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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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小茂田北向神社

 美里町小茂田地区は美里町の北部に位置している。美里町は南北に細長くやや長方形を示していて、中央部以北は平坦地で、南部にいくに従って高度を増し、ゆるやかな傾斜をなしている。南部山間地帯は標高100~500mに位置し、小茂田付近では標高60m程であり、畑及び水田はほとんどこの地域に分布している。地形をみると、秩父山地の山脚が北東の方向にのびて山地帯(標高150m以上)を形成し、さらに丘陵地帯(標高100~150m)・低地帯(標高100m以下)と大別することができる。秩父山地と関東平野とは、八王子構造線と呼ばれる断崖線(標高150m内外)ではっきり境されている。
 美里町の丘陵地帯は、山麓地帯やそして町の東部を北東から向かい諏訪山から山崎山にかけて走り、さらに、北西部には生野山から朝三山の間にかけてのびている。このことから小茂田地区を含む中央部から北部の低地帯は、南部は八王子構造線、北部は深谷本庄断層線によって境され、東西は丘陵によって囲まれ、盆地上低地帯を形成している。それ故に内陸性の気候の特徴をもち、夏は蒸し暑く、冬は乾燥し、湿度が低くなり、晴れの日が多く「からっ風」と呼ばれる北西の季節風が吹く。そんな小茂田地区の小高い場所の一角に小茂田北向神社は鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡美里町小茂田4-1
御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌    旧村社、旧小茂田村鎮守
例  祭    春例祭4月5日、秋祭り10月15日
        
 小茂田北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線と埼玉県道75号熊谷児玉線が交差する阿那志交差点を本庄方向に北上し、関越自動車道を過ぎた下十条交差点を右折するとすぐ左側に緑に囲まれた社叢が見える。周囲は田園地帯ながら、この社の周りだけ若干小高い丘陵地となっていて、その上に鎮座している。
            
                        小茂田北向神社一の鳥居
                  境内は綺麗に整備されていて、立派な神社。

        参道左手にある小茂田池             参道には比較的広い空間が広がる。
 延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)ののうちの一社と比定されている。江戸時代には小茂田村の鎮守社となっていた。明治40年に近在の神社を境内に遷座したという。
           
                             拝    殿

         拝殿前にある由来書                                               拝殿内部
北向神社 由緒書
北向神社は、古代から小茂田地区の鎮守様であるとともに、「北向様」と呼ばれて、近在近郷の人々からも広く崇敬されてきました。
 社伝によりますと、桓武天皇の時代である延暦20年(801)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れておまつりしたといわれています。
当時、近くを流れる身馴川(小山川)には、周辺の村々の田畑を荒らし廻わり、人々を苦しめる大蛇が棲みついており、坂上田村麻呂は上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと大蛇を退治することができたという伝説が伝えられています。坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって、北向きにおまつりしたため、北向大明神とか北向神社と称されるようになったといいます。地元の人々は、五か所にまつられた北向神社を総称して、「五社の明神」と呼んでいます。
北向神社は、邪気を祓い、人々の幸福を願う節分蔡行事で有名ですが、五穀豊穣や厄除開運をはじめ、勝利祈願や安全祈願にも霊験あらたかといわれています。また、氏子の人々によって鎮守の森が保護され、自然環境を大切にしておまつりされています。
祭神 大己貴命、素戔嗚命、少名彦命(以下中略)

                                                       案内板より引用
 
 境内社 左から八坂、神明、天満天神、稲荷神社       境内社 厳島、山之神、大国、三嶋、八雲神
            
                      社務所も兼務している惟神祖霊社

  当地は身馴川(小山川)と志戸川の問に位置し、条里制の遺構がある。古くは薦田(こもだ)と記し、真薦が繁茂している田を意味していたと思われる。文永11年(1274)11月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記されている。また、武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安3年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したという。元和3年(1617)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
 当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。社伝によると、桓武天皇延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。当社はその内の一社である。
 当社の祭神は、須佐之男命・大己貴命・少彦名命の三柱である。江戸時代初期から幕末まで領主旗本酒井家の信仰厚く社殿改修を進めたが、元文4年(1739)12月17日に「池魚〔古くより社有地に灌漑池あり)の災い」による大火に遭い、社殿・古文書類ことことく灰燼に帰した。その後、酒井家や氏子の努力で社殿が再興された。また、天明年間(1781-89)には天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われたが、鳥居を奉納することでその難から逃れられるようにと願った氏子たちが天明3年(1783)に石鳥居を建立したと伝える。
 安政5年(1858)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬〔岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
 境内社は稲荷神社・神明神社(伊勢神社)・天満天神社(菅原神社)・八坂神社・阿夫利神社・八雲神社・三島神社・大国神社・山之神社厳島神社である。多くの境内社が明治40年4月23日に移転された。 稲荷神社は元来の境内社に字下児玉東の伊那利神社を合祀し昭和32年に外宇を改修した。神明神社は字日之待西の伊勢神社を移転し昭和19年に神明神社と改称した。天満天神社は字下児玉東の伊那利神社境内社菅原神社を移転し社号を改称した。八坂神社は大字南口の八雲神社を移転し社号を改称した。阿夫利神社は本社創立の際に勧請したといい、文久2年(1862)銘の石宮である。三島神社は宇三島南、大国神社は字権現塚、山之神社は字太子宮、厳島神社は字阿郡志境からそれぞれ移転したものである。明治時代以降の社殿等の改修は、明治12年に拝殿再建、昭和38年に石鳥居再建、同51年に外宇営繕、平成8年に社務所再建を実施している。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

       

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古郡北向神社

 美里町古郡地区の「古郡」の地名の由来は、律令時代に武蔵国那珂郡の郡家(郡役所)があったことに由来するそうだ。但し武蔵国で確認されている群家は都筑、橘樹、豊島、幡羅、榛澤の5郡だけであり、那珂郡の群家が古郡にあったという確証があるわけではない。ただ美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 ところで郡家の認定基準は、地理的条件、歴史的環境、遺構の種類・規模・配置・遺物等から総合的に判断される。出土遺物がほとんどなくとも大型建物群が規則的に配置されたり、建物群が貧弱でも、官衙に関わる木簡や墨書土器が大量に出土するなどすれば、それらの遺跡は群家かそれに近い官衙遺跡と判断される場合もあるようだ。
 上記の判断基準を参考に那珂郡の群家の立地地区を考えてみると、遺跡こそ多いが、群家に相当する大型建物群や、木簡および土器等の大量出土した遺跡がなく、絶対的な場所が特定できず、判断に苦しむところだ。わずかに「古郡」という地名だけが嘗てこの地に群家があったことをわずかに伝えている。
所在地   埼玉県児玉郡美里町古郡257
御祭神   大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌   旧指定村社
例  祭    不明  

         
 古郡北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線阿那志交差点を寄居方向に南下し、しばらくすると左側に当り一面田園風景の中にポツンとこの社の社叢林が見える。但し社に進む進入路が途中から舗装されてい無く、また車一台が進むほどの車幅しかないのには少々驚いた。また専用駐車スペースもないようなので、一の鳥居を越えた場所のわずかな空間に停めて参拝を行った。
           

         古郡北向神社正面一の鳥居は狭い空間上にあり、その中に社殿は存在する。
            
                                                        赤を基調とした社殿
  この社の彫刻類は時代とともに彩色も剥げてきているが創建当時は相当に素晴らしかったのではないかと思われる。
 
   向拝、蟇股部に飾られた煌びやかな彫刻        拝殿正面 蟇股部上、下部にも彫刻が
             
     この社は、規模はさほど大きくはないが、拝殿部の煌びやかさは他の北向神社を凌駕する。 
 
 
古郡北向神社
 当社の鎮座する大字古郡は、その地名が表すように、古代の那賀郡の郡役所としての郡家が置かれたことに由来するという。また、武蔵七党の猪俣党の一族、古郡氏の本拠地でもあった。
当社は社号が示すように真北を向いて鎮座しており、この向きは霊峰赤城山の最高峰黒檜山(1828m)を見据える形になっている。
 創建を明確にする記録は伝えられていないが、当地黄檗宗日光山安光寺に残る寛延元年(1748)の鐘銘及び宝暦元年(1751)の「武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記」には次のように記されている。
坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討へ赴く途次、上野国緑野郡勅使河原に陣を設けた折、身馴川の十丈の淵に棲む神竜(大蛇)が川を渡る者を水死させることから、人々が往来に困っていることを聞き、日光山(同寺の裏山か)より赤城大明神に誓願をなし、大蛇を退治できた。よって、誓願の通り川上に江の浜の虚空蔵、川下に薬師四仏、北向大明神五社(古郡・阿那志・小茂田・沼上・北十条)を建立し、大蛇の尻尾を埋めた跡に同寺を建立した。なお、同寺は永禄年中(1558-70)に焼失したため、当社の別当は真言宗光明寺が務めていた。現在の安光寺は元文年中(1736-41)の再興である。
 明治40年に宇森浦神明神社、字下耕地二柱神社、字六所六所神社を本殿に合祀、字森浦の愛宕・諏訪・雷電の三社を境内に移転した。
                                                                                        埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

   愛宕神社 聖天社 諏訪神社 天手長男社             秋葉神社 八坂神社
        雷電社 八幡大神 弁天社
 

     社殿の右側にある仙元大日神と社日            社殿の奥にある磐座(陰陽石)
                     
                      社殿の左奥にある明神社と御神木                  

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北十条北向神社

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が北十条である。新編武蔵風土記稿の児玉郡十条村に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
 武蔵国郡村誌には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。
所在地   埼玉県児玉郡美里町北十条695
御祭神   大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命、大雷命
社  挌   不明
例  祭   不明

        
 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
             
                             北十条北向神社拝殿
             
 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

                     社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであったという。
 
阿那志 アナシ 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ。

                                                      埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。
 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。真相はいかがなものだろうか。
  

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沼上北向神社

 神社は通常風水によって「子坐午向」に造られる。したがって真南または真東を向いているものがほとんどである。太陽信仰ともアマテラス信仰からであろうが古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。しかも、神社のほとんどが本殿に神の依り代として「円形の鏡」を置いている。正円の鏡は、その形はもちろん、輝きという意味でも太陽を模している。つまり「アマテラス=鏡=太陽」という構図が成立するわけだ。ゆえに社の方角も同じように南を向くのが多い。
 しかし中には真北に方向を向いている社も少数ながら存在することも事実で、特に有名なのは茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮だ(但し断っておくが鹿島神宮の場合、社殿は北向きだが、本殿は東向きとなっている)。時の朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味もあるらしい。
 児玉郡美里町沼上地区に鎮座している沼上北向神社も、数少ない北側に社殿を向けている社だ。赤城大明神を祀る北向神社五社のうちの一社と言われ、延暦15年(796年)に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる古社だ。
所在地   埼玉県児玉郡美里町沼上1
御祭神   大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌   旧沼上村鎮守 旧村社
例  祭   例祭日10月19日

        
 沼上北向神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、身馴川公園交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進むと、左側にこんもりとした北向神社の社叢が見えてくる。旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、50mほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ5,5m、幅3,65m)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かっている。
           
                長福寺の西隣のT字路沿いにある北向神社の社号標
            
                      美里町最大の一の鳥居という大鳥居

一の鳥居を200m程進むと北向神社の社叢が見えてくる。            神楽殿
             
                              拝   殿
           
                              本   殿
沼上北向神社 由緒
 沼上の地は身馴川南岸の水田地帯に位置する。地内にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。更に、字宮下には奈良・平安期の集落跡があり、土師器・須恵器が出土しており、古くから開かれた地であったことをうかがわせる。
当社は主祭神として素盞嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱を祀り、地内の一番南にある字宮上に北向きに鏡座している。旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、五〇㍍ほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ五・五㍍、幅三・六五㍍)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かる。更に二〇〇㍍ほど進んで行くと、杉・檜・欅・樫などの木々に閉まれた本社が現れる。
社伝によれば、延暦15年(796)に坂上田村麻呂将軍が東征の途次、身馴川の水底に棲む大蛇を退治しょうとした時、上野国(群馬県)赤城明神の神霊を感じて児玉郡内に五社の北向神社を勧請し、当社はその内の一社であるという。ちなみに、他の四社は阿郡志・北十条・小茂田・古郡の各大字に祀られている。また、永禄年間(1558-70)と宝暦6年(1756)に社殿の再建を行った。更に、安永5年(1776)7月11日には正一位の神階を授けられて「正一位北向大明神」と唱え、同時に金幣一体を奉安したという。この時に神祇管領吉田家から受けた霊璽が現存している。
安政4年(1857)の「奉納土俵之式證状之事」(社蔵文書)によると、当時五穀成就の祭りに例年相撲を行っていたという。
「風土記稿」沼上村の項に当社は 「北向明神社 村の鎮守にて長福寺の持、末社 諏訪愛宕金毘羅 山神 牛頭天王 八幡 弁天 天神」とある。更に別当の長福寺については「新義真言宗、那賀郡広木村常福寺末、瑠璃光山薬師院と号す、本尊大日を安ず、又傍に北向明神の本地薬師を置り、当寺は名主利右衛門が先祖、九左衛門義長なるもの逸見上総介光長の苗裔にて、武田家滅亡の後当所に跡をかくし、かの明神の本地崇信のあまり、慶長2年(1597)一宇の堂を創建せり、因てこれを開基と称す(後略)」とある。一方、現在当社の宮司を務める瀬戸家には、文政3年(1820)11月16日付で神祇管領から正一位北向大明神社人瀬戸喜兵衛源豊広に出された神道許状を所蔵していることから、往時から実際の祭祀は瀬戸家が司っていたものと思われる。
当社は明治5年に村社となり、同40年には宇桑中の稲荷神社を合祀した。更に、大正2年には字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に移転した。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

             稲荷大明神                                                   天手長男神社

              末社群                      社殿の手前東側にあった社日
           
 当社は祭神大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命に明治40年桑中稲荷神社を合祀四柱である。社伝によると創立は桓武天皇の延暦15年(796)7月坂上田村麻呂とあるから、凡そ千二百年に垂んとすることになる。。主要建物は社殿即ち本殿・幣殿・拝殿から成り、其の他透塀、神楽殿、祭器庫、社務所等である。境外参道に横開き12尺高さ18尺欅造銅板葺の当社が誇る大鳥居がある。この注連縄行事は毎年秋の例祭前に行われ、昭和53年美里町指定文化財となる。社殿は正親町天皇の永禄年間(1558-1570)に再建された後後櫻町天皇の宝暦6年(1576)に改築されたと伝えている。従って其の外幾度かの補改修があって近世に至っていることは想像に難くない。明治以降社殿改修の経緯を見ると、同32年氏子奉賛金千五百円を以って本殿幣殿屋根を銅板葺に、昭和13年拝殿屋根葺替、同34年の伊勢湾台風及び同41年の台風に御神木杉目通10尺を始め老杉古木の倒伏折損に因る損壊箇所の復旧、同56年社務所再建、同57年拝殿屋根等改修葺替、平成2年御大典記念事業として、大鳥居基礎改修工事、同4年神楽殿解体修理及び祭庫屋ね葺替等、相次いで境内外建物の補改修を行う。
 このたびの社殿等改修事業は、本殿等其の老朽化に因る屋根の下地柱梁等の腐食虫害による他、昨年9月発生した突風に因る破損箇所の復旧と併せ改修し、悠久の歳月を先人累代が保全管理し遺された事蹟を想い、この貴重な文化財を後世に承継すべきと氏子奉賛により、茲に総工費七百三十余万円を以て竣功した。
 本殿遷座祭3月28日早旦社殿を装飾、午後7時仮殿所定の祭事に次いで庭燎等消火消燈浄閉程に、前陣松明を先導に所役丈夫威儀物を奉持絹垣に囲まれ宮司「御」を奉載続いて献幣使区長総代参列者本殿に参道入御、奉遷し大儀を斎行退出する。
茲に竣功を祝し曾てない多勢の協力、又所役の大任に従い滞なく、前代未聞の威儀を了たことは感慨に価するものがある。
                                       北向神社社殿改修委員会記念碑より引用

 この美里町沼上地区にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。
                 
                       水殿瓦窯跡(国指定史跡)
          
                            十条条里遺跡

 

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甕甕神社

  甕甕神社が鎮座する埼玉県美里町。埼玉県北西部に位置する、人口約1万2000の自然豊かな町だ。
 美里町は律令時代には那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ。付近一帯には長坂聖天塚古墳に代表される県下でも最古級の古墳があり、そのほか普門寺古墳群、羽黒山古墳群、広木大町古墳群等の古墳群がこの狭い地域に密集して存在する。現存する古墳数も大小177基に及び県下では最も多い。またこの地域は地形上、東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し上野国と深い交流があったと思われる。
 近くには神池である「摩河の池」を中心に古代祭祀が行われていたものとされ、周辺には広木古墳群の他にも埴輪窯跡・竪穴住居跡なども発掘。当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した出雲族の集団であったと推定される。武蔵と上野の風土が色濃く混じり合った雰囲気がこの那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ
                          

所在地     埼玉県児玉郡美里町広木1
主祭神     櫛御気野命 
            (合祀)大山咋命 宇賀能御魂命 天宇受女命 佐田比古命迦具土命 
                    須佐之男命
         延経『神名帳考証』信友『考証』『神祇志』大物主命
          『神社覈録』『武藏国式内神社命附』『新編武藏風土記稿』武甕槌命
社  格     式内社 県社 那珂郡総鎮守
例  祭     例祭日4月13日   八坂祭7月25日
創立年代   不詳
*「全国神社祭祀祭礼総合調査」では甕甕神社と表記しているので、同左として表記する。


  甕甕神社は国道254号を美里町方面(国道140号方面)から児玉方面へ進み、広木交差点を右折、または広木交差点先すぐの場所に鎮座している。創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されているとのことだ。

 
       国道254線から路地を進むと鳥居がある            鳥居を超えて左側にある甕甕神社案内板   
甕甕神社
所在地 児玉郡美里村大字広木
みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。
現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。
土師器のミカが四個保存ざれている。
例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
昭和58年3月
埼玉県
                                                                                                                 社頭掲示板より引用
                 
                                     神楽殿 なかなか重厚ある造り
             
                         コンパクトに纏まった拝殿  
           
                   
                               本   殿               

由 緒
  当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段 八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。                                                                                                   
                                                                      全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
  甕甕神社の社殿の周りには多くの境内社が所狭しと並んでいる。また拝殿の左側には社日と呼ばれる五角形の石柱が立っていて、「社」は土地の神、「産土神(うぶすながみ)」を祀った神社にお参りして五穀を供えて豊作を祈り(春社)、また秋の初穂を供えて収穫に感謝する(秋社)、農耕民族らしい日本の信仰形態だ。


 境内奥に並ぶ境内社
(写真左側) 写真右側から産泰神社、諏訪神社、天満天神宮、神明神社、蚕影神社、山王神社、松尾神社)
(写真右側) 蚕影社、山王神社、松尾社、古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社など
           

                                  
社日と呼ばれる五角形の石柱

  甕神社の祭神は櫛御気野命と言い、櫛は奇霊(くしび)であり、御気は御食または御木のことで、神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり本来熊野大神であるが別名素盞嗚尊(スサノオ)と言う。この熊野大神は有名な熊野三山とは無関係のようで、本家は島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるようだ。
 熊野大社
  鎮座地 島根県八束郡八雲村熊野2451
  旧称   熊野坐神社 熊野大神宮 熊野天照太神宮
  別称    日本火出初社 出雲國一宮 後明治4年國幣中社、大正5年國幣大社
  主祭神 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称える素戔嗚尊
  神紋    一重亀甲に「大」の文字

  この社は720年の日本書紀によると、659年に出雲国造が創建したと記されていて、733年の出雲国風土記では、出雲大社とこの熊野大社が出雲国内で最も格式の高い「出雲國一之宮」とされているが両社の力関係は同一ではなく、文献では『文徳実録』(八五一年)には、「出雲国熊野杵築両大神を従三位に叙す」と、また『三代実録』(八五九年)にも「 出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神を従二位に叙す」とあり、いずれも熊野大社、次いで杵築と記しているように、熊野大社の神格が一段高く評価されていることが窺える。また日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)という別称があり「火」の発祥の神社としても信仰を集めていて出雲国造の世継ぎの儀式「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が「熊野大社」に出向いて行われている。
  出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社はどのような関係だろうか。熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。
 甕甕神社の祭神は櫛御気野命といい、本宮が島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるということは重要な点だ。なぜなら出雲族といっても出雲大社を本宮とする大己貴命系と、熊野大社を本宮とする素戔嗚命系に分類されるからだ。ちなみに埼玉県内の出雲系の神社の祭神は以下の通りだ。

 氷川神社             須佐之男命  大己貴命
 鷲宮神社             天穂日命  大己貴命
 金鑽神社             素戔嗚尊
 本庄金鑽神社         素戔嗚尊
 熊野大神社          事解男命 速玉男命
 玉敷神社           大己貴命
 出雲伊波比神社      大名牟遅神  天穂日神
 出雲乃伊波比神社(寄居町) 須佐之男命 
 出雲乃伊波比神社(熊谷市)  天穂日命  大己貴命
 久伊豆神社        大己貴命 事代主命
 前玉神社          前玉比売神  前玉彦命
 上之村神社        大己貴命   事代主命
 伊波比神社        天穗日尊
 横見神社          建速須佐之男命  櫛稻田比売命
 高負彦根神社         大己貴尊
 稲乃比売神社       素盞嗚命  大己貴命
 田中神社(熊谷市)  武甕尻命  天穂日神

 赤色が大己貴系、青色が素戔嗚系で圧倒的に大己貴系が多い。中には氷川神社や稲乃比売神社のように素戔嗚系と大己貴系が一緒に祀っている神社も存在する。が、こと県北に関しては金鑽神社、本庄金鑽神社、甕甕神社、そして寄居町の出雲乃伊波比神社は素戔嗚系で集中している特徴がある。
 少なくとも出雲族といっても大きく2系列の一族の進出が武蔵国にはあって、大己貴命を信奉する一族は埼玉県北東部の行田市、羽生市付近から元荒川を沿って南行する一派と西方面へ進出する一派に分かれ、かたや素戔嗚命を信奉する一族はは金鑽神社の児玉郡から甕甕神社の那珂郡、男衾郡にかけてに進出し広がりをみせたのではないかと現時点では推測する。
  
 

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