古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

沼尻熊野神社


        
               
・所在地 埼玉県深谷市沼尻160
               
・ご祭神 伊邪那美命 速玉男命 事解男命(推定)
               
・社 格 旧沼尻村鎮守 旧村社
               
・例祭等 不明
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2288212,139.304723,16z?hl=ja&entry=ttu
 上増田諏訪山神社を東行して一旦17号上武バイパスとの交点を左折し、進路を北西方向にとる。2㎞程進んだ先の「石塚」交差点を左折、その後すぐ先に見える路地を右折し、暫く道なりに進むと沼尻熊野神社が正面に見えてくる。
 社の背後には小山川の土手が見え、その土手沿いには、春先に見られる菜の花が一面に咲き誇っていた。参拝当日の天候は晴れであったが、風は強く、肌寒く感じたが、やはり目の前に広がる菜の花の風景には心癒され、春の到来を身近に感じるものであった。
        
                  沼尻熊野神社正面
              
            正面鳥居からは左側で離れた所にある社号標柱
 深谷市沼尻地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、東西十丁・南北七丁程の変形的な台形を成している。因みに「丁」は長さの単位で、一丁はおよそ108m。現在の距離単位では、東西1080m程・南北760m程で、現在の行政単位でもそれほど変わらない。
 南西から北東に流れる小山川が西境で、小山川対岸は新戒・高島地域。南側は東西に流れる「備前渠用水」が南境となり、東側から北側は蓮沼・石塚両地域がその境となっており、平均標高は
32m34m程の沖積低地帯である。集落は利根川右岸の自然堤防上である地域北部にあり、その最西部に沼尻熊野神社は鎮座している。
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 蓮沼村条』において、「古は江原堀米二村の地も当村の内にて、既に名主伊左衛門の家に蔵する天正七年の水帳によりても、其頃三村すべて蓮沼村なりしこと知らる。今の如く三分せしは慶長七年検地の時なり」とあり、嘗てこの沼尻・堀米の2地域は「蓮沼」地域と一緒であり、その後慶長七年の検地時に3つの村に分かれたという。
        
                    拝 殿
 この社に関して、創建や由来を記した案内板や石碑等もなく、筆者が調べた限りにおいて、直接的な資料等も極端に少なかった。その少ない資料に中、「神社人」のサイトにこのような内容が記載されていたので紹介する。
 天慶3年(940年)に、藤原秀郷が、平将門追討のため、東国へ遠征した際、当地の祠前で、戦勝祈願をしたところ、無事、目的を達することが出来たのたので、その謝意として、再度当地に訪れ、三社の小祠を建てて祀ったことに始まるといわれ、現在も本殿北側に残っているという。

 ところで、沼尻熊野神社の北西方向には「高島生品神社」が鎮座している。小山川の対岸にあり直線距離にして500mくらいしか離れていない。この社のご祭神は考素戔嗚尊であるが、『新編武蔵風土記稿 高島村条』には奇妙な一文もあるのでここに紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高島村条』
 生品明神社
 村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
 高島生品神社は「平將門の子を祀ると傳ふ」と記されている。近郊の沼尻熊野神社はその平將門を討伐した藤原秀郷が戦勝を祈願した場所であるにも関わらず、その目と鼻の先にこのような社があるのはどうしてだろうか。

   社殿左手にある境内社・詳細不明。       社殿手前で右側にある社務所
     
                      深谷市指定保存樹木15号のイチョウ(写真左・右)

   社殿の右横に祀られている石祠三基       石祠三社の隣にも境内社が鎮座
        
                                    境内の一風景

 平安時代末期に活躍した斎藤実盛は、藤原利仁の流れを汲む越前斎藤氏の出で、出身地こそ越前国だが、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれている。
 源氏の家人として為義に仕え,保元・平治の乱では義朝軍に加わった。のち平家に属し,平家領である長井荘の荘官となったようで、治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされる。富士川の戦(1180)では東国の案内者として平氏軍に加わって東下したといわれる。1183年源義仲追討のため北陸に下ったが,加賀篠原で手塚光盛に討たれた。享年50余歳とも60余歳とも,また70余歳ともいう。
斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)に「斎藤館は、妻沼町の大我井の地・白髪神社の東方にありて、実盛の祖父実遠が着任し館を築き、実遠入所以前からあった酒巻氏の館であったので、酒巻氏を家司とした。実遠の長井庄着任以前の土地開拓者に十八人衆あり、その子孫は保元の乱後、同元年秋に実盛が長井庄館に帰還祝を屋敷母屋の座敷にて陣どる面々は、実盛を上座に、その左右に酒巻左源太・右源次の兄弟、十八人衆といわれる西岡喜内、高城宗近、飯塚平太、八木蔵人、江袋武平、沼尻五郎、江原太郎、蓮沼久吾、堀米八郎、大塚豊人、新井久馬、石塚左内、本郷三郎、谷口十四郎、江波善九郎、神根喜兵衛、藤木左近、寺窪次郎、郎等の宮内権六、長瀬新八、西浦喜十郎、西条新五、宮前太兵衛、以上二十六人。庭にむしろを敷いて邸内に住む家八、下人十三、以上二十一人である」と記載されている。
 この十八人衆といわれる家臣団の中に「沼尻五郎」が登場するが、近隣の地域名を冠した武士名(江原・蓮沼・堀米・大塚・新井・石塚)もあり、沼尻地域出身の武士である可能性は高い。
 このような資料を個人の力で探すのも結構時間と根気がいる作業だ。
        
                      社の後方で、小山川土手に広がる菜の花の風景
                         春の到来を告げる、心癒される風景だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「熊谷デジタルミュージアム」「斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)」「Wikipedia」等
  

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上増田諏訪山神社

「増田(ますだ)」地名由来
1 田んぼがふえるという悦ばしい表現、つまり‘田’が‘増’すので増田。〔埼玉県地名誌〕
2 田んぼの形が四角形で、まるで四角い桝を並べたようだったので、そこから“マスダ”→増田となった。〔日本の地名・埼玉県地名誌〕
3“増田”は“沙(ます)田”のことで、マスナダの省呼であると解釈している。このように解釈すると「武蔵国郡村誌」が上増田村の条で、土質を「色赤黒、あるいは青白砂石を混有し・・・(略)」と記してあるのに合致する。〔埼玉県地名誌〕
『熊谷Web博物館』より引用

        
              
・所在地 埼玉県深谷市上増田260
              
・ご祭神 建御名方命(推定)
              
・社 格 旧上増田村鎮守 旧指定村社
              
・例祭等 例祭 1015
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2111557,139.3248885,17z?hl=ja&entry=ttu
 宮ヶ谷戸住吉神社から一旦東行して埼玉県道263号弁財深谷線に合流後、そこを左折し、国道17号深谷バイパス「上増田」交差点を更に直進、コンビニエンスがある手前を右折し、250m程過ぎた十字路を再度左折してから暫く北上すると、進行方向左手に上増田諏訪山神社の社叢と鳥居が見えてくる。
 社の西側には「増東自治会館」と接しており、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始する。宮ヶ谷戸住吉神社の開放感ある境内とは違った、如何にも社叢林が境内を覆う社らしい趣ある風景が一帯を漂わせている。
        
                                  
上増田諏訪山神社正面
『日本歴史地名大系』 「上増田村」の解説
[現在地名]深谷市上増田
小山川と丈方(じようほう)川(福川)に挟まれた沖積低地に位置し、西は明戸村、南は宮ヶ谷戸村。領名は未詳(風土記稿)。慶長三年(一五九八)九月の円蔵坊霞郷付書立(黒田家文書)に「ますた」とみえる。なお文明年間(一四六九―八七)頃に増田四郎重富が当地を拠点として深谷上杉氏に対し抵抗したといわれ、地内諏訪山辺りが増田氏館跡とされ、現在も土塁・堀の一部が残る。
        
                                   木製の二の鳥居
 社の正面一の鳥居は東向きであり、そこから暫く参道を進むが、途中で右方向のⅬ字となり、直角に曲がる。南向きの二の鳥居がそこにあり、そこからは真っ直ぐ先に拝殿が見えてくる。街中に鎮座する社で時に見かける配置で、決して珍しくはない。
        
                                    拝 殿
                  創建、由緒等不明。
『新編武蔵風土記稿』
 諏訪社 鎮守なり、本地十一面観音を置、永楽寺持、
 永楽寺 古義真言宗、増田山観音院と号す、本尊阿弥陀、蓮沼村総持寺末にて、
     寛永十九年起立と傳ふ
『大里郡神社誌』
「上増田村諏訪山神社獅子頭の神事の起りは、人皇百五代後柏原院・永正飢饉に疫病流行す時に、虚空より獅子頭一つ降りしだれり。神職常政長富・七頭を作り正月十五日より十七日迄八つの獅子頭を舞し、疫神を切払ふ。戦国時代、増田の城主増田四郎重富というものあり、後重富は作戦上居を比企郡に移し治績大に見るべきものあり。今高見村に重富神社として祀られ、文殊も野原村に在り。重富・在村当時には今の野原文殊も上増田村諏訪神社に合祀せられしものの如し。現今も氏子中に重富の子孫ありとて、重富神社並文殊様より屡々招待せらるることあり。古城跡は本村の西北に在り」
       
             拝殿左側奥に聳え立つ巨木(写真左・右)
         指定番号大16号・深谷市保護樹林・樹種 ケヤキ(ニレ科)
               指定年月日 平成2年10月20日
 
     拝殿左側に境内社。詳細不明。      拝殿右側奥にも合祀社あるが、詳細不明。
        
                  拝殿右側手前には、土地譲与許可書を記した石碑がある。
             指令第九四〇號 譲與許可証 諏訪山神社
                                     (上段は以下略)
                           當社由緒詳細は埼玉縣神社誌参照あれ
                         神域は明治五年村社申立と同時に上地〇て
                         以來官有地として保護され 後に指定村社
                         となり國家宗祀〇して 永年に亘れり
                         昭和廿二年國有財産法改革あり境内地並に
                         立木の譲與處分を認めらる依て當社は法定
                         手續を以て無償譲與の申請をなしたる
                         上記の通り許可せられたり
                         終戦後神社法令改訂により 國家行政より
                         離れて宗教法人として自由信仰の封家とな
                         りたるも 氏子の奉賛愈々固く
                         神威灼熱 その尊厳を護持し得たるは氏子
                         一同感激する所なり  茲に久遠の傳統と
                         光輝ある鎭守の神徳を仰ぎつく概要を記す
                          昭和廿六年十月十五日
                                     當社氏子
                                       淺見兵左衛門選書
   *この譲與許可証に「指定村社」の記載があり、社格蘭に関して参照させて頂いた。
       
            諏訪神社・白山神社合祀記念碑   記念碑周辺には深い社叢林が覆う。
   「諏訪山神社」という名称は、諏訪神社・白山神社合祀でつけられたものであろうか。
        
                           自治会館側にある「遙拝所」

 ところで、室町時代、古河公方足利成氏父子に仕えた増田四郎重富なる人物がいた。この人物の出身地は当地「上増田」といわれていて、この地域には「増田館」があったらしい。室町時代中期、この関東一円で起こった「享徳の乱」でも、古河公方側として敵対する室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家と交戦を続けた。
『新編武蔵風土記稿 上増田村条』
「古城跡、堀形土居のみ残りて、百姓の屋敷となれり。東西九十四間、南北六十九間許の地なり。増田四郎重富と云ふもの住せり」

 長年の戦いの結果、関東地方は大まかに当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になるのだが、部分的には両陣営には「飛び地」が幾つか発生する。この「上増田」地域もその一つで、山内上杉氏に属する深谷上杉氏と正面から対立し、最終的には増田四郎重富は敗れ、文明10年(1478年)に比企郡高見城(四津山城 現在の小川町)を築いてその拠点を移し、尚も反抗を続けていた。
        
                              拝殿からの一風景

 重富は江南地方も勢力圏としていたようで、文明15年(1483)消失した男衾郡野原村(江南町)曹洞宗寺院の文殊寺を再興、大愚山文殊寺と改号している。因みにこの武州野原の文殊寺は、丹後の切戸・米沢の亀岡と共に「日本三体文殊」として有名でもある。
 没年は、長享元年(1487年)文殊寺で没したという説と、翌年長享2年(1488年)11月の高見原合戦が行われた際に、古河公方足利政氏の家臣として四津山城を守護していたが、山内上杉顕定側に攻略され落城し自刃したともいう。波乱万丈な人生と言って良い人物だ。
        
          社の西側路地上にポツンとある「
増田氏館跡」の案内板
     今はその遺構すらほとんど残っておらず、寂れた案内板があるのみである。
 増田氏館跡
 増田氏館は室町時代の豪族、増田四郎重富の館跡といわれ、市の史跡に指定されている。
 資料によると増田四郎重富は、扇谷上杉氏に攻められ、この地を捨てて比企郡高見町(小川町) 四ツ山城に移った。文明十五年(一四八三)消失した男衾郡野原村(江南町)文殊寺を再興し、長享元年(一四八七)二月三日没した。
 法名は傑山英公居士と称し、同寺内に墓がある。
 今でも雑木林の下に昔のおもかげを語るごとく土塁が歴然と残っているが、北側の堀跡は区画整理で道路となった。
 なお明治四十三年の大洪水でも館の屋敷内には浸水しなかったそうである。
 平成六年一月 深谷上杉顕彰会(第二十六号)
                                    現地案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「熊谷Web博物館」
    「Wikipedia」「現地案内板・石碑文」等

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宮ヶ谷戸住吉神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市宮ヶ谷戸181
             
・ご祭神 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命(推定)
             
・社 格 旧宮ヶ谷戸村鎮守 旧聖天社
             
・例祭等 例祭 1017
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2081772,139.3193361,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号深谷バイパスを西行し、「諏訪新田」交差点を左折、400m程先にある丁字路を再度左折して道なりに暫く進むと、宮ヶ谷戸住吉神社が右手に見えてくる。
 この社には道路沿いに参拝者専用駐車場も完備されており、参拝する際には大変ありがたい。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面
 深谷市宮ケ谷戸地域は、市北部・明戸地区南側に位置し、北側に17号深谷バイパス、東側に弁財深谷線、南側には新しく深谷北通り線が開通(平成312月)し、JR高崎線籠原駅(熊谷市)へのアクセスが容易になった。
 同地区は、地域の4分の1が農家で主に深谷ねぎを栽培・出荷している。また、土地改良の整備もされていて、小麦や稲作も盛んでのどかな田園風景に囲まれている場所でもある。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「宮ヶ谷戸村」の解説
 [現在地名]深谷市宮ヶ谷戸
 宮谷戸とも記す。丈方川(福川)左岸の沖積低地に位置し、西は明戸村。深谷領に所属(風土記稿)。田園簿によると田方九石余・畑方一〇五石余、旗本山本領で幕末に至る。「風土記稿」によると家数三〇、用水は備前渠用水を矢島堰より
取水。

「〇ヶ谷戸」の地名は、埼玉県内の平野部に意外と多い。事実、
宮ヶ谷戸地域近郊には「本田ヶ谷戸」地域もある。「谷戸」については、川島町の「牛ヶ谷戸諏訪社」で説明し、「地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか」と考察した。
 門題なのは、谷戸の名には、殆んど「ヶ」をつけて、「〇ヶ谷戸(ガイト)」と読んでいることである。丁度『嵐山町Web博物館』でもこの地名の由来に関して興味深い考察があり、以下の解説をしている。
『垣内(ガイト)というのは屋敷のある一定の区画の場所を指して呼ぶ言葉である。これは、始めある有力者の占有区域を意味し、その区域内には被保護者も住んで耕作をしいるというような大規模のものであったらしい。然し後にはこれが小区画の地名にもしばしば用いられるようになった。それと共に、元の「カイト」の意味も、段々に曖昧になったし、呼び方も一番古いのは「カキツ」で、それから「カイツ」「カイト」となり、更に変化して地方により「カイチ」「カクチ」「カイド」というようになった。それで漢字にあてれば、貝戸、海道、皆渡、開土、外戸などとなっているのであるという。私たちのカイドもこれに当るものである。カイドは垣内で屋敷の意味である』
カイドは屋敷であるとすると、次は「何々ガ谷戸」との関連である。私たちは、前述のように「谷戸」は地形の名であるとしたが、実はこの「何々ガ谷戸」の中には「何々ガイト」というべきものもあると考えるのである。つまり屋敷の名も「何々ガ谷戸」の中にあるということになる。例えば前にあげた殿ヶ谷戸・御所ヶ谷戸・宮ヶ谷戸・堂ヶ谷戸というような類は一般常民から仰ぎ尊ばれるような立場にある人物や、神仏などの、住居し祀られた場所だろうということは誰でも考えつく。とすればこれは「トノガイト」であり「ミヤガイト」である。何々ガ谷戸の中にはこういう意味で呼ばれたものもあったにちがいないと考えられる。そして前述のように「谷戸」は居住にも耕作にもまことに都合よい優れた土地であるから、このすぐれたよい土地を先ず有力者や神仏が占拠するのは当然で、谷戸と垣内は切っても切れない間柄のものであるといってもよい。谷戸というよい土地であるがために、垣内が成立したのである。谷戸は垣内の土地基盤であった。そしてこの関係が両者の区別を混然とさせて、両方とも同じく「何々ガ谷戸」と呼ぶようになったのだと判断するのである』
 興味ある考察である。
全てがこのような理由でこの地名がついたと断定することは危険であるが、地名の語源は、最初人々がそこに住み着いた際に、そこの地域を分かりやすく説明するために、最初は簡単な「音」で表現し、その後日本語としての「語」の組み合わせで造作したものであることは確かであろうから、地域によっては同じ地名、又は一部同じ地名があってもおかしくはない。
        
              開放感があり、広そうに見える境内
 宮ヶ谷戸地域の住吉神社のある辺りが、嘗て「宮ヶ谷戸館」の跡であるという。居住者不明の館跡。小字に「堀の内」があり、この社周辺ともいい、その遺構地の名残りともいえる。しかし遺構があるのかどうか、よく分からなかった。
        
                     拝 殿
 福川左岸の沖積低地の自然堤防上に位置する社。ただ、嘗てこの社近郊に利根川が流れていて、舟の安全を祈願して祀られた神社のようだ。一時期「聖天社」「聖天様」と呼ばれ時期もあったそうだが、明治維新後、旧称に復帰したという。
『新編武蔵風土記稿 宮ヶ谷戸条』
 聖天社 村の鎮守、無量寺持、
 無量寺 古義真言宗、蓮沼村総持寺末、紫雲山普門院と号す、本尊阿弥陀を安ず、
     
          境内には松尾芭蕉の句碑が2基ある(写真左・右)。
             〇文化十年(1813)二月建立(写真左)
              能見れは 薺はなさく 垣根かな
    孝子中化建之とあり、中化という俳人が、親の追善供養のために建てたもの。
              〇昭和十三年(1938)秋建立(同右)
              秋の野や 草の中行く 風のおと
      秋香謹書とあり、地元の俳句の会である幡明会の6名が建てたという。
        
           静かな境内でのひと時を穏やかに過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「深谷市自治会連合会HP 宮ケ谷戸自治会」
    「嵐山町Web博物館」等
           
       

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高島生品神社

 生品神社は群馬県太田市新田市野井町に鎮座している神社である。生品神社の創建は不詳だが豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子、上毛野君や下毛野君の始祖)が上野の新田地域を開発した際、大己貴命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。旧社格は県社。元弘3年(1333年)58日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、産土神である生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる
 
ところで生品神社は平安時代に編纂され、上野国(現在の群馬県)の格式の高い神社を列記した上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載されることから少なくともそれ以前から鎮座していた事が窺える。主祭神は大国主であるが、一説には平将門を祀っているという伝説もある。
 生品神社は太田氏周辺に7社あり、すべて新田の関係の場所にあり、高島生品神社が鎮座するこの地も嘗て上野国新田荘に属し、元久二年(1205)の源実朝下文写(正木文書)に、「元久二年八月日、上野国新田庄住人、義兼(新田)為地頭職事、高島郷」と新田義兼の所領と記載されている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市高島209
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 217日 例祭 1115日 新嘗祭 1123日        
 高島地区は深谷市北部で、利根川右岸に位置する。利根川の支流である小山川の進路が北東方向から東側に進路を変える地点に高島生品神社は鎮座している。因みにこの小山川は昭和初期まで新上武大橋の付近で利根川に合流していたが、河川改修によって合流地点が約3km東側に引き下げられたという。
 国道17号バイパスを群馬県方向に進み、「石塚」交差点を右折、その後利根川河川敷に到着するT字路を左折し、埼玉県道45号妻沼本庄線を西方向に進路をとる。小山川を過ぎてから河川敷を下った最初の十字路を左折すると、正面方向に高島生品神社が見えてくる。
 社に隣接して南側に社務所があり、鳥居との間に適度な空間があり、そこに車を停めてから参拝を行う。
        
                                                      高島生品神社 正面鳥居

「大里郡神社誌」によれば、「元高島村久賀之郷に鎮座し給ひ、上野国新田郡生品明神七社の一なり傳え云ふ(中略)本村の古老口碑に異なることなしその人に話に、新田義貞公生品祠前に旗揚げした時幾流れと敷ふべからぬ義兵の旌旗天を霞めて飜る、義貞公之を望み見て歓喜せられ「中空高縞(たかしま)の如し」と言われしとぞ傳えける是れ高島村の名の起源なりと云う」と「高島村」の地名由来が記載されている。
 その後宝暦年間(175164)の利根川の洪水のとき社殿が流失し、今の地に遷座。当始は「生品大明神」と称していたが、明治9年生品神社と改めたという。

 社号標柱には「子爵澁澤榮一書」とあり、渋沢栄一翁が91歳の時に書いたとされている。
        
                                  参道正面 境内の様子
       
              参道のすぐ左側にはご神木が聳え立つ。
        
                       拝殿右側手前にある「生品神社 改修記念碑」

 生品神社改修記念碑
 生品神社は昭和初期に創建され、以来八十年近い歳月が経ち、瑞垣を支える石垣の破損が進んだことに氏子各位の参道をいただき、改修することと相なりました。
 このほかに灯籠の移転、参道、狛犬、拜殿門前の階段、大杉様、賽銭箱、拝殿の戸等の境内整備を併せて行い完成の運びとなりました。
 ここに改修工事の旨を石碑に刻み後世に伝えるものであります。
                                       案内板より引用
        
                                生品神社社殿正面

 神門があり、拝殿や本殿は瑞垣でしっかりと囲まれている。この社の境内自体が自然堤防の縁みたなところで周囲の田んぼより高くなっているが、社殿は更に石垣でかさ上げされた基礎の上に鎮座している。宝暦年間(175164)の利根川の洪水に対する教訓からくる備えなのだろう。
 また両サイドにある狛犬の台座が、とにかく大きい溶岩石。なかなかお目にかかれない珍しいものである。

「新編武蔵風土記稿 高島村」
 生品明神社 
 村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
        
                            拝殿・本殿は総囲いとなっている。
 
     社殿左側に鎮座する境内社        社殿左側には末社(石祠)群があり。

 石祠群は一番右側は大杉社。その左側は水神宮。それ以外は詳細不明。但し「大里郡神社誌」によれば、境内社・合祀社には「稲荷神社」「諏訪神社」が鎮座していたようなので、これらの中にあるかもしれない。
        
                                   御嶽塚
御嶽山国常立命・三笠山豊斟命・八海山国狭槌命と天之御中主大神・神皇産霊神・高御産霊神」等の石碑があり。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「Wikipedia」等



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成塚御嶽大神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市成塚208
             ・ご祭神 大山祇命・大己貴命・少彦名命 (配祀) 大物主命
             ・社 格 旧村社 *大正元年九月神饌幣帛料供進神社指定
             ・例 祭 2月17日 祈年祭 例祭 4月10日 11月24日 新嘗祭 

 成塚御嶽大神社は深谷市成塚地区北部に鎮座している。国道17号バイパスを旧岡部町方向に進み、「明戸(西)」交差点を右折。因みにこの交差点を左折し、700m程南下すると、旧県社である楡山神社に達することができる。群馬県道・埼玉県道275号由良深谷線を北上し、備前渠、小山川を越えてから、埼玉県道356号成塚中瀬線に路線変更しながらも道路は道なりに直進する。小山川を越えてから北西方向に500m程進むと、成塚御嶽大神社の社叢がほぼ正面に見えてくる。
 周辺の地形を確認すると、小山川と唐沢川が合流する地点から700m北方の微高地に成塚御嶽大神社は鎮座しているようだ。
        
                       成塚御嶽大神社正面

 Y字路の角に社の入口がある。県道は南東から北西方向に進んでいるが、鳥居正面はやや東側方向に向いているため、Y字路の正面から撮影すると、鳥居がやや斜めを向いてしまっている配置となっている。
       
       鳥居の左側に設置された社号標柱   鳥居の右側「神社整備之碑」石碑

 神社整備之碑
 敬神崇祖は我國古来傳統の美風にして尊皇愛國は我が民族の信念也 されば神社は郷邑の〇土神として〇〇〇守護し庶民信仰の起点として神威を廣く長く普く垂れ給う かかるが故に地方神社は多く鎌倉時代より
〇〇〇土豪によりて崇敬せられ徳川時代に除地又は御朱印地の寄進を受け明治維新にありては祭政一致によりて國家の宗礼となり境内地は官有とし社格を附典せらる 我が鎮守御岳大神社は寛永三年宝蔵寺開山尊栄法印〇和〇〇に座す金津神社を分霊奉齋すという 特に中古地頭遠山半左衛門氏の崇敬厚かりしと聞く 本社〇朱水帳記載の除地を有し明治七年に至りて社號を改稱同五月村社に列す 明治三十八年発布の勅令に従い同四十年十二月境内社琴平神社を本社に合祀同時に登戸に座す稲荷神社及大塚に座す稲荷神社を始め各小字に座す東照宮大神社阿夫利神社宇長男神社三峯神社神明社八坂神社高宮神社大天狗小天神社を境内に合祀し社殿の造営並に〇内を整備し益々神威を顕揚す 大正元年九月神饌幣帛料供進神社に指定せらる 我等氏子請人は心の故郷と〇し尊び御神徳を仰ぎ〇本〇始の誠を捧げ年々の大小祭祀を奉仕し恩顧を〇みける 偶々昭和二十一年二月未曾有の國家制度の改革により祭政分離の國家方針に従い神社は宗教法人となり境内地五百五十六坪は国家より無償供与せらる 今や世〇隅々として〇〇し思想の混迷甚しけれ共氏子一同各々敬神の念篤く時あたかも第五十九回神宮式内遷宮を記念し旧三國街道と界する右側に巨費を投じ石造玉垣を囲らし神威の荘厳を加へ永遠に神威のいやちこを祈念す 村民愛郷の精神を社運の弥栄と相候ら今〇〇じて見るべきものあらん茲に梗概を記〇て後昆に傳う(以下略)
                               「神社整備之碑」碑文より引用

        
                              参道の先、社殿を望む。
    周辺には民家も立ち並び、長閑な村の鎮守様というイメージがピッタリと合うような社。
        
                                        拝 殿

 周辺の標高を確認すると、小山川の北側、社に通じる県道沿いが35m弱の高さであるに対して、拝殿、その奥にある本殿は35m~35.5m程。拝殿の前・側面には多くの川石が敷き詰められ、本殿にも同様に川石等基礎の土台を固定し、加えて盛り土がなされていている。南北に位置する利根川、小山川に対する洪水等の水害対策を行っているような構造となっている。
        
                      本 殿
   この角度ならば、本殿・基礎部分には敷き詰められた川石や、盛り土の状態が分かる。

 「大里郡神社誌」によれば、成塚御嶽大神社の創建に関して、寛永三年(1626)成塚村の宝蔵寺の創立に当り、吉野の蔵王権現を勧請したのが由来という当時の地頭 遠山半左衛門は、蔵王権現を深く信仰し、自から不動尊像を描きて奉納したものが、今に寺宝として伝わる。「蔵王大権現」ともいった。『新編武蔵風土記』に「蔵王社、村の鎮守なり」とある。明治七年、御嶽大神社に改称。
 
  社殿左側には5基の石祠が並列して鎮座している。   社殿右側にも石祠が4基並んで鎮座している。
  左側2基は天満宮と東照宮。その他は不明。        詳細は不明。

「神社整備之碑」において、末社として「東照宮大神社・阿夫利神社・宇長男神社・三峯神社・神明社・八坂神社・高宮神社・大天狗小天神社」が紹介されている。それに対して「大里郡神社誌」では「阿夫利神社・大天狗小天狗・天神宮・東照宮・大天獏・八坂社・手長社三峯社」と若干の違いがある。
        
                     
社殿右側の石祠群に隣接して境内社 稲荷社が鎮座。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」等
       

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