古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

普済寺菅原神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市普済寺919
              
・御祭神 菅原道真公
              
・社 格 旧普済寺村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
              *参拝日 2022年7月28日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2079569,139.2484789,16z?hl=ja&entry=ttu
 岡部神社から直線距離にして500m程北側に普済寺菅原神社は鎮座している。但し真っ直ぐ進む道はないので、一旦岡部神社の正面鳥居に戻り、国道17号線から本庄方向に進み、すぐ先の「普済寺」交差点を右折、埼玉県道352号中瀬普済寺線に合流し、300m程進行した先の十字路を右折すると、周囲一面長閑な田畑風景が広がる中、正面やや斜め左手方向に普済寺菅原神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 因みにその十字路を左折すると埼玉県指定史跡である「岡部六弥太忠澄墓」がある。
        
                                普済寺菅原神社の長い参道。
『新編武蔵風土記稿』における普済寺村の村域は、東西八町余(880m程)、南北二十八丁許(3,030m程)で南北に長い村であり、この地域の国道北面までは櫛挽台地上に位置し、標高は岡地域の旧町役場付近で58.5m17号国道沿いでも50mなのだが、そこから北側は福川右岸の沖積低地面に属するため、38mと一段低い場所に鎮座している。但しこの地域は古くから人が定住していたようで、縄文時代中期の遺跡である普済寺の菅原遺跡は嘗て大集落を営んだ形跡がみられていた。
 今でこそ集落から離れているが、嘗て境内付近は集落の中心であったと云われ、神社の南は「元屋敷(武蔵風土記稿では本屋敷と記載)」と呼ばれていたそうだ。
        
                  普済寺菅原神社正面
『日本歴史地名大系 』による「普済寺村」の解説では、「普西寺とも記す。櫛挽台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、東は岡部村。風土記稿にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名としたとある。村の中央を中山道が通り、風張(ふつぱり)には立場が設けられていた(嘉永五年「本庄宿明細帳」安中宿本陣文書)。普済寺は寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号(普済寺殿道海大禅定門)を寺名にしたとされる」と記載されている。
        
                       鳥居の左側にある
「狛犬奉納記念碑」
「狛犬奉納記念碑」
 敬神崇祖は我が国本来の大道なり。世は平成の御世となり先に天皇陛下御即位御大典平成五年皇太子殿下の御結婚と皇室の御発展弥栄の極であります。この度岡部町大字普済寺に鎮座する菅原、愛宕両神社の大前に皇太子殿下、雅子様の御婚礼の御盛儀と平成五年十月五日第六十一回伊勢神宮式年遷宮の御慶事を記念して狛犬を奉納し遍く普済寺の発展と氏子中の弥栄を祈りここに狛犬の奉納を寄贈せる氏子の御芳名を列記して後世に伝えんとす(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
           二の鳥居までにも長い参道が続く(写真左・右)。
   緑豊かな社叢林が参道の両側に広がり、「静謐」という表現が合う様な静かな社
        
                           色鮮やかな朱を基調とした二の鳥居
 
二の鳥居近郊にある「菅原神社再建奉納記念碑」 記念碑の先にある赤い屋根が特徴的な手水舎
菅原神社再建奉納記念碑」
 深谷市普済寺に古くから学問の神様、地域住民の鎮守として崇敬されてきた菅原神社は、永く氏子の信仰の拠りどころである。當社は、元来當地の総鎮守にして、往時は天満宮又は天神社と称し、元和年間(1620年頃)には神領があるとの記録がある。平成十七年八月十八日夜、不審火により當社の本殿・幣殿・拝殿が全焼となり焼失され、洵に悲痛の思いながらも、此度氏子中協議の上社殿を再建し、平成十八年三月三十一日社殿竣工奉祝祭が厳粛のうちに斎行された。茲に概要を記し、又社殿再建並びに境内整備費を寄贈される氏子及び関係各位の御芳名を石碑に刻し、後世に伝う(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                     拝 殿
大里郡神社誌 菅原神社』
 祭神 菅原道真公
 由緒 當神社創立年代不詳と雖も元來當地の總鎭守にして往時は天満宮又は天神社と稱し元和年間には神領あり且奉仕者等もありて地方著名の神社たり其故は元和五年八月の水帳に天神免神主分等の名稱ありて其當時田畑五反五畝十七歩の社領ありしこと明瞭なり又當時境内に清泉湧出して社の以東数ヶ村の用水の起源たるを以て水利關係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して特に崇敬せり
 明治五年九月村社申立濟
 
          本 殿                     本殿奥にある末社石碑・石祠群
 石祠群等は、左から二番目が諏訪社、右端の石碑は石尊大権現・大天狗・小天狗。他は不明。
 
 普済寺菅原神社の右手には水路が流れ(写真左)、その先には境内社・厳島神社が鎮座する(同右)。調べてみると、水路ではなく、「弁天池」という湧水池で、これより東部数ヶ村の水田を潤す水源として使い、『大里郡神社誌』では、毎年村々から幣帛料(へいはくりょう)が奉納されたそうだ。
        
          境内社・厳島神社手前にある「厳島神社改修建設記念碑」
厳島神社改修建設記念碑」
 古より、水の神を祀る社として伝え継がれ、さらには、女性の守り神弁天様と崇められ、永く氏子の信仰の拠り所として普済寺地域住人に守り継がれてきた。
この度、由緒ある「イツクシマヒメノミコト」を崇めようとする社殿の改修建設事業は極めて意義深いものがあり、郷土の弥栄と子々孫々の繁栄を念じ奉賛氏子のご芳名を記し後世に伝える。
                                     記念碑文より引用

       
             拝殿の手前に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等


      




 


 

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上柴町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市上柴町東118
             
・ご祭神 建御名方命 御穂須々美命
             
・社 格 旧柴埼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 327日 例祭 1017日 新嘗祭 1127
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1845429,139.3034566,19z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を「航空自衛隊熊谷基地」から2㎞程西行すると、「アリオ深谷店」が見える交差点があるので、そこを右折し、350m程進むと、進行方向右側に上柴町諏訪神社が見えてくる。
 
専用駐車場はないようなので、斜向かいにあるコンビニエンスで買い物をした後に、暫し駐車させて頂き、急ぎ参拝を開始する。
        
                  
上柴町諏訪神社正面 
『日本歴史地名大系』 「柴崎村」の解説
  [現在地名]深谷市上柴町西・上柴町東・幡羅町
 櫛挽台地の北東縁に位置し、東は東方村、西は榛沢郡上野台村、北は国済寺村。深谷庄深谷領に所属(新編武蔵風土記稿)。深谷上杉氏家臣の柴崎淡路介が慶長(一五九六―一六一五)前に開発し(同書)、村名も開発者の名に由来するという。


 現在の上柴地域は、深谷市東部、JR高崎線の南沿いに位置し、昭和47年度(1972)~昭和63年度(1988)の深谷都市計画事業上柴土地区画整理事業によりニュータウンとして造成され、それまでの長閑な農村風景は一新され、急速に都市開発が進んだ
 この地域には人口は1万9千人強、中心部には、上柴中央公園と上柴中学校、深谷赤十字病院をはじめ医療機関のほか、大型ショッピングセンターを中心とした商業施設も多く、文教福祉と産業経済がそろった、深谷市の中でも開発が盛んな地域の一つでもある
        
                               鳥居の左手にある案内板
 諏訪神社 深谷市上柴(柴崎字北中郷)
 祭神 建御名方命 御穂須々美命
 当社は、村の開発者である柴崎淡路介(深谷城主上杉氏の家臣)の一族が、文禄元年(一五九二)ごろに創建した月笑院の氏神として祀った。以後柴崎の鎮守として、字の人々の信仰を集めた。
 柴崎の地名は、室町時代の中ごろ(十四世紀後半)武州幡羅郡西庁鼻和柴前と文書にあり、ここは庁鼻和(国済寺)の西方にあたり柴前が柴崎と変りその後、上柴町と変り、道路なども整備され現在に至る。当社の近くにどんな日照りでも水が涸れなかったという古井戸や、深谷城の飲料水として城に運ばれた御用水運搬道(通称「御道」)などが消えたのは寂しいことである。
現在、春季小祭(三月二十七日)、秋季大祭(十月十七日)、秋季小祭(十一月二十七日)が行われている。
 深谷市上杉顕彰会平成十七年七月(第四十一号)
                                      案内板より引用

        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 柴埼村条』
「当村は上杉の家人柴崎淡路介と云もの開発せしと云、此人は今村民武平次の先祖にて、慶長元年二月十六日卒すといへば、さまでの古村にはあらざるべし(中略)御打入の後は松平孫三郎信吉法名宗心知行す」
『武蔵志』
「松平山月笑院は松平孫三郎宗真と云人草創す。当村は宗真の臣柴崎淡路介・同杢之助、草開き故と云ふ」
 
    参道を進むと左側にある手水舎     手水舎の右隣にある「社殿新築記念之碑」
       
           手水舎、記念碑の右隣に聳え立つご神木(写真ひだり・右)
        
                     拝 殿
 村の西北に鎭座せられ、境内五百十一坪社地の變遷なし、
 當社創立の沿革を詳かにせずと雖も新編武藏風土記稿に諏訪社。村の鎭守にして月笑院持とあり、月笑院は禪宗臨濟派国濟寺村国濟寺末寺、松平山と號し、御打入後松平孫三郎此地を領するに及びて文禄元年十一月、月笑祖光を開山と爲して開基せらると云ふ、又此地古く、深谷領に屬し、上杉氏の家臣柴崎淡路介の開發にかゝると云ふ、
 淡路介は村民武平次の先祖にして、慶長元年二月十六日卒と、文化の官撰に見えたれば、夙く是等の一族繁衍して祀れる神社にはあらざるか、氏子區域内に居住せる氏姓、概ね柴埼を稱へり、又深谷城との関係は古く、神社の付近に穴の口徑丈餘に及べる古井戸穿ちありて、當時深谷城の飲料水に供せられしと傳ひられ、今仝所字北中鄕八百十三番地より字西原六百二十六番地に至る巾四間長三百餘間深谷町に通ずる道路ありて、里稱御道と称し、御用水運搬道路の遺址あり、
                                 『大里郡神社誌』より引用
 嘗てこの社は幕末までは諏訪大明神」と称していた。明治7年5月に村社の申し立てを行い、明治43年には、神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和六十年に拝殿を再建。以後、平成初頭にかけて、手水舎や新社務所、美しい玉垣などが、次々に新築された。
        
                     本 殿
『大里郡神社誌』には、1017日の例祭で舞い踊る「獅子舞」に関しても、細かく記載されている。この獅子舞は、昭和25年頃まで氏子による獅子舞が行なわれたという。
獅子舞は、まず行事の始めに神降しの儀があり、当時の神職家(柴崎家)を出発して、寺や村の名士の家を巡り、境内に入って社前で夜半まで続いてのち、獅子頭神昇げの儀で納めとなる。
獅子舞は、雄獅子・女獅子・法眼の三頭によるもので、獅子頭に「元文三年(1738)戊午年 柴崎加兵衛」と彫むものもある。曲目には、御幣掛り・女獅子ガクシ・橋掛り・雨掛りなどがあった。獅子舞に付随して「棒づかひ」の行事も行なわれた。

*大里郡神社誌 原文
 當社の祭體に當り尤も重き行事を獅子舞とす男獅子女獅子法眼の參頭各二組ありて古きを隱居と稱ひ作者傳來詳かならざねども新頭には元文三戌午年柴埼加兵衛と彫む獅子舞に附随して行はるゝ太刀打の行事あり大小二組にして小太刀は七八歳位の児童大太刀は十七八歳位の青年を選び各々子内に生れたる長男を以て充つるの定めにして里稱ササラ子、太刀子又は棒ヅカヒなど稱へり奉仕者は凡て齊戒を怠らず行事の始め獅子頭に神降しの儀ありてすり出しを、ぶつ揃ひと稱ひ神職家の庭前に參集し途中行列の道樂を街道下り又はヌリ込みなどいへり神社の廣前には御幣掛女獅子ガクシ橋掛雨乞掛など行はれ其他寺堂村役人の庭上にも行はる、歌に切唄ほめ唄の二種あり何れも里謡の一種にして唄樣は謡曲の節に似て頗る古風の音調なり獅子舞は祭日の夜半を告げ之を千秋樂といふ獅子頭神昇げの儀、奉仕者の「胴上げ」(胴上げとは大衆掛聲勇ましく三度奉仕者の體を捧げ持つ儀なり)りて年番の引繼など古式の作法ありて一同退散す獅子舞は洵に當社祭典の骨子にして信仰と餘興とを兼ねたる貴重の行事として行はる
 
  本殿の右側奥にある庚申塔・大黒天等の石碑     社殿右側に祀られている石祠群・詳細不明。
        
                   境内の一風景

『大里郡神社誌 諏訪神社条』には気になる記載があり、「氏子内の習俗」の項で、それによると、由来は詳らかではないが、氏子内一般に、正月に門松を立てない習俗があるという。
これは熊谷市妻沼聖天院(聖天様)がその昔、太田の呑龍様との喧嘩中、松の葉で右目を松葉で突かれ、それからは松が嫌いになり、ゆえに妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいて、正月に門松を立てることはないという話を彷彿させる習俗である。この深谷市上柴地域は、決して妻沼に近くはないが、かといって遠すぎる距離でもない。何か関連性があるのだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「楡山神社HP」
    「深谷市自治連合会 上柴支会HP」「境内案内板」等

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原郷愛宕神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市原郷2031
              
・ご祭神 火産霊神
              
・社 格 旧原ノ郷村木之本鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 415日(*大里郡神社誌には43日)              
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1943039,139.3012449,18z?hl=ja&entry=ttu
 旧郷社・熊野大神社一の鳥居が立つ場所から旧中山道を西方向に750m程進むと、進行方向右側に原郷愛宕神社が見えてくる。社の西側隣で道を挟み「幡羅中学校」があり、「ヤオコー深谷国済寺店」が斜め向かい側にあるので、経路としては分かりやすい場所といえる。
        
                            旧中山道から正面鳥居を撮影
 深谷市・原郷地域は、嘗て「原之郷」とも称した。この地域は櫛挽台地北端、北流する唐沢川右岸に位置し、東は東方村、西は西島村、北は明戸村。村の南端を中山道が通り、北部を丈方川(福川)が流れる。深谷領に所属(風土記稿)。「和名抄」にみえる幡羅(はら)郡幡羅郷の遺称地とされ、幡羅郡衙の所在地とする説もある。
 別符系図(静岡県別符潔氏蔵)は藤原道宗が堀河院の時代に初めて東国に下向して幡羅太郎と称したと記し、道宗は成田助高(成田氏の祖)の父で、助高は成田大夫と称したとしている。地内に幡羅太郎館跡があり、平安末から鎌倉期にかけて当地一帯を幡羅氏が支配したといわれている。
『新編武蔵風土記稿 原ノ鄕条』
「當村は郡名幡羅の本鄕にて、【和名鈔】鄕名の部に載たる幡羅なり、【同書】郡の部に幡羅を訓して原と記せり、此唱へによりて中古文字をも原と書せしは郡中村々に藏する水帳、原郷と記せしにても知べし」

 
      正面にある鳥居と社号標柱      社叢林に囲まれている中、開放感もある境内
        
                     拝 殿
 愛宕神社
 楡山神社の摂社であり、同一の氏子によって護持されてゐる。旧中山道に面し、江戸時代までは八町八反の広大な社叢をもち、火防などの信仰がある。
 例祭は4月15日。
 鎮座地の小字 木之本は、大字原郷東部の台地地帯である。この台地の北辺には、西は楡山神社付近から東隣の大字東方(ひがしがた)一帯にかけて市内最大の古墳群である木之本古墳群が分布してゐる。その中心地域が木之本であり、今も比較的古墳の保存状態が良い地域である。古墳の古語の城()から「きのもと」の地名となったといふ人もあるが、明治末の氏子区域図によっても、この地は愛宕林のほか、民家を包むように広大な樹林が広がる地域であり、木の豊かな里であったと言へる。  愛宕林と呼ばれた八町八反の社叢は、明治以後は、上地-裁判-敗訴-買戻-資金返済のための開墾-一部に兵器工場の設置-農地解放-一部に新制中学校設立-新興宅地化といふ経緯をたどった。
                                   「楡山神社HP」より引用
*現在は楡山神社の総代・奉賛会が原郷愛宕神社の運営を兼ねているという。
       
             拝殿の左右にある社号標柱(写真左・右)
 拝殿右側の社号標柱に「火之神」とあるように、この社は火防の神として信仰されていて、ご祭神は「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている。この地区は、「木ノ本」と呼ばれているが、江戸時代まで「愛宕林」と呼ばれていて、当社の広大な社叢があったことに由来しているという。
『大里郡神社誌 愛宕神社』にも、その境内の規模に関して以下の記載がある。
幡羅郡原ノ鄕村字木の本に鎭座し給ふ創立年代詳かならざれども一に仝所字八日市に鎭座せる大鎭守延喜式楡山神社の攝社に座坐し小鎭守として奉祀せるものなりと云傳ふ、元祿十一年寅十一月村方書上帳に愛宕宮一ヶ所氏子持除地林六町とありて往古は境域廣大なりしとおもはる」
        
                     本 殿
       
         社殿右側にひときわ目立つクスノキの巨木(写真左・右)
          巨木と書いたが、ご神木といっても良いくらいの威容。
    特に根元部が異様に張り出し、社殿を囲っている垣根に亀裂が走っている(写真左)。
 大いなる自然の力の前には、如何に現代の技術によって発展した我々人類も敵うわけはないのだ。
 
   境内右手にある社務所らしき建物         境内東側に祀られているお地蔵様
 
 旧中山道沿いで鳥居の近郊にある「芭蕉句碑」    正面鳥居の左側に祀られている石祠
                              詳細不明
        
                              旧中山道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」大里郡神社誌」「楡山神社HP」等

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西島稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市田所町222
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧西島村鎮守 旧無格社
              
・例祭等 祈年祭 二月初午日 例祭 113日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1924874,139.2758131,18z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線深谷駅南口のすぐ南側に瀧宮神社が鎮座しているが、その社に沿って上唐沢川沿いの遊歩道を西へ300m程歩いて行くと、進行方向正面左側の小高い丘上に西島稲荷神社が鎮座している。
        
                                  
西島稲荷神社正面
 西島稲荷神社は櫛引台地の北端部に位置する。鎮座地のある西島は、『新編武蔵風土記稿 西島村条』に「元深谷宿の内なりしが、正保(一六四四-四八)の改以前に別村となれり」とあるように深谷宿から分離して成立している。
 また、当社の社地は、西島のうち古くは新田町と呼ぶ所にあり、この新田町について、『新編武蔵風土記稿』では「一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持」と記載され、また『深谷古来鑑』は「新田町元来畑の所、同年(慶安四年・一六五一)割替り申候」と、当所が嘗て畑地であったことを記している。
        
                  西島稲荷神社参道
 参道沿いに立ち並ぶ奉納された朱塗りの幟(のぼり)旗が印象的。これら多くは地域の信者の寄進によるものだろう。このような幟は、日本では独自の心理的効果を上げる目的で神社仏閣、宗教施設などに多く設置されている。
        
                   鳥居の右側に設置されている「
稲荷神社誌」の石碑
        
                     拝 殿
 稲荷神社誌
 當社は深谷町西島元西に鎮座し祭神は畏くも倉稲魂命であらせられ、神體は唐櫃入神鏡一面と金幣一體とである。其の創立の年代は詳でないが、大里郡神社誌に依れば舊來氏子に岸井友衛門といえる武士ありて壽永年間岡部六彌太忠澄に随身し一の谷に戦死したといい、當社はこの岸井氏の祖先の勧請にかかり山城国伏見稲荷の御分祀であると傳えられている。尚、社側に聳ゆる御神木の欅に徴し又町内随一の形勝ともいうべき臺地の杉林中に建てられたことや、古来村鎮守とか西島稲荷大明神などと稱え來ったことから推して、其の創造が如何に久しきかを知ることが出来る。恒例の祭日は例祭十一月三日、祈念祭二月初午日、新嘗祭十一月二十八日、小祭は四月三日である。當社の社殿より階段に連なる鳥居や御神燈は霊験のあらたかさと信者の赤誠とを物語っている。又昭和七年唐澤堤から設けられ、ついで氏子の奉仕による境内の新装成り。何人も遥に赤城の霊峯を仰ぎつつ、春は長堤の櫻花に英気を養い、夏は由緒深き聖境に心身を浄化し、普く神徳に浴することを得るに至った。殊に昭和九年より開かれた参道は、昭和八年竣功を遂げた元宮橋と相俟って参詣者にこよなき利便を與えている。實に神威は無窮である。
                              「
稲荷神社誌」の石碑文より引用
 
 拝殿に掲げてある「西島稲荷神社」の扁額           本 殿
       
               本殿右側で、上唐澤川沿いに屹立するご神木(写真左・右)
        
                   拝殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内石碑文」等

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西大沼伊勢之宮神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市西大沼300
              
・ご祭神 天照大神 豊受大神
              
・社 格 旧西大沼村鎮守 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 316日 春季祭 415日 例祭 113
                   
新嘗祭 1216
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2026243,139.2710281,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線で深谷市街地方向に進み、深谷市役所を過ぎた「田所歩道橋」交差点を右折、500m程北行すると、左側に西大沼伊勢之宮神社が見えてくる。
 社殿は東向きで、境内南側には社務所もあり、そこには広い駐車スペースも確保されている。
        
                 西大沼伊勢之宮神社正面
 深谷市・西大沼地域は、櫛挽台地先端部と上唐沢川左岸低地との境に位置する。標高は35m。中世は大沼郷のうちで、のち大沼村となるが、「郡村誌」では寛永2年(1625)東大沼村・西大沼村に分村したという。東は東大沼、西は曲田(まがつた)、南は萱場等の各地域に接している。『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』では深谷領に所属。文明9年(1477526日の県道忻書状(鑁阿寺文書)によれば、道忻は県式部丞の病気平癒祈願のため「大沼郷之内橋本給分」を下野鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進したと「三島同宿中」に報じている
『新編武蔵風土記稿 西大沼村条』
 大電八社 村の鎮守にて八色雷大電八と唱、八色の雷神を祀し社なりと云、村持、
 伊勢内宮 村民持、
 伊勢外宮 西福院持
 西福院 新義眞言宗、針ヶ谷村弘光寺末、玉寶山と號す、古は庵なりしと云、本地藏を安ぜり、
        
              入り口付近に設置されている案内板
 伊勢之宮神社
 当社の創建は明らかではない。
「風土記」に「伊勢内宮 村民持、伊勢外宮 西福院持」と、あることから、かつては二社であったと考えられる。今日のように一社となったのは、明治時代初期のことと思われる。
 明治四十五年、萱場の稲荷神社、東大沼の神明社、御嶽神社、曲田の神明社、稲荷神社、八幡神社、及び西大沼の大電八社等を合祀し、社名を神明社から伊勢之宮神社と改めた。
 西大沼村以外にも、上敷免村・東大沼村・曲田村・山川村・それに田谷村などには、一様に伊勢内宮・同外宮・大神宮・神明社などと称して伊勢神宮が勧請されている。これらはすべて伊勢の御師の影響と思われる。
 なお、田谷村の名の起こりは、この御師がお祓大麻を檀那に配るために構えた宿舎に由来するともいわれている。
 平成十四年十二月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
         案内板の奥にある「紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑」
 紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑
 神祇崇敬は肇國に基址にして之か祭祀は臣道の根幹なり。當社は元無格社神明社と稱したりしが明治四十五年一月二十四日當町大字萱場字池頭村社稲荷神社、大字東大沼字北村社御嶽神社、字新屋敷無格社神明社、大字曲田字六反田耕地村社稲荷神社、字下耕地無格社八幡神社、字櫻町耕地無格社神明社、大字西大沼字花小路村社八電八社の七社を合祀し又當大字緑小路無格社八坂神社を當境内に移轉し、同時に大字東大沼字北村社御嶽神社境内社岩戸神社、八坂神社、塞神社、字明間田無格社藏王者を合祀し村社に昇格して社號を伊勢之宮神社と改稱す。同日民有地七百五十七坪を官有地に組換え境内に編入の上境内施設を整備し大正五年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。斯して神社祭事の歸一及び民心の統一を期せり。然るに昭和十二年七月支那事變勃發するや皇軍連戰連勝偉大なる戦果を収むること茲に四星霜時恰も紀元二千六百年に遭う。乃ち當社氏子崇敬者胥謀り悠久たる皇紀を慶祝し之を記念するに、當社合祀の縁由を鐫して後昆に傳えんとす文を予に囑せらるるに及び筆を執りて梗概を叙すと云爾(以下略)
                                       碑文より引用
        
            参道の右手には「
神社改修記念碑」がある。
 神社改修記念碑
 当社は大里郡神社誌によれば大里郡深谷町大字西大沼字伊勢之宮三百一番地ノ二に在り、明治四 十五年一月廿四日八柱を合祀して村社に昇格の上村社伊勢之宮神社と改称した。
 伊勢之宮神社の祭神は大日霊貴命、豊受毘賣命、天照大御神、譽田別命、稲倉魂命、日本武命、大山祇命、別電命の八柱で当地の鎮守として御神徳高く氏子の崇敬日に篤きを加えたが、第二次大戦後は国民の敬神の念うすれ年と共に境内地は荒廃し合祀当時の建築と思われる社殿も亦幾星霜を経過して腐朽の著しいものがあった。奉賛会長中島宗市氏は氏子の安泰と国家の隆盛発展は先ず敬神観念の昂揚からとの信念で奉賛会役員と鳩首会議の上、境内整備と社屋の修理を発起し奉賛金六百八拾八万円を以って拝殿の修理をはじめ社号額の奉納、水屋の新築、更に社務所を移転改装し物置の新設ブロック塀の構築及び神域の整備等に着手し、昭和五十四年三月起工し昭和五十四年十二月二十五日めでたく竣工した。
 ここに氏子並びに関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せて其の大要を記し後世に伝える(以下略)
                                       碑文より引用

       
                            参道の先に神明系の鳥居がある。
 深谷市西大沼地域は、寛永2年(1625)に東西の両村に分村される前までは「大沼村」といった。大沼の地名は、かつて利根川が氾濫を繰り返し、沼や沢が造られた地形の名残という。
 柳田国男氏の地名研究によれば、「沼」を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから「沼」の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言えよう。
       
                                    拝 殿
 この大沼地域は、南側に櫛挽台地が広がり北側には妻沼低地が形成されているその境にあたり、櫛挽面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達していたと考えられていて、嘗てはその名のとおり湿地が多く点在し、旧石器時代の遺跡も少ないと思われてきた。
 しかし西大沼地域北側で見つかった「花小路(はなこうじ)遺跡」の発掘により、旧石器時代の石器、平安時代の掘立柱建物跡五棟、竪穴式住居跡六棟、中世の溝などが確認された。特に旧深谷市域では東方の幡羅遺跡に次いで2点目となる旧石器時代の遺跡が発見されたのは注目に値する。
 この遺跡では、古墳時代から奈良時代までの遺構・遺物が全く確認されていないが、平安時代の遺構は充実しており、廂を持つ建物は特に注目され、炭化米も出土しており、富を蓄えた有力者の居宅であったものと思われている。
        
                     本 殿
 中世には榛澤郡藤田庄に属していて、室町時代・深谷上杉氏の頃は、家臣大沼弾正忠の所領であった。深谷中学校南の西蔵寺は、大沼氏が開基創建したもので、この寺一帯が大沼館跡と推定されている。
 この大沼館跡は、深谷城の北西側で500m程の地点に所在していて、その距離の近さや、大沼氏と深谷上杉氏の主従関係を考えた場合、城下の重臣の屋敷を兼ねた出城のような存在であったかもしれない。
「大沼氏」は系統として残されている文献では「猪俣党岡部氏流大沼氏」及び「藤原姓大沼氏」「武田氏流大沼氏」3系統といわれている。

猪俣党岡部氏流大沼氏」
・秋元家藩臣秘録
「御譜代深谷衆七騎之内・大沼友左衛門。武州深谷新田と云所あり、先祖の旧跡にて、先祖岡部弾正と云。岡部六弥太忠純の後胤に今武州岡部駅に岡部六左衛門と云者あり。当時大沼弾正は岡部を改め大沼と名乗る」
大沼主馬。岡部六弥太忠純の三男岡部小五郎純憲より十一代の後裔岡部加賀守忠重なり、忠重代に岡部深谷大沼と云所へ移りてより右を以て名字とす、今に大沼村と云。忠重嫡子大沼外記忠宗、忠宗嫡子大沼弾正、次男大沼八郎兵衛は最上義光に仕、三男弾正左衛門は会津合戦に討死す、四男縫殿介嫡子大沼越後忠矩、忠矩嫡子大沼主馬忠興代より秋元家に仕ふ」

藤原姓大沼氏」
・新編武蔵風土記稿東大沼村条
古は上杉の家人大沼弾正忠藤原繁忠の所領なり。村内西蔵寺に墓あり、表に西蔵院殿従五位下弾正忠明安鳳誉居士・慶長十一丙午年十月二十五日、左に大沼弾正忠藤原繁忠、右に弾正忠八代孫大沼友左衛門忠賢とあり。この友左衛門は秋元左衛門佐が臣にして、近き頃当所に建しと云。村の北の方に屋敷跡あり」

武田氏流大沼氏」
大里郡神社誌
「榛沢郡上手計村二柱神社別当大沼院は、深谷城主上杉公の家臣大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際酒宴の席上礼を失し、弾正の怒に觸れ恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行意の如くならずして、困り居たるに、殿は乗馬にて追跡し遂に上手計村栗田家の門松の陰にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに院の妻亦自害して失せけり。別当大沼家系図に依れば、其祖は晴信号信玄にして、其子信繁は永禄四年川中島に於て戦死せしものとあり。其子信連は大沼大和守と称し、其後大沼内膳正春は正保四亥年五月十八日病気に因り田舎に住す。後に大沼将監勝義は寛文三年十一月二日武州榛沢郡藤田庄櫛引の里(上手計村)に住居すと記載あり。是より後修験道に入り大沼院と称せしものの如し。当社参道の右側鳥居先宅地二畝二十一歩は旧別当大沼家の屋敷跡なり。明治三年復飾し大沼主馬・神主となる」
 
  社殿左隣に祀られている境内社・八坂神社  社殿右側には庚申塔や大黒天等が並んでいる。
       
             境内の隅に屹立するご神木(写真左・右)
        
                        街中にありながらも静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「熊谷Web博物館」
    「花小路遺跡」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
 

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