古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

寅稲荷神社及び同古墳、お手長山古墳

 寅稲荷神社の由来は嵯峨天皇の弘仁の頃(810~824)、坂上田村麿将軍が、東国平定のとき、当地に陣を構え、皇運の隆昌を祈願されたのが、当社の始りであるという。近くには、要塞を築いたとされる旧跡や、四十八塚といわれる古墳があり、将軍の古戦場との伝承もあった。古く伝来する扁額の裏面に「寛平五年二月初寅祭」とある。
所在地   深谷市岡1685
御祭神   倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)
社  挌   旧村社
例  祭   4月10日 春祭り、10月3日 秋祭り

       
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 寅稲荷神社は国道17号を深谷市岡廼宮神社を本庄方面に向かい一つ目の交差点(岡交差点)を左折するとすぐ右側に寅稲荷神社が鎮座する。同名の古墳上にある社で6世紀末築造と推定され、全長50mと、四十塚古墳群では最大の規模の前方後円墳である。町指定史跡で、道路地図にも記載されている。
          
                       一の鳥居からの参道を撮影
        よく見ると参道は途中曲がっていて、正面には御神木である銀杏の木が見える。

 古墳群中最大の前方後円墳で、前方部を西に向けている。後円部から前方部にかけ寅稲荷神社が鎮座しており、墳頂部は平らになっている。1979年(昭和54年)に岡部町(当時)指定史跡に指定された。1981年(昭和56年)に周溝の発掘調査が行われ、埴輪片が出土している。1986年(昭和61年)と1994年(平成6年)にも調査が行われ、形象埴輪片(人物、馬、家)が発掘されている。
          
                         寅稲荷古墳の案内板
寅稲荷古墳
  高崎線岡部駅の北北西一・六キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の標高は約五一メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約一○メートルである。
 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多くは、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、二から三基を数えるにすぎない。
 本古墳は、ほぼ東西に五一メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径二六メートル、同高三メートル、前方部幅三四メートル、同高三・五メートルである。前方部の方が若干大きく高くなっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、六世紀末ごろと考えることができる。
 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当社には古獅子頭三基が伝えられており、町指定文化財となっている。
                                                           案内板より引用
                                                                       


  
           寅稲荷神社拝殿                           同本殿
  この地域では最大規模の古墳。6世紀後半の築造と推定され、当時の榛沢郡で最有力の首長の墓と考えられているようだ。

 
 寅稲荷神社古墳の東南600m位の場所にお手長山古墳はある。、この古墳は熊野古墳群内にある帆立貝形古墳である。

お手長山古墳
 所在地   深谷市岡
 墳  形   帆立貝式古墳
 築造時期  6世紀末葉~7世紀初頭
 区  分   深谷市指定史跡

        
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 1965年(昭和40年)に後円部南側から石室が発見され、須恵器提瓶や銅腕が出土したとの伝承がある。現在墳丘上に石室の石材らしき角閃石安山岩が散らばっている。1988年(昭和63年)に墳丘南側で発掘調査が行われ、周溝から土師器坏、須恵器甕、長頸瓶などが出土した。築造時期は6世紀末頃と考えられる。 
 
1979年(昭和54年)4月1日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定された。
            
                                                         東側正面にある案内板
深谷市指定文化財
お手長山古墳
          種別       史跡    
                   指定年月日  昭和54年4月1日
 
お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五○年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-一一六度-Eを示す。周溝からは、土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚古墳が存在する。
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。
                                                       案内板より引用

 古墳の南側に熊野神社遺跡があり、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘調査されている。土師器・須恵器・紡錘車・鉄器・銅製帯金具・掘立柱建物跡が出土し、当時の面影を思い抱かせる。そういう意味では榛沢郡は豊な米穀産地で、従事人口も多かった事を意味するのではないだろうか。

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