古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関浅間神社

             
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町関1947
                   ・ご祭神   木花咲邪比売命
                   ・社 挌    旧指定村社 阿那志村鎮守
                   ・例祭等   祈年祭 3月29日 大祓式 7月31日 例祭1010
      地図  
https://www.google.co.jp/maps/@36.1896854,139.1945209,16z?entry=ttu

 関浅間神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先の交差点を左折すると左側にこの社の鳥居が見えてくる。もっともその交差点には「指定村社 浅間神社」と表記された社号標柱があり、見た目だけは分かりやすい社である。
 駐車場は残念ながら無く、鳥居の前の参道が丁度車一台分くらい置くことができるスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。 
            
                      諏訪山丘陵地の一隅に位置する鳥居
            
                                                      鳥居の右側手前にある案内板
 浅間神社 御由緒    美里町関一九四七
 □御縁起(歴史)
 当社の鎮座する川輪は、山崎山丘陵から広がる農村地帯で大字関の小字である。川輪は武蔵七党猪俣党川勾(かわわ)氏の本貫地といわれている。江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。
 祭神は木花咲邪比売命である。境内社には稲荷神社・八幡神社が祀られ、江戸時代末には同字の下浅間神社を本社に合祀した。
 川輪の住民は、大字関の鎮守児玉神社の氏子であるとともに、字川輪の鎮守浅間神社の氏子でもある。
 社伝によると、浅間神社の創建年代は不詳であるが、永正年間(1504-21年)に鉢形城主北条氏邦が当社を深く信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄付したという。慶長18年(1613)の大火により社殿が灰燼に帰したが、後に村民により社殿が再建された。
 当社は浅間山の丘陵に鎮座する。江戸時代からの富士浅間信仰に基づき、地元川輪のみならず近郷近在の崇敬を仰いだ。特に雨乞いに霊験あらたかといわれ、社殿には雨乞い祈願の絵馬も奉納されている。境内地には、干ばつ時にも枯渇したことがないとされる池も現存している。
 川輪に伝承されている神楽は、通称「川輪の神楽」と呼ばれる。明治十五年に本庄市諏訪の神楽師より伝授されたとされ、以来官幣中社金鑚神社神楽に統率されたという。
                                                            案内板より引用

 
 鳥居を過ぎてから登り斜面の参道を進む。 
意外と拝殿までのルートが思った以上に長く(写真左・右)、ほの暗い参道を延々と進むその時間は心寂しく、ハイキング気分とは到底いかないものだった。 
            
                       
参道の途中には池。案内板による干ばつ用であろうか。 
            
    
          長い参道をしばらく進むと浅間神社の明るく開けた空間が広がる。
            
                                  拝 殿
 
   拝殿向拝紅梁に掲げてある「富士山」の額                  本 殿              
            
                          浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社は字川輪の鎮守であり。御祭神に木花咲邪比売命をお祀りしています。社伝によりますと創建年代は不詳ですが、永正年間(1504-21)に鉢形城主北条氏邦が深く信仰し、社殿を再興したといわれています。
 当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。当社の社殿は、今から106年前の明治33年に建設された後、昭和から平成の時代と、幾度かの営繕工事を重ねてまいりました。しかし、老朽化が急速に進み、改修工事を実施せざるを得ない状況となりました。
 そこで、平成18年5月6日に氏子総会を開催して協議したところ、出席者各位の賛同を得て、社殿改修の浄財を募り、改修工事の運びとなった次第です。改修総工事費は、553万5千円であり、平成18年10月9日に着工し、平成18年12月10日に完成しました。此処に改修工事の旨を石碑に刻み、後世に伝えるものであります。
                                                          
                                                                                                 境内石碑から引用
          
              
       社殿の左側の奥にある境内社(写真左・右) 
                神楽殿                    社殿脇にある「昇格参宮記念碑」 
            境内の一角に祀られている石灯篭と、その並びに聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

 浅間神社
 大字関にあり、木花咲邪比売命を祀る。創建の年代等不明であるが、伝えによれば永正年中(1504-1521)北条氏邦が深く当社を信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄進したといわれるが、慶長18年(1613)火災にあい文書等すべて烏有に帰したという。 
                                                         「美里町史」より引用                                                                                                                

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阿那志河輪神社

 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。「河輪」という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地域には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。 

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町阿那志1663
             ・御祭神 淤迦美神 (相殿)健御名方命 八坂刀売命
             ・社 挌 旧阿那志村鎮守 武蔵国式外社
             ・例祭等 祈年祭 225日 例祭 45日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1125日 師走大祓 1225
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1859014,139.1928848,15z?entry=ttu 
  阿那志河輪神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先のT字路交差点を左折する。その後長坂聖天塚古墳付Y字路字路になるので、そこを左折し、そのまま道なりに500m程進むと、再度Y字路になるので、そこを左折すると200m程で左側に阿那志河輪神社の鳥居が見えてくる。
 残念ながら駐車スペースが見当たらないので、鳥居から北東方向に伸びる農道に路駐をして、急ぎ参拝を行った。因みに北東方向に伸びる農道の先に社の参道らしい標柱が見える。もしかしたら嘗ての参道の名残りかもしれない。
            
           正面 諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている。
 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、ここも古くから河輪神社と主張していて、現在どちらが真の河輪神社であるか検討の余地はある。
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう「式外社(しきげしゃ)」と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという。
           
                         諏訪山の麓付近に建つ鳥居
     
 河輪神社一の鳥居を過ぎると、拝殿まで登り斜面の参道(写真左)が伸びている。標高113mの頂上まで石段を登ることになる(同右)。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に到着する。写真を見ると明るそうに見えるが、これは冬時期で、一体の森の葉が落ちているため、光が差し込んでいるが、新緑のシーズンとなると、この参道は昼間でもほの暗くなる。ともかく第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えないのが正直な感想である。
           
              やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。
 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。
           
                    朱色ではなく赤が基調の河輪神社拝殿正面
 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、登り斜面の参道を進む際に感じた心寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、すぐ南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。
              
                                案内板
河輪神社 御由緒   美里町阿那志一六六三
□御縁起(歴史)

  当社は『三代実録』に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である社伝によると、延暦20年(801年)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したというその後、武蔵七党の猪俣党河勾氏(かわわ)の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614年)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した
当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。明治十九年には、社号を旧名に復すとして社号改称願が県令に提出され、同二十八年に河輪神社に改称した。また、同三十三年と三十五年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀賣命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治四十年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同四十一年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した

                                                            案内板より引用
 
 拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額             境内にある神楽殿
  拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
   「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを「国史現在社」といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)
 
                    社殿の奥にある境内社(写真左、右) 
 河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
        
               河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳

 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 
       
             境内にある御神木               参道の途中にあった立派な杉
                                      境内にある御神木より立派なため撮影

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 


 

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小茂田北向神社

 美里町小茂田地区は美里町の北部に位置している。美里町は南北に細長くやや長方形を示していて、中央部以北は平坦地で、南部にいくに従って高度を増し、ゆるやかな傾斜をなしている。南部山間地帯は標高100~500mに位置し、小茂田付近では標高60m程であり、畑及び水田はほとんどこの地域に分布している。地形をみると、秩父山地の山脚が北東の方向にのびて山地帯(標高150m以上)を形成し、さらに丘陵地帯(標高100~150m)・低地帯(標高100m以下)と大別することができる。秩父山地と関東平野とは、八王子構造線と呼ばれる断崖線(標高150m内外)ではっきり境されている。
 美里町の丘陵地帯は、山麓地帯やそして町の東部を北東から向かい諏訪山から山崎山にかけて走り、さらに、北西部には生野山から朝三山の間にかけてのびている。このことから小茂田地区を含む中央部から北部の低地帯は、南部は八王子構造線、北部は深谷本庄断層線によって境され、東西は丘陵によって囲まれ、盆地上低地帯を形成している。それ故に内陸性の気候の特徴をもち、夏は蒸し暑く、冬は乾燥し、湿度が低くなり、晴れの日が多く「からっ風」と呼ばれる北西の季節風が吹く。そんな小茂田地区の小高い場所の一角に小茂田北向神社は鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡美里町小茂田4-1
御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌    旧村社、旧小茂田村鎮守
例  祭    春例祭4月5日、秋祭り10月15日
        
 小茂田北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線と埼玉県道75号熊谷児玉線が交差する阿那志交差点を本庄方向に北上し、関越自動車道を過ぎた下十条交差点を右折するとすぐ左側に緑に囲まれた社叢が見える。周囲は田園地帯ながら、この社の周りだけ若干小高い丘陵地となっていて、その上に鎮座している。
            
                        小茂田北向神社一の鳥居
                  境内は綺麗に整備されていて、立派な神社。

        参道左手にある小茂田池               参道には比較的広い空間が広がる。
 延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)ののうちの一社と比定されている。江戸時代には小茂田村の鎮守社となっていた。明治40年に近在の神社を境内に遷座したという。
           
                               拝  殿

           拝殿前にある由来書                                                拝殿内部
北向神社 由緒書
北向神社は、古代から小茂田地区の鎮守様であるとともに、「北向様」と呼ばれて、近在近郷の人々からも広く崇敬されてきました。
 社伝によりますと、桓武天皇の時代である延暦20年(801)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れておまつりしたといわれています。
当時、近くを流れる身馴川(小山川)には、周辺の村々の田畑を荒らし廻わり、人々を苦しめる大蛇が棲みついており、坂上田村麻呂は上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと大蛇を退治することができたという伝説が伝えられています。坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって、北向きにおまつりしたため、北向大明神とか北向神社と称されるようになったといいます。地元の人々は、五か所にまつられた北向神社を総称して、「五社の明神」と呼んでいます。
北向神社は、邪気を祓い、人々の幸福を願う節分蔡行事で有名ですが、五穀豊穣や厄除開運をはじめ、勝利祈願や安全祈願にも霊験あらたかといわれています。また、氏子の人々によって鎮守の森が保護され、自然環境を大切にしておまつりされています。
祭神 大己貴命、素戔嗚命、少名彦命(以下中略)

                                                       案内板より引用
 
 境内社 左から八坂、神明、天満天神、稲荷神社       境内社 厳島、山之神、大国、三嶋、八雲神
            
                      社務所も兼務している惟神祖霊社
  当地は身馴川(小山川)と志戸川の問に位置し、条里制の遺構がある。古くは薦田(こもだ)と記し、真薦が繁茂している田を意味していたと思われる。文永11年(1274)11月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記されている。また、武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安3年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したという。元和3年(1617)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
 当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。社伝によると、桓武天皇延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。当社はその内の一社である。
 当社の祭神は、須佐之男命・大己貴命・少彦名命の三柱である。江戸時代初期から幕末まで領主旗本酒井家の信仰厚く社殿改修を進めたが、元文4年(1739)12月17日に「池魚〔古くより社有地に灌漑池あり)の災い」による大火に遭い、社殿・古文書類ことことく灰燼に帰した。その後、酒井家や氏子の努力で社殿が再興された。また、天明年間(1781-89)には天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われたが、鳥居を奉納することでその難から逃れられるようにと願った氏子たちが天明3年(1783)に石鳥居を建立したと伝える。
 安政5年(1858)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬〔岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
 境内社は稲荷神社・神明神社(伊勢神社)・天満天神社(菅原神社)・八坂神社・阿夫利神社・八雲神社・三島神社・大国神社・山之神社厳島神社である。多くの境内社が明治40年4月23日に移転された。 稲荷神社は元来の境内社に字下児玉東の伊那利神社を合祀し昭和32年に外宇を改修した。神明神社は字日之待西の伊勢神社を移転し昭和19年に神明神社と改称した。天満天神社は字下児玉東の伊那利神社境内社菅原神社を移転し社号を改称した。八坂神社は大字南口の八雲神社を移転し社号を改称した。阿夫利神社は本社創立の際に勧請したといい、文久2年(1862)銘の石宮である。三島神社は宇三島南、大国神社は字権現塚、山之神社は字太子宮、厳島神社は字阿郡志境からそれぞれ移転したものである。明治時代以降の社殿等の改修は、明治12年に拝殿再建、昭和38年に石鳥居再建、同51年に外宇営繕、平成8年に社務所再建を実施している。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

       

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古郡北向神社

 美里町古郡地区の「古郡」の地名の由来は、律令時代に武蔵国那珂郡の郡家(郡役所)があったことに由来するそうだ。但し武蔵国で確認されている群家は都筑、橘樹、豊島、幡羅、榛澤の5郡だけであり、那珂郡の群家が古郡にあったという確証があるわけではない。ただ美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡等「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 ところで郡家の認定基準は、地理的条件、歴史的環境、遺構の種類・規模・配置・遺物等から総合的に判断される。出土遺物がほとんどなくとも大型建物群が規則的に配置されたり、建物群が貧弱でも、官衙に関わる木簡や墨書土器が大量に出土するなどすれば、それらの遺跡は群家かそれに近い官衙遺跡と判断される場合もあるようだ。
 上記の判断基準を参考に那珂郡の群家の立地地区を考えてみると、遺跡こそ多いが、群家に相当する大型建物群や、木簡および土器等の大量出土した遺跡がなく、絶対的な場所が特定できず、判断に苦しむところだ。わずかに「古郡」という地名だけが嘗てこの地に群家があったことをわずかに伝えている。  

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町古郡257
             ・御祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命
             ・社 挌 旧古郡村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1123
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.180719,139.1865344,16z?entry=ttu

 古郡北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線阿那志交差点を寄居方向に南下し、しばらくすると左側に当り一面田園風景の中にポツンとこの社の社叢林が見える。
 但し社に進む進入路が途中から舗装されてい無く、また車一台が進むほどの車幅しかないのには少々驚いた。また専用駐車スペースもないようなので、一の鳥居を越えた場所にお地蔵様を祀るわずかな空間に停めて参拝を行った。
        
                            入口付近に設置されている案内板
        

      古郡北向神社正面一の鳥居は狭い空間上にあり、その中に社殿は存在する。
        
                                     拝 殿                           
北向神社 
御由緒   美里町古郡二五七
御縁起(歴史)
 当社の鎮座する大字古郡は、その地名が表すように、古代の那賀郡(なかぐん)の郡役所としての郡家が置かれたことに由来するという。また、武蔵七党の猪俣党の一族、古郡氏の本拠地でもあった。
 当社は社号が示すように真北を向いて鎮座しており、この向きは霊峰赤城山の最高峰黒檜山(一八二八メートル)を見据える形になっている。
 創建を明確にする記録は伝えられていないが、当地黄檗宗日光山安光寺に残る寛延元年(一七四八)の鐘銘及び宝暦元年(一七五一)の「武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記」には次のように記されている。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討へ赴く途次、上野国緑野郡勅使河原に陣を設けた折、身馴川の十丈の淵に棲む神竜(大蛇)が川を渡る者を水死させることから、人々が往来に困っていることを聞き、日光山(同寺の裏山か)より赤城大明神に誓願をなし、大蛇を退治できた。よって、誓願の通り川上に江の浜の虚空蔵、川下に薬師四仏、北向大明神五社(古郡・阿那志・小茂田・沼上・北十条)を建立し、大蛇の尻尾を埋めた跡に同寺を建立した。なお、同寺は永禄年中(一五五八‐七〇)に焼失したため、当社の別当は真言宗光明寺が務めていた。現在の安光寺は元文年中(一七三六‐四一)の再興である。
 明治四〇年に宇森浦神明神社、字下耕地二柱神社、字六所六所神社を本殿に合祀、字森浦の愛宕・諏訪・雷電の三社を境内に移転した。
                                      案内板より引用
        
     拝殿向拝部・蟇股部付近には金で飾られた煌びやかな彫刻が施されている。
 
     拝殿上部に飾られた彩色豊かで煌びやかな彫刻が目を引く(写真左・右)。
  この社は、規模はさほど大きくはないが、拝殿部の煌びやかさは他の北向神社を凌駕する。 
        
                                         本 殿

 社殿の奥周辺には、多数の境内社・合祀社・末社・石祠・石碑等鎮座している。板版にて説明文も掲示されていて、参拝中大変参考となった。
 
  愛宕神社 聖天社 諏訪神社 天手長男社        秋葉神社 八坂神社
     雷電社 八幡大神 弁天社
 
       
               社殿の右側にある社日        社殿の奥にある磐座(陰陽石)
 
        社殿の左側奥に鎮座する明神社        天神神社、琴平神社、御霊神社
       
                           ご神木

 丹党古郡氏は、那賀郡古郡村より起る。字上耕地の志戸川の支流堤防上に古郡氏の館跡があり、書物等にも古郡氏の歴史の一旦を垣間見られる。
武蔵七党系図「中村三郎右馬允時経―古郡入道時員」
吾妻鑑巻四十「建長二年三月一日、古郡左近が跡」
典籍古文書「建治元年五月、武蔵国・古郡左近将監跡七貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
等の記載がされている。
「古郡」という地名は県北に居を構える筆者にとって、多少ならず馴染みある地名であるが、日本全国ではなかなか見つけることのできない珍名でもある。しかしその語源は律令時代前から続く由緒ある地名でもあり、神社参拝と同時に地名由来を調べている筆者にとっては、価値のある参拝となった。            
                     
                                        

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北十条北向神社

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が実は北十条地区である。
 『新編武蔵風土記稿 児玉郡十条村』に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
 また『武蔵国郡村誌』には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町北十条695
            ・ご祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命 大雷命
            ・社 挌 旧十条村鎮守 旧村社
            ・例祭等 春祭り 43日 大祓式 81日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1125日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2020011,139.1652408,16z?entry=ttu
  
 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
             
                             北向きとなっている鳥居
             
                             北十条北向神社拝殿
             
                                  案内板
 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

北向神社  御由緒   美里町北十条六九五
御縁起(歴史)
 北十条の鎮守である当社には、主祭神に素盞嗚命・大己貴命・少彦名命、合祀神に大雷命を祀る。『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり、慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(一六八八)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州(現群馬県)赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川) の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。
 以来、当社は村民の厚く崇敬するところとなり、享保十三年(一七二八)には神祇管領吉田家から正一位の神階を受けた。 内陣にはその添状と女房奉書及び古色を帯びた金幣が安置されているが、この神階拝受を機に社殿も再建されたものと見え、別当の慶昌寺が願主となり、惣氏子五三名の寄附を受けて「奉成正一位御神官北向大明神并宮殿建立」を行った旨を記した享保十三年五月吉日付の棟札が現存する。
 明治五年に村社となり、同四十年に字重の村社大天雹神社(「明細帳」 に「大天電神社」とあるのは誤記)を合祀したとある。この大天雹神社は、『風土記稿』に載る慶昌寺持ちの「雷電社」のことで、合祀に際しては、享保十三年に正一位の神階を受けた際の吉田家添状と女房奉書及び金幣が当社の本殿に移された。これらはいずれも当社のものと同様で、享保十三年に社殿を再建した旨を記した棟札もある。
                                      案内板より引用
 
                     社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであったという。
 
 阿那志 アナシ 
 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ

                                                           埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。
 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。真相はいかがなものだろうか。
  

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