草創して居しゆへ、久次郎居(くじらい)村と唱へしを、何の頃よりか今の文字に書かへしよし、或は久志羅井とも書せり、

 この地は、嘗て元禄の棟札にも「河越庄犬竹郷」と記し、古くは一村を成していた(「入間郡誌」村の東方犬竹は古は一区の小村にて、延宝の頃までは、犬竹郷などと記したる証跡あり)。しかし、西側を開墾し、住民が移住し鯨井村となるにつれて当地は衰微し、鯨井の一字になってしまったという。氏子区域は大字鯨井の犬竹地区で、現在の氏子数は十五戸、『明細帳』にも十六戸とあり増減はほとんどない。
        
  入り口には鳥居はなく、規模も決して大きくはないが、落ち着いた雰囲気のある社である。

 鯨井春日神社は、北条一族で川越三十三郷を領した犬竹織部正平則久が永正年間(15041521)に創立したと伝えられる。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれていたといい、鯨井村字犬竹の鎮守として祀られている。当社の神事「犬竹の一升講」は、御馳走をたくさん食べる飽食神事の一つで、川越市無形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
 春日神社  川越市鯨井26(鯨井字犬竹)
 入間川の土手際に南面して鎮座する当社は、永正年間に犬竹織部正平則久が創立したと伝える。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれ、社蔵の『嘉永元年寄進帳』に「抑々当社春日大明神乃御事は世の人柊明神と御唱ひ立て相成侯疫病除第一の御守護」とある。
 現存する元禄九年再建の棟札に「竹柴山別当寶勝寺現住月潤良雲」とあり、神社の後ろにあって明治初期廃寺となり観音堂のみ残る宝勝寺が別当だったととがわかる。また、明治二年の棟札には「神主中臣朝臣竹榮瑞穂」と還俗神勤したことが知られ、更に「祭神一御殿武甕槌命 二御殿斎主命 三御殿天児屋根命春日大明神是也 四御殿姫大神」と記されている。『明細帳』もこの四神を祭神としている。
 犬竹織部正平則久は北条一族として、川越三十三郷を領したといい、当地に居住し犬竹と称し、その子孫は勢〆と名乗り今に至っている。棟札にも「願主瀕志目庄左衛門尉則重同姓織部則政」とある。また、別当の宝勝寺も古くは観音堂だけだったものを、則久が起立したと伝える。なお、『風土記稿』に「則久は永正十二年の没」とある。
 口碑によると、境内に多くあった樹木は入間川の増水の折に伐採して杭とし、氏子の田畑の流出を防いだという。
                                  「埼玉の神社」より引用

勢〆」氏に関しては、新編武蔵風土記稿にも以下の記述を載せている。
『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
 舊家者織平
 氏を勢めと云。先祖某は北條新九郎の氏族にして、當所犬竹郷に居住す、因て犬竹を氏とす、即ち犬竹織部正平則久と稱す、川越三十三郷の内を領し、北條氏の旗下に屬す、北條氏亡て後子孫民間に下れり、戸田左門一西この村を知行せしとき、慶長年中江州膳所へ移されければ、則久が子孫これに屬して、彼地に至て住居せるときに、犬竹の氏を勢めと改むと、居ること幾ばくもなく、同姓某なる者を出して代らしめ、己は遂に郷里に歸居せしより、今既に十五世に及と云、されど古書の詳なるものはなし、

        
           境内に設置されている「犬竹の一升講」の案内板
 市指定 無形民俗文化財 犬竹の一升講
 毎年一月九日、氏子の宿で行われる神事である。前夜の行事をオビシャ講といい、当日の行事を、イッショウコウ、イッショウグイともいう。春日神社は犬竹十六戸の氏神であって、疫病除けの神さまといわれる。オビシャ講は氏子の中の子どもや年寄・奉公人等が宿に集まって小豆粥をたらふく食べる行事である。一升講は当番の二軒の主人を除いて、他のブクのない氏子の家の代表者全員が宿に集まって行われる。宿では小豆の入ったアカノゴハンと入らないシロノゴハンを一人一升あてに炊き上げ本膳をすえて来客を待つ。ヤドマエの二人はオトリツギ、キウジヤクとも称して接待する。キウジツキの儀とはまず赤のご飯少々を給仕つきで軽く一箸で食べる。オテモリの儀とは客同士がテンコモリに盛りあげて、これを三杯食べる。オニギリの儀はさらに残ったご飯を全部食べて終る。古い飽食神事の一つである。(以下略)
                                      案内板より引用

 
          境内社・愛宕社               境内社・稲荷社
        
                  境内社・御嶽社

 鯨井春日神社で行う祭事に関して、4月9日に行われる春祈祷は、古くは鶴ヶ島から神楽師を招き拝殿で行った。この碑は田仕事の無事を祈り、各戸は赤飯を重箱に入れて持ち寄る。また、10月15日のお日待は親類を招いて御馳走してにぎわったが、現在では祭典後、拝殿で直会をするだけとなっているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等
                         

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鯨井八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市鯨井18421
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 春祈祷 49日 天王祭り 714 15
 川越市鯨井地域は、同市北西部に位置し、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地に立地していて、入間川が流れている地域の大半は田畑が広がる中、地域南部の県道沿いには現代風の住宅等も立ち並ぶ地でもある。
 途中までの経路は小堤八幡神社
を参照。小堤八幡神社から小畔川に架かる八幡橋を越え、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行すること300m程で、同県道260号鯨井狭山線と合流する路地となり、そのまま直進して進むと、すぐ左手に「鯨井自治会館」の立看板、その先に鯨井春日神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 鯨井自治会館には適度に広い駐車スペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
 
  参道
左手には薬師如来堂が建てられていて(写真左・右)、その先に八坂神社が鎮座する。

 元々は、観音寺というお寺であったが、現在は薬師如来堂が残るのみとなっている。この薬師如来堂は「中武藏七十二薬師 15番目札所」で、12年に1度、本尊の薬師三尊(通称: 寅薬師)の御開帳があり、中武藏七十二薬師巡りをする方々で賑わうという。
        
              参道を進むと鳥居、拝殿が見えてくる。
 鯨井八坂神社の創建年代等は不詳であるが、江戸期には「上戸日枝神社の横にあった」修験大廣院持ちの社として鯨井字天王に祀られていた。その後観音寺(現薬師如来堂)のあった当地鯨井字宿へ遷座、明治41年上戸日枝神社に合祀されたが、昭和50年還座している。
 当社は「天王様」と呼ばれ、疫病除けの神であるといわれ、また神社を通じての住民の結びつきが強い土地柄であるという。薬師堂は戦前に公民館が建てられるまでは、村の集会や神社の直会を行う唯一の施設であった。現在でも毎月、日を決めて老人が集まり観音経を上げる会があるという。薬師様は「眼病に効ある仏」といわれ、穴あき石に麻を通して薬師様に上げて祈願する。
 天王様の旧地である字天王には、今でもきゅうりを作ってはならないという禁忌がある。これは、きゅうりを輪切りすると、その切り口が天王様の紋と同じであるからだと伝えている。
       
                    拝 殿
 八坂神社  川越市鯨井一八四二-一(鯨井字天王)
 当社は、以前、現在地より南方へ四〇〇メートル余りの所にある鯨井字天王にあったという。現社地は瑠璃光山観音寺の境内であり、明治の初めに廃寺となり薬師堂だけが残り、寺の跡地に神社を村民が担いで持って来たと伝えている。このため当社は薬師堂と並んで鎮座する。
 明治の末に当社は無格社であることから、鯨井・上戸・的場の総鎮守である上戸の日枝神社に合祀されたが、神社の建物は残り「仮祭典所」と称して祭祀を続けて来た。また、鯨井字浅間にあった浅間社の石祠も同時に日枝神社境内に移転されたが、祭典は仮祭典所である当社で執行されるようになった。
 下って昭和五〇年、旧氏子の要望により再び神霊を日枝神社から奉遷して現在に至っている。
 社蔵の獅子頭一頭は、元治元年製作のもので古色を帯びていたが、近年修理彩色した。また、境内の柊の古木は樹齢八〇〇年といわれ、市指定の天然記念物である。県道の拡張工事で、境内地への移植を余儀なくされたが、樹勢はますます盛んである。
 境内の稲荷社は、もと観音寺の寺鎮守であったが、廃寺の後は当社の末社となっている。二月二の午に祭典を行い、昔は「正一位稲荷大明神」と書いた紙幟が数多くあがった。有泉地区の氏子はこの日、回り番で宿を決めて稲荷講を行っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
県道沿いに設置されている鯨井の万作の案内板  拝殿の手前右側には鯨井の万作・
    指定年月日 昭和55213日       伊勢神宮奉納記念碑が設置

 市指定・無形民俗文化財 鯨井の万作
 七月十四・十五の天王祭り、四月九日の鎮守日吉神社(鯨井・的場・上戸の鎮守)春祈とうの際に行なわれる。明治末年に鯨井の真仁田市平という人が村人に教えたのが始まりという。鯨井の万作は、成年に達したら必ず習わなければならないものえ、若い衆達によって踊りつがれてきたものである。七月十四日の晩は、ソロイと称して万作踊りを踊る。十五日には、若者たちにかつがれた獅子が鯨井の三地区をまわる。特に改築や新築の家では、御神酒を出し万作踊りを踊ってもらう。踊りは下妻手踊り一曲で、横一列に並んで踊る。
 歌詞は三番まであり、一番が基本で二番三番は踊りのアヤが少しづつ違い、手が込み動きもやや早くなる。下妻踊りの他に、教え唄(正月唄、八人が四名づつ向き合って踊る)・追分(馬喰踊り、横一列)・伊勢音頭・相撲甚句・八木節なども踊る。昭和の初め、川越市霞が関に出たものが習い覚えてきたという。(以下略)
                                      案内板より引用

             
      同じく県道沿いには「鯨井のヒイラギ」と呼ばれる古木が聳え立つ。

 鯨井のヒイラギ  (市指定・天然記念物)
 東方薬師堂の境内にある。かなりの古木なので幹が空洞となっているが、生存部分はまだ生き生きとしている。現在幹の北東部分の皮質部が三〇㎝の弧をなしており、円形を想定すると約一m五〇㎝の幅で上部まで残っている。従って肥大していたときは恐らく直径一m五〇㎝、周囲四m五〇㎝はあったであろう。
 現在の樹高は約一〇mだが、多分過去幾歳かの台風で幹の上部は中途で折切られたものとおもう。約二五年前川越〜坂戸線の県道改修による幅員拡張のため、移植のやむなきにいたり、樹の丈を現在のように切りつめ多くの太枝も切り取り、大手術をして移植した。しかし、さいわいにしてヒイラギの古木は県下に希れなだけに貴重なものである。(以下略)

                                      案内板より引用
        
             薬師堂の傍には稲荷社が祀られている。
 このアングルからでは分かりずらいが、稲荷社の近くには灯籠が一基あるのだが、この灯籠を「石尊様」あるいは「大山様」と呼んでいる。戦前まで7月から8月にかけて約1ヵ月間、灯籠の回りを竹で囲い注連縄を張って年行事が毎晩灯を入れる行事があったという。五穀豊穣を祈るものだといわれている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

              

    
        

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下広谷白山神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市下広谷1155
             
・ご祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理姫尊
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 春祈祷 43日 天王様 714日 
                  御日待 
1014
 川越市下広谷地域は同市北西部にあり、大谷川流域の低地および台地に立地している。嘗ては鶴ヶ島市の上広谷、並びに五味ヶ谷両地域とで一村を成していたという。
 小堤八幡神社から一旦埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線に戻り、「小堤」交差点を右折する。その後、鶴ヶ島市方向に850m程進んだ、押しボタン式信号のある交差点のすぐ先の丁字路を右折、そのまま道なりに北行すると、つきあたりとなり、ほぼ正面に下広谷白山神社が鎮座する場に到着できる。敷地内に専用駐車場が数台分完備されているのは有難い。
        
                 
下広谷白山神社正面
『日本歴史地名大系』 「下広谷村」の解説
 小堤村の北西、大谷川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上広谷村・五味ヶ谷村(現鶴ヶ島市)と一村であったが、まず五味ヶ谷村が分村し、次いで広谷村が慶安元年(一六四八)の検地により上・下に分村したという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に小田原衆の御宿隼人佑の所領として「廿六貫五百卅六文 入西勝之内広野」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿に広谷村とみえ、田高三〇六石余・畑高二七八石余・野高六石、ほかに野銭永二貫六八〇文、川越藩領と旗本三家の相給。

 下広谷地域の北東部には、県指定記念物である「大堀山館跡」があり、室町期から戦国期にかけての館跡と考えられる史跡である。現状は、山林及び宅地となっている。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「下広谷村古跡三ケ所」の項に「土人城の跡と唱えて何人の居跡なることを伝へず」との記載があり、当館跡はそのうちの一つと考えられる。周辺には戦国期の城館跡がいくつかあり、隣接する首都圏中央連絡道の建設に伴う発掘調査によって、15世紀中葉から15世紀後半、及び16世紀代と推定される遺構が検出されているが、築造年代・築造者・城主とも明らかではない。
 大堀山館跡は、面積は約396,000平方メートル(約9,160坪)程で、三重の堀・土塁に囲まれた「方形館」と考えられる。本郭とされる部分は東西約90メートル、南北約55メートルで、堀の上幅は約3メートル、深さ約1.5メートル、土塁上端までは2.3メートルを測る。出土した陶磁器などの遺物は15世紀後半とみられ、そのころ武蔵北部を戦場とした山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争乱に関係する城館跡群の一つとして、重要な史跡であるという。
        
             入り口付近に設置されている案内板
 白山神社
 所在地    埼玉県川越市大字下広谷一一五五番地
 社 名 白山神社
 御祭神    伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理媛尊
     
徳川時代の作と言われる観音様一体
 社 殿 本殿 拝殿 幣殿
 境内地 100.9
 祭 儀 一月一日 元旦祭 四月三日 春祈祷
     
七月一四日 天王様 十月十四 日御日待
 当白山神社は神代より降り積る雪のいや自く、古より越のしらやま、と詩や歌に詠まれた富士山、立山と並んで日本の三名山と仰がれる霊峰白山に鎮まります白山比咩大神、石川県石川郡鶴来町に奉斎されている白山本宮加賀一の宮白山比咩神社より分社されて当地に祭られて今日に及んで居ます。(中略)
 奈良時代霊亀二年(一二六三年前)に駿河など七ヶ国に住む高麗人千七百九十九人を武藏に移して入間郡を分割して高麗郡となるに及んで、広谷村も武蔵国高麗郡となる。従って霊亀以前すでに集落を形成して居た事が明らかで、当時より産土神として村人たらに崇められていた。又、暦応元年当時の板石塔婆(六四〇年前)、正保年間の地蔵様(三三四年前)、元禄時代の位碑 等、その後の資料は続いて出ています。
 慶安元年広谷村が上広谷、下広谷に分かれて居りますが、享保年間に立て替え棟札があり(二六二年前)其の後、文政年間(一五七年前) 再建と梁に刻み込まれて居り更に明治十六に立て替えられた。
 当白山神社も昭和二十七年二月宗教法人として発足した。なお現在の本殿を除き拝殿、幣殿を五十三年に新しく立て替えました。祭儀には御祈願を執行し御神楽を奉奏して邪気悪風を除き災害を防御し熱病を祓い給い天下の逆乱を治め家内安全、福禄寿徳を蒙る事枚挙に遑あらず、蒼生の作物、草木の片葉に至るまでその恩澤に浴し、神徳無量に遠近より参拝者の多きをもって、右の記録を後世に伝える由縁であります。
 平成十一年十二月吉日  氏子中
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 白山神社  川越市下広谷一一五五(下広谷字子ノ神前)
 当社の鎮座地である下広谷は川越市北部に位置し、古くは鶴ヶ島町の上広谷、並びに五味ヶ谷とで一村を成していた。
 村の開拓にかかわる口碑に、鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着き、その時、当地には腹の中の子を入れても一三人しかいなかったという。坂本一族の末裔である小林家は江戸期名主を務め、当社は同家の屋敷鎮守であったこと、更に現在でも同家が永代総代を務めていることなどから、当社の創始は、坂本一族がこの地の開拓に際し、加賀一の宮白山比咩神社の分霊を祀ったことによると思われる。
 祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫尊の三柱で、内陣に江戸期の作であるといわれる聖観音像(二一センチメートル)を安置している。
 社殿は享保年間と文政年間に建て替えたと伝えられ、更に下って明治一六年に再建している。また、昭和五三年に総工費二千万円を費し拝殿・幣殿を再建している。
 明治四一年に字子ノ神前の八坂神社・稲荷神社及び字庚申塚の白山神社を合祀している。『明細帳』には字庚申塚の熊野神社、字大前の八幡神社もそれぞれ合祀したことを載せているが、熊野神社は元地に社殿が現存し、前野・大畑両家が管理しており、八幡神社の本殿及び神体は野崎家が保存している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国、越前国、美濃国(現石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰であり、加賀国白山比咩神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。
 白山が信仰の対象として仰がれるようになったのは、大化(645650)前代のことであろう。つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜(くずりゅう)川(福井県)、手取(てどり)川(石川県)、長良(ながら)川(岐阜県)流域の人々の間から、また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したものと考えられる。
 奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。
 現在、
白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。
 
   左より境内社・稲荷神社・八坂神社             本 殿

 ところで、「埼玉の神社」によると、「鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着いた」と載せているのだが、この「坂本」苗字のこの一族はどこの出身であったのであろうか。もしかすると、この一族は滋賀県大津市坂本地域の出身で、白山修験者ではなかったかとも考えられる。
 大津市坂本は延暦寺のすぐ東側にあり、中世には加賀白山比咩神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請されたという。但し決定的な物的証拠はなく、あくまで筆者の推測の域を出ない点はお断りしておこう。
        
                 社殿から境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
川越市HP」
     「
Wikipedia」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等

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小堤白山神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市小堤785
             
・ご祭神 伊弉諾命・伊弉冉命・菊理姫命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元日祭 神楽奉納 44日 御日待 1014
 小堤八幡神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を西行し、「小堤北」交差点を北上する。セブンイレブン川越小堤北店を過ぎて250m程先の丁字路を右折すると、進行方向左手に小堤白山神社が見えてくる。小堤地域の最北部に位置し、鶴ヶ島市との境に近い。
「川越市役所 小堤集会所」が道路の向かい側にあり、そこの狭い駐車スペースをお借りして、急ぎ参拝を行う。
        
                  小堤白山神社正面
              住宅が立ち並ぶ中の一角に鎮座する社。
     規模は決して大きくはないが、社殿は立派で境内も綺麗で手入れが行き届いている。
              
                小堤白山神社 社号標柱
   小堤白山神社は、慶長2年に越前加賀一の宮白山比咩神社を勧請して創建したという。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 白山神社由来
 白き山の白き神々の座、霊峰白山は、富士山・立山と共に古来日本の三名山の一つとうたわれている。
 最高峰、御前ヶ峯(標高二七〇二米)の頂上に奥宮があり、白山比咩大神(菊理媛尊)を祀る。
崇神天皇七年山岳信仰として、全国の崇敬を受け、養老年間(一二六〇年前)奉證大師の登嶺によって開かれ、それまでの山岳信仰から、神佛習合の信仰にかわっていった。
 平安時代(天長九年一一五〇年前)加賀一の宮に、奥の宮遙拝所として白山比咩神社が創建され御祭神は天照大神の玉母菊理媛尊(白山比咩大神)、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱である。
 小堤白山神社は、慶長二年(三八四年前)九月加賀一の宮から白山比咩神社の神霊を勧請して奉祀し郷土の信仰を得たという。

 江戸時代には産土神として、多くの人々ら崇敬される。
 安政四年(一二〇年前)には、社殿が再建され、明治・昭和と再度にわたり、修理を施しておりましたが、近年社殿の老巧化が進み、昭和五十五年六月再建の話が出るや、氏子中にて六阡参百萬円の多額の寄附申し込みがあり、社殿四阡五百萬円境内整備壱阡萬円その他にて建設されたのである。
 白山神社の祭日
 一月の元日祭 四月四日神楽奉納 十月十四日御日待
 八坂神社の祭日
 四月十五日春祈祷 七月十五日夏祭(御輿渡御)
 昭和五十七年四月四日  氏子中
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 白山神社  川越市小堤七八五(小堤村字白山西原)
 当地は『風土記稿』によると古くは上小坂村と呼ばれていたが、寛永のころ南側にある鯨井村の境を流れる小畦川の縁に堤を築いたことから、小堤村と改めた。
 当社は小堤の北に位置し、慶長二年、越前加賀一の宮白山比咩神社よりの分霊と伝える。
 村の草分けは、口碑によると宮本・三吉・大久保の三家で、中でも宮本家は代々名主を務めた家柄である。当社はもと宮本家の屋敷鎮守で、これが後世村鎮守となったものである。
 現在、宮本家は姓を宮根としているが、これは川越城に宮本という家老がいたので同姓では無礼だということから改めたという。宮本の名は、社のそばであったことに由来する。
 祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命・菊理姫命である。本地は、十一面観音で、厨子の墨書には「慶長二丁酉年九月吉日建立 宮本長右衛門惣村中 安政六未年六月再色願主傳七」とある。本殿は棟札によると、安政四年の再営とある。また、その後、社殿は明治、昭和と再度にわたり修理を施したが、近年老朽化が進み、昭和五五年に再建を決議し、氏子一同より浄財を集め造営を行う。現在の社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなり檜材を多く使用した立派なものである。
                                  「
埼玉の神社」より引用
 
          本 殿                境内社・八坂神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等
 

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