川里赤城神社
出土した遺物の中には岩版があるが、この岩版は、護符(お守り)の用途とする説が一般的である。これまでに熊谷市諏訪木遺跡(上之)で2点が出土しているほか、埼玉県内では加須市、久喜市、蓮田市、鴻巣市、桶川市などでも出土している。大型の岩版は、近隣の群馬県桐生市・太田市・伊勢崎市、栃木県足利市・栃木市などでも出土しており、渡良瀬川や利根川流域と、縄文時代には館林と鴻巣の間につながっていた台地の縁に分布し、岩版を通じて共通した文化圏を形成していたと推測されている。
また出土した二個一対の耳飾りはとても美しいデザインで、高度な加工のある耳飾が185点も出土し、工房があったと推定されている。縄文晩期にはこうした装飾品の工房が各地にあった可能性も示唆されている。
縄文後晩期になると、気候や地形の変化のせいか、水が得られにくい台地から低地の方に降りてきて集落を営んだようで、この低地帯である鴻巣市(旧川里町)赤城地域にこのような高度な技術をもつ集落が形成されていたことに正直驚きを禁じ得ない。
・所在地 埼玉県鴻巣市赤城714
・ご祭神 大己責命・豊城入彦命・彦狭島命
・社 格 旧赤城村鎮守
・例 祭 例祭 10月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1165265,139.5174903,17z?hl=ja&entry=ttu
屈巣久伊豆神社から一旦北東方向に進み、埼玉県道77号行田蓮田線に交わるT字路を左折する。その後「屈巣」交差点を右折、道路も埼玉県道32号鴻巣羽生線に変わり、その県道を3㎞程道なりに北上する。「北根」交差点手前の左斜め後方に進む道幅の狭い道路に入り、鬱蒼とした森林が続く道を暫く進むと、右側に川里赤城神社の鳥居や境内が見えてくる。
社の西側に隣接している「赤城集落センター」の駐車スペースを利用し、参拝を行う。
川里赤城神社正面
社号標柱がないため旧社格は不明。鳥居の社号額には「赤城大明神」と刻まれている。
古くから、明神様と呼ばれ「ムカデ」は神使とされ、殺してはならないといわれている。
解放感あふれる境内
拝殿手前左側に設置されている「川里村赤城神社社叢ふるさとの森」の案内板
経年劣化により文字が薄くなり、読みづらい。
川里村赤城神社社叢ふるさとの森 昭和六十三年三月二十九日指定
身近な緑が姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この神社林が、「ふるさとの森」に指定されました。
この森は、広大な田園地帯が広がる川里村にあっては、数少ない樹木地の一つとなっています。森の中には、群馬県の赤城神社を本社とする赤城神社が祀られており、信仰の場として、また憩いの場として、地域住民に親しまれています。
この森の主な樹種は、ケヤキ、イチョウ、スギなどです。
案内板より引用
拝 殿
赤城神社 川里村赤城七一四
当地の地名由来は、群馬県勢多郡宮城村に鎮座する赤城神社から嵐除けの神札がこの地に飛来して、これを祀ったことによる。
祭神は大己責命・豊城入彦命・彦狭島命の三柱であるが、尾沢家所蔵文書の赤城神社書上げでは「磐筒男命・磐筒女命」の二柱としている。本社赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱であることから、当社は明治期に入り現在の祭神に改められたと思われる。
『明治三十四年三月二十日境内編入願書』に「抑も当社は口碑に去る慶長年中、上野国赤城山に鎮座せる磐筒男命の分幣を祭祀せりと伝へる、而して社殿は茅葺にして修理経営は数回の後最近の建替は嘉永弐年領主徳川将軍の旗本林大学頭の許可を得而茅葺に建立す」とある。また本股内に置かれる縦七七センチメートル・横四六センチメートルの赤城大明神とある社号額の裏面墨書に「允恭天皇御宇始建赤城神社于上野国勢多郡内数百年来勧請於此地元禄己卯九月日」とある。
また、内陣に高さ六八センチメートルの金幣を祀り、「享和元年辛酉四月吉日 天保十年亥八月採光」と記す。
明治四一年同大字字前原天神社、字大和田稲荷社を当社境内社として合祀する。境内社としてほかに浅間社・御獄社を紀る。
「埼玉の神社」より引用
拝殿上部の精巧な彫刻(写真左・右)
拝殿の左側に鎮座する境内社・稲荷大明神 稲荷社の鳥居近隣にある庚申塚等の石碑
境内社・御嶽神社 境内社・天満宮
鴻巣市、旧川里町赤城地域に鎮座する赤城神社は現在「大己責命・豊城入彦命・彦狭島命」の三柱を主祭神としているが、尾沢家所蔵文書の赤城神社書上げでは「磐筒男命・磐筒女命」の二柱としている。本社赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱であることから、当社は明治期に入り現在の祭神に改められたらしい。
このイワツツノオ(イハツツノヲ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
境内の様子
國學院大學「古典文化学」事業HPにおいて、この二柱について以下のような記載がある。
「この神は、刀剣神とされる石析神・根析神の後に生まれているので、同様に刀剣にまつわる神であろうと言われる。『日本書紀』五段一書六の「一云」では、磐筒男命と磐筒女命の男女二神が現れている。また、五段一書七や九段本書では、磐筒男命と磐筒女命が、根裂神もしくは磐裂根裂神の子となっていて、経津主神を生んでいる。この系譜を刀剣の製作の過程になぞらえ、磐裂神・根裂神が雷(=火)、磐筒男命・磐筒女命が碪(きぬた)、経津主神が刀剣を表し、鉄を火で焼いて碪の上で鍛えて刀剣が出来ることを意味していると捉える説がある」
「その名義について、ツツノヲという語は、伊耶那岐神の禊によって生まれた墨江三神、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命に類似していることが指摘されている。ツツは、ツチと交替する例があり、たとえば、『日本書紀』における磐土命・底土命・赤土命と表筒男・底筒男・中筒男との変化や、塩土老翁と塩筒老翁との変化などがあげられる。この神名もイハツチと解する見方があり、岩つ霊(ち)、すなわち岩の霊威とする説や、ツチ(椎)が武器を表すことから、刀剣と捉え、堅固な刀剣の男の意とする説がある。また、ツツを粒の意として、岩が裂けて粒になって飛び散ることによる名とする説や、ツツを星の意とし、岩から飛び散る火花を星粒に見立てた名とする説、他に、ツツを筒と解し、製鉄における送風筒の神格化とする説がある」
この社のご祭神が「磐筒男命・磐筒女命」の二柱であるのも、それなりの歴史的な根拠があってのことと思われる。そもそも「磐筒男命・磐筒女命」をご祭神としている前橋市富士見町赤城山に鎮座する旧郷社・赤城神社も実在し、赤城神社と密に関連性のある神である。
単に「赤城神社の祭神が大己貴命・豊城入彦命の二柱である」という理由のみで安易に変更されてしまうのもどうかと感じる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「國學院大學「古典文化学」事業HP」
「関東地方における岩版・土版の文様」『史学』52 巻 2 号 三田史学会
「Wikipedia」等