古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

国済寺日吉大神荒神社

 庁鼻和は「こばなわ」と読む。庁鼻和は幡羅郡国済寺村の古名であり、国済寺明徳四年縁起に幡羅郡庁鼻祖郷と見える。また武蔵七党、私市党庁鼻和氏が嘗て存在し、幡羅郡庁鼻和郷がその根拠地であったらしい。吾妻鑑卷九に「文治五年七月十九日、頼朝奥州進発随兵に高鼻和太郎」。卷四十に「建長二年三月一日、庁鼻和左衛門が跡」と記述がある。
 時代は下った南北朝時代、初代鎌倉公方となった足利基氏の執事を務めた上杉憲顕の六男蔵人大夫憲英によって庁鼻和城、又は庁鼻和館は築かれた。詳しい築城年代は不明だが、国済寺の創建が康応二年(
1389)とされるため、それ以前と推測される。
 庁鼻和上杉氏は憲英・憲光・憲信と
3代続いたが康正2年(1456)に上杉房憲が深谷城をことにより、深谷上杉を名乗るようになる。こうして庁鼻和城は深谷城の支城となったが、戦国時代まで存続したのかは不明である。遅くとも、天正18年(1590)の小田原の役を以って廃城となったものと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市国済寺520 
              ・ご祭神 大山咋命、火産霊神
              ・社 格 旧国済寺村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 415日 秋祭 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1920056,139.3015819,18.25z?hl=ja&entry=ttu

 国済寺日吉大神荒神社は国道17号を深谷市方面に進む。「国済寺」交差点右側、国道沿いに鎮座していて、視界でも確認でき、また筆者としては比較的説明がしやすい。駐車スペースに関しても「国済寺駐車場」が道路を挟んで東側にあるため、そこに駐車してから参拝を開始した。
 
 国済寺駐車場の手前には、道祖神(写真左)・自性院六地蔵(写真右)が並んで祀られている。案内板によると自性院六地蔵は元々国済寺内の塔頭(寺内の小院)自性院に祀られていたが、昭和30年代に国道17号敷設に伴い廃寺となり、お地蔵様のみはこの場所に移動して頂き、お守り頂いているとの事。また道祖神は安全・安心の神様で、周辺に住まわれている方々に災い等悪いものが入ってこないように見張ってくださる神様という。
 道祖神の石祠の土台はかなり古そうだ。また六地蔵の横には昭和三年との門柱があり、嘗て存在していた自性院の門柱の可能性もある。
 周囲に花や植込みが整備されて小さな公園の様な佇まいがあり、周辺の方々の昔の物を大切に後代の人々に残そうとする日本人としての道徳心の賜物と感じた。
        
                        鳥居の手前で、道沿いにある社殿改築記念碑

 社殿改築記念碑 大里郡長従六位勲六等  秋葉保雄  篆額
 日吉大神荒神社は、大里郡幡羅村大字国済寺の鎮守なり。大山咋命を主神とし、相殿に火産霊命を祀る。口碑に此地元廰鼻祖郷と称いし頃、深谷城主上杉陸奥守憲英国済寺を創建するに、当里其境域に近江国日吉の社より分祀せしを、後年同所荒神社を合せ祀りきと傳う。明治七年五月村社に列す。旧殿いと狭く便よからぬふしもあれば、今年畏くも皇太子殿下御成婚記念の事業として氏子崇敬者胥謀り、同心協力多くの資金と労力とを寄進して社殿改築の工を竣へぬ。あわれ神は人の敬によりて威を増し 人は上の徳により事運を添うるといへり 人々が心を尽くし 力を極たるこの新宮殿は常盤堅盤に動きなく 此里の中心と仰ぎ待ちて 廣き厚き御恩頼に浴し奉るべく祈り このわざに勤しみ仕奉り あななひまつれる人々が芳き功蹟も 弥遠長に朽ちせざるべし(以下略)
                                      案内板より引用

        
          石製の社号標柱から見た国済寺日吉大神荒神社鳥居
       社号標柱には「日吉大神社 荒神社」と並列して彫り込まれている  
           参 道            参道途中左側にあった猿田彦神社の石祠
        
                                         拝 殿
 国済寺日吉大神荒神社が鎮座する地域は「庁鼻和」(こばなわ」と呼ばれていた。前出した案内板にはこの「庁鼻和」について以下の記載があるので引用する。
「廰鼻祖郷」 
 当地の鎌倉・室町時代までの古地名。廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読む。 地形から荒川扇状地端に位置し、低地から見ると鼻のように小高いところ、あるいは小塙(小高い丘)の意味。
 鎌倉時代、鎌倉御家人廰鼻和太郎の居館があり、その跡に室町前期上杉憲英公が廰鼻和城を築いた。 因みに深谷の地名は上杉氏五代目の憲房公が深谷城を築いてからのことである。

 また庁鼻和は、案内板によれば、廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読むようだが、風土記稿によると、「ちょうのはな」とも呼んでいたようで、その由来は当時の人々も分からなかったようだ。風土記稿には「堯恵北国紀行」という書物を引用して、参考資料としているので、追加して記載する。
・武蔵国風土記稿幡羅郡国済寺村
「ちゃうのはなと云しは此地のことにて、今国済寺境内庁鼻祖郷の名残れり。この辺元は概して庁鼻祖の唱なりしならん。されど祖の字を添しは其故を詳にせず」
・「堯恵北国紀行」

十二月のなかばに、むさしの国へうつりぬ、曙をこめて、ちゃうのはなといふ所をおき出云々」
 
        境内社八坂神社             境内社稲荷・蚕影神社
       
                    社殿の右側にある御神木

 上杉蔵人大夫憲英は山内上杉憲顕の六男として、新田氏に対抗するべく幡羅郡庁鼻祖郷に赴任し、館を築いたことが始まりとされる。
 その当時上杉氏は憲顕の6兄弟を核として、関東を中心に、鎌倉公方を越える権力を有していた。しかし調べてみるとこの兄弟でもその権力に顕著な差がある事も分かってきた。各人物の経歴、官職等をみると判明する。
上杉憲将( 1366
 憲顕の嫡子。官位・兵庫頭 武蔵守護あるいは代官として父の守護任国である武蔵守護代に在職。父に先立ち正平
21/貞治5年(1366年)に死去。
上杉能憲(13331378
 上杉重能の養子。官位・修理亮・兵部少輔 関東管領(
13681379 上野・武蔵・伊豆守護。以後関東管領の職を上杉氏世襲。
上杉憲春( 1379
 官位・左近将監 刑部大輔 関東管領(
13771379 上野・武蔵守護。
上杉憲方(13351394
 官位・
 左京亮、安房守 関東管領(13791392)上野・武蔵・伊豆・下野・安房守護。
・ 上杉憲栄(13501422
 上杉朝房の猶子。官位・左近将監 越後守護。
・ 上杉憲英( 1404
 庁鼻和上杉家
  奥州管領(1392年)
        
                        南向きに面している社殿から鳥居方向を撮影

 上杉憲将は父憲顕に先立って死去しているのは別として。上杉能憲・憲春・憲方は全て関東管領職であり、それに対して、憲栄・憲英の処遇は一段低い。但し憲栄・憲英の2人に対しても、憲栄はその時の管領である上杉朝房の猶子でもあり、その後押しもあり、越後守護に任命され、官位は左近将監であるに対して(一時的に憲栄は越後守護争うに嫌気して、出家していたとも言われている)、憲英はただの庁鼻和上杉家相続のみ。山内家の庶家という位置付けのようで、越後守護争いにも敗れている経緯は憲顕系の上杉氏一族のなかでの同家の立場をうかがわせる。官位は蔵人大夫とも陸奥守とも言うが、陸奥守は1392年奥州管領になった時点で爵位を受けた可能性もある。どう贔屓目に見ても待遇は低い。
 そういう意味において、明徳3年(1392年)鎌倉公方の分身として奥羽支配を担当した稲村公方・篠川公方の管領に、庁鼻和家憲英が就いたことは、遅まきながら庁鼻和上杉氏も、室町幕府・鎌倉府のなかで公的な地位の獲得を果たしたことを意味していると推察する。

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