古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北平野稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市北平野366
              
・ご祭神 稲荷神
              
・社 格 旧北野村鎮守
              
・例祭等 3月初午 天王祭 715
 北平野地域は加須市東部に位置し、北は稲荷木排水路、南は中川の間にあり、地域内の大部分は田畑などで占められている豊かな穀物地帯である。それでいて、地域南部には埼玉県道84号羽生栗橋線や同県道346号砂原北大桑線などの道路が通っていて、交通の便も何気に良い場所でもある。
 国道125号栗橋大利根バイパスを旧栗橋町方向に進み、「加須IC東産業団地」交差点を左折する。埼玉県道346号線に合流後、北行し中川に架かる水門橋を越え、1.5㎞程先にある「北平野」交差点を左折、同県道84号線を西行すること300m程で北平野稲荷神社に到着することができる。因みに地図を確認すると、北平野集会所の隣に鎮座している。
        
                 北平野稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「平野村」の解説
 道目村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。田園簿によると田高一三七石余・畑高一三九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                   境内の様子
 北平野地域は化政期には平野村と称していて、この村は更に上・下・新田の三耕地に分かれており、神社や寺は上耕地に集中している。江戸時代化政期頃、56戸程で米麦を中心に大豆なども生産していた。現在全戸数は71戸を数えるが、氏子は古くからこの地に生活している65戸で、近年は兼業農家が増加しているという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平野村』
古利根川 村の南を流る、幅三間餘、川より一町餘隔てゝ水除堤あり、
稻荷社 村の鎭守なり、蓮華院持、
蓮華院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、安養山と號す、開山玄譽延寶九年七月寂せり、本尊不動、


 稲荷神社  大利根町北平野三六六(北平野字上)
 明治一二年まで平野村と呼ばれ、その名の通り利根川右岸に広がる平野であり、元亀・天正年間の開拓と伝える。集落は古利根川の自然堤防上に点在し、社も集落の中心部から西方に走る県道羽生栗橋線に近く鎮座している。
『明細帳』によると、当社は天正五年四月一五日山城国伏見稲荷社からの分霊を祀ったのに始まり、五穀の豊穣を祈り、村人が長く信仰してきたものという。
 元禄元年一二月一五日、本社と拝殿が再建され、正徳五年一一月二八日、京都吉田家より正一位の神階を受ける。その後、天明五年に一間社流造りの本社を再建して現在に至っている。
『風土記稿』によると、往時の別当は真言宗蓮華院が務めていた。
 現在の社殿の構造は間口三間半・奥行四間半の中に稲荷神社本殿と、その右側に八坂社と神輿、左側に浅間社が並び祀られている。八坂社は大正初期のころ蓮華院墓地近くから移されたものと伝えられるが、浅間社については明らかではない。
 境内には末社として天神社が祀られ、『明細帳』によれば寛政三年三月二五日に創建とある。このほか、八坂社は寛保三年六月一五日、雷電社は正徳三年二月二〇日、八幡社は天保三年八月一五日、厳島社は享保一二年五月五日の創建と載るが、現在境内には見当たらない。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                    拝殿の手前に聳え立つイチョウの御神木
   加須市保護樹木 平成27101日 イチョウ  幹の周囲 450㎝ 指定番号 97

 当社の祭礼は、3月初午と7月に行われる天王祭の2回。3月初午は、前日から世話人や当番耕地の人々が社に集まり、境内の清掃や祭りの準備を行う。当日は総代・世話人・区長などの参列により祭典が執行され、その後、集会所で直会が行われる。
 3月初午には、風呂を立ててはならないとする禁忌があるほか、スミツカリを作りツトッコ(藁苞 わらづと)に入れて神前に供える風習があった。また、スミツカリを食べると風邪にかからないといわれていた。
 因みにスミツカリとは、大根を専用のおろし器でおろして、節分のときの大豆をつぶして一緒に煮る栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理で、2月の初午(はつうま)の日によくつくるという。
 また、稲荷様の眷属は「お稲荷様(おとかさま)」と呼ばれ、以前は陶製の白狐が奉納されており、狐は犬が嫌いであるとのことから、この北平野地域の人々は犬を飼うことを遠慮していたともいう。
        
                境内に安置されている力石

 大正初めに当社に合祀された八坂社は、現在も社が残り、7月の天王祭は初午よりも賑やかに祭りが行われる。天王祭は、77日に準備が行われ、神職により神輿への神霊遷しが行われる。以前、神輿には大人と子供の二基があったが、大人神輿は傷みが激しく、渡御は行わなくなった。子供神輿の渡御は15日に行われ、夕刻に子供たちは集まり、神輿を担ぎ出す。現在は県道を進むことができないため、町道を進み蓮華院近くのお仮屋と称する広場(以前はここにお仮屋を建てていたが、今は略して名称のみ残っている)に行き、お仮屋で暫く休息したのち社に還るとの事だ。
 
  本殿奥に祀られている末社石祠と勝軍地蔵      勝軍地蔵の右隣に並んで祀られている天神社

 有形民俗文化財 勝軍地蔵の石仏
 指定年月日 昭和六十一年十二月八日指定
 所 在 地 加須市北平野三六六番地
 所有者等  稲荷神社
 造 立 年 享保十一年(一七二六)
 勝軍地蔵は、地蔵信仰の一形態で、悪業煩悩の軍に勝つという意味のお地蔵様であり、また火伏せの神(火防神)として愛宕信仰の対象ともされてきました。
 中世その姿から武士の信仰厚く、特に足利将軍家の尊崇厚かったといわれています。
 この地方で建てられた勝軍地蔵は、主として愛宕信仰として、火伏せの神「愛宕様」と呼ばれる信仰からと思われます。当町内で唯一の勝軍地蔵です。
 愛宕信仰の歴史を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日
                                      案内板より引用
        
           社殿奥で、県道寄りに祀られている浅間大神の石碑



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP
    「世界大百科事典(旧版)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
 

拍手[0回]