古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

矢島長良神社

 群馬県邑楽郡明和町矢島地域は邑楽郡明和町の西北部谷田川右岸の位置にある。この地域は、古くから開発されてきた地域である。というのも、昭和333月谷田川中小河川改良事業と併せて行われた明和村土地改良区の事業の際に発見された「矢島遺跡」は、縄文時代から古墳時代までにわたり当時の人たちが暮らす貴重な遺跡や遺物が多く発見されており、文化的価値が非常に高い遺跡として知られている。この遺跡は国道122号線を中央に挟み、西側に2か所、東側に1が所の合わせて3ヶ所にある。当時の明和村教育委員会が最初に現地を試掘調査したあと本調査が実施され、明和村立明和西小学校の児童による遺物採集の協力もあり、多数の深鉢、壷、貝輪状土製品、石器等が採集され、縄文時代中期末から古墳時代に及ぶ複合遺跡であることがわかった。その後、昭和59年千葉大学考古学研究室の麻生優氏により、前回の遺跡付近を発掘調査したところ、縄文時代晩期の住居跡と平安時代の住居跡などが発見された。
 平成元年、
2年と東京電力が送電線の鉄塔を立てることになり、その予定地を明和村教育委員会が試掘調査をしたところ、縄文時代晩期のさまざまな遺物が発見された。その後、本調査である発掘調査をした結果、縄文時代中期から晩期にかけての土器や石器等の多彩な遺物を採集することができた。その後、同教委は幾たびも発掘調査を行った。主なものをあげれば、平成144月矢島遺跡の隣接地に東京ガスの輸送導管を埋設する事業を行うことになり、その事前試掘調査をした後に本調査の発掘をした。遺跡からは、縄文時代中期後半から晩期にかけての土坑(人為的竪穴)、深鉢、土器破片、炉の跡、石器類等の遺物が採集できたという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町矢島14501
            ・ご祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 
                 菅原道真公 大山祇命 他八柱
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王祭) 715
                               秋祭り 1015日。(*それぞれ15日に近い日曜日) 
 国道122号線を北進し、「川俣駅入口」交差点で右折、群馬県道361号矢島大泉線を100m程進んだ十字路を左折し、「矢島公民館」が見えるすぐ先の十字路右手に矢島長良神社の正面鳥居が見えてくる。前出矢島公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
       
                  矢島長良神社正面
『日本歴史地名大系』「矢島村」の解説
 谷田(やた)川右岸にあり、東は南大島村、南は大佐貫村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿村(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。
        
                   境内の様子
        鳥居から社殿に向かう参道は、若干上り坂となっているようで、
      更に社殿前には石段があり、周囲より一段高いところに鎮座している。
             
                石段上にある「御大典記念碑」
『御大典記念碑』
 村社 長良神社
 祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 菅原道真公 大山祇命
       宇迦之御魂命 素戔嗚命 市杵島姫命 大海津見命
       久那戸神 八衢比古命 八衢比売命 木花開耶姫命
 御本社長良神社ノ沿革ヲ〇フルニ其由緒古クシテ舊記ニモ見エズ口碑二依レバ長良神
 社ハ瀬戸井村長良神社ノ分祀ナリト云フ而シテ文政六七年以前二ハ字大宮二在リシガ
 須賀村破堤ノ際荒蕪野地ト爲リ氏子参拝二不便ナル爲字北谷二輔祀セリ其後神社合祀
 ノ令二依リ明治四十二年縣ノ許可ヲ〇〇字北谷二祭祀セル村社長良神社及境内末社水
 神二社稲荷神社愛宕神社富士嶽神社〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 神社字遍照寺無格社長良神社及末〇稲荷神社道祖神愛宕神社厳島神社〇〇〇〇〇〇〇
 格社清瀧神社字南谷厳島神社ヲ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 合祀シ後二長良神社ト改稱セリト云(以下略)                       記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 
   拝殿左側に祀られている根本山神       社殿奥に祀られている石碑三基
                      出羽三山社、食行霊神・角行霊神、磐長姫命

 根本山(ねもとさん)は、栃木県と群馬県に跨がる山で、標高1,199m。
 栃木県佐野市飛駒町と群馬県桐生市梅田町五丁目・みどり市東町沢入に跨がる。桐生市梅田町の最高峰である。桐生川の最上流部に位置する。中腹に根本山神社があり、江戸時代に山岳信仰の対象として庶民の信仰を集めた。江戸時代には信仰により多くの参詣者が訪れ、根本山の周辺地域には根本山への里程標「根本山道標」が設置され一部現存している。
 根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰であり、江戸時代には参詣案内書が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展したという。

 ところで、明和町矢島地域には、「御影田(みかげだ)」という地名に関しての伝説があり、『明和町の文化財と歴史』には「富士山供養塔」との名で紹介されている。どちらも話の内容は同じであるので、後者の話を全文紹介したい。
「富士山供養塔」
 矢島地区旧国道を横切る佐貫排水路の脇に高さ1m15㎝、幅35㎝の富士山供養塔が立っており、傍に植えた松が覆うように茂っている。昔、北国から富士登山を行う一行があった。
 その中に一人の年寄りがいたが、寄る年波に身体も意の如く動かず、ただお参りしたい一念で旅立ちはしたものの、一行より遅れて矢島村に差し掛かった時には、もはや力もつきはてて路傍に倒れてしまった。無念のあまり遠く富士を望んだところ、不思議にもその一念が通じたのか、水田の水面に鮮やかに富士山の霊姿が写り、有り難く伏し拝みながら遂に息絶えたと伝えられている。その後、人々はこれを非常に哀れみ、その弔意から路傍の一里塚に富士山供養の碑を建てて一句を刻んだと言われている。
 今でもこの地を御影田と呼んでいる。
「昔此の田に富士の影写りしかばふじの雲裾ひきあげて田うゑかな 翁(せいおう)

        
                境内より鳥居方向を撮影



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」    
        「Wikipedia」「境内記念碑文」等
                

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