大佐貫長良神社
恵信尼が末娘の覚信尼(かくしんに)にあてた書状である。
親鸞が越後からの旅の途中、ここ佐貫まで来たとき、人々のために千部経を読もうと思いたったのであるが、ただひたすらに阿弥陀仏にすがる専修念仏を説いてきた自分が、自己の力によって人々を救おうというのは矛盾していることだと悟ったと書かれている。ここ佐貫こそ親鸞が真の他力本願を再認識した重要な土地なのである。
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大佐貫97
・ご祭神 藤原長良公
・社 格 旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り(お日待) 9月19日
大佐貫(おおざぬき)地域は群馬県邑楽郡明和町の中にある地域のひとつで、町内の西部に位置し、矢島地域の南側にあり、地域北部は工場や住宅地によって形成されているのに対して、南部、特に東南部一帯は長閑で広大な田畑風景が広がっている。
途中までの経路は矢島長良神社を参照。同社から400m程南行すると、進行方向右手に大佐貫長良神社の鳥居が見えてくる。但しこの一の鳥居付近には適当な駐車場所はないので、社の西側に隣接する東光寺の駐車スペースを利用して参拝を行う。
社号標柱のある大佐貫長良神社の一の鳥居
一の鳥居は東向きであるが、社殿は南向きであるので、参道は途中右側へ直角に曲がる。
『日本歴史地名大系』 「大佐貫村」の解説
東は中谷村、北は矢島村、南は川俣村・須賀(すか)村。村中を日光脇往還が通る。鎌倉時代末期と思われる足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に大佐貫郷の名がみえ、南北朝期以後は鎌倉府の御料所となり、御家務料所として年貢三分の二を免除されていた。
大佐貫の地名は伝承によると、鎌倉幕府の御家人佐貫氏が居住していたことによる。慶長一〇年(一六〇五)の大佐貫郷新開田畑年貢割付帳(薗田文書)は、同八年に造成した新田畑に対し年貢を割付けたもので、田方籾は一〇石六斗余、畠方代は一貫三一一文である。
嘗て舘林から邑楽郡明和町一帯にかけての地域には、「佐貫荘」が広がっていた。「讃岐庄」とも「佐木荘」とも書き、郷名でも見える。
この佐貫荘の起こりは11~12世紀頃、豪族・佐貫氏が自己の所有地を被支配民に開墾させたことに始まる。邑楽郡は利根・渡良瀬の両川に挟まれた平地で、古来度重なる洪水の度に土砂が運ばれ、自然堤防の小高い丘陵ができた。そこに人々が居住し、荒廃地や原野を開墾して耕地を広げ、村落を形成したのである。このような開発には豪族の力を必要とし、豪族は人々を使役し、自墾地とした。佐貫氏は豪族の中で最も勢力が強く、豪族らの中心的存在であったと考えられている。
西方向に伸びる参道 北方向に曲がる地には赤い両部鳥居と
幾多の庚申塔がある。
藤原北家小黒麻呂流、ないしは同家秀郷流の流れをくむといわれる佐貫氏は、『尊卑分脈』によれば、淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したといい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する佐貫広綱は、「吾妻鏡」などによると、上野国佐貫荘(現群馬県邑楽郡明和町大佐貫)出身の武将で、足利重光の子であり佐貫綱照の養子であるともいわれている。史実によれば、治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に初めてその名が出てくる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)7月20日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経・畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が北条鎌倉幕府を倒すために兵をあげたが幕府は朝廷を打ち破った(承久の乱)。このとき佐貫一族も宇治川で参戦したが、その時の手負いの人々の中に佐貫右衛門六郎、同八郎、同兵衛太郎、佐貫太郎次郎等の名前が出てくる。
境内の様子
元弘3年(1333年)、北条鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされ「建武の中興」が行われたが、すぐに破綻し、僅か2年後には足利尊氏が反旗をひるがえし、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存する南北朝時代という王権の完全な分裂状態に陥る。建武2年12月11日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った際、佐野・佐貫・山名氏等は足利方で活躍する。
その後、南北朝から室町時代にかけて続く戦乱の世に、佐貫荘も分断され、佐貫氏も衰退、徐々に赤井氏、富岡氏に権力が移っていく。
佐貫氏は一族の氏神に長柄神社を崇拝していたが、徐々にその信仰は在地庶民の中に浸透し、地域(村)の守護神として祀られるようになる。そして佐貫荘内には長柄神社(長良神社)がまつられ、現在も邑楽郡の東・南部に存在し信奉を集めているという。
拝 殿
『明和村の民俗』
大佐貫の長良様は古く、千代田村に鎮座する瀬戸井の長良様は、ここから分社したものといわれている。長良神社の祭典は、春祭りが四月十五日、秋祭りが九月十九日で、ナカノクンチにお祭りをしている。秋祭りのことは、お日待といっている。このときには、村からわきへ嫁に行った娘たちを呼んだり、親戚へ赤飯 (重箱に入れて)を配ったりしている。よそへ出たものは、お土産をもって、お客さんに来た。泊りこみでお客にきた。よそへ出た人は、お日待によばれてくるのが楽しみであったという。
また、昔は天王様は七月十日〜十二日に祀り、笛を吹いて毎戸を廻り、祭り当番は若衆二十人位でやった。ここの天王様は女性であるという。
拝殿に掲げてある扁額 拝殿内部に飾られてある奉納額等
社殿奥に祀られている境内社・石祠等 境内右側奥に祀られている石祠等
一番左側の石祠が猿田彦大神以外は不明 一番右側手前は道祖神の石祠
社殿の西隣にある十一面観音堂
大佐貫の観音様の縁日は十七日。八月十日が賑やか。もとは旧七月十日が縁日であった。ここの観音様は、十一面観音で、子育てと安産の観音様として知られている。身持になると、観音様のおさご(御散供)といわれる神や仏に参ったとき供える米,または祓(はらい)や清めの目的でまき散らす米を借り、これをお産の前に食べた。安産のあとおさごを倍にして返してきた。ここのお守りを受けていって、五ヵ月目の腹帯をしめるときに、腹帯の中にまきこんだ。また、さらしも借りていった。これをまいたものを一丈借りて、一反(三丈)かえ し た。なお、嫁にきたものは、二日目にムラまわりをするが、このとき、神社へお参りをしたり、観音様へお参りしたりしたという。
社殿から見る境内の一風景
また、この地域の「薬師送り」は、戦前まではあった。年寄の人が、白い手甲に脚胖をつけ、白装束で、菅笠をかぶり、「南無遍照金剛」と言いながら、歩いて廻ってきた。村々では、大師様(弘法様)を寺に飾っておいた。そこへ寄ってお参りをしたものである。村の人(寺世話人)が出ていて、廻って来た人を接待した。おにぎりを飯台に一杯つくっておいて、お参りに来た人をもてなした。これは、三月二十一日一日だけ。このことを、大師めぐりとか、大師送りといった。弘法大師を信仰する人たちが廻ってきたもの。子供達は、その人たちがまわってくると、「大師だ」といって、その行列のあとをついていったりした。この行列( 一行)は館林の普済寺を出発した。明和村関係では、新里⇒中谷⇒大佐貫⇒矢島⇒青柳の順であったという。
参考資料「日本歴史地名大系」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」「Wikipedia」等